1 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:04:20 ID:HXU
http://i.imgur.com/ZaUZJKQ.jpg
http://i.imgur.com/krBVHcI.jpg
劉備玄徳
言わずと知れた蜀漢国の初代皇帝(昭烈帝)
彼がいなければ三国志は無かった。
数ある英雄・実力者が戦乱に散っていく中、したたかにしぶとく生き残り最後には皇帝にまでなった男。
言わば敗戦のプロ。誰にも捕まえられない男。逃げても魅力を失わない、天運に愛された男。
むしろ売りから皇帝にまでなったのだから偉業と言うほか無い。
三国志演義では文弱の聖人君子にされているが、実はバリバリの前線指揮官。しかもかなり有能。
よく比較される劉邦とは違い、本人もかなり優秀で、夏侯惇ぐらいなら余裕で勝利。
さすがに曹操には勝てないが、正面からでは無理だと踏むと、タカ派の曹操に反感を抱く保守派を集めて勢力を築くという秀才でもある。
人物眼も確かで、草莽の中から関羽、張飛、趙雲、諸葛亮を見出し、そして馬謖が役に立たないのを見抜いていた。
自身の戦術的才能もさることながら、自分より秀でたものを認め、それに任せる度量をもち、尚且つ無能者も拒まないという懐の広さ。
曹操とは違ったタイプの君主としての才能を持っていたといえる。
利無ければ富も名誉もあっさりと捨てること、部下に多くを求めないこと、これが劉備の最大の魅力であり特徴だと思う。
2 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:11:42 ID:uBJ
漫画とか小説とかで
※劉禅は今も飾られていない
とか書いてあるけどホントですか!?
4 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:20:26 ID:HXU
>>2
ないよ~。でも代わりに洛帯という成都の郊外の街に、劉禅が溺れた池というのが残ってるw
http://i.imgur.com/ZaUZJKQ.jpg
http://i.imgur.com/krBVHcI.jpg
劉備玄徳
言わずと知れた蜀漢国の初代皇帝(昭烈帝)
彼がいなければ三国志は無かった。
数ある英雄・実力者が戦乱に散っていく中、したたかにしぶとく生き残り最後には皇帝にまでなった男。
言わば敗戦のプロ。誰にも捕まえられない男。逃げても魅力を失わない、天運に愛された男。
むしろ売りから皇帝にまでなったのだから偉業と言うほか無い。
三国志演義では文弱の聖人君子にされているが、実はバリバリの前線指揮官。しかもかなり有能。
よく比較される劉邦とは違い、本人もかなり優秀で、夏侯惇ぐらいなら余裕で勝利。
さすがに曹操には勝てないが、正面からでは無理だと踏むと、タカ派の曹操に反感を抱く保守派を集めて勢力を築くという秀才でもある。
人物眼も確かで、草莽の中から関羽、張飛、趙雲、諸葛亮を見出し、そして馬謖が役に立たないのを見抜いていた。
自身の戦術的才能もさることながら、自分より秀でたものを認め、それに任せる度量をもち、尚且つ無能者も拒まないという懐の広さ。
曹操とは違ったタイプの君主としての才能を持っていたといえる。
利無ければ富も名誉もあっさりと捨てること、部下に多くを求めないこと、これが劉備の最大の魅力であり特徴だと思う。
2 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:11:42 ID:uBJ
漫画とか小説とかで
※劉禅は今も飾られていない
とか書いてあるけどホントですか!?
