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ネットサーフィン見聞記: ブログの更新さぼって鬱病と闘ってきた(前編)
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今月のオススメ図書
2014年02月07日
 昨年中より、入院によってこのネト見は更新を大幅に滞らせてきましたが、先日無事退院してきました。
 タイトルの通り、実は鬱病になっていました。
 私の場合=(鬱病+統合失調症)×グチャグチャ+自律神経失調症+軽くアル中、ってなとこでした。

 正直自鬱病になるまでの私は「ウツなんてナマクラ病だ」「鬱病は甘え」などと思っていました。ところがどっこい、いざ自分がなってみると「こんなにツライものとは…orz」と実感してきたところです。鬱病についての詳しいことは、その専門のサイトさんなどにお任せするとして、少々長たらしくなると思いますが、自分の体験を当時の日記をもとにサラッとながしていこうと思います。





『その経緯と発症』
 三月中旬、数年から度重なり私を襲っていた上司からのパワハラやら暴言がだんだんとエスカレートしてきた。夜遅くまで酒を強引に飲まされては罵倒されたりしていて、嫁さんにも叱られる日々が続く。
 三月下旬、朝起きて「今日の仕事はあれをやってこれをやって……」などと考えているうちに腰が重たくなるのを感じていた。
 そんなこんなが続いたある日、朝起きて仕事のことを考え始めると気分が沈み、次第に腰が全く上がらなくなってしまい、這って家内を移動するようになる。
 三月某日、これでは全く仕事にならないので寝起きからすぐ飲酒をし、一気にテンションを上げて仕事に臨む。車に乗ったり重機を使ったりするのに、である。このあたりから段々と記憶も怪しくなる
 四月某日、“朝起きて酒飲んでテンション上げて”の効果が薄らいできて不安感や絶望感が頭の中にぼんやり浮かんでくるようになる。この頃には酒量も増してきていた。もちろん仕事もしなければならないので、スッキトルタイプのウイスキー瓶に酒をいれて陰でこそっと飲んだりしていた。それで車とかにも乗ってた(←絶対やめましょう!)
 四月上旬、完全に連続飲酒状態(寝ている時以外常に酒が入った状態)になっていた。今でもこの頃の記憶があいまいである。そして一日中テンションの上がり下がりが激しく酩酊状態。でも上司の罵倒や暴力が怖くて、上司の前ではシャキッとしていた(らしいです。父談)。夜になっても全然眠れないのでまた飲む。そして起きると二日酔い状態で食欲もない。また、何を食べてもおいしくないのでご飯を全然食べなくなった。
 四月某日、遂に上司からスコップで殴られた。私の中で何かがプツンと音を立てて切れた感じがした。「もうここにいたくない…」「死にたい…」と呟いていたことは覚えている。翌日、私は仕事に行かず家で朝から飲んだくれていた。そこへさすがに見かねた母に一喝された。「アンタはおかしい! 病院行きなさい!」親というのは凄いものだと思った。
 その翌日から私は仕事を休み、いくつかの病院で診てもらうことになった。
 それまでずっと、ほとんど休みもなく一日中働きまくっていたのに、突然に休みになってなんだか気分が落ち着かなかった。不安定な中にあって、落ち着かずにいるもんだからテンションは上がったり下がったりを頻繁に繰り返す。嫁さん曰く、飲ませまいとしても酒を飲んでいて、そしてテンションがあがるとネットをやっていたろり“自殺ごっこ”をしていたらしい。一日中ベロベロになりながら、病院に行っては他院を紹介されて、帰ってきては飲んでネットを見たり本を読んだりし、そして“自殺ごっこ”に飽きると嫁に泣きついていたらしい。風呂にも入らず、ずっと同じパジャマと下着で一日中ゴロゴロしていたらしい。恐ろしいことには全く記憶にない。……

『闘病のはじまり』
