クソ親父の思い出
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2: 1 2014/10/18(土)16:13:49 ID:iXjZyR7UI
自分は高校時代に親父を亡くしている。親父は酒とギャンブルに溺れ、暴力親父でも
あった。自分はもちろん親父のことは今でも好きになれない。
それどころか親父との思い出なんかろくでもないことばかりでトラウマになっている。
吐き出すために書いてみる。

3: 1 2014/10/18(土)16:14:12 ID:iXjZyR7UI
自分の親父は若い時はとても勉強ができたそうだ。神童かとまで言われたらしい。
その父親、自分から見て祖父は息子がそんなに勉強ができるのなら、と甘やかし放題
息子が望むならなんでも言うことを聞いてやり、田舎の学校に居たら東大には
進めないと息子がいうので下宿させて都会の進学校で勉強させるということもした。

にもかかわらず高校三年の大学入試で父は余裕で合格できるはずの東大だか京大だかに
あっさり不合格になってしまった。それで1浪。翌年は実家に一番近い旧帝国大学を
受けるが不合格。
当時二期校という制度があって二回国立大学を受けれたらしく、仕方が無いので
その試験で地方国立大に不本意ながら合格・進学。

大学時代、親父は遊びまわるが、地頭がいいのか成績はトップクラスだったらしい。
そのせいで教授推薦でとある有名商社に就職も決まる。これでも当時としては
十分エリートコースだった。

しかし就職してみると有名商社だけあって東大京大卒や早慶卒が普通
地方の国立大卒の親父は鼻も引っ掛けられない扱いだったらしい。
これは自分の推測だけど、いまで言う地元採用枠というやつで本社採用組みとは
最初からかなり待遇が違っていたんじゃないかな。


4: 1 2014/10/18(土)16:14:50 ID:iXjZyR7UI
そうこうするうちに同級生を通じて自分の母になる人と知り合い結婚。

自分の母は当時短大卒業して腰掛就職をしていた。短大時代に医学生との縁談が
持ち上がるが父親(自分から見て祖父)の反対で破談。どうしても医者と
結婚したかったらしい。自分の親父は酔うと「おれは本当は医者になれたのに」
とかつぶやいていらたらしいので母親はそれにだまされたというか、
親父の言葉を鵜呑みにしていた。

高校時代は学校で1番で、自分より成績が悪かった同級生があっさり旧帝大の
医学部とか東大京大に合格しているのが信じられなかった上、社会に出たら
本社採用組みと差をつけられて悶々としていたのか、親父は仕事そっちのけで夜は
遊びまわっていたらしい。本来は転勤とかないがいきなり本社に異動となった。
実はこの時点で人事に目をつけられていた。

その転勤の少し前、自分が生まれた。しかし自分が生まれてすぐ母親は自分を
育てることもかなわず、体調が悪化し、サナトリウムみたいなところに1年近く
過ごすことになった。仕方が無いので生まれたばかりの自分は母方の祖父母の
ところに預けられて育てられることになった。母はというと療養を続けていたが、
この間、親父は見舞いどころか入院費とかまったく払おうとしなかったという。
この時点ですでに母方親戚からはいろいろ言われていた。

この辺の話は私が成人した後に親父を知る人から聞いた話が混ざっている。

5: 1 2014/10/18(土)16:15:18 ID:iXjZyR7UI
さて親父の会社は丸の内周辺にあって、社宅がそこから小一時間の私鉄沿線にあった。
ちょっと小さな団地のようなつくりで、何でも当時役職によって部屋数の割り当てが
違っていたらしい。
例えば 平社員 2DK、課長3DK、部長以上は4DKみたいな感じ。
親父は最初一人で生活していた。
母親が退院して、子供(自分)と一緒に上京してその社宅に行ったら、なんと
社宅の部屋がごみ屋敷と化していたのだそうな。洗濯ものがそこらじゅうに散らばり、
ごみが散乱し悪臭が漂っていたという。この時点で社宅の奥様達から苦情も来ていた。
自分の母親は手伝いに来てくれた親戚の手をかりて数日かけて家の中を整える。
しかし、親父は母親がやってきたことで、これ幸いと夜な夜な銀座に繰り出して
遊んでいたという。