4 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:20:26 ID:HXU
>>2
ないよ~。でも代わりに洛帯という成都の郊外の街に、劉禅が溺れた池というのが残ってるw
3 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:19:28 ID:HXU
http://i.imgur.com/CzYIG5T.jpg
http://i.imgur.com/qusdIKd.jpg
諸葛亮孔明
蜀漢国の丞相(首相みたいなもの)
彼がいなくても三国時代は無かった。
有能な行政官にして司法官。
兵法にも詳しかった。
劉備に配下になることを嘱望され、三度も劉備自らが彼の家に訪れた「三顧の礼」はあまりにも有名。
人を得て地を得なかった劉備に今後の現実的な展望を語り、蜀の地に攻め入ることを進言した。
蜀漢国成立後は国を良く治め、劉備の死後は彼の志を継ぎ何度も北伐を行い魏と戦った。
彼の業績の中で特筆すべきはやはり行政である。
蜀の地の開拓と開梱を行い、富国強兵に務め、司法を整備し規律のある国家を築き上げた。
蜀の1州で魏の12州と渡り合うだけの国力と士気を保ったのは半端なことではない。
逆に用兵に関しては理屈倒れのところがあるのは否めない。
三国志演義のイメージに反して、実際の諸葛亮は策謀を嫌い、堅実な兵法を好んだ。
その戦い方は場当たり的に正面に出てきた敵と正面から戦うのみであり、速度も遅く負けないようにという方針が目立った。
確かにそれは兵の層の薄い蜀にとっては絶対条件だったかもしれない(蜀はこの軍が大敗したら国防出来ないが、魏には一軍が敗れてもまだ兵がいる)
しかし、漢王朝を取り戻すために中央に奇襲をかけず、支配面を広げるだけの辺境へ出兵には、戦略的な正しさはあっても政略的な意図は感じられず、出師の表にあるような中央を恢復する正義を実行する気が本当にあったのか甚だ疑問である。
少なからず中央にいた魏朝に不満を持つ人間は彼の行動に失望しただろう。
更に、馬謖へ敗戦の責任の押し付けたことや、李厳への理不尽な更迭を見ても、本当の公平さというものを実行できていないという誹りは免れ得ないと思う。
しかしながら、私心なく劉備の意思を継いで実行したという点では忠臣ではあると思うし、小説ほどの軍師ではなかったにせよ、行政官、司法官としてはまれに見る優秀な人材であった。
蜀の独立に足る国力は全て彼れ一人の頭脳から生まれたのだから。
7 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:28:19 ID:uBJ
ほとんど架空の話らしけど
まぁディズニーランドみたいなもんなのかな
9 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:30:53 ID:HXU
>>7
そうだね、あらすじや勝ち負けは史実だから変えられないけど、原因とか活躍した人とかが結構変えられてる。
創作の割合としては太閤記とどっこいどっこいじゃないかなw
8 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:29:32 ID:HXU
http://i.imgur.com/08e151h.jpg
http://i.imgur.com/UwaYXKU.jpg
張飛翼徳(益徳)
ど迫力、怪力無双の暴れん坊にして劉備の義弟。
やることなすこと全てダイナミック。
酒を飲んでは派手に暴れ派手に失敗し、そして劉備に派手に謝る。
その勢いは大喝すれば敵兵がビックリして落馬するほど。
組織戦や特殊任務は不得手だが、その怪力と迫力を生かした突進力で敵をなぎ倒す。
性格的には上にへつらい下に厳しく、更に酒乱ときているので上司としては最悪。
とにかくやることなす事全て豪快。夏侯惇の親戚の幼女を誘拐レイプしてそのまま嫁にしてしまうという世紀末ぶり。
(そしてその嫁との間に生まれた娘が劉禅に嫁ぐというカオスっぷり)
長い間劉備陣営のトラブルメイカーとして活躍(?)していたが、蜀攻略戦で突然知将に変化。
厳顔を飴と鞭で籠絡し、漢中戦では張?をおびき出して叩くという活躍ぶり。
どうした張飛、お前のキャラはそうじゃないだろと心配していたさなか、関羽の復讐戦を劉備に懇願してその出征前に酔って暴れて部下に寝首を掻かれるというオチもちゃんと付けてくれる。
良かった、最後までキャラはぶれてなかった。安心安心。
10 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:34:49 ID:YF6
面白い
蜀好きのおれにはもってこいのスレだな
1の考察も興味深いわ
11 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:35:12 ID:oPU
やっぱりだー!大哥!大哥!(≧∇≦)ノ
こういう武将像が祀られてる施設って結構多いの?
