1 :砂漠の狐:02/02/17 23:03


日本史上最高のいくさの天才と言えば?
義経?信長?大村益次郎?
やっぱ大村かなあ…






2 :日本@名無史さん:02/02/17 23:10


アドミラルトーゴーだろ。

少なくとも世界的な知名度では。



http://ja.wikipedia.org/wiki/東郷 平八郎

東郷 平八郎は、日本の武士、軍人である。
明治時代の日本海軍の司令官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた。
日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。

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7 :日本@名無史さん:02/02/17 23:25


>>2
日本海海戦では東郷さんは立っていただけで指揮はしていないよ。






50 :日本@名無史さん:02/02/19 12:07


>>48
2でも出てるが、知名度だけなら確かに世界的。
私は河井継之助を推します。





4 :日本@名無史さん:02/02/17 23:22


そりゃ大楠公だろ



http://ja.wikipedia.org/wiki/楠木正成

楠木 正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した。
鎌倉幕府からは悪党と呼ばれた。明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。

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5 :日本@名無史さん:02/02/17 23:24


楠公は言わばゲリラ戦術の先駆け的存在。
ベトコンがやったのも言わば楠木流兵法。






801 :日本@名無史さん:02/06/26 23:52


楠木正成か真田幸村。両者とも最後があっぱれ。






17 :日本@名無史さん:02/02/18 00:07


ある意味、人生で一度も敗戦をしなかった徳川家康

三方が原の敗戦は確かにそのときは惨敗だったが、
これで彼は一躍評価され、この敗戦は死ぬまでおおきな財産になった。

義経は壇ノ浦意向敗北続きだし、
秀吉は朝鮮出兵は失敗、加えて豊臣家の没落を早めている。


http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川家康

徳川家康は、織田信長と同盟し、豊臣秀吉と対立・臣従した後、日本全国を支配する体制を確立して、15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代、安土桃山時代)に終止符を打った。家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は、後に幕藩体制と称され、17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く江戸時代を画した。

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174 :日本@名無史さん:02/03/21 00:55


結果論で云えば家康でしょう。
戦になる前の情報・策略が重要視されるべきでは。





254 :日本@名無史さん:02/04/15 15:28


一般には戦略の方が上位概念で戦術はその一部と思われがちで、前者に秀でている
人をより優秀と考えるが本当だろうか。
戦略家の方は理詰めでいける一種の秀才でいいと思うが、戦術家の優秀な結果を
残した人は、天才肌ではなかろうか。
前の方にでてきた義経、真之、みなそうだ。
唯一両方で秀でた実績を残したことのあるのは、信長。
田楽挾間の大勝利、その後には決して無茶はせずに基本的に勝つための戦略作りに
力を尽くした。家康や秀吉は、優秀な戦略家ではあっても戦術家としてさほどの実績
を上げたとはいえまい。






255 :日本@名無史さん:02/04/15 15:31


>>254
家康は野戦の名手と言われるが、実際のところはどうだろか。
三方ヶ原での失態を考えれば実は戦下手だったとか、
そもそも相手が悪すぎたとか。






19 :日本@名無史さん:02/02/18 00:19


義経は最後の最後で中国制覇、これ最強



http://ja.wikipedia.org/wiki/源 義経

源 義経は、平安時代末期の武将である。
兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となった。
その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によってその怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。
全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。
その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。

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60 :日本@名無史さん:02/02/19 18:29


鉄砲なし、弓、騎馬、槍などの兵数が同じであれば、
奇策を重視する兵法家である、源義経がNO.1の結果を残している。






61 :日本@名無史さん:02/02/19 18:38


やはり、義経か正成のどちらかだろうな。







62 :日本@名無史さん:02/02/19 18:51


義経の戦術(?)は奇抜さと無謀さが紙一重。いずれも小人数で勝利をおさめた戦績は輝かしいが、逆にそんな少数相手に散り散りになった平家軍の
弱さも一考すべき。






870 :日本@名無史さん:02/07/02 17:31


大村益次郎なり。

おそらく日本で戦略と戦術の概念の高度に理解していた
最初の人物と思われます。


http://ja.wikipedia.org/wiki/大村益次郎

大村 益次郎は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。維新の十傑の一人に数えられる。
長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。
太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。

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226 :日本@名無史さん:02/04/13 03:44