 遂に家中にある酒を全部嫁さんに捨てられ、財布も没収となる。それまで気分を安定させるために呑んでいた酒を突然に立ち切られたのである。正直、どうなることか不安で不安で仕方なかった。死ぬかもしれない、天変地異が起きるとか、あらぬ妄想に取り包まれてしまっていた。ただ、幸いにも離脱(いわゆる禁断症状)は出なかった。かわりに、タバコの量が一気に増えた(嫌煙家の方ごめんなさい)。私は永らくショートホープを愛喫していたのだが、それを一日中スッパスッパとやるようになっていた。この頃の記憶も曖昧だが、多分一日1カートンくらい吸っていたのかもしれない。部屋中煙で真っ白だったのは覚えている。
 またおうし座生まれの私はこの頃誕生日があったが、食欲ナシ、味覚ナシ、で何も食べられずまた何を言われてもされても喜べず楽しめずで、人生最悪の誕生日を迎えた。
 五月上旬、とある大都市の某病院を紹介されてそこに行ってみることになる。診察を受けた結果“重度の鬱病+軽度のアルコール依存”と診断される。そこへ病棟の都合から一週間後に入院することとなった。
 酒を離れてから少し記憶が鮮明になった部分は良かった。しかし、誇大妄想・被害妄想は甚だひどく、またそれ以上に家の裏で音を立てる車や重機の音がとてつもなく恐ろしかった。“その場を離れる”という意味でも、この大都市の某病院への入院につながった。
 残された時間は一週間。やっぱり“自殺ごっこ”をしていた。本も読んでいたけど全然頭に入ってこない。親友二人に電話をすると片方には怒鳴られ、片方には大いに慰められた(慰めてくれた方は自身も傷病療養中だった)。風呂に入りたくなくて、数週間着続けたパジャマがついに綻んでくる。匂いは想像にお任せします。
 五月某日、入院準備のため(家が田舎なもんで)病院近くのホテルに泊まる。深夜、相変わらず眠れなかったのでコンビニで酒を買い呑みながらホテルの周りをグルグルと徘徊していた。「明日でこの世ともおさらばだ…ウウウ」などと泣きながらひたすら酒を呑んで歩き回っていた。嫁さんはこの一カ月余りの私の看病で疲れ切っていて、ホテルでぐっすり眠っていた。
 翌朝、残された気力でブログに入院の報告を兼ねて記事をうpする。内心「もう更新は再開できないかも……」と思っていた。

『第一の入院』
 その精神神経科病棟は頑丈な扉の向こうだった。
 完全に寝不足・二日酔い状態で入院に臨んだ私は、必要最低限の入院道具と大量の本を持ち込んだ。しかし、不安や妄想が次第に頭を巡り始めてきて、入院早々立っていられなくなり、車椅子で病棟内の説明や検査などにまわった。タバコは一日三回まで許可が出たけれど、それどころではなかった。入院初日の色々なことが終わって、嫁も帰ってからはひたすらベットで横になっていた。ご飯も食べられなかった。とにかく寝ては起きて本を読み、また寝てということを繰り返していた。おかげで斜向かいのベットにいたポン中のヤーさんに「挨拶くらいしろよ、根暗が」と怒られる。その日はとにかくずっとそんな感じだった。
 翌日になってみると不思議と歩けた。が、朝食は一口しか食べられなかった。
 ここの病院では毎朝ラジオ体操があるというので行ってみると誰もいなかった。しかたないので一人でやる。
 入院後数日間はそんな感じだった。寝て起きて本読んで、また寝て朝になったら一人でラジオ体操をして、また寝て、起きて本読んでまた寝て、眠剤の追加をもらってまた寝て……。先生の回診はなかった。
 五月某日、親友の一人が見舞いに来てくれた。「お土産は酒で」と頼んでいたので、案の定高級なブドウジュースを買ってきてくれた。残念。その親友は痛々しい包帯姿で現れたのだが、近くギブスも外れるらしく飄々として写真を撮りまくっていた。ちょうど嫁さんも来ていたので病院内の喫茶店で話をするが、私自身、まだテンションの上がり下がりが激しい状態だったので何を口走っていたのか記憶にない。とにかく久々に“人”に会った気がした。病棟内の人は別段特殊というわけではなく、ごくごく普通の人たちだったし詰所の看護師さん方も普通の人だった(美人多かった!)のに、なぜかそう感ぜずにはいられなかった。親友は時間の許すかぎりいてくれてありがたかった。
