女「記憶を消しにきた?」
- 1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/06/06(木) 20:27:43.42 ID:NAVkdsmh0
ピンポーン
…………
ピンポーン
ガチャ
黒服「あ」
女「え」
黒服「…………」
女「…………」
黒服「……いや、その、悪い。まさか着替え中だとは思わなくてな」
女「…………」
黒服「そんな怪訝そうな顔しないでくれ。怪しいやつに見えるだろう? その通り怪しい者だ。でも怪しいだけで、悪い人間じゃあない」
女「…………」
黒服「だからまあ、話だけでもいいから聞いてくれねえか? 俺だってなにも、好きで風呂上りのひと時を邪魔したわけじゃないんだ。話せばわかるはずだ」
女「…………とりあえず、ドアを閉めていただけますか? 着替えの途中ですので」
黒服「……ああ、そいつは悪かった」
- 3:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/06/06(木) 20:29:01.84 ID:NAVkdsmh0
五分後
黒服「悪いな茶まで出してもらって。いきなり押し掛けたってのに」
女「いえ、これくらいなんでもありませんから」
黒服「しかし俺が言うのもなんだが、近ごろの若い女ってのはみんなあんたみたいな具合なのか?」
女「あんたみたい、と言いますと」
黒服「突然訪ねてきた目的も得体もしれない男を、ほいほい一人暮らしの部屋に上げるのかってことさ」
女「さあ、どうなんでしょう」
黒服「堅苦しい喋り方するな、あんた。やめてくれよ敬語なんて」
女「年上の方とお見受けしましたので」
黒服「そりゃ大学生のあんたからすれば俺なんてもうおっさんに見えるかもしれないけどな、でも自分ではまだまだ若いつもりなんだ。
良い年頃の娘さんに下手に出られるっていうのが、実は結構心にくるんだよ。頼むから、もうちょい気安く接してくれねえか?」
女「はあ。そういうことなら」
- 4:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/06/06(木) 20:30:47.20 ID:NAVkdsmh0
黒服「一つ聞いてもいいかい?」
女「どうぞ……じゃなくて、えっと、いいよ」
黒服「嬢ちゃん、ヤクザ者の情婦かなにかか?」
女「どういう意味?」
黒服「肝が据わってるってことさ。俺はこの仕事結構長いんだがな、大体俺がこんな風に押し掛けると、普通の人間はもっと取り乱すもんだよ」
女「でも悪い人ではないって言ってたし」
黒服「えらく素直だな嬢ちゃん。悪い人は自分のことを『悪い人です』なんて言ってくれねえぞ」
女「そうなの?」
黒服「自分のことを『悪い人です』なんていうやつは、大体いい人間だな」
女「じゃああなたはほんとは悪い人なの?」
黒服「どう見える?」
女「いい人に見える」
黒服「そうかそうか。なんかあんたと話してると、どうにも調子が狂うよ」
- 5:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/06/06(木) 20:32:42.39 ID:NAVkdsmh0
黒服「本題に入ろう。俺はな、あんたの記憶を消しにきたんだよ」
女「……どうして?」
黒服「どうしてだろうな。自分の胸に手をあてて考えてみな」
女「…………」
黒服「本当に胸に手を当てるやつは初めて見たな」
女「特に心当たりがない」
黒服「そうか、じゃあ俺が教えてやろう。あんた今日、工場に行ったろ」
女「工場?」
黒服「そう、工場だ。軍用通路抜けて、備品搬入口が開放されてるのをいいことにそこから内部に入っただろう」
女「…………あー」
黒服「そこであんたが目にしたものはな、大体八割くらいが『見ちゃいけないもの』だったんだよ」
女「なるほど」
黒服「状況は理解してもらえたかな」
女「なんとなく」
- 7:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/06/06(木) 20:34:26.35 ID:NAVkdsmh0
黒服「率直に聞くが、あんなところで何してた?」
女「なにって、散歩だよ」
黒服「散歩?」
女「そう、散歩。趣味なの」
黒服「散歩で軍用通路に入るか? 普通」
女「この先にはなにがあるのかなーって。わくわくした」
黒服「呑気なもんだな。あんた今、命があるだけかなり運がいいんだぞ」
女「そうなの?」
黒服「この辺に住む人間はな、関係者でもない限り、間違っても工場周辺には近づかない。こんな時代だからな。少しでもきな臭い場所に足を踏み入れれば即射殺される」
女「この国は法治国家だと思ってた」
黒服「法に従って射殺されるんだよ。有事緊急法や、軍の機密に関わる十七規則くらいは知ってるだろう?」
女「一応。大学生だから」
黒服「その頭があるなら、そもそもあの辺には近づかないんだよ。まともな地元住人は」
- 8:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/06/06(木) 20:36:06.69 ID:NAVkdsmh0