15 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:46:44 ID:HXU
>>10
ちなみに俺は魏ファンなんだけどねwww
>>11
結構あるけど、多分この成都武侯祠が一番大きいと思うよ。
12 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:44:59 ID:HXU
http://i.imgur.com/yb6gIsF.jpg
趙雲子龍
三国志界の必殺仕事人。
地味で自己主張が薄く、目立ったことはあまりやらないが、与えられた仕事は確実にこなす。
特殊な任務遂行に長けていて、諸葛亮が劉備陣営に加わってからは彼の複雑な作戦を履行できる数少ない人材として重用された。
特に退却戦をやらせたら三国一と言っても過言ではないと思う。
勝ち戦での彼は優秀な将軍の粋を出なかったが、敗戦処理をさせると替えのきかない超一流の将軍になる。
追うほうが損をするような状況を、その場その場で組み立てるのであるからこれほど冷静で粘り強い将軍はそうはいないと思う。
武芸にも秀でており単騎で数万の曹操軍の中から阿斗(後の劉禅。劉備の子)を救い出した時は八面六臂の大活躍。
劉備をして子龍全身是胆(ユーアーオールホルモン)と言わしめた人材。
実は蜀最強との噂も。
実力の割に自己主張が少なく、その上他人の尻拭いのような敗戦処理を淡々と見事にこなすというその縁の下の力持ち具合が日本人に大人気。
ちなみに、ここ武侯祠では各武将は諸葛亮視点となっているので、趙雲は老将である。
13 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:46:19 ID:oPU
兄貴のスレを見てると中華料理食べたくなってくる。。
14 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:46:33 ID:IFD
この人も白眉だったん?
16 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:47:47 ID:HXU
>>13
武将で中華料理食べたくなるとはなかなかの豪傑よ。
>>14
老将だから白くしただけじゃないかな。ヒゲともみあげは白くないけど、これは手抜きでしょw
17 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:49:09 ID:IFD
ちょううんこしたいと言うギャグの元ネタでもある
>>17
それは初耳だわw
18 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:49:34 ID:HXU
http://i.imgur.com/lhW5zpH.jpg
黄忠漢升
熱血プッツンおじいちゃん。
いつも周りに年寄りとバカにされて「まだ老いぼれちゃいない」と発奮して戦う。
しかしそれは皆が黄忠を良いように使う為の方便だ!
騙されちゃだめだおじいちゃん!
突撃なんかしちゃだめだ、得意の弓で戦うんだ!
定軍山で夏侯淵の首取ったのはそりゃあすごいけど、あ、ほら、言わんこっちゃない。
夷陵にて老衰。いや戦死。
ていうか皆おじいちゃんをいいように扱いすぎ、特に諸葛亮、お前はダメだ。
KEIROU精神をもっと持とうYO!
19 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:52:52 ID:IFD
若い頃は何してたん?
20 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:53:28 ID:Ehe
黄忠適当すぎひでぇw
晩年の張飛は何だろうなアレ
学習したってより入れ知恵なんじゃなかろーか
22 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:02:12 ID:HXU
>>19
若い頃は劉表のところにいたみたい。
その頃から名声はあったみたいだけど、何したかは伝わってない。残念。
>>20
なんかウィキれば分かることをわざわざ書くのも何だなと思ってさ。
張飛の何だったんだろうな。諸葛亮や?統らの影響が張飛ら脳筋にもあったってことなのかな?
