今から約40年後まで起こることを列挙する
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4752605.html
昭和


19: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/04/30(水) 17:59:30 ID:sotQumfFO
村で殺人あっても恥だから警察沙汰にはしなかったらしい



21: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/01(木) 13:47:16 ID:Nu2OUqlX0
10年前に89才で亡くなった婆さんの実家は
平坦な集落の中にあったので、早くから電気と上水道が引かれていて
結婚式の日に、自分の嫁ぎ先がまだランプと井戸と知って、
先が思いやられて、悲しい結婚式だったと言ってた。
当然ランプのホヤ掃除なんて知らなくて、井戸の水汲みの経験もなくて
新婚の頃は、姑さんにいつも怒られてたそうだ。
爺さんの家は、婆さんの実家から3kmぐらいしか離れていないんだけど
山の中なんだよね。



22: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/01(木) 21:43:18 ID:zZdFc2cRO
うちのばーちゃん今86歳だけど戦時中畑仕事していたら、
味方の飛行機が飛んで来たな~と思っていたら空襲警報がなったと同時に敵の爆撃機が頭上すれすれに飛んで来て、慌てて体一つが入るのがやっとの用水路に逃げたらしい、空襲警報は鳴るのが遅いし役立たずって言うてました。



24: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/02(金) 04:51:36 ID:cAzvVG5Z0
うちの婆ちゃん、戦前に18歳ぐらいで教員になったんだけど、
10㎞離れた山奥の小学校に毎日、徒歩で通勤していたそうな。

知り合いの爺さんは、季節によっては毎日、大八車に積んだ野菜を
自分一人で引っ張って、4,5時間かけて、青果市場まで持って行ってたんだと。
1日、8~10時間歩く生活って、想像できないなぁw。



25: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/02(金) 05:12:09 ID:Kv5nwzjVO
西南戦争の戦場だった田んぼでは当時の鉄砲の弾が今でもよく見つかるらしい



26: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/02(金) 07:48:05 ID:TgEUfn5lO
大正4年生まれの死んだばぁちゃんが言ってたけど
昔は日光に遠足に行くと、いろは坂は自力で歩いて登ったんだそうだ
でもその景色は格別だったって



27: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/02(金) 23:45:57 ID:cAzvVG5Z0
旅で歩くのと違って、毎日同じルートを見慣れた風景を見ながら長時間歩くと、
ランナーズハイじゃないけど、意識がぼぉ~とするときがあるんだって。

今日はどうしても、あの角を曲がった記憶がないけど、気づいたら、正しく曲がって、ちゃんと家に帰る方角に歩いていたとか。

なんか、キツネに化かされたとか言う話は、どうもそういうところから生まれたんじゃないかな。



28: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/03(土) 05:45:59 ID:qv9tA1ycO
18歳の時の話だ
入院中の祖母が夢に出てきた
何も言わずに俺を見て優しい顔で微笑んでた
そうしたら電話がかかってきた
電話に出る前から、これは祖母が亡くなった事を知らせる電話なんだとなぜか悟っていて、実際に電話に出てみたら本当にそうだった
ばあちゃんがお別れを言いに来てくれたのかなぁ

祖父母が亡くなった時に不思議な体験をした人います?



29: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/04(日) 00:49:04 ID:cbs2AoAo0
俺もあるよ。

昨年祖母が亡くなったんだけれど、祖母は信仰心の篤い人だった。
亡くなった日の前か後かは忘れてしまったが、
夜中寝ていて半分目が覚めた夢心地になって、
祖母と金色のお釈迦様が表れ、少しして消えると同時に、俺が生まれる時には既にいなかった
祖父の声で、「○○(祖母の名前)を連れて行くぞ。○○(母の名前)を頼んだぞ」
という声が聞こえた。

祖父の写真を持っているんだけど、辛い時に自分の内面をみつめると
祖父の声が聞こえるような感じがして、涙が出てくるんだ。会った事も無いのにね。
きっと俺の守護なんだと思う。



30: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/05(月) 18:25:41 ID:xtzTZMs/0
>>29
俺も車に轢かれたとき、歩道橋から死んだ祖父が心配そうにこっちを見ていた
のを感じたことあるな、9歳の時だったけど
怪我は奇跡的に捻挫だけですんだんだよな



32: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/07(水) 03:27:49 ID:7tj4mZ61O
実家で古い戸籍をとってきたみたいで明治10何年なんて物もあってびっくり。

うちは釜でご飯を炊いたとか、
道路から見えた不思議な洞穴の事をきいたりしたら、○○の防空豪とか、そのくらいかな。

戦争は召集だけで終わったとか、戦地にいったほうはあまり語らなかったな。思い出したくないよね。きっと。



34: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/10(土) 09:58:38 ID:y6thrh4Y0
>>32
子どものときには
「お年寄りから戦争の話を訊いてみましょう。貴重ですからね」
てな具合に勧められたりしたもんだけど、大人になって冷静に考えてみると
気軽に訊いていいようなことなのか迷うところな気がする。特に戦場体験とかは。



36: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/11(日) 01:24:33 ID:FoqRT2bzO
爺さんがマッカーサーに直訴した。

爺さんの友人はケネディの親族だか誰かを戦時中助けて大統領就任式に行ったらしい。

マッカーサーは案外良い人だったと言ってる。



38: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/15(木) 16:25:27 ID:EBTIbAx90
263 名前:風の谷の名無しさん@実況は実況板で 投稿日:2008/05/15(木) 15:52:49 ID:d5oFP78e
ある意味波乱の時代だよ。その前数百年続いてた平和が乱れた時だから。
実際、俺のひい爺さんは白虎隊討ちに出征してるし
(内心皆白虎隊に同情的で、わざとゆっくり会津に向かっていたら
 着く前に戦争終わったらしいがw)
内乱の時代だから。


これ、どこの藩の話だろ



40: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/15(木) 23:40:02 ID:zdVumCo10
薩長以外のほとんどの藩は、名目的には西軍に味方しても、
やる気なんて全くなかったよ。



41: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/16(金) 02:10:20 ID:IigIkryyO
鳥羽伏見の戦いの前夜に敵味方関係なく仲良くお風呂に入っていたという逸話が本に書いてあったぐらいだしね



45: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/21(水) 02:16:41 ID:4T0V8nPn0
目黒川の行人坂とぶつかるあたりのうなぎ屋さん(太鼓鰻)
昔は目黒川で取った鰻を出してたんですよだって。

そのころのあたりの映像が頭に浮かんで幸せな気分になった



47: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/22(木) 22:56:22 ID:5yBGjONd0
こういう昔情緒の話はいいね
綺麗な小川なんて今の時代じゃむしろファンタジーに近いw