幕末維新の戦場なら大村益次郎と板垣退助が抜群だろう。








310 :童門です:02/04/17 19:09


大村は司令官としてはそれ程優れているとは思わない。
彼はあくまで軍政家だ。






220 :日本@名無史さん:02/04/12 23:11


いくさって、戦略のことをさすのでは?
項羽と劉邦の例を引くまでも無く、戦術で勝る者と戦略で勝る者では、後者の方が結局は勝つと相場が決まっている。
その考えを踏まえて言えば、信長。
戦術での巧者はほかに居るだろうが、その戦術を封殺するだけのきわめてキレのいい戦略を持っている。
もっとも最期の最期で全く愚劣としか言いようのない単なる「戦術」に殺されるのはやや皮肉で面白い。

ただし大陸戦や海戦がメインの近代戦はちょっと異質。兵站の概念がまるで違う。
つまり、戦国と比べると、ことさら補給線を絶対原則に戦略を練らねばならなくなる。
そちらの方は他の意見に譲る。
大村は近代軍隊と近代軍事技術の輸入者であって、独創者ではないと思うよ。
その点、非常にすぐれた偉大な秀才ではあっても天才ではないのでは、と。






9 :日本@名無史さん:02/02/17 23:39


まあ史上はじめて日本を統一した神武天皇でしょうな。



http://ja.wikipedia.org/wiki/神武天皇

神武天皇は、日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇。
東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言して東征を開始した。豊後や筑紫にて基盤を築くのに1年かけ、瀬戸内海から吉備国を経て河内国に至る頃には、東征開始から15年の年月が過ぎていた。そして明石海峡を越えて目的の地である奈良盆地まですぐそこというところで長髄彦(那賀須泥毘古)と戦いとなり、この時の矢傷が元で兄の五瀬命(いつせのみこと)が亡くなった。
東征が進まぬ事を危惧した天照大御神により霊剣「布都御魂(ふつのみたま)」を授かった神武天皇は、八咫烏に導かれながら険しい山々を越えて吉野の地へと辿り着き、長髄彦との決戦に勝利して橿原の地を都と定めた。

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27 :日本@名無史さん:02/02/18 00:55


まあ神武天皇に勝てるやつはいないだろうよ。

必殺金鵄光線!






28 :日本@名無史さん:02/02/18 00:57


神武天皇>島津義弘>>大村益次郎・上杉謙信>福島正則・河井継之介>伊達政宗>徳川家康>山県有朋>薩摩の海江田>






29 :日本@名無史さん:02/02/18 01:00


神武天皇最強!






30 :日本@名無史さん:02/02/18 01:02


神武天皇伝説は東洋のアーサー王伝説と言われているね。
まさに古代歴史浪漫だよ。






33 :日本@名無史さん:02/02/18 04:51


いずれおとらぬ戦上手ばかりだが…

高杉晋作を挙げたい!

幕末期の大村益二郎は巨星、板垣・桐野・別府ら猛将達も、
高杉にはかなうまい。



http://ja.wikipedia.org/wiki/高杉晋作

高杉 晋作は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。

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143 :日本@名無史さん:02/03/19 23:45



新撰組の土方歳三だって凄いぞ
高杉晋作もな






46 :日本@名無史さん:02/02/18 19:23


純粋に戦術で選ぶなら織田信長でしょうね。

政略、戦略も含めれば秀吉。



http://ja.wikipedia.org/wiki/織田信長

織田 信長は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。戦国時代における三英傑の1人。
急死した父の後を受けて家督を継ぎ、同母弟・織田信行(信勝)との家督争いを経て尾張国を統一した。
以降、尾張国守護代の一家老に過ぎなかった織田家(弾正忠家)を卓越した手腕で全国最大勢力にまで押し上げる。

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56 :日本@名無史さん:02/02/19 16:53


>純粋に戦術で選ぶなら織田信長でしょうね

織田信長が戦上手かな?政略、戦略が上手いだけで秀吉はさらに大規模
に実行しただけ。







64 :日本@名無史さん:02/02/19 19:37


>56
桶狭間の戦いは天才の業です。
まぁ、完全に計算されたものと仮定すればですが。

敵主力を最小戦力で停滞させて、主力を率いて最小抵抗線に沿って
高速機動、敵中枢を撃破する。
リデル・ハートの教科書に載りそうな戦いかたです。

他の戦いも変な表現ですがキレが良いです。
中途半端な作戦を採らず、攻めるときは徹底的に攻撃する。
さらに逃げ足も速い(藁

マンシュタインなみの天才だと思います。






330 :日本@名無史さん:02/04/18 21:06


天才という称号がたぶんにパイオニアとしての名誉と似たものを指すなら、
信長しかいないだろう。
秀吉は小牧・長久手で信長方式の戦術を採用して見事に失敗してるしね。
政治的な弱味があったとは言え。





57 :日本@名無史さん:02/02/19 16:57


おまいら児玉源太郎以外に誰がおるんじゃ?