21 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:58:02 ID:HXU
http://i.imgur.com/XduRDmf.jpg
龐統士元
三国志界でも名うての不細工。
実は諸葛亮と比肩するほどの頭脳の持ち主なのだが、持ち前の顔のせいで誰からも相手にされず・・・
劉備ですら彼を最初は見誤った。そんなに頭悪そうな顔していたのか。
そんな彼を別陣営から気にかけてた魯粛はさすがである。三国一の良心である。
とても他人とは思えない?統だが政治に長ける諸葛亮とは反対に軍事に長ける。
入蜀戦でも劉備は諸葛亮ではなく彼を連れて行っている。
その用兵は、迅速であり尚且つ着実である。
発想の優先順位は戦略>政略>戦術であるが、政治的配慮を劉備が行う余地を与えた選択肢を常に用意しているという優秀っぷり。
張魯などの周辺状況をフルに優位になるように利用した戦略を立て、劉璋をソッコーでフルボッコ。
しかし最後まで幸薄い彼は入蜀を前にして劉備の厄を引き受け死んでしまう。
ああ、?統が生きていたら全然違う結果になったであろうに・・・惜しい人をなくしたものだ。
23 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:03:20 ID:Ehe
諸葛亮もホウ統、同じところで勉強してたんとちゃうん?
ホウ統は何で戦略戦術を諸葛亮に教えてやらんかったんか疑問だなぁ
25 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:05:45 ID:HXU
>>23
そうそう、小説では徐庶も水鏡先生のところで同門って事になってるね。
諸葛亮も知識では戦略戦術を知ってたと思うよ。
ただ実践できる才能が微妙だっただけじゃないかな。
教えられて誰でも実践できるのなら、高等教育受けた歴代の皇帝とかは皆用兵達者になるよね。
同じ頭脳明晰でも、諸葛亮は行政官向き、?統は軍事向きだったんでしょう。
30 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:09:37 ID:Ehe
>>25
なるほどなぁ
勉強したであろうのに馬謖みたいなんも居るし、うまく扱えるかどうかは様々よなぁ~
34 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:28:06 ID:HXU
>>30
逆に無学でも天才的な用兵家はたくさんいたし、天性の才能の影響が大きいのかもね。
24 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:04:29 ID:IFD
なんか髭が画一的なんだが後の時代の人が後付けしたん?
27 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:06:34 ID:HXU
>>24
武侯祠自体は唐の時代からできはじめらしいけど、時代時代に回収と拡張工事を受けてるから、今あるのは清朝の物がベースだと思う。
26 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:06:31 ID:wts
劉備の大耳がちゃんと再現されてるな
28 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:07:02 ID:HXU
>>26
手ももっと長くするべきだった!
29 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:08:16 ID:wts
成都行ったん?
33 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:27:19 ID:HXU
>>29
4年住んでた。
32 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:27:01 ID:HXU
http://i.imgur.com/IYT8ZMw.jpg
馬超孟起
馬延の子孫と称する荒武者。
涼州で反乱と帰順というマッチポンプを繰り返していた馬騰の息子。
父親は弱った中央政府に独立をちらつかせて栄達した食えない奴だったが、その息子の馬超は本気で独立できると思ってしまったらしい。
更に曹操が漢中を狙って兵を動かしたのを、やましいところがある馬超は自分を討ちに来たと勘違い。
父と弟が中央にいるのに韓遂を誘って突如反乱!(当然父と弟は処刑される)
周辺の異民族には慕われていたため反乱に呼応する者も多く、一時は曹操を追い詰めるまでに至った。
しかし頭が足りない馬超は韓遂との仲を離間され、反乱はあえなく衰亡。
のこのこと兵をまとめて引き返してその後は潜伏。
それでも懲りない馬超は数年後に再起してまたまた反乱。
しかし楊阜らのガチの抵抗にあって、これはほとんど上手く行かずに張魯の元へ亡命。
その後、劉備の元へ流れ着き、最後は成都の劉璋をビビらせて終わり。
その後はフェードアウトで死亡。
一体馬超とは何だったのか?