高度経済成長期真っ只中?だったので銀座のクラブとかでも名刺を一枚置けば
ツケで飲めたという。もちろん名の知れた商社の名刺だからそういうことが
出来たのだが。その代わり給料日にはママさんとか黒服が会社に回収に来た。

ここで、親父は早速も躓く。

早い話給料全部を持っていかれても払えないぐらい遊びまわってしまったのだ。
そもそも本社勤務の人はほとんどが本社採用、給与水準が親父とかなり違っていた。
また、全員ではないが、比較的裕福な家庭出身の人も多く、学生時代から普通に
ゴルフやテニスに親しんでいたりする。そういう人達と同じように遊ぼうとしても、
そんな下地もないから何をやるにもお金がかかってしまうことになる。

結局会社からお金を借りて飲み屋のツケは払ったが、親父はわずか3年ほどで、
本社から地方の小さな営業所に飛ばされた。実際は「左遷された」らしい。

6: 1 2014/10/18(土)16:15:43 ID:iXjZyR7UI
そこの地方には7-8年ほど居ただろうか。その間、自分の兄弟もできて、
そこそこ安定した生活だったように思う。

都会ではないから夜遊びに行くところは限られているのだが、親父は家族サービス
そっちのけでパチンコやマージャンで遊びまわり、家にあまりお金もいれなかった。
物心ついたときから我が家は貧しかった。土日も父親は一人で寝ているか一人で
出かけるばかりで、他の家のように遊園地とか公園で一緒に遊んでもらった
覚えもない。

母親は時折親戚に電話をかけて子供たちの服のお下がりをねだっていた。
このお下がりねだりは自分達が高校生になっても続いた。
母方の親戚は母親の入院費未払いのほか、親父による度重なるお金の無心に
すっかり腹を立てて、離婚を勧めてきた。
騒ぎになって、父方の親類が出てくる。そこで判明した驚愕の事実。

父方の祖父母は結婚したばかりで、妻が急に入院して大変だろうと、父親に
入院費を払ってもおつりがくるほど送金していたのだそうな。つまり父親が
全部自分のものにして遊びの資金にしてしまったという。

双方の祖父母が互いに頭を下げまくって離婚するという方向で調整していたのだが、
母親が、離婚に難色を示した。子供を抱えて親戚の厄介にはなりたくないとか
なんとか。所謂デモデモダッテちゃん。

このときに離婚しておけばよかったのにねと、今でも親戚から言われる。

7: 1 2014/10/18(土)16:16:24 ID:iXjZyR7UI
さて、この離婚騒動の後、父方の祖父が倒れた。誰がどうみても親父の件で心労が
たたったのだろう。そして親父がまたやらかした。
祖父が倒れたという連絡を受け、母親と自分を含む子供たちはいち早く飛行機の距離に
ある父方祖父の自宅に向かった。親父は仕事が終わってから向かうということだった。

ところが待てど暮らせど親父が来ない。祖父が倒れたのが仮に木曜として日曜に
なっても連絡が取れない。当時は携帯とかなかったから自宅と会社に電話をしても
本人が捕まらない。親父、妻子が居ないを幸い、雀荘に泊り込んでマージャンを
しまくっていたらしい。どういう理由でそれがばれたか事情はしらないのだが、
数日後、のこのこと実家に到着した親父に兄弟皆で怒り来るって怒鳴り散らしていた。

この騒動は子供が眠っている深夜にあった。親父の兄弟も子供の前で騒ぎたてることは
なかったのだが、夜中、ふと目を覚ますと人が怒鳴りあっている声が聞こえたんだ。
知らない親戚の家でそんな声が聞こえたので、怖くなって眠れないので声のするほうに
そっと歩いていくと、親父の一番上の兄(自分から見て伯父)が親父を座らせて
いろいろ説教していた。
「誰のせいで父さんが倒れたと思っているんだ」
「仕事ならまだしも親が倒れたときにマージャンやっている馬鹿がいるか!」
というようなことを怒鳴っていたと思う。なお、父方祖父の家は地方の小金持ちらしく
かなりでかい。

8: 1 2014/10/18(土)16:17:14 ID:iXjZyR7UI
そして会社を退職、退職金で商売を始めようとした。父方の親戚は
「好きにすれば、でも我々は面倒をみない」と突き放してきた。
母方の親類は「離婚してくるなら面倒をみるがそうでないなら連絡してくるな」と
言ってきた。