http://ja.wikipedia.org/wiki/児玉源太郎

児玉 源太郎は、日本の武士、陸軍軍人、政治家。
日露戦争において満州軍総参謀長を勤め、勝利に貢献した名将といわれている。

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6 :日本@名無史さん:02/02/19 22:32


いくさ天才の定義がむずかしい
影響範囲で追ってけば
日露戦争の山本権兵衛も勝てる海軍をつくったぞ
陸軍は山縣がバカやって大山、児玉らが尻拭い







90 :日本@名無史さん:02/02/19 23:00


>>86
だけど児玉は戦後満州の領土化を進め、ロシアや欧米との摩擦を招いて、
伊藤山縣などの元老から、かなり注意されている。
優秀な戦術家の上に戦略家ではあるけど、政略能力はないよ。
軍人としては優秀かもしれないが、戦国時代以前のような総合的な能力はないんじゃないかな?






91 :日本@名無史さん:02/02/19 23:13


軍政家としての児玉はどうなんだろう?
児玉があんなに早死にしなければ、
寺内陸相の長州閥人事・参謀本部弱体化はできなかっただろうけど。
児玉と寺内の仲の悪さは、明治天皇も心配するほどだったというからね。







80 :日本@名無史さん:02/02/19 21:54


1. 記紀から奈良時代・・神武天皇  
2. 平安鎌倉時代・・・・源義家、源義経、源為朝
3. 南北朝時代・・・・・楠正成
4. 戦国時代前半・・・・山中鹿之助
5. 戦国時代後半・・・・真田昌幸
6. 幕末明治大正昭和・・児玉源太郎

政略家は抜きにして、戦術、戦闘家でノミネートしてみました。







79 :日本@名無史さん:02/02/19 21:22


近代の局地戦レベルなら

“不敗の将軍”宮崎繁三郎中将でないかい?

ノモンハンでもインパール作戦でも、彼の部隊は戦闘で負けたことがない。



http://ja.wikipedia.org/wiki/宮崎繁三郎

宮崎繁三郎は、岐阜県出身の日本陸軍の軍人。
参謀本部、情報機関勤務が長かったものの、ノモンハン事件、インパール作戦など、日本軍が劣勢の戦場で常に戦功を挙げた事は知られており、日本陸軍屈指の野戦指揮官として名高い。戦略的に不利な状況下で戦うことが多く、華々しい「勝利」を得ることはなかったが、部隊を維持して粘り強く戦った。しかし、いずれの戦場でも限定的な部隊内での指揮権しか与えられておらず、その将器が存分に生かされることはなかった。

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123 :日本@名無史さん:02/02/23 18:07


近代日本の戦術家としては、オレも宮崎繁三郎に1票。
最前線の現場指揮官としては、大山、児玉より上かも。
負け戦の中で勝っているもの。






124 :日本@名無史さん:02/02/23 18:34


>>123
俺も「無敗の名将に」一票。
死に際の病床で夢の中でも指揮を執っていたそうな。







84 :日本@名無史さん:02/02/19 22:17


日露戦争の陸戦を事実上、勝利に導いた

黒木為禎ではないでしょうか。

世界戦史に残る、弓張嶺の師団夜襲・太子河の秘密渡河作戦。
このどちらかひとつを成功に導いただけでも、東郷平八郎に勝るとも劣らない。



http://ja.wikipedia.org/wiki/黒木為禎

黒木 為楨は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
第1軍司令官となり、翌月、日露戦争開戦に伴い出征。鴨緑江から奉天会戦まで連戦し、ロシア軍からは、「クロキンスキー」と恐れられた。

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85 :日本@名無史さん:02/02/19 22:28


>>84
おれも思ってたよ、黒木為禎、第一軍司令官。
野津や乃木なんかより…。

アドミラル東郷はすごいけど、スレタイトルの「いくさの天才」としてはどうかな






105 :日本@名無史さん:02/02/21 23:07


山本五十六に一票。

勝利数、作戦の立案能力に関しては名将は数多いが、
相当危険なリスクを冒してまで真珠湾作戦を主張・遂行し、
その賭けに勝った、この一点を買いたい。



http://ja.wikipedia.org/wiki/山本五十六

山本 五十六は、新潟県出身の大日本帝国海軍の軍人。26、27代連合艦隊司令長官。
ソロモン戦線で米軍の攻撃によって戦死するまで太平洋戦争(大東亜戦争)前半の日本海軍の攻勢作戦、中でも真珠湾攻撃とミッドウェー海戦での総指揮に当たったことから海外でも太平洋戦争の日本を代表する提督として広く知られる。