35 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:31:58 ID:IFD
趙括とかいって超負けた奴も昔いたしね
37 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:37:52 ID:HXU
>>35
そういう言葉遊びを聞くと、
彼女がオレのボウガチョウをころころと弄ぶと、オレのバチョウした
テツリキツがむくむくと大きくなる。ゴツトツコツ!といわんばかりに屹立した
オレのカコウボウはまさしくテイホウと呼ぶに相応しい。
彼女の舌がチョウギョクにゲンハクコと絡みつく。
そろそろか。オレは立ち上がると彼女のジュンユウなマンチョウに
チントウをソウショクする。
ガクシン、ギエン、ガクシン、ギエンとリズミカルに腰をふる。
彼女のホシツしたジュンウケイがカコウオンを奏で始める。
「シャ、シャマカになっちゃう!
アカイナン!アカイナン!テイイク、テイイク、コウソンサァーーーンッッッ!!」
彼女はひときわ大きな声をあげる。そしてオレのチンブからは
トウトヌとエキトクが迸り、ぐにゃりとロシュクする。
このコピペを思い出す。
36 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:34:50 ID:HXU
http://i.imgur.com/Tb8qRGd.jpg
姜維伯約
蜀漢国後期の有力武将。
諸葛亮の二番弟子。劉備との直接面識はなし。
最初は魏の若き駿将として現われ、武で趙雲、智で諸葛亮の舌を巻く、そして諸葛亮に弟子入りを懇願される・・・というのは演義のお話。
実際は蜀軍の侵攻に太守が逃げてしまった城の友好の使者として蜀軍へ来ていたところで、蜀軍が撤退してしまったのでそのまま蜀へ一緒に行くハメになっちゃったちょっとかわいそうな子。
その後才能を認められ諸葛亮の弟子となる。
諸葛亮存命中はその手足となって働き、その死後は??の元で軍事に従事する。
蔣琬、費禕の亡き後は、軍事を一手に握り諸葛亮の意志を継ぐため北伐を続ける。
後期のホープだったが、度重なる遠征で結果的には国力を疲弊させてしまう。
劉備・諸葛亮の遺志を継ぎ最後まで魏と戦い抜くが衆寡敵せず剣閣関で涙しながら剣を折る。
蜀滅亡後もクーデターを起こすなど蜀復興に努めたが敗死。
判官びいきで日本でも人気がある。
38 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:48:58 ID:HXU
http://i.imgur.com/JzUWPXg.jpg
左:馮習
蜀侵攻ぐらいから名前が見え始める武将。
その後の夷陵の戦いでは緒戦で活躍。
しかし陸遜にフルボッコにされて戦死。
なぜか彼が呉軍を侮っていたせいで蜀軍は負けたとかスケープゴートにされるかわいそうな人。
先生、夷陵の敗因は普通に劉備が呉軍を侮っていたせいだと思います!
右:張南
馮習と同時期に名前が出てきて同じ夷陵の戦いで死ぬのでよくセットにされる。
キャラを立てる前に死んでしまったかわいそうな人。
39 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:53:27 ID:IFD
同じ名前で焦触とセットになってる人のがかわいそう
40 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)14:18:22 ID:HXU
http://i.imgur.com/NFXcMgp.jpg
左:張嶷
万能無敵超人。もっと早く生まれていれば張遼クラスの名声を得ていたかもしれない人。
世にでるきっかけは、自分の住む県城が山賊に襲われた時。
県令が家族や市民を置き去りにして逃亡した後、なんと張嶷は単身県令の妻子を守りながら白刃をふるって県城を脱出。
その噂を聞きつけた劉備に召しだされる。
最初はその出自からか山賊討伐などを命じられていたが、ゲリラ戦術を行う山賊を一網打尽にするため、偽りの和睦の宴会を開き、賊が集まったところをMINAGOROSHI!
騙したな!と罵る山賊に「外道お前らにそもそも道を説く資格などない」とあっさりRONPA!
