<どんなジャンルにも必ずいる古参> どんなジャンルにも必ず古参ってのがいて、彼らは必ずといっていいほど、昔の映画は良かった、昔のプロ野球は良かった、昔のネットは良かったと、
「昔のほうが良かった」が口ぐせだ。
なぜ彼らは口を開くたびに「昔のほうが良かった」と言うのだろうか。
それを言ったら何か良くなるの? だから何なんだ? 若い世代はきっとそう思っているだろう。しかし、その理由はまったく簡単だ。その答えは
“彼らにとっては本当に昔のほうが良かったから”である。
実際にどうか、現状はどうか、そんなことは関係ない。良いか悪いかって話は個人的な
好みの問題だからね。
つまり、そいつがそう思ってるならそうなんじゃねーの?ってこと。
※古い任天堂の看板 by サミゾチカラ琺瑯看板研究所 と、ここで終わったらコラムにならないので、もう一歩踏み込んで考えてみよう。つまり、なぜ古参は
“昔のほうが良かった”と思ってしまうのかという問題についてだ。
<ファミコン時代のゲームは“不便”だった> たとえばファミコン時代からの古参ゲーマーが「ファミコンのほうが面白かった」と言ったとする。本人がそう思っているんだから、これは事実なんだろう。
しかしファミコンに対する一般的なイメージは以下のようなものじゃないだろうか。
・最初に何をしていいのかわからないゲームが多い。 ・はじまった瞬間、死んでしまう即死ゲームが多い。 ・しかも1機で終わり、コンティニュもないゲームすらある。 ・使わないと効果がわからないアイテムが多い。 ・使っても効果がわからないアイテムも多い。 ・うっかり捨てると詰んでしまうアイテムすらあった。 ・ノーヒントでは絶対にわからないような謎解きが多い。 ・攻略情報は友達や、攻略本から入手するしかなかった。 |
などなど、枚挙にいとまがない。
ようするに
ファミコン時代のゲームは非常に“不便”だったのだ。今では普通にできることも、本当に、バカみたいに手間がかかった。でもその不便さが、実は、重要な鍵を握っていたりする。
<もしも修学旅行が“現地集合”だったら!?> たとえばこんな話
※1がある。
その学校の修学旅行の行き先は「石垣島」だった。石垣島といえば沖縄本島から400km以上離れている果ての地だ。まあ、ここまではありえるかもしれない。でも、その修学旅行は
“現地集合”だったのだ。
たぶん「つまらん冗談だ」と思ったひともいただろう。しかし学生たちは、親に聞くなり、本を読むなりして、必死に石垣島までの行きかたを調べ、飛行機あるいは船のチケットを自分で手配し、不安に押しつぶされそうになりながらも、やっとの思いで現地にたどり着いたのだった。
提供:石垣島周辺.COM そうするとどうなるか。面白いことに、学生たちは
石垣島に着いた時点で感動がMAXになるのだ。ある者は「怖かった」と肩をふるわせ涙した。ある者は「着いたぞ」とはしゃぎ回った。修学旅行の目的が、その名が示す通り“学を修めること”なら、彼らはもう帰ってもいい。
なぜなら、この島に自力でたどり着いた時点で、すでに、彼らは様々な社会勉強ができたはずだからである。(さすがに親に送ってもらったやつはいなかっただろう……)
ともかく、学生たちはまるで戦場をくぐり抜けて来たかのように喜び合った。要するに
“不便”はひとの感動のハードルを下げるのである。
<だから古参の言うことは話にならない> ファミコンも同じで、たまになかなか、つかないことがあるよね。カセットをちょっとずらしてもつかない。息をフーフーしてもつかない。何度も何度もトライして、ふいにピコンって画面がついたとき、すごく感動しないか?
まだゲームすらやってない。画面がついただけなのに思わず「おおー」ってなる。そんなにハードル下がってちゃあ「昔のほうが良かった」に決まってるよね(笑)
つまり古参にとってみれば、あらゆることが不便だったからこそ、うまくいったとき
それがどんなに些細なことでもいちいち感動できたというわけ。
そして、そのようなゲーム体験を重ねた結果、そいつの中で
「昔のゲームのほうが感動できた=昔のゲームのほうが面白かった」という図式が成り立っていったのである。
したがって「昔のほうが良かった」からって、今のゲームがつまらないというのは、まったくの別問題だ。そりゃあ、いつまで経っても話にならねえわ……
※1 このエピソードは私オロチがとある方から聞いた話をアレンジいたもので、はっきり言うとフィクションですので、細かいツッコミとかは無しです(笑)
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