モバP「いいお酒が手に入ったので」【後半】
関連記事:モバP「いいお酒が手に入ったので」【前半】モバP「いいお酒が手に入ったので」【後半】
医師「メニエールかもしれないですね」
楓「……」
ちひろ「そう、ですか」
Pさんは今、総合病院の処置室で横になっている。
うなされることもないが、ごろごろと落ち着いてない。
医師「耳の病気です。ぐるぐるめまいがします」
医師「目を見るとわかるんですよ。眼振と言って、目玉が細かく揺れるんですね」
ちひろ「はあ」
医師「ま、命に関わるものじゃないですし。疲れとかで起きる人もいますし」
医師「念のために、MRI撮ってみますから、今日は入院されたほうがいいかと」
ちひろ「ありがとうございます」
楓「……」
ちひろ「楓さん、私は受付で手続きをしてくるんで」
ちひろ「Pさんのそばに、ついていてくれますか?」
楓「……はい」
先生からの説明もよく入ってこなかった。
Pさん……
あの人が横になっている、その状況だけでどうにかなってしまいそうだ。
Pさんが倒れた。
目の前の出来事に、私の思考は完全に止まってしまう。
なにをしたら。どうしたら。
まったくわからない。
通りすがりの女性が、声をかけてくれる。
通行人「大丈夫ですか?」
楓「あの……あの……」
通行人「あれ? ひょっとして歌手の高垣楓、さん?」
楓「あ……あの」
あの人が。あの人が倒れてるの。
お願い、なんとか。
通行人「そっちの人は」
楓「あの……事務所の……」
通行人「とにかく、救急車呼びますね! 大丈夫。大丈夫ですから」
私はどんな顔色をしてたんだろう。
要領を得ない私の代わりに、通行していた人が自分の携帯で119番をしてくれる。
119「はい、こちら119番」
楓「あの……あの……」
119「はい、大丈夫ですよ。ゆっくり話してくださいね。……どうされましたか?」
楓「事務所のプロデューサーが、倒れまして……」
119「はい、救急ですね。場所はどこか、言えますか? 近くの方に聞いてもいいですよ?」
楓「あ、あ」
楓「あの、ここは」
混乱してどうしたらいいか、頭から出てこなくなっている。
私はただ、電話をしてくれた人に、携帯を手渡すしかできなかった。
通行人「変わりました。はい。はい。えっと……」
代わりの人がいろいろ説明してくれる。その説明がなにを言ってるのかさえ、私には入らない。
通行人「大丈夫。すぐ救急車来ますよ。落ち着いて」
楓「え、ええ。ありがとう、ございます」
通行人「会社とか電話しなくて大丈夫ですか?」
楓「あ、ああ! そう、ですね。はい、そうします!」
そう言われて、少し正気に戻った私は、事務所に連絡する。
楓「もしもし、ちひろさん? あ、あの。高垣です」
ちひろ『楓さん? どうしました?』
楓「あの、P、Pさんが。倒れて」
ちひろ『はい? Pさん? 倒れたって……』
楓「えっと、移動中に路上で、ぱたりと」
ちひろ『それで! Pさんはどうなんですか? Pさんは』
楓「あ、あの。今救急車を呼んでいただいて」
ちひろ『救急車ですね! 病院決まったら連絡してくださいね。必ずですよ』
楓「は、はい……」
どうにか一報を入れた私は、急に体の力が抜ける。
楓「はあ……はあ……」
へたりこむ私に、立ち止まってくれた人が声をかける。
通行人「よかった、連絡ついたみたいですね」
楓「あの」
通行人「もうすぐ救急車来るでしょうから。それまで待ってて」
通行人「じゃあ」
楓「あ、あの。せめてお名前と住所」
通行人「いいですいいです!」
そう言ってその人は、なにも教えず立ち去っていった。
どのくらい経ったろう。救急車が到着するまでの時間が、たいそう長い。
遠くからサイレンが聞こえ、ほどなく音が止まる。
救急車が到着。隊員の人が、あの人のそばにやってくる。
意識を確認し、ストレッチャーに乗せるまで、どのくらいかかったろう。
ほぼ放心状態の私は、なにも言えずその光景を見ていた。
救急車への同乗を促され、私はあの人のとなりに。
すぐに病院へ行くかと思ったが、なにか連絡をしてるようでなかなか発車しない。
時間が、もどかしい。
ようやく発車したとき、私は隊員の人に慰められていた。
隊員「大丈夫ですよ。意識もあるし、病院もすぐですからね」
隊員「とにかく病院に着いたら、先生や看護師さんの言うとおりにしてくださいね」
その言葉を聞きながら、私はただ震えるだけ。
病院に着いても、足元がおぼつかない。
看護師「大丈夫ですからね。任せてくださいね」
楓「……は、はい……」
看護師「落ち着いたらでいいですからね。連絡されるところに電話とかしておくといいですよ?」
そうだ、ちひろさんに。
その言葉だけはストンと私の中に入り、体だけは公衆電話へ向かう。
どうにか事務所へ電話できたらしく、ちひろさんがあわててタクシーでやってきてくれた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