その後は馬忠の副将として活躍し、羌族など異民族相手に連戦連勝。
その功績が認められて、異民族に占領されて南蛮天国になってしまった越?郡の太守に任じられて、これを実力奪取、周辺もあっさり平定。
しかしここでは飴と鞭を使い分けて異民族を上手に手懐け、蜀の国力増大に多大な貢献をした。
張嶷が後方を慰撫し続けていたので諸葛亮も姜維も北伐が続けられたのである。
晩年は歩行困難になったが、それでも姜維の北伐に従った。
知略で城を落としたりと相変わらずの活躍だったが、蜀が不利になると、倍以上の兵数を持つ敵将除質の部隊を道連れに戦死した。
蜀を支える屋台骨であったが、生まれる時代が違っていれば、中央でもっと大活躍したかもしれない人材である。
右:馬忠
上記の張嶷の元上司。
張嶷ほどの才能の煌きは感じさせないが、篤実な行政と確実な軍事行動で蜀の安定を支えた。
才能あるものを自由に活躍させる度量も持っていて、彼の下で育った将帥も多い。
蜀には数少ない教導型の将軍と言え、人材の育成と治安の維持に従事した。
41 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)14:27:16 ID:HXU
http://i.imgur.com/R1SUFRP.jpg
王平
王平だけど~横柄じゃない♪
文盲の軍人。
最初は張魯のおまけで曹操に基準した異民族の付き人として曹操の下へ行く。
そこでなぜか気に入られ位を与えられていたが、劉備の漢中攻略戦の際に劉備陣営に降りその後は蜀軍の将軍となった。
諸葛亮支配下の教養重視主義の幕僚の中で、文盲であることを理由に軽視されていたが、街亭の戦いで活躍し名を挙げる。
その内容は、兵法に通じた諸葛亮一番弟子の馬謖の戦術を、無学な王平が実戦経験から諫め、その結果は馬謖は王平の指摘通りに失敗し、そして馬謖は唯一崩れず踏みとどまった王平に助けられ撤退したというものだった。
これによって王平は実戦は机の上でなくて現場で行われている事を証明した。
その後も特に防衛戦に実力を発揮し、蜀の国土を死ぬまで守りぬいた。
54 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)15:17:36 ID:Vrt
オウヘイって張コウだったか徐晃だったかの元部下だったのは演義?正史?
55 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)15:24:38 ID:HXU
>>54
特に誰かの子飼いの部下だったって記述は正史にはないよ。
単純に定軍山の戦い辺りで曹操から小部隊を任されただけ。
その時々でどの指揮下に入ってたかわからないぐらいの部隊ってことでしょ。
45 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)14:44:28 ID:HXU
傅僉
http://i.imgur.com/3G093Eh.jpg
蜀の滅亡時に降伏せずに蜀に殉じて戦死したため、忠義の士と讃えられた。
そのせいか、演義では創作で活躍の場が増やされている。
42 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)14:33:15 ID:HXU
http://i.imgur.com/VAmIK7f.jpg
向寵
なんかキャラが立つほど目立った活躍はしてないけど、地味に名前が出てくる人。
夷陵の戦いの退却で功があったらしい。
あと、なんといっても出師の表で「善良、公平、軍事に精通!」と褒められているので有名。
43 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)14:39:20 ID:HXU
http://i.imgur.com/iB4BPNi.jpg
廖化
ミスター蜀軍。
蜀漢国の興亡をその目で見届けた人。
劉備の荊州時代辺りから名前がちらほら見え始め、関羽指揮下で下積み時代を送る。
その後も地味に活躍をし続け、蜀の人材が枯渇するとともに一級線に出てくるようになる。
一軍の将になった後も地味に勝ち続け、安定した活躍を続けた。
晩年は姜維の国力を無視した北伐を非難したりと武闘派とは違う路線に。
蜀の降伏後、それを見届けるかのように病死した。
46 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)14:51:52 ID:HXU
http://i.imgur.com/aESUUnW.jpg
張翼
漢の功臣張良の子孫というバリバリの名家出身。
しかし、先祖の張良とは違ってバリバリの武闘派!