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190 :日本@名無史さん:02/03/21 06:30


つか、昔の人間がどう立ちまわっても
近代史の人間には勝てないだろ
ってことで、五十六に決定







729 :日本@各蕪央さん:02/05/02 22:58


新戦法と言えば
火力の集中使用とプロダクションシステムによる鉄砲の量産化(全ヨーロッパの
生産数より多かった)を始めた織田信長

航空作戦を海戦の主役にした山本五十六

この辺が世界の戦争を変えたといえる人物ですかね






731 :日本@名無史さん:02/05/03 16:51


>航空作戦を海戦の主役にした山本五十六
航空優位思想はハワイの前々から帝国海軍内の一部に盛り上がってきてたんだよね。
もちろん五十六もその一人なんだけど。
海戦の主役にしたって言うよりは、ハワイとマレーでさんざん叩かれて米英首脳部が目覚めた、と言うべきだろう。








120 :日本@名無史さん:02/02/23 17:00


バカヤローども戦国最強は毛利元就



http://ja.wikipedia.org/wiki/毛利元就

毛利 元就は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主・戦国大名。
安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大、
中国地方の覇者となり「謀神」「謀将」とも評されるが、「知将」の呼び名の方が高く、「戦国最高の知将」と後世評される。
用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。

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765 :戯言:02/05/13 03:24


意表をついて毛利元就
桶狭間の信長・・・今川がたまたま桶狭間に来ただけ=運がいい
厳島合戦・・・一年に及ぶ謀略で陶を厳島におびき寄せる
同じ奇襲を以って少数で大勢を破る結果でも内容はウンデンの差。
それに超弱小国から超有力大名に出世し、幕末、さらには明治まで続いた
大名は毛利だけ。その元を作った元就は天才。
戦だけでなく戦略、政略、謀略、調略、日常生活、何を取っても完璧。
ただ先を見る目なし・・・四国、九州じゃなくて近畿を目指してれば・・・





772 :日本@名無史さん:02/05/21 23:20


>>765
元就いいね、所謂戦国大名の中では一番凄いと思う
1万石前後の領主からスタートして中国地方の覇者となる






163 :日本@名無史さん:02/03/20 17:52


河井継之助

一回とられた城を再び取り戻している。
再落城の際はすでに戦線離脱後であり彼の責任ではない。



http://ja.wikipedia.org/wiki/河井継之助

河井 継之助は、江戸時代末期(幕末)の武士。
継之助の開戦時の序列は家老上席、軍事総督。但し先法御三家は筋目(家柄)により継之助の命令・支配を受ける謂われはなかったので、藩主の本陣に近侍してこれを守ったため後方にあり、1人の戦傷者も出さなかったと云われる。
継之助の長岡慶応改革によっても、先法御三家の組織上・軍制上の特権を壊せたとする史料は存在しない。長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により当初新政府軍の大軍と互角に戦った。しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、5月19日(7月8日)に長岡城を奪われた。
その後6月2日(7月21日)、今町の戦いを制して逆襲に転じる。7月24日(9月10日)夕刻、敵の意表をつく八丁沖渡沼作戦を実施し、翌日(9月11日)に長岡城を辛くも奪還する。これは軍事史に残る快挙であり、石原莞爾の陸軍大学校における卒業論文は河井の戦術を研究したものであった。

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193 :日本@名無史さん:02/03/24 11:02


実戦経験なしで戊辰戦争最大の激戦を引き起こした河井継之助は天才だろう。







194 :日本@名無史さん:02/03/24 11:11


山本五十六や石原莞爾は河井継之助の影響をうけている。






186 :日本@名無史さん:02/03/21 02:20


実績で言えば秋山真之



http://ja.wikipedia.org/wiki/秋山真之

秋山 真之は、大日本帝国海軍の軍人。
明治19年海軍兵学校に入学し、首席で卒業。
明治37年に始まった日露戦争では、作戦主任参謀をつとめ、東郷平八郎率いる連合艦隊の作戦を実質的に一人で立案した。

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204 :日本@名無史さん:02/03/24 21:05


剥げしく同意。

とくに秋山真之の存在は、日本の運命すら変えたからな・・。







210 :日本@名無史さん:02/03/25 02:07


秋山真之ってさ、日本海海戦の後年、海軍大学の講義で「制海権」という概念を
真っ向否定して、敵の海上兵力を撃破することこそが海軍の究極無二の目的である
見たいな事言い出しちゃって、しかも言われた学生達が希代の名軍師の一言に
揃って無批判に納得しちゃったもんだから、後々日本海軍は「商船を沈めるなどは刀の穢れ」
みたいな風潮が出来上がっちゃた、という見方がある。
ここら辺が、秋山の戦略家としての限界だったんじゃない?
尤もあの当時の連合艦隊の司令部で、後々艦隊決戦主義なんて歪な発想に囚われなかったのは
人材は加藤友三郎ぐらいだと思うから、結局皆あの大勝利に酔いしれちゃったんだろうね。







