515 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:02/05/16(木) 21:40 ID:Ms8H8rY2 [1/5]
今、俺は入院している。
11月からだからもう半年。
少し長くなるが今までの事を書きたいと思います。
俺は今年二十歳で高校卒業後、上京し専門学校に行っていた。
高校時代はあまり家にもいない学校も嫌いな、世間一般で言う不良のようなものだった。
家族の仲はそれなりに良かったが母親とは喧嘩ばかり。
上京してからも1ヶ月に一度連絡をするくらいでろくに親の事なんか考えてなかった。
初めての夏を迎える頃右足の付け根に痛みを感じ出した。
医者に行くと「股関節の炎症。」
しかし何度医者に行ってもいっこうに良くならずむしろ痛みは強くなるばかり・・。
11月になると痛みの余り学校に行けなくなることもあった。
そしてある朝起きると痛くて動けない。
立てない。パニックになった俺は親に電話をしたところ
「救急車を呼びなさい!!」と。
俺は人生初の救急車を体験し近くの病院に運ばれた。
母は心配し、来ると言っていたが大したことは無いと断った。
1週間ほど入院をすると痛みも薄れてきてそろそろ退院かなと思った頃、
母から電話が来た。
「先生に呼ばれたから明日朝一の飛行機で行くから。」
次の日母は俺の前に心配そうな顔をして現れた。
「大丈夫だって。」
俺がそう言うと母は
「元気そうだね。安心した。」
そう言った。
516 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:02/05/16(木) 21:52 ID:Ms8H8rY2 [2/5]
その後、母は医者に「お話があります」と呼ばれた。
「じゃあ行って来るね」
20分位たつと、俺も看護婦さんに連れられ母と医者の待つ部屋に呼ばれた。
そこには顔が引きつった顔の母がいた。
一生懸命に平静を装っている。
そこで俺は医者に次のようなことを言われた。
・足に腫瘍がある
・ここではその腫瘍について分からないから大きい病院に移って検査しなくてはいけないこと。
・それには故郷の大学病院に行くのがいいということ
俺は唖然とした。
母は「とりあえず帰ろう」と言う。
結局、説得され帰ることになった。
517 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:02/05/16(木) 22:08 ID:Ms8H8rY2 [3/5]
俺は「腫瘍」というものが何かよく分かっていなかった。
だから軽く検査してまた1ヶ月位したら戻ってこれるな。と思っていた。
しかし転院後、すぐ検査をし主治医に言われた言葉は
「良性とも悪性とも言えない。だけれど3ヶ月点滴をして無くさなければならない」
俺にはそれだけで大ショックだった。
しかし家族の「3ヶ月頑張ろう!」と言う言葉に励まされて頑張った。
母は実家から1時間半もかかる病院まで毎日来てくれた。
吹雪の日でもいつも笑顔で来てくれた。
治療の点滴の副作用は強く、激しい嘔吐、髪は抜け、体力も落ちた。
もうお気づきの方もいるかもしれないが抗がん剤治療である。
しかし無知な自分は何も気づかずに3ヶ月間頑張った。
気づかないというより気づかせられなかった。
家族が隠しとうしたのである。
そう。俺は悪性だったのだ。体中に転移し、医者から家族に言われた言葉は
「3ヶ月持つかわかりません。」だった。
518 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:02/05/16(木) 22:25 ID:Ms8H8rY2 [4/5]
その事を聞いたのは2月だった。
その時、3ヶ月で奇跡とも言う位に薬が効き、転移していた所は全て消え
元の腫瘍も5分の1まで小さくなっていた。
それで母は俺に癌の告知をした。
俺は涙が止まらなかった。
それは自分の病気のことよりも今まで俺にばれないように隠してくれた母のやさしさに気づいたからだった。
父も妹にもそうなのだが、何より余り仲の良くなかった母に申し訳なかった。
いつも隣にいて、たわいも無い話をするのがどんなに大変だったのだろうか。
しかも東京の病院から隠したのである。
治療がつらく母に当たっても何一つ文句を言わずただひたすら励ましてくれた。
俺は初めて家族の愛を知った。
それからも治療はうまく進み、ついに「完治します」という言葉が医者の口からでた。