どうやら病室でうたた寝をしてしまったらしい。
気がついたら、あの人がベッドで私の髪をなでていた。
楓「あ」
P「もう少し寝ててもいいんですよ」
疲れきった表情だけど、やさしい笑顔。
楓「うっ……うう……」
私は声を押し殺して泣いた。
楓「P、さん」
あの人は横になったまま、私の髪をなでる。
P「まだぐるぐるするんで。すいません」
楓「いいん、です」
あの人は私をなぐさめようとしている。自分のほうがつらいだろうに。
楓「なんで……そんなに」
楓「自分を犠牲にするんですか?」
泣きながら話す私。まったく要領を得ていない。
楓「どこにもいなくならないで、ください」
楓「私を置いて……いかないで……」
あの人は髪をなでながら一言「ごめん」とだけ。
よかった。ほんとうに。
私はただ、泣くだけ。
泣いて、泣いて。ようやく落ち着いて。
楓「今はどうですか?」
P「うん、寝返り打つとぐるぐるがひどいんで。それがつらいかなあ」
楓「そうですか」
P「で、先生はなんと?」
楓「耳の病気じゃないかって」
P「……そうですか」
あの人の左手につながる点滴が痛々しい。
P「迷惑かけてしまいましたね」
楓「ほんと、ですよ」
P「……」
楓「ちひろさん、あわてて駆けつけてくれましたよ? 入院の手続きもしてくれて」
P「あ、保険証」
楓「それはあとでもいいそうです」
無理に動こうとするあの人を、押しとどめる。
そしてまた沈黙。
病室には時計もない。今は何時なんだろう。
窓の外はもう暗い。
P「楓さん」
楓「はい」
P「……ありがとう」
え?
私がなにかお礼を言われるようなことをしただろうか。
楓「どうしたんです?」
P「いえ、なにもないです」
P「なにもないですけど、そうだなあ」
P「いてくれて、ありがとう」
楓「……」
P「楓さん、いつも言ってるじゃないですか。『ごめんなさい』じゃなくて『ありがとう』だって」
P「なんか、わかる気がします」
楓「……そうですか」
P「楓さんがこうしていてくれる、それだけでありがたい」
P「すごく、実感します」
楓「そう……よかった」
P「怒らないんですね? 無理しないでとか」
楓「そういう気持ちもありますけど、Pさんがこうしていてくれるから、もういいです」
楓「早くよくならないでくださいね?」
P「いや、楓さん。その言い方はおかしいでしょう?」
楓「だって、早くよくなったら、また無理するんじゃないかって」
楓「心配です」
あの人はひとつ、ため息をつく。
P「そうですね。ゆっくり休めっていう、お告げかもしれませんね」
楓「ええ。それと」
楓「少しは、Pさんの彼女らしいこと、させてください」
もうすぐ、面会時間が終わる。
私は、あの人の右手をとり、軽く握りしめた。
また、明日。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ちひろ「とにかく、楓さんはPさんのそばについててください」
ちひろ「お願いしますね?」
昨日あの人が倒れたので、あいさつ回りが終わっていなかったのだけど。
ちひろさんは、他のスタッフにいろいろ肩代わりしてくれていた。
楓「なんか、いろいろ申し訳ないです」
ちひろ「いいんですよ。そのための私たちですから」
そう言ってちひろさんは、私を送り出す。
病室。その前に立つと、なにもなくても入るのがはばかられる。
楓「よし」
覚悟を決めて入ると、あの人は起き上がっていた。
P「おはようございます」
楓「Pさん、起きられるようになったんですね」
P「めまいの薬が効いてきたみたいで、よかったです」
P「これから検査なんで、またぐるぐるさせられるらしいですけど」
あの人は苦笑い。でも、私は笑えない。
楓「ちひろさんが、今日一日ついててくれと」
P「そうですか。ちひろさんにお礼をしないとならないですね」
私はかける言葉が見つからず、ただうなずいた。
検査の時間になり、看護師さんが呼びにきた。
看護師「これからMRIの検査になりますけど、歩けそうですか?」
P「はい、大丈夫です」
看護師「では、検査室までご案内します」
楓「私も、一緒に行ってかまいませんか?」
看護師「ええ、かまいませんけど。時間かかりますよ?」
楓「かまいません。お願いします」
看護師「では、ご一緒に」
案内されたそこは、いろいろな検査に分かれている場所だった。
CT、MRI、レントゲン。
リニアック室と書かれた部屋の前には、お年寄りが二・三人座っていた。
看護師「こちらになりますね。呼ばれたら部屋にお入りください」
第二MRI室という部屋の前。長いすにふたり、腰を下ろす。
あの人は、肩で息をしているようだ。
楓「Pさん、つらいですか?」
P「昨日の今日ですから、ちょっとしんどいですけど。ぐるぐるしないだけましです」
ああ。なぜ私は、こうも無力なのか。
あの人がつらそうにしても、私はなにも助けてあげられない。
P「楓さん? そうつらそうな顔、しないでください