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終戦まもなく。1950年代の日本がわかる貴重な写真(37枚) : カラパイア

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 1945年、第二次大戦の終結とともに日本は降伏した。米軍率いる連合軍が国土を占領し、日本の社会はすべてにおいて劇的に変化した。日本は非武装化・解体され、政治形態は民主主義へと変わり、経済や教育システムもたて直された。広島・長崎への原爆投下や、おびただしい数の空襲による破壊から立ち直るのに長年かかったが、1950年代までに、日本は戦時中の敵だった西側の同盟国となった。そしてアメリカ文化の一部が、日本の風景の一部となり、日本は家電メーカーとしての経済的基盤を見出し始めた。

 海外サイトが特集した、1950年代の日本がわかる写真を見ていくことにしよう。
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■1.
1958年10月30日、日米で大流行したフラフープブームにのる、浴衣姿の若い日本女性。
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■2.
1950年4月26日、戦争捕虜になっていた帰還兵たちを出迎える女性たち。元兵士たちは、抑留中に亡くなった戦友の遺灰を胸に抱えている。
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■3.
1950年3月25日、大阪で開催されたアメリカンフェアの様子。左:自由の女神のレプリカの下に座る着物姿の三人の女性たち。右:サウスダコダにあるラシュモア山の彫刻のレプリカ。アメリカの歴史を描いた展示の一部で、このフェアの見どころのひとつ。このフェアは、アメリカの歴史における重要な出来事と、それに続く科学、産業、農業における成長や効率の現行基準を示していた。
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■4.
1950年9月20日、韓国での戦闘任務のため、エンジンを加速して、日本の空軍基地から飛びたとうとしている米空軍B26爆撃機。この双発戦闘機は24時間ぶっ続けに飛んで、米軍の地上部隊をサポートした。
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■5.
1949年10月12日、伊勢半島の突端近くにある御木本幸吉の真珠養殖場で、真珠を注意深く仕分けする日本人女性。これら養殖真珠色は大きさ、形によって仕分けされる。
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■6.
1950年6月5日、生のモデルを使って新着水着を披露し、人々の注目を集める東京のデパート。雨にもかかわらず盛況で、モデルの女性たちも見物人もガラス越しに互いに見つめ合うアイデアが気に入ったようだ。
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■7.
1951年2月19日、大阪の孤児院の食堂の様子。ここでは毎日、160人の孤児が、米軍第27歩兵連隊ウルフハウンドが購入した食事を提供されていた。
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■8.
1951年1月25日、東京芝浦電気(東芝)で、現場を視察する職業訓練の専門家たち。機械が電球を送り、それを作業員が欠陥のあるなしで仕分けしている。
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■9.
1951年10月20日、アメリカのオールスターと日本の読売ジャイアンツの公開試合で、バットを構えるボストン・レッドソックスのドム・ディマジオ(ジョー・ディマジオの弟)。
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■10.
1951年8月3日、広島のこの上空で原爆が爆発して6年がたった。破壊された旧広島県産業奨励館(原爆ドーム)のそばの通りに建つ、爆風で負傷した吉川清の土産物屋。
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■11.
1952年8月27日、浜松駅での5分間の停車時間に、教官の指導のもとプラットフォームで3分間の柔軟体操をする乗客たち。東京から大阪まで列車旅の途中、長旅で疲れた体をほぐせるよう、ちょうど中間地点の駅で配慮された異例のサービス。
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■12.
1952年1月5日、東京にあるニコンのカメラ工場で、レンズを点検する人たち。
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■13.
1952年5月1日、東京繁華街でのメーデーの暴動で、警官に石を投げつける親共産主義者のデモ隊。警察側が催涙ガス、銃、警棒を使って暴動を鎮圧しようとしたため、双方とも多数の負傷者が出た。
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■14.
1952年5月1日、皇居近くで親共産主義者のデモ隊が追い払われた後、警官によって暴動現場から引きずり出される若者。顔の傷から血を流し、呆然としている。
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■15.
1953年3月24日、興安丸のデッキで自転車に乗って遊ぶ引き揚げ家族の子供たち。親たちは日本の舞鶴港に上陸しようと準備している。第二次大戦終結以来、取り残されていた中国から、最初の引き上げグループ2000人の男女と子供たちが興安丸に乗り込んだ。自転車は慈善団体からの贈り物で、中国を離れるときに船に乗せられたもの。
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■16.
1953年6月8日、戦艦大和最期の日を描くドキュメンタリー映画『戦艦大和』で使う、戦艦の模型を作る映画スタジオの職人。
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■17.
1953年6月8日、新東宝映画のスタジオプールでの『戦艦大和』の撮影風景。背景の空と水は左右の端で切れていて、手前にはカメラクルーがいる。
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■18.