46: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/22(木) 19:25:15 ID:X9xOz348O
北区王子を流れる石神井川(音無川)は幕末や明治の古写真にたまに登場するけど、当時は水が綺麗でこの川の水で入れたお茶が最高の贅沢と言われていたらしい
今ではコンクリートに覆われた汚い川だけどね
近くに吉宗の命で作られた飛鳥山や、名主の滝、近藤勇が処刑された地(板橋駅前)などもあります



50: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/24(土) 15:45:29 ID:89MTclzzO
太平洋戦争で海軍の整備兵として海に出ていた祖父(88)が
唯一してくれた戦争話

ある日甲板に出て海を見ていたら、自船に向かってくる魚雷発見
誰かに伝える間もなく「死ぬ!」と思った瞬間、
魚雷は船の下を通り抜けて遥か彼方へ消えて行ったそうだ

普段すごく気難しい祖父が「冗談のごたる(ような)話やろ」と笑ってたから実話だと思う

あと余談として
自分は嘉吉の乱で有名な家の直系(に近い傍流?)らしいが、どこまで本当なんだかw



51: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/25(日) 00:03:29 ID:vmbiAFdX0
おれの爺さんの親父が明治天皇の詩の先生だったらしい



52: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/25(日) 00:17:22 ID:YyPeMEZ+0
スレの要旨とはことなるかもしれないが

近所のおじさんのおじいさんの実話?


清水の次郎長の話だが、そのおじさんのじいさんは

清水の次郎長と地元のヤクザ者との決闘をみたことがあったらしい。

時は幕末、場所は安倍川の河原で次郎長も相手も腰が引けていて

見てる側が恥ずかしくなるよな罵り合いをして

結局切り合いもせずお互い捨て台詞を吐きながら去って行ったそうな。


おじさんのおじいさんは「大したこともねぇなー」と思ったらしい。

当方遠江国在住



53: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/25(日) 12:04:21 ID:4KP5Omfm0
本に書いてあった話だけど、戦前にヤクザ同士が日本刀で喧嘩を始めそうになった
しかしお互いにらみ合ったまま一歩も動けずに「もう止めよう」って話になって結局斬り合いにはならなかったそうだ



54: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/26(月) 00:36:46 ID:kZiIVpJB0
らしいね。でもサムライの斬りあいはお互いにすれ違うともう相手が
倒れているって斬り合いを見た人の話が残ってるね。

やくざもんの間では「サムライとは斬りあいするな」って言葉があったらしいから。
へたれサムライでもモノ心付いたころから刀もたされて型やってるんで喧嘩剣法じゃ
勝てないって意味だったらしい



57: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/28(水) 00:03:11 ID:eAF/qsn+0
真剣での切りあい喧嘩は明治末期にはまだあったらしい。
侍の子孫なんかは果し合いみたいな真似してたって。刀はせいぜい2,3回打ち合う程度で
決着がついたって



59: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/28(水) 05:15:21 ID:mxYZjFHD0
うちの死んだじいちゃんは大酒のみで近所でも有名だった
田畑と酒を交換したという逸話があるぐらい

そんなじいちゃんが戦争で満州へ行った時の事
じいちゃんは仕事しないで酒ばっかり飲んでたらしい
銃弾の降りしきる中でもニコニコしながら酒飲んでたらしい
んで、日本が負けた時、中国人が日本兵に復讐を始めたらしいんだが
戦争中日本兵にひどいことされた彼らの恨みは凄まじく、日本人はかなりむごい目にあったそうな
そんな中じいちゃんだけは
「お前は戦争中も優しかった、私達に何もしなかった」って見逃されたんだと
ただ酒飲んでただけだろ~wって感じだが、ここで死んでたら俺もいないんだし
大酒のみに感謝だな

この話をしてくれたのは、当時日本語の通訳をしていた中国人のばあちゃんなんだが
婚約者がいたにもかかわらず日本兵のじいちゃんと恋に落ちて父ちゃんを産んだ
やっぱり差別とかいろいろ大変だったらしいが二人のラブラブっぷりは
孫から見てもすさまじかった
ちなみにじいちゃんは死ぬ前日まで毎日一升ぐらい飲んでた
倒れて、病院で「酒が飲みたいな~」って言葉を遺してぽっくり死んだ



61: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/28(水) 22:04:26 ID:9uG1+By80
御茶ノ水に河童がいたって明治生まれのじいちゃんが言っていたらしい



62: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/29(木) 18:46:47 ID:cN8L0rXD0
原爆投下からしばらく後の山陽本線復旧1番列車で広島を通過したらしいが、
遺体をまとめて油かけて焼く時の黒い煙がそこいらで上がっていたとか。



63: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/30(金) 02:27:00 ID:ZYugbjxzO
原爆や空襲を目の当たりにした人は地獄のような光景を見たんだろうなぁ



64: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/30(金) 03:06:44 ID:aO04DMIR0
>>63
阪神大震災も、十分に「地獄みたいな光景」だったよ。
東京や地方の人に詳しく説明しても、全く伝わらないけどね。
あればっかりは体験しないと判らない。
でも、ああいうの見ちゃうと人生観変っちゃうんだよね。
震災きっかけに興銀辞めて楽天を創業した三木谷みたいに
人生観変って成功したケースはまれで、
震災を期に脱サラして失敗した人が多いなあ。
時期も悪かったけど。スレ違いスマソ。



68: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/30(金) 23:52:33 ID:BDcI/sPX0
>>64
自分の母(昭和15生まれ)は、阪神大震災で焼け野原になった神戸長田の映像を見て
「(太平洋戦争時の)空襲を知ってるから、これ見ても驚かない」と言ってた。
体験しないと分からない、は確かかも。



71: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/31(土) 02:18:40 ID:6K/yKAz00
>>68
震災の避難所で、戦争経験のある年配の人達はみんな
「空襲より地震の方がキツイ」と言ってた。
空襲は、まず空襲警報が鳴って、防空頭巾被ってみんなで防空壕に避難して、
対空砲火やB29独特のエンジン音が聞こえてきて、
心の準備が出来てから爆弾がヒューと鳴りながら落ちてくるけど、
地震や余震は何の前触れもなく突然襲ってくるし、安全な場所もないしね。



67: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/30(金) 23:32:37 ID:7h7aHTK10
俺の爺さんでも婆さんでもないが、学校の年取った先生から聞いた話。
昭和二十年の終戦の日、
先生たちの集落の人は、人づてに負けたことを聞いた(山に住んでてラジオ聞けず)。
やけになった先生たちは「米軍に殺される前に腹いっぱい食うぞ!」と決めて、
近所のきれいな川に大量の山椒をぶちまけた。
川面には大量の魚が浮いてきたので残らず獲り、とっておきの酒も引っ張り出して、
これが最後のつもりで飲めや歌えの大宴会を行なった。
その後、思ってたよりはるかに穏健な支配体制が敷かれたのはよかったんだが、
近所の川では丸一年アユもアメゴもほとんど獲れなくなり、
酒も保存食料も残らず飲み食いしたんで大いに困ったそうだ。
日本駐留前の、人々のアメリカへの恐れがわかる話だな。