あと3ヶ月ほど治療が続くが、俺はそれを乗り超えたときに両親にに言いたい言葉がある。
「俺を生んでくれてありがとう。」
今、俺は入院している。
11月からだからもう半年。
少し長くなるが今までの事を書きたいと思います。
俺は今年二十歳で高校卒業後、上京し専門学校に行っていた。
高校時代はあまり家にもいない学校も嫌いな、世間一般で言う不良のようなものだった。
家族の仲はそれなりに良かったが母親とは喧嘩ばかり。
上京してからも1ヶ月に一度連絡をするくらいでろくに親の事なんか考えてなかった。
初めての夏を迎える頃右足の付け根に痛みを感じ出した。
医者に行くと「股関節の炎症。」
しかし何度医者に行ってもいっこうに良くならずむしろ痛みは強くなるばかり・・。
11月になると痛みの余り学校に行けなくなることもあった。
そしてある朝起きると痛くて動けない。
立てない。パニックになった俺は親に電話をしたところ
「救急車を呼びなさい!!」と。
俺は人生初の救急車を体験し近くの病院に運ばれた。
母は心配し、来ると言っていたが大したことは無いと断った。
1週間ほど入院をすると痛みも薄れてきてそろそろ退院かなと思った頃、
母から電話が来た。
「先生に呼ばれたから明日朝一の飛行機で行くから。」
次の日母は俺の前に心配そうな顔をして現れた。
「大丈夫だって。」
俺がそう言うと母は
「元気そうだね。安心した。」
そう言った。
516 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:02/05/16(木) 21:52 ID:Ms8H8rY2 [2/5]
その後、母は医者に「お話があります」と呼ばれた。
「じゃあ行って来るね」
20分位たつと、俺も看護婦さんに連れられ母と医者の待つ部屋に呼ばれた。
そこには顔が引きつった顔の母がいた。
一生懸命に平静を装っている。
そこで俺は医者に次のようなことを言われた。
・足に腫瘍がある
・ここではその腫瘍について分からないから大きい病院に移って検査しなくてはいけないこと。
・それには故郷の大学病院に行くのがいいということ
俺は唖然とした。
母は「とりあえず帰ろう」と言う。
結局、説得され帰ることになった。
517 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:02/05/16(木) 22:08 ID:Ms8H8rY2 [3/5]
俺は「腫瘍」というものが何かよく分かっていなかった。
だから軽く検査してまた1ヶ月位したら戻ってこれるな。と思っていた。
しかし転院後、すぐ検査をし主治医に言われた言葉は
「良性とも悪性とも言えない。だけれど3ヶ月点滴をして無くさなければならない」
俺にはそれだけで大ショックだった。
しかし家族の「3ヶ月頑張ろう!」と言う言葉に励まされて頑張った。
母は実家から1時間半もかかる病院まで毎日来てくれた。
吹雪の日でもいつも笑顔で来てくれた。
治療の点滴の副作用は強く、激しい嘔吐、髪は抜け、体力も落ちた。
もうお気づきの方もいるかもしれないが抗がん剤治療である。
しかし無知な自分は何も気づかずに3ヶ月間頑張った。
気づかないというより気づかせられなかった。
家族が隠しとうしたのである。
そう。俺は悪性だったのだ。体中に転移し、医者から家族に言われた言葉は
「3ヶ月持つかわかりません。」だった。
518 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:02/05/16(木) 22:25 ID:Ms8H8rY2 [4/5]
その事を聞いたのは2月だった。
その時、3ヶ月で奇跡とも言う位に薬が効き、転移していた所は全て消え
元の腫瘍も5分の1まで小さくなっていた。
それで母は俺に癌の告知をした。
俺は涙が止まらなかった。
それは自分の病気のことよりも今まで俺にばれないように隠してくれた母のやさしさに気づいたからだった。
父も妹にもそうなのだが、何より余り仲の良くなかった母に申し訳なかった。
いつも隣にいて、たわいも無い話をするのがどんなに大変だったのだろうか。
しかも東京の病院から隠したのである。
治療がつらく母に当たっても何一つ文句を言わずただひたすら励ましてくれた。
俺は初めて家族の愛を知った。
それからも治療はうまく進み、ついに「完治します」という言葉が医者の口からでた。
あと3ヶ月ほど治療が続くが、俺はそれを乗り超えたときに両親にに言いたい言葉がある。
「俺を生んでくれてありがとう。」