商売をするにしても、会社を退社したのでそもそも社宅には居られない、
まずはどこか賃貸住宅を借りて、なんてやっていると40歳になったばかりの平社員が
受け取ることができる大して多くもない退職金なんかすぐに底を尽きてしまう。
親父も母親もこれまで破格の家賃で社宅に住んでいたから普通に家を借りるのに
いくらかかるか、なんてこともわかってなかったらしい。
というわけで親父の起業大作戦は会社登記に行くまでもなくぽしゃった。

あと、親父は(仮に)仙台でも相変わらず遊びまくっていたが、飲み仲間から良い様に
持ち上げられていたらしい。○○さん(親父)が会社やるなら仕事回してやるよ、
とか、絶対成功するって、とか。まあ、酔っ払いの戯言ってやつだが、これを
鵜呑みにしていた。なので、あとで「だまされた!」って怒っていたらしい。
怒るも何も、同年代の同僚は家庭があるから飲み歩きなんかしない、たまに若い
後輩がお情けでつきあってくれるだけの中年と酒場でつるむ人なんて、
所詮それだけの人なのに、それがわかっていなかった。

自分も大人になって判ったけど、酒場で仲良くなった人は、所詮酒場だけのご縁。
40にもなってそういう理(ことわり)も判ってない人だったのだ。

9: 1 2014/10/18(土)16:17:32 ID:iXjZyR7UI
またそのときに住んでいた都市は親父が大学を卒業した土地でもあったから、
大学時代の友人とかも結構居た。だけど、親父が会おうといってその友人達と
会っても、向こうも家族もいれば仕事もあるし、親父のようにいつまでも学生の
ノリで悪さするって歳じゃないから2回目以降はなかった。本当に皆から
避けられていたよ。

自分も50近くなっているからわかるが、家族がいれば家族にとすごす時間のほうが
大事だものな。同窓会ぐらいならともかく、毎晩遊んではいられない。
そうそう、親父の友人達が家族ぐるみで集まった何かの会の時に、親父の友人達は
飲んで一人ご機嫌な親父を見て「○○は大学時代成績だけはよかったよな」と
話していたのだが、子供心にこれはほめ言葉ではないなと感じた。
親父の友人達が親父をどう見ているか判った気がした。

それからが自分達にとっては悲惨だった。失業手当で食いつなぐ日々、子供目線で
言えば服もおもちゃも買ってもらえない。自分は中学生だったが、学校の制服が
お金がなくて買ってもらえなかった。他の人のお古をゆずってもらったり、
体操着とか学校指定の靴下とかも買ってもらえず、先生から注意されるのだが、
注意されても中学生には親がお金をだしてくれないとどうしようもない。
先生も多分事情がわかってはいたのだろう。アンタッチャブルな扱いになった。
あのさ、体育のときの着替えとか、洗っても白くならないぼろい下着を見られるのが
嫌で恥ずかしかったぐらい、惨めだった。いつの時代だって、思うだろう?
昭和も後半なのに。

家には真新しいものなんかほとんどない、家電は壊れているし、
シャワーなんかの設備もないし、ドライヤーもないから髪を整えることも
できなかった。アイロンもよく壊れて新しいものを買えないから制服が
しわくちゃで学校に行っていた。

10: 1 2014/10/18(土)16:17:49 ID:iXjZyR7UI
親父は結局退職してから丸二年仕事が見つからなかった。よくある話だが、
大企業に居たからといって資格も技術のようなものもない人は普通採用されない。
親父は自分の価値を見誤っていた。

二年ほどしてなんとかそこの地元の中小企業が採用してくれたが、給料は前職に
比べると大幅ダウン。母親もパートをしたがとてもじゃないが暮らしていけない。
親父は本当にお金がなくなってので、家で浴びるように酒を飲むのを日課にしていた。
酔って大声で騒ぐから近所からクレームが来たこともある。
それでも自分が高校に入ったときは少し生活が落ち着いていたかな、高校入学の時、
今度こそ新品の制服と靴を買ってもらった。でも他の兄弟は「自分ばかりいいなー」
って言うぐらい生活は相変わらず貧しかった。