69: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/31(土) 00:09:38 ID:9bRXDByqO
明治初期までは磔の刑が行われてた
市中引き回した後に磔にし、三日晒した後にわき腹に槍を刺す
2~3回槍を刺せば絶命するのだが20回ほど槍を刺す
そして最後に喉を刺して死体を三日晒す

当時の人は打ち首とかはふつうに見てたけど、磔の処刑をする場面だけは見たがらなかったらしい
本にそう書いてあった



72: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/05/31(土) 17:51:18 ID:fvN8z0/l0
中国で戦ってきた祖父が、「チェコ機銃」の優秀さをよく称えてたな。
中国兵からの分捕り品だけど。
「日本のやつよりずっと丈夫で、機能もいいんだ。鉄がいいんだろうな」と言っていた。



75: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/01(日) 20:00:14 ID:LwbScPVc0
>>72
ZB26(チェコ・ブルーノ1926年式)軽機関銃な。
壊れにくく命中精度が高く価格は安く、大勢の日本兵がこれにやられた。
日本軍もチェコから買えばいいのに国産にこだわって、
火力で劣る上に、戦場では故障続出でまったく使い物にならず。
今の自衛隊も、特に機銃に関しては70年前と全く同じ状況で、
馬鹿高いのに粗悪ですぐ故障する国産品に、自衛隊員は戦々恐々。
守屋みたいのが兵器を選んでバックリベート貰ってるんだから、
当然そうなるけどね。



76: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/05(木) 03:01:26 ID:RRVXsuHv0
そんなに国産銃ってだめなの?



79: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/05(木) 17:01:52 ID:Qs9uIhBh0
>>76
陸自で30年以上も主力を務めた国産の62式機関銃が隊員泣かせの欠陥品として有名だったなあ。
故障が頻発したのに、抜本的な改善が最後までされなかったのは、
旧軍からの伝統なのか、自衛隊が戦闘を全く想定していないからなのか、
調達本部の役人がワイロ貰ってたからなのか、俺にもよく判らない。

今ではベルギーFN社のベストセラー機銃「MINIMI」のコピーに切り替えているが
例によってライセンス生産で、本物のMINIMIと違って、相変わらず故障が多い。
自動車や家電品と違って競争がないし、自衛隊員が「国産のMINIMIは欠陥品だ」と
マスコミに言ってしまうと、軍事機密を暴露した罪で軍法会議だから、改善される見込なし。
戦場で1丁の機関銃が故障したら、一個連隊が危機に瀕する事もよくあるんだが、
そういう危機感は日本の防衛省には全くない。そのへんの体質は旧軍とそっくり。



91: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/08(日) 15:54:06 ID:WuepYKKy0
俺の実家では、正月に近くの護国神社にお参りに行くんだが
参道でいつも戦傷軍人が物乞いしてたなあ。
ピーターパンのフック船長みたく、亡くした手に、?←こういう形の鉤をつけていた。
父親が彼らを見ると、厳しい顔をしてたのを思い出す。
86~87年頃までいた。バブル期にいなくなった。



93: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/08(日) 22:45:30 ID:e67BnEAq0
士族だったひいじいちゃんの家に伝わる話。
正月に近所の若い衆が餅つきするんだけどそれみて「あいつは人が斬れん」
とか「こいつは斬るな」とか言っていたらしい。腰と手の絞りが持ちつきと
剣術似てるとからしいけど。



95: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/09(月) 00:18:34 ID:/rr11WOH0
明治44年生まれの婆ちゃんの話
満州からの引き揚げのとき、ソ連兵に後ろから銃を突きつけられて脅され、
結婚式のときの着物を渡したら、両手でたぐるように巻き込んで持って行かれたらしい。
実家は酒屋でそこそこ裕福だったから、上等な着物だったのではないかと思われる。



97: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/10(火) 10:51:46 ID:TdI8Zmdh0
爺ちゃんから聞いた話。小中学校に配属将校がいて生活指導や教練やるらしい。
基本的に予備役の年寄り将校が来てたから、教練といっても大した事もなかった。
でも太平洋戦争が始まると現役バリバリの若い将校が赴任して来て、
「気合が足らん!」「なんだそのへっぴり腰は!」とか言って、
金属製の指揮棒でぶん殴られるから、もう死ぬかと思った。
指揮棒で殴られて意識を失う同級生が続出し、教練の時間はただ恐怖だけだった。
配属将校に酷い目にあった同級生のかなり多くが、戦後に共産主義に走ったのは、
気持は分かる、って言ってた。



105: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/10(火) 22:32:06 ID:PazKWA8H0
士族だったひいじいちゃんは手裏剣が上手で年取っても庭に来るスズメや
鳩を仕留めては家族に怒られていたらしい。手裏剣の下手な侍は修行に
出たときにひもじい思いをするってよく話していたらしい。



106: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/11(水) 04:13:45 ID:uKptGMt5O
雀や鳩を仕留めて家族に怒られてた曾爺様ワロスw
徳川慶喜も手裏剣の名人で隠居しても毎日、手裏剣の鍛錬を欠かさなかったそうだ



126: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/12(木) 22:35:37 ID:CpA7sreo0
もと海軍士官だった祖父が、戦後実家で百姓をしていると。
「新しい国軍ができるから、また乗らないか?」
と勧誘してきた人があったという。

祖父は断ったが、旧軍人の勧誘、かき集めなんて本当にあったんだな。



147: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/23(月) 00:43:05 ID:LQx6tOoiO
うちの婆ちゃん、今も健在でもうすぐ100歳だけど今はボケて話は聞けないけど昔聞いた話し。
チリか三陸津波か忘れたけど山に避難して山から海を見てたらしいんだけど、海の水が一気に引いていった光景が恐ろしく怖かったらしい。その後ものすごい波が来て町が飲み込まれて行ったって言ってた。



148: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/23(月) 01:03:00 ID:LQx6tOoiO
戦争の話しも。空襲警報を聞いて防空壕に逃げたけど鮨詰め状態で押しつぶされて亡くなる人も居た。凄い音と揺れで防空壕が潰れた所もあって中に居た人が土砂に埋まった。あの音と光景は目に焼き付いて離れないらしい。鉄作ってるから狙われたみたい