『大都市病院・第一の事件』
 そんなある日、私の中で事件が起こった。タバコは院内禁煙なので院外で吸わなくてはならない。だから私は散歩がてらプラプラ歩きながら煙草を吸っていたのだが(←歩行喫煙もやめましょう)、その日の夕食後の喫煙外出中、とあるコンビニの前で私は途端に動けなくなってしまった。原因は私の傍らを通った一台のトラックの音だった。その音を聞いて、ふと家の事を思い出すと居ても立ってもいられず死にたくなってしまったのだ。でも死ぬのは怖いし病棟に帰ろうにも動けないしで、コンビニのゴミステーションにしがみついてブルブルと震えていた。そしてそんな状況を打開すべく、私がとった手段は飲酒だった。コンビニに駆け込み、とにかく酒を買ってベロベロになるまで飲んだ。そしてテンションを上げて、気合を入れ直し病棟に戻ったのだが、事の顛末を素直に当直の看護師さんに伝えると、「とにかく薬(眠剤)をのんで休みましょう」とベットへ連れていかれた。私も酔いのせいもあってその晩は朝までぐっすりと眠れた。
 翌日、やっと私の担当医という医者がやってきて昨日の事の説明を求められる。あったことだけをキチンと説明すると、一言「病棟外外出禁止です」と言われた。個人的にタバコ>酒なので「どうかタバコだけは吸わせてくれぇ〜!」と何度も懇願した。結局先生同伴で一日一本だけ許しを貰えた。それまで一日1カートン近く吸っていた人間である。正直一日一本というのには抵抗もあったしなによりそれでもつ自信がなかった。しかし、吸わせてもらえるだけありがたいことである。そこは感謝しなくてはならない。
『皐月晴れ』
 五月某日、しばらく一人で続けていたラジオ体操におばちゃん方が参加してくれるようになる。と同時に“先生”というあだ名をつけられてしまう。
 五月某日、男性入浴日。久々に風呂に入ったらこれでもかというくらいに垢が出た。
 五月某日、明け方妙な夢を見る。夢を見たのなんて何カ月ぶりだろうと思い、ノートに書きつける。以降、夢日記をつける習慣ができてしまう。この日記は退院した今なお続き、現在六冊目である。
 五月中はもっぱら寝て起きて本読んで寝て、という相変わらずの生活だった。髭も髪も伸び放題だったけれど、剃る気もなければ切る気力もでなかった。嫁は毎週末に通ってきてくれていたから、その度に本を持ってきてもらい読むものには困らなかったけれど、全然内容が頭に入ってこなくて同じ行を何回も読んだり同じ本を何度も読んだりしていた。そもそも理解する力と集中する力が全く出てこなかった。だから本は読んだというけれど、実際はページをただただめくっていたに他ならない。
 また病棟内は刃物は持ち込み禁止なので、新聞の切り抜きや爪を切るのにもいちいちナースステーションで借りなければならない。私は本を読むとき常に黄色のダーマトペンを持って線を引くタイプなので、紐が伸びてきたら端をつまんでチョキンと看護師さんに切ってもらっていた。
 五月某日、Mさんというおばさんから「私、自伝を書きたいの」と相談を持ちかけられる。でも、こちらも頭ボケボケの状態だから丁寧には説明できなくて、ごくごく基本的な資料のまとめ方を教えておいた。
 私を“先生”と呼ぶおばちゃん方の輪の中では、私が夢日記をつけている旨話して以来、日記をつけることがブームになっているらしかった。
 五月某日、ポン中のヤーさんが退院していく。最初の出会いは最悪だったけれど、ここ数日でとても仲良くなったので少々さびしい。
 五月某日、隣の病室に変なおじいさんが入院してくる。とにかく何につけてもクレームの嵐で、看護師さんたちも大変なようだ。が、弱冠一名、そのおじいさんを簡単に手玉にとって弄んでしまう看護師さんがいた。美人なのに、強し!