女「あたし、ヤクザの情婦じゃないよ」
黒服「だろうな。知ってるよ。そんな報告は受けてない」
女「報告?」
黒服「俺たちはある程度、あんたの素性を調べてる」
女「プライバシー…………」
黒服「すまんがそういうのは諦めてくれ」
女「裸も見られたことだしね」
黒服「……あれは事故だ。わざとじゃない」
女「ほんとに? 国家権力はあたしの裸に興味はなし?」
黒服「あれ? 俺、自分の素性明かしたか?」
女「明かしてないけど、あなた、国営組織の人でしょ? 軍がどうとか言ってるし」
黒服「いやまあそうなんだけどさ。なんだ、えらく察しがいいじゃないか」
女「もう大学生だからね」
黒服「大学生ってすごいんだな」
- 10:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/06/06(木) 20:37:51.99 ID:NAVkdsmh0
女「お茶、もっと飲む? おまんじゅう食べる?」
黒服「あ、すまん。長居して悪いな」
女「いいの。お客さんなんてめったにないから、ちょっと楽しいの」
黒服「あんたの記憶を消しにきた人間でもか?」
女「あたしの記憶を消しに来た人間でも。はい、これ」
黒服「ありがとう。なんだ、この茶、やけに美味いな」
女「わかる? 葉っぱがいいやつなの」
黒服「ほお。なんて言う茶なんだ?」
女「虫糞茶」
黒服「……ちゅうふんちゃ?」
女「うん。ツバキの葉っぱを発酵させるとね、その匂いにつられて化香蛾っていう蛾が集まってくるの。化香蛾はそこに卵を産む。
孵った幼虫はそのツバキの葉っぱを食べる。その幼虫が排泄した糞を原料にしているのが、この虫糞茶」
黒服「……なんつーか、聞かないほうが幸せなことってあるもんだな」
女「そう?」
- 11:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/06/06(木) 20:39:39.09 ID:NAVkdsmh0
女「晩御飯もこれから作るの。食べていってよ」
黒服「ありがたい申し出だけどな。あんまり油売ってるわけにもな」
女「えー」
黒服「いや、これでも仕事中なんだよ」
女「ゆっくりお茶飲んでるくせに」
黒服「民間企業の営業と一緒だな。適度にサボらないとやってられん」
女「営業車のなかで昼寝したり?」
黒服「そういう感じだ。それでまあ、あんたの記憶を消すためにだな、その営業車に乗って同行して欲しいんだが」
女「ここで消せないの? 記憶」
黒服「人間の記憶いじるってのはそうそう簡単じゃなくてな。しかるべき設備を以って時間をかけなきゃならん」
女「でも、ほら良く聞く都市伝説のメンインブラックなんかは、銃みたいなのでターゲットの頭をパーンって」
黒服「そりゃフィクションだからな。そんな風に簡単に仕事できるようになりゃ、こっちとしても楽なのにな」
女「いろいろ大変なんだね」
黒服「ねぎらってくれてありがとよ」
- 12:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/06/06(木) 20:41:24.94 ID:NAVkdsmh0
女「記憶って、どの程度消えるの?」
黒服「どういう意味だ?」
女「工場の中で見たものの記憶だけ、都合よく消えてくれるものなの?」
黒服「ああ、いや、そういうわけじゃない。そんなに融通が利くもんじゃないんだ」
女「具体的にはどういう記憶が消えるの?」
黒服「どういう、っていうかな。48時間ぶんの記憶を遡行してまるごと消すんだ」
女「まるごと? まるごと消しちゃったら、なんか不自然な状態にならない?」
黒服「そりゃ、部分選択的に記憶消去できたらこっちとしても都合がいいんだけどな。でも現代の科学はそこまで追いついちゃないんだ」
女「もっとがんばればいいのに」
黒服「これでも精一杯がんばってるんだよ。技術部の人間なんか、宇宙人の使ってる得体もしれない兵器の再現に躍起だ」
女「科学は日々、日進月歩だなあ」
黒服「まあ俺に言わせりゃ、今うちでやってる研究なんかオーバーテクノロジーもいいとこだけどな」
女「そうなの?」
黒服「あんなのどう控えめに見積もったって、今の人類の手で制御できる代物じゃないからな」
女「なんか無責任だなあ」
- 13:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/06/06(木) 20:43:17.01 ID:NAVkdsmh0
黒服「そんなわけで、そろそろいいか? 一緒に来てもらっても」
女「うーん……いいですよって言ってあげたいんだけどね」
黒服「なんだ。意外だな。随分と物わかりの良さそうなやつに当たったから、今日こそは残業なしだと思ったんだがな」
女「だって、48時間ぶん過去の記憶が消えるんでしょ?」
黒服「ああ。なにか都合が悪いのか?」
女「今日のお昼頃、課題が出たんだよね」
黒服「課題? 大学のか?」
女「うん。すっごく大事なやつ。未提出即留年決定なやつ」
黒服「シビアだな」
女「そう、シビアなの。あの教授、はげてるくせにシビアなの」
黒服「はげは関係ないだろうに。かわいそうに」