149: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/23(月) 12:58:25 ID:roEqZzSj0
爺ちゃん曰く、空襲の際に防空壕に入っていたら安全でもなくて、
焼夷弾で大火災が起きると、壕の中で蒸し焼きになってしまうから
防空壕を脱出する判断が難しかった、とのこと。
早く出過ぎて機銃掃射を受けて死んだり、逃げ遅れて防空壕の中で
蒸し焼きになって死んだ人も多かったって(直接の死因は酸欠だろうね)。
壕で蒸し焼きになった遺骸は、そのままの形で出てくるので、
まるで仏様みたいで、皆で読経しながら運び出したと言ってた。



150: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/25(水) 11:44:49 ID:3w3m1Tqb0
じいさんの聞いた話が、父ちゃん母ちゃんに聞いた話なのが辛いが
うちの小学校は東京大空襲の中心地にほど近いので、
わしらが在校時代に、東京大空襲当時、先生だった人が、まだ先生やってて、
その先生から聞いた話。

外から火が入ってしまうから、ということで校門を閉めた。
その時に中に入れなかった人たちが、外で開けてくれ、開けてくれと言ってるんだけど
開けてあげなかった。
だから、校門には爪の跡が残っている(建て替えてるんだけど)というので恐かった。
今なら、全校児童が登校拒否だろう。



151: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/25(水) 14:53:16 ID:wBoI9xxl0
80才のうちのばあちゃんが第二次世界大戦中に
吉祥寺の在郷軍人(陸軍中将)さんの家で奉公してたときの話。

空襲にそなえ、隣の組が消火訓練をやりだした。
奥さんは「隣組が始めたのだからうちの組もやらないと」と中将さんに言ったが
中将さんは「そんなことはやらなくていい」と取り合わなかったそうだ。
軍人としての自覚があるから決して口にはしなかったけどアメリカとの戦力差を知ってて
そんな小さな努力は無駄なことだとわかっていたっぽい。

そのことに奥さんが怒って実家に帰ってしまい、そこの娘さんとばあちゃんは
一大事と大変オロオロしたそうだ。奥さんすぐに戻ってきたけど。

圧倒的戦力差が分かってた中将さんはどんな気持で日本をみてたんだろうと考えると
少し切なくなる…



152: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/26(木) 00:19:50 ID:qKLfm4fO0
戦前の軍隊のいじめは酷かったらしい。それでいじめられていた新兵は
実際の戦闘が始まるのを楽しみにしてたんだって。
「弾は前からばっか来るわけじゃねぇ」って。 おじいちゃんのはなし



166: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/27(金) 00:52:16 ID:tZ4UXGUrO
今生きていたら90才の祖母が10才位の子供の頃。うちの田舎(千葉県)にはまだチョンマゲの人が少しいたらしい。
後、お祭りの時、山から降りてきたサンカもよく見かけたそうだ。
サンカについてもっと聴こうと思ってるうちに昇天してしまった。



167: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/27(金) 08:48:48 ID:NEEaLoDk0
明治時代に、東京から東北地方に旅行したイザベラ・バードが、
日本人の3分の1は、アバタ顔であると書いているが、
90歳の知り合いの爺さんに聞いたら、戦後でもアバタ顔の人は、かなりいたらしい。
種痘を受けなかった人が相当いたんだなぁ。



169: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/27(金) 21:59:10 ID:WX8tRqUl0
婆ちゃんの実家は信州の東筑摩郡というすごい山中で、サンカの話は聞いてる。
実家は見た目は普通の農家なんだけど、副業で薬屋をやっていて
年に2回サンカが、霊芝・熊の胆・薬草とか、漢方薬の原料を売りに来る。
代金は金じゃなくて、米や豆で払う。
サンカの人は異様な風体だから、来る日は子供心にドキドキしたそうだ。
太平洋戦争が始まったらサンカが来なくなった。
風の便りで、国の命令で新潟県に定住させられたらしい。戦争中だから
徴兵のために強制的に定住させられたんじゃないか、と婆ちゃんがいってた。



170: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/27(金) 22:54:18 ID:X0+3xnbeO
ゴメン。スレチは承知での頼みです。サンカとやらを簡単に説明願います。



184: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/28(土) 18:46:45 ID:I6FKTPJs0
>>170
定住せず田畑を持たないで山に住む人々だったかな
江戸時代では被差別階級に属した



177: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/28(土) 01:54:53 ID:1ZZZs/Bv0
地方によっては明治までは貧しくて子供が育てられない家庭は7才までの子供は殺しても黙認されたとか…
誰かそういう話を聞いた人います?



178: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/28(土) 02:25:52 ID:pSTFP2ER0
>>177
「七歳までは神のうち」ってやつかな。



182: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/28(土) 12:23:45 ID:WQFQiRgd0
>>177
7歳の子供を殺したら殺人だろう。新生児と勘違いしていると思われw。

生まれてすぐの赤子は、間引きといって、消すことも地方によっては黙認されていた。
お産婆さんが、赤子を取り上げると、「育てますか、流しますか」と家族に聞いて
「流してください」と頼まれると、そのまま神様にお返しする、と言う。



186: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/06/28(土) 22:23:35 ID:4s0bBFRo0
暗い時代だったからね。特に農村部は貧しかったし



204: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/04(金) 00:33:49 ID:7UAmp50o0
俺の近所の漁師の爺さん(76歳)の祖父が西南戦争に官軍として従軍したそうな。
九州から遠く離れたこの村から只一人で、当時は地元で名誉とされていたらしい。
褒美?恩賞?で、「あの漁場をやろう」と言われたらしいが何故か断った。

現在でも魚の良く取れる漁場だが、「ここは俺のもんだった。遊んで暮らせた。」と
ぼやいていたのが忘れられない。
この爺さんスロットが好きでいつも負けまくっている。

じいちゃんのじいちゃんはどう思っているんだろ?



209: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/05(土) 21:55:03 ID:yCceqjnJO
祖父(大正生まれ 数年前に他界)の親父だか爺さんだかが、日露戦争に従軍してて、どこかの山でロシア兵と撃ち合って、金し勲章(しの字がわかんねw)貰ったとか。

それは今も残ってるのか!?と、ちょっと期待して聞いてみたんだが、なんでも大恐慌の頃か太平洋戦争後の混乱期だったかに質に流しちまったとか… orz

それと何か関係があるのかわからないが、祖父が勲何等かの小さな銅のメダルみたいの持ってた。
これだけは遺産としていただこうと思ってたんだが、
晩年かなりボケててどこかに隠し無くしてしまい、こちらも紛失… orz



214: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/05(土) 23:00:24 ID:yCceqjnJO
なんでも農家やりながら、炭焼きとか山ブドウ採ってジュース作って町に売りに行ってたそうだけど、
やっぱり炭焼きとかもサンカの仕事だったんすかね?