趙雲の指揮下で対曹操軍相手に活躍し、その功で各地の太守を歴任。
しかし法に厳しすぎて、法をいまいち理解できない異民族の反感を買い、統治に失敗。
更迭されたが、後任の馬忠がやりやすいようにと軍備はちゃんと整えて置いてあげるナイスガイ!
その後は北伐に従い前線で活躍し続け、戦術規模での勝利をし続ける。
が、後年は姜維の北伐に批判的で、その指揮下に従いなからも北伐を諌め続けた。
最期は蜀の降伏時の姜維と鐘会の反乱に巻き込まれて殺されるというかわいそうなものだった。
47 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)14:56:54 ID:HXU
http://i.imgur.com/S4KxpFA.jpg
孫乾
パシリの達人。
パシリもここまでくれば大したものである。
劉備のパシリとして、中国全土を右往左往!
相手が袁紹だろうが劉表だろうがちゃんとお使いを済ませて劉備の居場所を確保して帰ってくる。
劉備が生き残った原因の一翼を担った存在である。
戦国時代に生まれていたら弁士として活躍しただろうに。もったいない。
?食其なんか目じゃないぜ。
48 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)15:00:10 ID:HXU
http://i.imgur.com/zhGURC5.jpg
張苞
張飛の長男・・・らしい。
名前だけが出てくるだけで、しかも父より先に死んだという記述のみ。
演義ではなんかすごい活躍させられているが、本当は病弱な人だったんだろう。
49 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)15:03:31 ID:HXU
http://i.imgur.com/0zdUmcM.jpg
張遵
張苞の子。
叔母が劉禅に嫁いでいることから外戚として勢力を持っていたらしい。
蜀滅亡時に戦死。
50 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)15:09:02 ID:HXU
http://i.imgur.com/CyjpIXQ.jpg
劉諶
劉禅の五男。
張皇后との子供なら張飛の孫でもある。
蜀滅亡時に降伏しようとする父に反対。
国に殉じる意志を妻に伝えると妻は自害、その妻の首を持参して劉備の廟で自分の首を刎ねて自害した。
その行動を美談として受け取った後世の人から蜀漢国最後の輝きの様に語られている(像も金ぴかだし)
しかし、その熱意と行動力をもっと実践的な行動に移せなかったのかと俺は思う。
追い詰められた結果が自害とは、いかにも貴族的で、劉備が聞いたら嘆くと思う。
劉備なら全てを捨てて身一つで脱出し、屈せず機会を待ったと思う。
51 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)15:11:46 ID:HXU
ここらへんになってくると像も適当になってくるw
http://i.imgur.com/56hVO1j.jpg
左:関興
関羽の子。
父の死後、その後を継ぎ、諸葛亮に期待されたが数年で死んだ。
右:周倉
架空の人物。関羽のそばにいたいという漢民族の願いが作り上げた妄想の産物。
53 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)15:17:23 ID:HXU
http://i.imgur.com/FbyUJeY.jpg
左:関平
関羽の子。そう、史実では実子である。そして、関羽と一緒に斬られたとのみ記述がある。
演義であれだけの活躍の場が与えられたのは、それだけ関羽が漢民族に愛されているということであろう。
それにしても、あの逃亡生活の中で、いつ戦場に出られるような子供を作る時間があったのだろう?
逆算すると徐州時代か曹操配下時代か?