女「そんなわけで、ちょっと待ってほしいんだよね。記憶消すの」
黒服「課題くらいどっかにメモっておけよ」
女「だめ。そんなの不安。メモのことも忘れちゃうだろうし」
- 14:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/06/06(木) 20:45:32.97 ID:NAVkdsmh0
黒服「待つってつまり、課題出された記憶が、過去48時間にかからないようになるまでってことか?」
女「うん。ええと確かあれは二限の終わりだったから、今日の13時ごろだったかな」
黒服「そこから48時間後……明後日の13時までってことか」
女「今大体20時だから、あと41時間くらいだね」
黒服「悠長な話だな……待ってもらえると思うのか?」
女「だめ? あたしが工場あたりを散歩してたのが16時ごろだから、極端な話、あなたは明後日の16時までにあたしの記憶を消せればいいわけでしょ?」
黒服「二、三時間なら考えたがな。二日ってのは長すぎだ」
女「交渉決裂かあ」
黒服「そうだな。さ、一緒に来てくれ」
女「いや」
黒服「頼む。手荒な真似はしたくない」
女「あたしに指一本でも触れたら、舌噛み切って死んでやる」
黒服「…………人はそんなに簡単に舌を噛み切れないぞ」
女「じゃあそこの収納に入ってる包丁で自殺する」
- 15:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/06/06(木) 20:47:27.26 ID:NAVkdsmh0
黒服「どっちにしても脅しになってないな。嬢ちゃんが自分で死んでくれるなら口封じの手間が省けてありがたいくらいだ」
女「ふうん。そうなの? それじゃああたし死んじゃうよ?」
黒服「勝手にしろ」
女「…………」
黒服「…………」
女「…………」
黒服「………………待て、降参だ」
女「………ふふふ」
黒服「お前、気づいてるな? 俺たちがお前を殺せないってこと」
コメント一覧
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- 2014年02月18日 19:32
- 1ゲッター
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- 2014年02月18日 19:34
- なんとも…
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- 2014年02月18日 19:38
- 良い切なさだ
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- 2014年02月18日 19:48
- まち時間40時間もあるなら課題出来たんじゃ…
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- 2014年02月18日 20:03
- 課題なんてどうでもいいと……
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- 2014年02月18日 20:06
- さっきの工場バイトと同じ人か
面白いね、もっと読みたいぜ
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- 2014年02月18日 20:17
- 課題自体が離れたくない口実だもの
結局事実でも人寂しい女と物語には影響しないでしょ
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- 2014年02月18日 20:52
- 黒服も辛かったのかねぇ
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- 2014年02月18日 21:31
- これも面白い
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- 2014年02月18日 22:04
- おやすみなさい
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- 2014年02月18日 22:25
- 時給2800円の続き的なやつかな?
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- 2014年02月18日 22:27
- こうやって人はわすれていくんですね
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- 2014年02月18日 22:28
- 独り言言ってんだよね、最後。黒服と会う前、こんだけ声出せてたのかな。
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- 2014年02月18日 22:31
- なんだろこの世界観
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