ちなみに、戦後に闇市に山ブドウジュース売りに行こうとした時、途中で警察だか進駐軍の検問をトラックで突破したことがあるとか言ってたなw
結核で徴兵検査落ちて戦争行かなかった爺さんの唯一の武勇伝… orz



215: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/06(日) 09:19:46 ID:VSQeuws90
俺は33歳だが、小学生の時怖い祖父ちゃんに聞いた話。
俺の祖父ちゃんは大正13年生まれで戦争の時は大陸に行ってた。
どこの部隊に所属していたとかは知らないが、一等兵だった。
中国の部隊と戦闘して「首の後ろを弾丸がかすり、跡が残っている」と
俺に見せた。確かに筋の様に残っていた。
また、子供心に衝撃だったのは「言う事聞かない中国人をブチ殺した。」
祖父ちゃんが直接手を下したのか、それとも見た話なのかは解らない。
ただ、「中国兵」でなく「中国人」と確かに言った。民間人か?

でもまあ祖父ちゃんが生きて帰ってきたから、母ちゃんも生まれ俺も生まれた。
その祖父ちゃんは14年前70歳で逝った。もっと聞いとけば良かったな。
祖父ちゃんの母ちゃん、俺の曾祖母は俺が小学生まで存命で言っていた。
「○○は戦争に行く前はおとなしい子だった。帰ってきたら人間が変わっていた。」



239: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/07(月) 22:39:47 ID:cZQ4TDwjO
俺の爺さまの話も結構叩かれそうな話が実は多い。
爺さんの部隊では、ついて来れなくなった兵士は手榴弾で自爆させられていた。
当然命令書はなくて、言われなくても分かってるよな?て感じだったそうだ
これは道路は八路に寸断されて帰れないし捕まっても困る、しかし一人の為に遅れるわけにいかない。
お前は戦争の事が分かってないと言った後にこの話をしてくれたんだが、最近沖縄の話で命令書云々の話が出たときに、なんとなくピンときたよ。



241: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/08(火) 07:24:00 ID:aY0ngZdSO
>>239
戦時中の国のために死ぬのが当たり前の風潮だとそういうことも日常的にあっただろうね。
戦争に行った場所によっても違うだろうけど。


でも実際に戦争を知らない60代以下の世代が想像しているより遥かに悲惨なことも多数あったと思う。



242: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/08(火) 14:04:06 ID:Jc6dKGsL0
>>239
爺さんはフィリピンだったけど、マニラ市街戦が終わって敗残部隊が北部密林に
逃げ込んだ頃には手流弾は貴重品で、自殺用の手流弾を貰えるなんて贅沢な話で
「武士の情」の世界だったらしいぞ。恥でもなんでもない。
脱落者はゲリラの恰好の餌食で、生きたまま置き去りにされるとなぶり殺しだから
どうしようもなかったんだろ。



259: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/09(水) 14:53:03 ID:HUPk3A87O
俺のじいちゃんは陸軍砲兵で前線に赴いたこともあったけど丁度終戦時に洛陽にあった下士官養成学校みたいな所にいて助かったみたいだがそのあと中国に抑留、米をちょろまかしてなんとか食いつないでいたそうです。



311: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/14(月) 09:40:19 ID:CM1k7tbT0
元々歴史には興味あったが自分がデジカメを持ち歩き、日記をつけといると
二度と帰らない過去の記録に並々ならぬ関心持つんだよね。
特に写真が残っている幕末あたりはそれ以前と違い臨場感あふれて当時の人間に親しみがわく。
幕末明治期の写真集を見たが風景は昔懐かしいし人々も素朴な感じがするのだが
切腹や打ち首するのも当然と考えてたりするんだよな。



313: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/14(月) 22:13:27 ID:x1I3Fq12O
>>311
祖父の家を取り壊すことになり、残るは不用品だけという状況で最後に見回ったところ、お守りが落ちていたので中を開いてみました。
中から古銭と昔の写真が入っており、一人の妊婦と老婆が映っておりました。
裏書きによれば、なんと妊婦はひいひい婆さんで、老婆はひいひいひい婆さん。当然、腹の子はひい婆さん。
驚いたのはその写真が余りに状態がよく、明治人の写真についての特別な感覚がよく伝わってきました



316: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/15(火) 00:31:12 ID:f0XnLV7p0
明治生まれの祖父が、子ども時代に弟とトンボを追っていて(大正時代)、
弟がトンボをやっとのことで捕まえて、虫籠に入れようとしたら逃げられたそうな。
弟が泣き出したら祖父も悲しくなって兄弟二人でしばらく泣き続けたそうだ。

今の時代よりいい時代だったのかな



326: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/16(水) 06:53:54 ID:iB450Yhm0
>>316
ええ話やの。。。この話の味わいがわからん若造どもめ。
とんぼが逃げたくらいで、おとととつくづく泣けた遠い日々を思うじーさんと
その気持ちを味わうようになった孫のうつくしい叙情スレだ。
歴史となんの関係もないが、それでいいのだ。



324: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/15(火) 23:20:18 ID:NSPyPrju0
20年前に死んだ爺さんが子供のときに犬に追いかけられた。
その時たまたま通りがかった人が日本刀で犬を斬り殺してくれたそうだ。
当時は犬など話し飼いだったって言うけど焼けんじゃなさそうだし飼い主は
心配しているかもなどとほっとしながらおもったそうな



327: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/16(水) 11:52:37 ID:Jfp66E0T0
>>324
すげえな…今だったら動物愛護団体から責められるぜ。
犬切った人は警察?
昔(廃刀令後)は外で刀もっていていいのは警察・軍人・貴族・消防署の人だっけ?



330: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/16(水) 20:05:06 ID:sITZIDuMO
>>327
よく知ってるな。消防署まで知ってる人はあまり居ないと思います。
曾祖父は消防署所長だったので今でもサーベルあります。
ただし、戦後GHQにより刃を中程から叩き折られて、斬れないですけど



346: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/17(木) 10:04:33 ID:FiEZoushO
もうボケちゃった爺ちゃん(84)が健在だった頃に聞いた話。

その当時我が家はそこそこ貧乏で、当然中学校に入るお金は無く小学校が終わると丁稚奉公に行った。
その会社が中国の天津に工場を出すことになって、当時16、7の爺ちゃんがそこへ行くことになった。

そんなある日、工場の従業員が街で喧嘩しているのを見かけ、仲裁しようとした。
すると突然後ろから声が掛かった。
そいつは日本刀を持ち、「貴様、日本人か。こんな所で何をしている。」と全く不自由ない日本語で話し掛けて来た。

相手は日本人で、ここにいる事情を説明すると、「ここらは俺らの縄張りだ、迂闊に手を出すとこうなるぞ」と言いながら刀を頭に押し付けた後去って行った。
(そこに日本人がいた理由はよく分からなかったが、とにかく人生で一番の生命の危機だったらしい。)
そのまま立ちすくんでいると、周りが騒がしい事に気付いた。従業員も騒いでいる。
「頭!」と言われ、後頭部に手をあててみる。その手を見ると血がべっとり付いていた。
今でもその傷は頭に残っている。

