ルーマニア人のキブは地元のクラブCSMレシツァでプロデビュー、同国のウニヴェルシタテア・クライオヴァを経て18歳6ヶ月でオランダの名門アヤックスへと移籍した。
この頃のアヤックスには、のちにインテルでもチームメイトとなるズラタン・イブラヒモビッチ、ウェズレイ・スナイデルといった超一流選手たちが在籍していた。
3シーズンで100試合以上に出場しアヤックスの中核となる。
19歳の時に挑んだEURO2000では「マルディーニの再来」とまで言われた。
子供の頃からマルディーニがキヴのヒーローであり「マルディーニにはお父さんがついていた。ボクには誰もついてないけど、もっと良い選手になるんだ」と抱負を語ったことがある。キヴは1998年に父親をガンで亡くしている。
21歳にしてルーマニア代表のキャプテンに任命される。
それらの活躍が認められ 2003年にアヤックスからローマへ1800万ユーロで移籍。
ローマではメクセス、カッサーノ、トッティらと2003-07シーズンを共にする。
嫁が美しい。
フリーキックが非常に上手く、ローマ時代には光る左足でのプレーをクリスタルの輝きに喩えられ「スワロフスキー」とファンから呼ばれた。
波があるものの得点を重ね活躍を見せていった。
そして2007年、インテルをはじめレアル・マドリードやバルセロナなど複数のクラブが獲得に興味を示したが、最終的にインテルが1300万ユーロと選手一名の共同保有権をローマに譲渡する事で獲得に成功する。
ジョゼ・モウリーニョがインテルの監督に就任すると 2008-10シーズンでセリエA2度、コパ・イタリア、欧州CLを制覇。2009年は3冠を達成し、世界最強のクラブとなる。
プレーが激しいため、試合中の大怪我を何度かした。
2010年にはキエーヴォ戦で頭蓋骨を負傷し、緊急手術が行われる。
これ以降、代名詞ともなるヘッドギアを付けてプレーするようになった。
2011年にはASバーリ戦でマルコ・ロッシをさり気なく殴り4試合の出場停止を科せられる。この出来事は世界中に報道された。
また、逸話としてコッパ・イタリア5回戦で交代枠を使い切っていたインテル側のゴールキーパーが負傷退場した際、「
おれは素晴らしいから。キーパーができる」と言ってGKを買って出たが、「センターバックに抜けられるのはきつい」と長友らチームメイトから説得され渋々辞退する。FWパラシオがその後キーパーを務めた。
この契約解消は、相互合意のものであり、キブはクラブの公式チャンネルで「これが人生だ。恨みはない。一つの旅が終わり、新しい人生が始まる。それを僕は受け入れている。言いたいことはたくさんあるよ。でも、この(インテルでの)7年間だけでなく、キャリアを振り返るときに、正しい言葉を見つけ出せないんだ。ただ、すべてに感謝している」と、コメントをしている。
ケガで現役生活に別れを告げることとなったキブは、「キャリアを通じて、何度もケガをしてきた。でも、その経験も自分を強くし、前進することができた。ケガは僕の人生の一部だし、僕のキャリアの一部なんだ。後悔は何もないし、誰も責めることもしない。これが運命なんだよ。それについて、僕は準備ができていたからね」と、話している。
「僕は頭を負傷してピッチに戻っていたから、『つま先のケガで引退するワケないよ』なんて冗談を飛ばしていたんだ。実際には単純につま先のケガだけではなく、もっと複雑なものだったのだけど、寂しいことに2年前の予感が正しかったことが分かったんだ」と言い、「でも、僕は常に全力でやってきた。心を込めてやってきたんだ」と目に涙を浮かべて、言葉をつまらせた。
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