1953年6月8日、『戦艦大和』のクライマックスシーンの撮影に向けて、大和の模型の大砲に砲弾を込めるスタジオクルーたち。
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■19.
1954年2月21日、テレビとアメリカのレスリングの試合という目新しいものを見ようと、東京の野外スクリーンの前に群がる巨大な群衆。アメリカ人レスラーと日本人の試合を日本のテレビが放映した。群衆はひしめきあいながら、まるでリングサイドにいるかのように歓声をあげたり、ヤジを飛ばしたりした。
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■20.
1954年2月21日、硫黄島ですっかり砂に覆われた海軍艦艇の残骸を解体する日本人作業員たち。戦後9年の空白を経て、やっと日本人が硫黄島に戻ってきたが、それは引き揚げ作業員としてということだった。
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■21.
1954年6月1日、東京の神宮球場で行われた早稲田大と慶応大の野球の試合で、スクールカラーで塗られた扇を手に観戦する観客たち。
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■22.
1955年3月26日、おびただしい数のフラッシュ電球でライトアップされた、東京中心部の新テレビ塔。東京都民に4月1日からテレビ放送が始まることをアピールした。この塔の近くのビルの上層階や屋上には、写真を撮るために多くの見物人が押し寄せた。
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■23.
1954年12月17日、首相官邸で新内閣の写真を撮る、45人のカメラマンたち。新聞社はあらゆる角度から写真を撮るため、各社3〜4人のカメラマンを配置した。
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■24.
1955年10月20日、北海道の救護所で任務に就く、新しく組織された自衛隊の女性看護師たち。アメリカの顧問団や外国の軍事監視員が見守る中、日本列島への仮想侵略者に対抗するための戦後初の軍事訓練が行われた。
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■25.
1955年8月5日、空から見た東京。近代的なビルが倒壊した瓦礫の傷痕をすっかり消し去り、浜町や深川地区を隅田川が穏やかに流れている。このあたりには卸売り市場や倉庫が立ち並ぶ。
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■26.
1955年5月9日、ニューヨーク、ロングアイランドのミッチェル空軍基地で記者やカメラマンに囲まれる倉本美津子(左)とたけもとみえこら。10年前の広島の原爆の爆風で顔に傷を負った25人の日本人女性たちは、整形手術の奇跡で自分の顔を取り戻そうと、はるばる6700マイル離れたニューヨークまでやってきた。
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■27.
1957年5月1日、クリスマス島でのイギリスの水爆実験計画に抗議して、巨大なきのこ雲のレプリカを運んで東京の町をデモをする人たち。
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■28.
1957年5月15日、東京郊外の富士演習場で演習中の日本の自衛隊志願者たち。アメリカ製の武器や米軍の戦車で武装し、16万の陸海空自衛隊の一部が日本の国土を守るために集中的に厳しい訓練を行った。
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■29.
1957年5月22日、自衛隊キャンプで銃剣の練習をする自衛官たち。木製のライフルを使い、剣道の面や胴をつけている。
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■30.
1958年5月11日、京都の仏陀像から行進する、50人のカラフルな装束の僧たち。連合国側の戦没者を追悼すると共に、仏陀は戦争で亡くなった100万人以上の日本人に捧げられた。
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■31.
1958年8月19日、東京のデパートに展示された宇宙世界を食い入るように見る子供たち。月面にロケットが着陸したり、奇妙な格好をした人たちが歩き回ったり、衛星が月のまわりを回るのを見ることができた。
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■32.
1958年7月11日、東京の国際劇場で演じる“夏の踊り”の新しいナンバーのリハーサルをする松竹歌劇団のメンバー。
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■33.
1958年2月18日、日劇シアターで女性ファンの歓声の中、ギターを弾きながら歌う、エルヴィス・プレスリースタイルのシンガー、ミッキー・カーティス。日本は空前のロックンロールブームだった。
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■34.
1959年の東京のデパートの店内。エイブラハム・リンカーンのポスターを見上げる着物に下駄姿の男性。
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■35.
1959年7月7日、ドラマ『スーパーマン』の俳優ジョージ・リーヴスの演技を見ながら、日本語の吹き替えをする声優の大平透。戦後、テレビは日本人に強い印象を与えた。日本のテレビドラマのほとんどがアメリカのものだった。
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■36.
東京で、通勤電車に乗客を押し込む「押し屋」として雇われた大学生たち。
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■37.
1960年1月5日、ソニーが大量生産した新しいポータブルテレビを車の中で楽しむ女性。8インチのスクリーン、バッテリーは3時間もち、戸外でテレビを観ることができた。
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via:theatlantic・原文翻訳:konohazuku