子供の頃に聞かされた話だからよく覚えてないけどこんな感じ。
おんぶしてくれたらちょうどその傷が見えてて気になってて聞いたら教えてくれた。
ほんと、ボケる前にちゃんと聞いとくんだったな。



347: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/17(木) 15:13:35 ID:83p/Lt0Z0
爺ちゃんと婆ちゃんは、マッカーサーに田んぼを取り上げられた話をよくしてたなあ。
もし自分で耕していたら1haだけは取り上げられなかったので、
急遽家族で田んぼやる事になったけど、やったことがないから要領が分からなくて、
元小作人に聞いても誰も助けてくれなくて、仕方なく家業の従業員にやらせたら、元小作人に
農地委員会に密告されて、1haも取り上げられそうになったとか、そういう話。
家族で慣れない米作りして、必死で守った5枚の田んぼも、
この数年で伯父さん伯母さんが相次いで亡くなって、もう完全放置状態。
従兄弟もみんな東京に出てきちゃってるし、どうしようもない。



361: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/17(木) 22:46:53 ID:1EvlsaNZ0
西南戦争の時、ひーばあちゃんの家に西郷隆盛が泊まりに来て
お礼にナギナタと鉄砲を一本ずつ置いていったんだって。
この話聞いたときびっくりして、思わずソースきぼんぬって言いそうになった。
ちなみにそのナギナタと鉄砲は、第二次世界大戦の時に兵隊に回収されたんだと。
ハナクソみたいな金属が当時の日本には必要だったんだな。



398: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/07/26(土) 14:25:27 ID:BCFThrYQ0
ラーメン屋を営んでた明治生まれの曽祖父が亡くなった時に
市街地の道路を警察が封鎖して葬儀を行なったらしい。

生前までに県長やお偉いさんがよく挨拶をしに来てたらしい。
それと、天皇陛下から勲章も頂いてたみたい。



423: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/08/01(金) 12:06:47 ID:z7cKGr1b0
戦時中、祖母が皇居に手伝いに行ったらしいんだが
食器はすべて銀で、給仕だかコックは真っ白な制服をビシッと着てて格好よかったって言ってた



431: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/08/03(日) 02:12:52 ID:J3MkAqrL0
 
大叔父は若いときに招集されて、中国大陸で戦闘に明け暮れた。
敗戦後、復員し、思い出したように当時のことを話した。

そのひとつ:
 
功を焦って、無謀な作戦を企てる上官がいると、全滅を恐れる部下が密かに始末した。
そこはよくしたもので、たいていどこの部隊本部にもベテランの事務担当がいて、
てなれたやりかたで、「名誉の戦死」 にしたてて、内地へ報告した。
 
「どこそこの部隊で上官が戦死」 といううわさは、展開する各地の部隊にただちに伝わり、
「さては、やられたな」 と兵士同士でささやきあうものだった。
 
軍隊の裏のしきたりをよく知った上官は、無謀な戦闘は極力避けた。
強い敵には、遭遇せぬよう迂回し、
もっぱら、弱い敵だけを襲わせ、後方に戦果を誇大報告した。
 
日中戦争の戦史で 「一部隊全滅(玉砕)」 という事例が少ないのはこういう事情による。
 

432: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/08/03(日) 03:26:38 ID:4YuBHNCK0
大正生まれの祖母は生粋の沖縄人なんだが、いいとこの娘だったらしく
戦争前に京都へ家族で非難し沖縄戦の経験はないらしい
日本は負ける・沖縄地上戦の情報は知ってる人は知っていたみたいで
事前に逃げた人が大勢いるってことを大人になってから知り
何も知らずに死んでいった方たちの無念さを思うと苦しい



433: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/08/03(日) 04:28:46 ID:FJKMPshN0
>>432
沖縄戦を前に民間人の大規模疎開・避難の計画が立てられたんだが、
その矢先に起きた対馬丸撃沈事件のせいで皆及び腰になってしまったらしい。
勇戦気分もあって、多くの民間人が沖縄に残った。悲劇だ。

にしても、対馬丸を撃沈した潜水艦ボーフィンが「真珠湾攻撃の復讐者」はないよな・・・



436: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/08/04(月) 21:35:59 ID:GdIFsDOR0
戦中の貴金属の供出品は偉い人たちがネコババしてたそうだ。
当時警察の上のほうの人に関係してた人の姪にあたる祖母から聞いた話。



437: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/08/04(月) 22:22:23 ID:YccsTc6FO
憲兵が来ると、やたらと食料品を持っていくので、
子供に食べさせるお菓子だけは洋服ダンスにしまっていたと
祖母から聞いた。
とにかく憲兵が嫌いだったらしい。
でも軍歌とかはバンバン歌ってた。



438: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/08/05(火) 13:44:29 ID:HH+rV9fd0
徴兵され、陸軍二等兵としてスマトラ島(インドネシア)へ送られた祖父の話。

田舎の一本道を輸送車両で走っていると、荷物をたくさん背負ったお爺さんが歩いていた。
上官から「原住民とは仲良くやれ」と言われていたので、
そのお爺さんと荷物を軍用トラックで、途中まで送ってやったという。

数日後、同じ道を走っていると、例のお爺さんが道端の木陰に座り込んでいる。
運転席に祖父の顔を見つけると、ニコニコ笑いながら近づいてくる。
(また、乗せてくれか。今日は軍事物資積んでいるし、他の兵士も同乗しているからなぁ・・・)
と困惑していると、何十本ものバナナの山を差し出した。

言葉は何を言っているのかわからないけど、「先日の礼だ、受け取ってくれ」ということらしい。
バナナを荷台の隅へ積むと、お爺さんは、満足げに村の方へ戻って行った。
いつ来るとも知れぬ祖父が通りかかるのを、毎日道端で待ち続けていたということだ。

長文、スマソ



439: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/08/05(火) 18:21:19 ID:cJZGBp9G0
ええ話や



487: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/08/20(水) 00:46:38 ID:0iufVmIj0
自分は1960年代半ば生まれなんだが、昭和一桁の父は祖母が44歳の時の子、
祖母(1889年生)はその母が45歳の時の子というわけで、曾祖母は1844年
、天保年間生まれらしい。同年代の友達に自分の三代前が江戸時代なんて人はいなかったw
祖父が婿養子なので祖母方が本家。で、明治21年生まれの祖母が100近くまで生きたので、
ある程度の話は聞いた。日清、日露、第一次、大震災、第二次全部経験した祖母だったけど、大震災が一番怖かったとか。