その後、自分が高校2年ぐらいのときに親父が倒れた。そのまま病院で検査を
受けたところ、末期がんだとわかった。貯金もない、保険もまともに入っていない
状態でどうなるんだろうと思った。母親は入院が決まった時点で親戚にお金の
無心をした。結局母方の祖父母とかが援助してくれたらしい。

この状態で、親父はまたやらかした。
倒れた最初に個人病院に行った。そこで検査をしてすぐにもう少し大きな総合病院を
紹介され、そこで癌だと診断がつき、そこの総合病院では、設備もないので、地域の
中核医療施設である某大学病院への紹介状を書くと言ってくれた。

ここまではよくある話。

11: 1 2014/10/18(土)16:18:08 ID:iXjZyR7UI
ところが親父、大学病院だけは嫌だと拒否。総合病院で入院させてくれと言って
きかない。理由は大学病院は医学生が見るから治療ではなく研究材料にされるとか
なんとか。
確かにそういう側面があるのは否定しないが、誰でも彼でも研修中の医学生が
見るわけでもなし、何を馬鹿なことを言っているんだと思った。
でも「俺はお前たちと違って頭がいいんだからそういうことは知っているんだ」って
聞かない。
結局そこの総合病院の温情で入院させてもらったが、本来こういう重病患者を扱う
規模の病院ではないので、病院もいろいろ大変だったらしい。大学病院から先生を
派遣してもらったりして手術をした。
あと、大学病院だったらソーシャルワーカーが居たから医療費補助の制度とかも
教えてもらえたかもしれないが、そういう人も居なかった。
親父は緩和治療でモルヒネ漬けになっていたから周りがどれだけ迷惑したか
気がついてもいなかっただろう。

唯一の救いは親父の会社は働いていないにもかかわらず給料は出してくれたこと。
窮状を見かねたのだと思う。

その後数ヶ月後に親父は他界した。母親は葬式とかをやりたがったが葬式の
費用なんかない。互助会のようなものにも入っていない。父方の親戚が葬儀費用を
援助してくれた。代わりにというか今後は一切縁を切るという条件付きだった。

そして、親父の死後、前述の無職期間中に国民年金を全く払っていなかった
ことが判明。したがって遺族年金もわずかしかもらえないことになった。

12: 1 2014/10/18(土)16:18:40 ID:iXjZyR7UI
それでも酒を飲んで暴れる親父が居なくなっただけで、なぜか生活が前より
良くなってしまった。親父が稼ぐ金より使う金が多かったっていうことだったらしい。
母親のパートと遺族年金と各種補助で親父が居た時よりは、少なくとも生活必需品を
買うのには困らない生活にはなった。我が家にもやっとドライヤーが来たし、
当時学校で流行っていたささやかな化粧品とかも買えるようになった。
具体的には、例えばエイトフォー消臭スプレー、あれほしかったけど、買って
使っていると、親父が何無駄なもの使っているんだって怒鳴って取り上げていたから。

バイトできる兄弟はバイトして、高校時代後半は以前ほど惨めな生活では
なくなった。その後自分は家を離れて就職して結婚して今に至っている。

13: 1 2014/10/18(土)16:18:58 ID:iXjZyR7UI
自分は別に高給取りではないが普通に仕事して入ってきた給料で、
衣食住に不自由はしないし、ちょっとした余暇を楽しむ余裕もある。
自分が子供の時のあの貧乏はなんだったんだろう。父親が働いているのに
貧しい生活を強いられたってどういうことなんだろうと思うとなんというか
怒りのようなものが沸いてきて心が押しつぶされそうになる。

というか子供の時にやれなかったこと、できなかったことは、大人になって
やれたとしても違うものでしかない。どうして自分達は普通の家と違っていたのか
未だにそれを考えると苦しい。

親父もクソだと思うが、正直母親もクソだ。
親父が金にだらしないなら決別するなり、あるいは矯正をするなりすべき
だった。子供がいるからとか、もう一人生まれた変わってくれるはずとか、
根拠のない自分に都合のいい思い込みで、人生を棒に振った。棒に振ったのは
母親だけじゃない、自分達子供だって、苦しい思いをさせられた。

あるいはとっとと離婚しておけば、母方の親戚だって親父にたかられなくて
済んだし、父方親戚も妻子がいないなら、遠慮なく親父を絶縁できただろうに。

いろいろ考えていると もう無理にがんばらなくてもいいななと思う今日この頃


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