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コメント

1

1. 匿名処理班

  • 2014年04月02日 20:38
  • ID:z8kFdkUm0 #

最後のテレビ知らなかった!すごいなー

2

2. 匿名処理班

  • 2014年04月02日 20:42
  • ID:YE4oWK9f0 #

特に最後に衝撃を受けた…
50年以上前に持ち運びできるテレビがあったなんて!

3

3. 匿名処理班

  • 2014年04月02日 20:46
  • ID:wyXQuQDP0 #

うちのオカンが生まれたくらいの年か
戦後すぐは激動の年だろうな

4

4. 匿名処理班

  • 2014年04月02日 20:50
  • ID:weEf7WA10 #

地味にポータブルテレビが凄い
お幾らくらいしたんだろうか・・

5

5. 匿名処理班

  • 2014年04月02日 20:51
  • ID:YYNd.vkx0 #

俺が小さい頃(昭和50年代)は、新宿のアルタ横のガードの下に、
手足がない傷痍軍人がアコーディオンやハーモニカを吹いていたな。
幼い頃のトラウマになっているが、靖国以外でもお国のために戦争で負傷した
元軍人さんにも感謝している。

6

6. 匿名処理班

  • 2014年04月02日 21:00
  • ID:mBBb7I7a0 #

喪黒福造のあの人はまだ生きているんだぞ。
凄いことだ。時間軸が合わない感覚になる。

7

7. 匿名処理班

  • 2014年04月02日 21:17
  • ID:.eMJrV.v0 #

じいちゃん達はこんな時代の中で日本を復興させたんだよなあ…

8

8. 匿名処理班

  • 2014年04月02日 21:18
  • ID:Nwkrm4Ck0 #

8の東京芝浦電気の当時入社案内パンフあるけど
手でせっせやる写真が印象的だった

9

9. 匿名処理班

  • 2014年04月02日 21:33
  • ID:..ukrCCy0 #

>政治形態は民主主義へと変わり
いやあの、戦前も民主主義でしたよ…w
勘違いしてる人多いんだけどね。

10

10. 匿名処理班

  • 2014年04月02日 21:33
  • ID:QkkvQVF60 #

興安丸って俺のじーちゃんがシベリアから引き揚げる時に乗ってた船だ

11

11. 匿名処理班

  • 2014年04月02日 22:02
  • ID:YQ2sbW3z0 #

とても貴重な写真でした。

12

12.

  • 2014年04月02日 22:21
  • ID:iTzEA2KG0 #
13

13.

  • 2014年04月02日 22:38
  • ID:Klsgk2JG0 #
14

14.

  • 2014年04月02日 22:44
  • ID:tkmaiqD80 #
15

15.

  • 2014年04月02日 22:45
  • ID:KuCAK0fU0 #
16

16.

  • 2014年04月02日 22:56
  • ID:7Vcyvuvm0 #
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