550: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/08/30(土) 18:21:29 ID:P7dR2X/g0
うちの祖父が戦争で南方に行ってた時の話。
そこでは戦況も厳しくなく、食事もおはぎやバラ寿司なんかが出て
甘い果物のおやつもあるし、気候は温暖だし(祖父は冷え性だった)
食料の乏しくなっていた国許よりよっぽど過ごしやすかったそうだ。

戦後も地元の人たちは「ニッポンジンはトモダチ」と言って
鶏を分けてくれたり、封鎖されてる橋を渡らせてくれたり
なにかと日本兵に親切にしてくれたらしい。

もう亡くなったけど、ボケてからは1日中その南方での話ばかりして
家族みんなウンザリしてたからあんまりちゃんと聞いてなかった。
今、歴史に興味を持つようになって、爺ちゃんの話もっとちゃんと聞いていればよかったなと思う。



552: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/08/30(土) 18:55:01 ID:lTSrXJ2D0
>>550
おじいさんいい時期に行ってたみたいね。
友達の爺さんも南方へ戦争へ行って「楽しかった」と言ってたそうだ。
馬の飼育担当で行ってたそうだけど、動物の世話終わったら海に潜ったり貝を拾ったり。
帰国時に貝をほかの国の人に見せたら「きれいだな、くれよ」と言われて仲良くなったり。

戦況良い時に徴兵で満州行って帰ってきた親戚も、女装して劇してる写真や飲み屋の女の人と
写ってる写真があって(奥方に見つかって破られたあともあったw)、それなりに楽しそうだった。

戦争体験って言ってもほんといろいろあって興味深い。



557: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/09/03(水) 23:09:48 ID:Ml7a4/iv0
現在の学校教育だと
大東亜戦争で日本が南方の人々に鬼の如きひどいことした→アジア諸国からものすごく嫌われてる
な教え方してるけどそうでもないんだよね。
>>550>>554の話やパラオの国旗の由来話みたいに現地の人と仲良くやってた話は多い。
(食糧難で略奪とかした地域は別だが)

戦後だいぶたったし、そろそろ学校でそういう話もしてあげるべきだと思うんだが。



559: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/09/04(木) 01:13:19 ID:qfOpT2Hx0
>>ホントだよね。
550だけど、祖父の話と学校で習ったことが違うから
初めは祖父の創作だと思ってた。
戦地の記憶がつら過ぎて、あえてそんな嘘をついてるんだろうって。
でも、祖父の南方時代の戦友が訪ねてきたりして
いろんな話を聞くうちに、あ、本当だったんだーって。

ちなみに祖父と戦友との交際は亡くなるまで続いてた。
住んでる所も他県で遠いのに、互いに旅行がてら訪ね合ったり
向こうの方は農家だったので収穫を送ってくれたり。
ほんの数年のいくさばで出会った友情が半世紀も続いたんだなあ…と
ちょっと感慨深かった。



579: 557 投稿日:2008/09/04(木) 16:44:53 ID:6vRd2jRo0
皆さんいろいろ考えてるんですね。日本も捨てたもんじゃないなw

>>557は過去の戦争評価回復の為に、という意味ではなく
戦争に行った爺さんたち個人の名誉回復と外交の未来の為に
学校教育で>>550とかパラオの話をしてもらいたいと思ったんだ。
戦争は悲惨で絶対だめ、だけどその中でも相手を尊重し、はぐくめた友情があって、
そのため日本に対し良い感情を持ってるアジア諸国は多く、国として友好の手を伸ばしてくれている事実がある。
(しかし日本はその手を無視しがち)。
トルコとの友好のエルトゥールル号事件なんかと一緒な感覚、戦争でなく道徳として。

以下スレチだが
戦後教育については566-567に同意。
比較的最近の、「日本が悪い」と教科書に書かれていない教育受けたけれども教える側が
古い教育を受けた世代だったから、「中国韓国にひどいことした」イメージを付加されて教えられた。
で、最近までそこで思考停止してたんだよな…もう一歩踏み込んだ教育してほしかったぜ。



631: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/09/10(水) 14:22:37 ID:bFN4dXHv0
昭和2年生まれの祖母。
小学生の頃、家計を助けるために「ろくしゃく担いで野菜を売り歩いてた」らしい。
街まで降りて行って、近所の人にはばれてないと思っていたらしいが
小学校の校長に見られていたらしく「感心な勤労学生」ということで
表彰を受けたらしい。
全校生徒の前で名前を呼ばれて
「そりゃあ恥ずかしかった。放って置いて欲しかった」と言っていた。

「ろくしゃく」とは「陸尺」かな?
「六尺」だと褌だしw
祖母に聞いても「分からない、ろくしゃくはろくしゃく」と答えられたが。



634: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/09/11(木) 21:47:06 ID:ZfoAjmDt0
うちの婆ちゃんの爺ちゃん(明治ヒトケタ生まれ)はとにかく豪快な人で、
新田を開いたり、製紙工場作ったり、牧場を作ったりして、
景気のいい時は、村に豪華な神輿を寄付したりしてたけど、
大概の時は金がなくて、いつも金策に駆け回っていたってさ。
金策に付き合わされていた婆さんの親父(俺の曾爺さん)は堅実な人で
父親の大盤振る舞いをずっと嘆いていて、豪快な爺さんの死後、
広げた事業と借金を全て清算して、家業だけに戻したとのこと。

ただ、豪快な爺さんは村の人々には人気があったらしく、婆さんが子供の頃、
村の人が家に来て、父親に向かって「お前の親父は村にあれだけ貢献したのに
お前は何もしない、少しは親父を見習え!」と怒鳴っている姿を何度も見たって。

村の人に怒鳴られている時、曾爺さんはいつも下を見てじっと黙っていたってさ。
どんな気持ちだったんだろうなあ。



651: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/09/12(金) 13:18:39 ID:agC7SRPr0
漏れのひいおばあちゃんの話し
ひいおばあちゃんの父親は幕臣で、上野戦争や会津、函館と従軍したそうだ
そのときに 上様が水戸に謹慎したときに見送りにいった。

慶喜はすごい英明だったらしい。でも、そのjひいばあちゃんの父親は
大阪城から逃げ出した 慶喜を卑怯者と生涯憎んでいたそうだ。



653: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/09/12(金) 15:05:27 ID:MTHNe00T0
うちの曾爺さんは第一次大戦時の鉄鋼特需にうまく乗って巨大鉄工所の経営者に成り上がった所謂「成金」で
戦前は某国鉄駅の周囲はほとんどうちの土地だったという。
爺さんは5人兄弟の末っ子だが家業につくのが嫌で若いうちから軍隊に入って台湾に行ってた。
鉄工所は爺さんの兄貴が継ぐ予定だったのだが次から次に兵隊に取られて前線に送られて戦死。
早いうちから台湾に行ってたうちの爺さんだけが生き残ってしまい、鉄工所を継ぐことになるが
やはり経営は向いてなかったようで戦後の混乱期にあっさり潰してしまい、当時発足したばかりの自衛隊に入ることにする。
それまで「お坊ちゃま」として育てられた俺の伯父は没落でひねくれてしまい爺さんへの反抗なのか、学生運動に身を投じる。