460 :日本@名無史さん:02/04/20 23:43


おい、立花宗茂を忘れるな!



http://ja.wikipedia.org/wiki/立花宗茂

立花 宗茂は安土桃山時代の武将。関ヶ原で改易後、大名として旧領に復帰した唯一の武将である。

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306 :日本@名無史さん:02/04/16 20:46


立花宗茂ってどの程度の兵を率いて戦ってたの
信玄(初陣)、信長(稲生)、秀吉は数百人から数万人を率い
地利に疎い遠征(真田なんかも大坂以外は地元)でも戦果を挙げてたわけで
同列で扱えるほどの人物ですか?
立花宗茂なら佐竹義重(戦略的には政宗以下)のほうが上じゃない






313 :他スレのレスで悪いが立花宗茂の戦績:02/04/17 20:21


745 :輝かしい戦歴 立花宗茂 :02/04/09 22:37
立花宗茂の戦績は見事の一言。

1 九州三国志 とくに、実父紹運の岩屋城篭城戦後、宗茂の三城奪回
2 1に対し、鎮西の一物と秀吉から激賞される。
3 九州平定、小田原城攻め、肥後の一向一揆鎮圧に目覚しい功績を挙げる。
4 朝鮮の役にて明の大軍を撃退、また加藤清正らを救出。
5 秀吉に激賞され、西の立花、東の本多と、西国一の武将と褒め称える。
  徳川家康を呼び、本多と立花を面会させる。
6 関ヶ原合戦では、西軍に属し、大津城攻め。西軍最強の部隊と言われ、
  大津城を落城させる。
7 関ヶ原敗戦後、大坂城にて再起を毛利輝元に促すも開城と決まり、柳川へ。
  途中、落ち武者となった島津義弘と一緒になるが大友の宿敵を討とうと進言する部下に対し、
  勇将のすることではなし、と島津と心を合わせて九州へ帰る。
8 東軍へ寝返った鍋島勢と合戦。柳川篭城となるも、加藤清正らの説得で開城。
9 加藤清正の庇護を受けたあと、浪人の身で江戸へ。家臣がやくざにからまれて
  やくざ3人を1人で斬ったことから将軍秀忠の知るところとなり、本多忠勝の
  熱心な運動もあって、旗本に取り立てられる。後、1万石の大名へ。
10 大阪の陣で秀忠の軍事顧問の役割を果たし、秀忠の危機をも救う。
11 西軍について改易された大名の中で、唯一、旧領復帰柳川藩主となる。
12 島原の合戦にも参加。家光からさすがは立左と激賞される。







451 :日本@名無史さん:02/04/20 22:00


うーん。ひととおり読んだよー。

立花宗茂。強かったらしいねえ。
敵からも激賞されるさわやかさ。

織田信長。確かに天才的だねえ。
負けたときは、あっさり遁走す
るのもすばらしい。

秋山好古少将。いいねえ。部下
は負ける気がしなかったろうな。

一戸兵衛少将もいくさ上手だっ
たのでは?

で、結局、立花宗茂に一票。彼
が関が原の主戦場に現れていた
らどんなことになっていただろ
う。






65 :日本@名無史さん:02/02/19 19:38


軍師系(黒田官兵衛等)はダメなの


http://ja.wikipedia.org/wiki/黒田官兵衛

黒田 孝高は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。

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757 :日本@名無史さん:02/05/06 17:47


臨機応変の戦術なら黒田如水!!






896 :誰:02/07/04 02:42


黒田官兵衛
手すきとは言え浪人八千の烏合の衆をまとめあげ、九州をほぼ制圧したのには頭が下がる。
しかし、関が原が膠着していれば、島津、鍋島を先鋒に出せば、西軍の島津は戦意なさげなので寝返る公算は大きく、
家康は時間を置いた事で元豊臣の連中の戦意も失せてくる可能性が出てくる。
毛利は分裂して動けず、小早川は当主がアレだし、北の押さえの伊達も上杉と和睦して南下の恐れもある。
歴史にifはないだろうが、随分世は乱れていたかもしれない。


名将たちの伝説的戦術
「まさか! 」の発想・名将の計略
心が熱くなる名将の言葉

元スレ:http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1013954592/





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