『天晴。風強』
 日記の常套句の様になってよく使っていた言葉。もちろん“曇”もあれば“雨”もある。
 六月某日、友人Iが仕事の関係で近くに寄ったので見舞いに来る。この頃、家族同伴での外出許可が出ていたので、嫁も含めて近くの公園でのんびりとくっちゃべる。久々の外だったが、やはり車の音が怖くて嫁にしがみつきながら公園まで行く。なんというか、ふとした瞬間に車道に飛び出したい衝動にかられるのだった。外出時に渡された頓服をMAXで飲む。
 六月某日、隣室の変なおじいさんがトイレでぶっ倒れる。普段はクレーマーなのにこの日は涙ながらに「助けて看護婦さん!」と泣きついていた。
 六月某日、突然写経をしようと思い始める。手元にそれらしいものがないので、友人のエロい坊さんに頼んで色々とお経を送ってもらう。
 六月某日、お向かいに入院してきたSさん。普段は病院のLANに勝手につないでようつべなどを見ているらしいのだが、多分症状なのだろうけれど「……アッ!……オッ!……ンアッ!」と頻繁に奇声を発する人である。これにはちょっと悩んだけれど、写経パワーでなんとかする。
 六月某日、上の階の入院患者さん(確か胃腸系の科)が深夜に消化器をぶちまけたらしく、清掃員の方々が大慌てで病室の掃除をしていった。
 六月某日、義理の妹が見舞いに来る。嫁も来たので駅前まで出て久々に本屋に立ち寄る。が、何を買って良いか分からなくなり本屋の中でずっと立ちんぼしている。結局渡された三千円で税込三千円するノートカバーだけは買えたが、お金の使い方について義妹に多少ひかれる。この頃の金銭感覚はどうかしていた…というか今も多少そうなのだけれども。
『大都市病院・第二の事件』
 六月某日、ついに私の喫煙への欲求が耐えられなくなり、夜中こっそりトイレでタバコを吸っていたら看護師さんに見つかってしまった。後日トイレ喫煙発覚のため嫁に激怒される。
 六月某日、夜中に目が覚めてしまったので追加の眠剤をもらいに行って戻ってくると、私のベットに見知らぬオジサンが寝ていた。翌朝看護師さんに報告すると、「あ〜隣室のYさんねぇ〜。検査入院だから今日退院なのよ」などと言われる。枕から加齢臭が漂っていた。
 六月某日、外に出られないイライラとタバコを吸えないイライラで一睡もできず。まあ、外出禁止の原因を自分で作ったのだから何も文句は言えない。
 六月某日、同室の人たちが次々と外泊していって、一晩だけ私一人になる。かなり淋しかった。
 七月某日、よく分からない姉ちゃんが入院してくる。かなり重症のようで、ほぼ真っ裸の状態で廊下をウロウロしたり、警察に電話をかけたり、色々あった。看護師さんたちも叩かれたりしていてなかなか大変そうだった。
 七月某日、遂に私の情緒不安定とイライラが爆発し、なかなか回診にやってこない先生にもあたったりして完全にヒステリーを起こしてしまう。注射を打たれると、泥のようにガクッと眠ってしまった。翌日から外出許可が出る。先生もお手上げという感じだったらしく、やむなく許可を出してくれたらしい。とはいえ車の音が相変わらず怖かったのでタバコを吸いに出てもすぐに病棟へ戻ってきてしまう。
 七月某日、やっと洗面・歯磨きといった日常習慣的なことができるようになる。伸ばし放題だったヒゲを剃ったら看護師さんに「フツーのお兄ちゃんだね」などと言われる。
 七月某日、廊下の隅っこで本を読んでいたら、例のよくわからない姉ちゃんに頭から水をかけられ叩かれ蹴られた。看護師さんらが止めに入ってくれたが、ケータイが破損。ガラケーだったが、水と蹴られたことでお陀仏になってしまった。まあ、長いこと使っていたのだからガタが来ていたことも相まってのことと思う。
 七月某日、車の音があまり気にならなくなってきたので、病院近くの古本屋などを見て歩く。この頃から記憶も鮮明になりイライラ感もなくなってきていたが、相変わらず不安と落ち込みは激しかった。
 七月某日、夜中にふと目が覚めて急にタバコが吸いたくなって、またトイレで吸ってしまう。案の定見つかる。翌日、先生からの呼び出しで「退院してください」と言われる。
 七月某日、ケータイを買いに嫁と出かける。退院の件とその理由を伝えると呆れられる。当然のことだけれど…。
『最初の退院』
 七月某日、紹介状と大量の本を手に大都市の某病院を退院してくる。当分の薬は出されたが、なるべく早く次の病院を探すように言われる。とはいえ鬱々としている中、そんなことをする気力も出ないでいた。正直、「どうなるのかな、俺…」とぼんやりとした不安だけで頭の中がいっぱいだった。


 ということで私の入院生活の前半はこんな感じでした。はっきりいって、今から考えるとそうとうワガママ言い放題の入院生活でした。漠然とした不安と落ち込みから来る無気力がそうさせたのかもしれません。単なる鬱病といわれて「なんでこんなとこに入っていなきゃいけないんだ」と内心思っていたのも事実です。実にワガママな鬱病患者でした。
 ≪後篇へ続く≫
posted by 甚之助 at 16:07 | 東京 晴れ | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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