という歴史の全貌を知ったのは爺さんが死んだときだった。
平凡な家と思っていた自分の一族にこんなドラマがあったと知って吃驚した。
爺さんが台湾にいたときの奥さんと子供と孫(おれの従兄弟)が出てきたときにはさらに吃驚した。



707: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/09/13(土) 16:19:40 ID:Fg8Hw6ux0
これだけじゃあれなんで・・・

鹿児島のおじさんが涙ぐみながら話してくれたんだが
田舎で貧乏だったので大阪に出稼ぎにいったことがあったんだって
そこの工場で「田舎者は帰れ!」っていじめられてたらしい
体中に痣ができたり腕の骨が折れるまで集団で殴られたこともあったとか
それでも田舎にいる家族を食わすために泣きながらがんばって働いたんだってさ・・・。

この話を聞いたときは胸が痛んだなあ
いつもニコニコしてお気楽そうなおじさんが昔はこんなに苦労してたなんてなあ・・・と思った

よく新聞やテレビとかでおっさんが「昔はみんな優しくて暖かかった・・・それに比べて今の若者は・・」
とか言ってるけど、昔のほうがよっぽどひどかったじゃねえか!都合の悪いことは忘れやがって!っていつも思うわ



721: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/09/14(日) 15:29:06 ID:2tVK5OVUO
うちのひいひいじいさんは薩摩人だったが西南戦争で政府軍側の人間で薩摩軍のスパイだったが捕まってS郷T盛に首切られたそうな。
その祟りかはわからないがひいじいさんにばあさんに親父へと代々直系の人間の指が事故で千切れるんです。
次は俺の番なんですが今のところ何もありませんw。余談ですが一回テレビでS郷さんの末裔が出てたんですが親父がその人を見てる光景がなんか面白かったw



735: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/09/18(木) 19:07:50 ID:Tw2/AKmr0
京都の山奥の村で聞いた話。
竹で編んだ籠みたいなでかい農具があって、その中に古くなった布団とか着れなくなった
ボロ布とかをきっちり詰め込んで、そこに赤ん坊を立った状態で突っ込んで身動きできないように
して家の中に置いて家族はみんな田畑に出たそうだ。泣こうがションベンちぼろうが、放置。
子供のほうもたくましくて、歩けるようになると自力で籠を脱出、適当に遊んで親が帰って来る前に
自分で籠にもどっておくんだって。今の世の中でこれやると育児放棄とか幼児虐待って言われるんだろうな。



736: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/09/18(木) 19:12:33 ID:Tw2/AKmr0
もうひとつ、その話をしてくれたおばあさんが「ヨメ」と言われた頃、妊娠中でも畑に出ないと
姑さんに怒られたそうだ。それであるとき鎌で草刈ってたら陣痛が来たんで姑さんに
一言言って自宅に帰り、そのまま出産。その鎌でへそのおを切って、赤ん坊洗って
着物で包んで自宅に置いてまた畑に出たんだと。



774: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/09/25(木) 22:51:07 ID:2Uz/GXlz0
中学のときの先生の話。満州にいたらしいけど夜は外出禁止だったらしい。
でも下の弟の持病が悪化して危篤になってしまった。先生を呼びに行こうと
思ったけど表に出ると射殺されると言って母親が先生をひっぱたいて止めたらしい。
母親も涙をボロボロ流してたけど結局弟さんは亡くなったそうな。

そんな、と思うが夜出ると有無を言わさずに射殺されたんだって。母親としては
兄まで射殺されたら、ってことだろうけど、涙止まらなかったよ



787: @@ 投稿日:2008/09/27(土) 03:19:10 ID:jBZynqZa0
うちの亡くなった爺さん。
若い頃剣道東京で№1なるくらい強かったらしくて、当然まっさきに
徴兵コースなはずだったんだけど、子供のころ大八車にはねられて
少し足を引きずってたおかげでまぬがれたんだと。
でもそれなのに身体障害者の保険その他いっさい何も受給なくて、
政府の福祉政策に怒りつつも運がいいのか悪いのかって笑ってたなW
徴兵も案外いい加減なとこあったて言ってたよ。



798: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/09/28(日) 14:54:01 ID:8gF9Ejtc0
祖母から聞いた高祖母(自分のひいひい婆さん)の話
慶応元年生まれの高祖母が子供の頃
田舎在住だったためか明治維新以降でも
チョンマゲの人は結構いたらしい 帯刀して道を歩いている人もいた

郵便配達制度が確立するまではその村の庄屋に郵便物や新政府のお達し類を一括して届け、
庄屋が村人に届けていたらしい 子供の高祖母がその役をやっていた
そのため小さい頃に寺子屋で漢字の読み書きを習った(女子はたった一人だった)
おかげで新聞が発行された時、スラスラ読めるのが自慢だった
(当時田舎の娘達はひらがなカタカナが普通だったらしい)
ボケる事なく90才過ぎまで生きていたから当時としてはすごい長生き婆だ



799: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/09/28(日) 14:54:55 ID:8gF9Ejtc0
別の祖母から聞いた話
うちは徳川家康が江戸に移った時、
三河から一緒について来た家来の家系(真偽不明家系図なし)なので
幕府終了して明治維新以降でも
代々お正月に手を合わせるのは宮城(皇居)ではなく
権現様(日光東照宮)の方角だった



869: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/10/28(火) 00:45:28 ID:AqnY0EA4O
とある番組で帝都空襲の前に防火訓練などで「爆弾が落ちてきて万が一近くに水気がない場合は人間の体の大半は水だ!!腹で消すように!!」とお上が真顔で語ってたらしい…そら負けるわ…
関係ないが当時の陸軍の得意の戦法である突撃~銃剣で突き刺すなんて根性論がまかり通ってた第二次大戦当時の日本軍の
戦略家は有史以降で最も戦が下手だったんだな?と思う。戦国時代の優秀な君主なんかは物事クレバーな考えだったし信長や秀吉の兵法見る限り
頭が柔軟でなくては生き残れなかったろうし闇雲に根性論を貫こうものなら瞬く間に他国に滅ぼされたろうに



909: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/12/17(水) 18:05:13 ID:MpHrW/LB0
曾ばあ様は5歳のとき、近藤勇に頭をなでられたそうだ。口のでっかい男だった
そうで、怖かったと語ってたそうな。



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