右:趙累
荊州時代の関羽に付けられていた都督。
でも関羽はすげーワンマンだからあんまり活躍の機会なし。
ついに歴史に一言も名言を残すこともなく名を消した。
57 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)15:58:10 ID:HXU
http://i.imgur.com/YRbaYn0.jpg
簡雍
劉備の旗揚げ時代からの配下で生粋のゴロツキ。
劉備に寄生してブラブラしていたが、一宿一飯の恩義なのか、どんな苦難にも劉備を見捨てずついてくる。
しかし、あまり役にはたたない。軍も率いることが出来ないし、策謀を巡らすわけでもない。
そんな彼は普段は劉備の話し相手をしたり、色んな所を出入りしていたりと、まさに無為徒食。
酒の席でもだらしなく、劉備や諸葛亮がいるのに寝そべって飲んだりとやりたい放題。
しかし、ヤクザが年取って人格者になるのと同じように、彼の無能具合も歳とともに凄みを増してくる。
交戦中の劉璋の城にぶらりと一人で現れて、居候になったり(軍を率いた実績や計略に関わった経歴がないから警戒されず無害だと思われたのだろう)
それで劉璋と仲良くなって劉璋を降伏に導いてしまう辺り、尋常な胆力と知力ではない。
というか、胆力と知力ではこれはなせる技ではないと思う。
思うに、彼は儒教や兵法的な胆力知力とは無縁の、老荘の徒だったのではないか?
無為を以って最後に有為をなした彼、そして無能だろうがなんだろうがついてくるものは抱え込む懐の深い劉備。
まさにこの君主をしてこの臣下ありといえる。
後は禁酒令をトンチで批判した話も有名だ。
水不足で禁酒令が出た時、酒造の道具を持っていた者が罰せられそうになった。
それを聞いた簡雍は街をゆく男女を指さし、
「あいつらは姦淫罪を犯そうとしてるのに何で罰せられないんだ?」
と劉備に聞いた。
びっくりした劉備が
「何でそんなこと分かるの?」
と聞くと、簡雍は
「だって姦淫罪を犯す道具を持ってんじゃん」
と揶揄した。
最高の皮肉だ。これで酒造の道具を持ってた人間は不問になった。
彼の飄々した人柄を表すエピソードだ。
58 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)16:25:41 ID:HXU
http://i.imgur.com/Od859T9.jpg
呂凱
なんとあの呂不韋の後裔らしい。
しかしその人柄は篤実そのもの。
南蛮を徳化し人々にその誠実さを愛された。
南蛮がひとまず平安を保っていられたのは彼のおかげだろう。
しかしそんな彼も後に反乱で命を落とすことになるのだが・・・
平和な時代に生まれれば良い太守になっただろうに。
59 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)16:32:08 ID:HXU
http://i.imgur.com/VaOUjFw.jpg
蒋琬
諸葛亮の後継者。
県令として適当な仕事をしてたが、ある日仕事もせずに酒のんで暮らしているのが劉備に見つかり罰せられそうになる。
そこを諸葛亮に、彼は県令の器なんかに収まる人材じゃないとフォローされて事なきを得てから諸葛亮の忠実な幕僚に。
彼の行政と軍人行動を支えるために日々数字と戦う毎日。
諸葛亮の仕事量に比例する数の業務をこなしていたのだから鉄人という他ない。
計算の鬼だ。
彼の後方支援のお陰で蜀軍は徴税も兵站も滞り無く行われていたと言って良い。
そんな彼を諸葛亮は死に挑んで後継者に指名した。自分の仕事量を引き継げるのは彼しかいないと見込んだのであろう。
後を引き継いだ蒋琬は、常に諸葛亮と比較されて陰口を叩かれれても、諸葛亮に及ばないのは当然と聞き流して泰然と業務を続けたという。
まさに宰相の器であったと言える。
軍事には積極的に関わらなかったが、胆力は持ち合わせていて、理解もあった。
諸葛亮の影に隠れがちだが、蜀を支えた大きな異才と言える。
60 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)16:36:20 ID:HXU
http://i.imgur.com/BcWbKah.jpg
傅彤
傅僉の父。いきなり夷陵の戦いの退却時に名前が出てきて、呉軍に降伏勧告を受ける。
そこで漢の将軍は呉の犬畜生には降伏出来ないと拒否して戦死した。
ある意味、この一言で歴史に名の残した人物である。
61 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)16:42:34 ID:HXU
http://i.imgur.com/OJ555vp.jpg
董和
行政のプロ。劉璋、劉備と使える。
どこの太守になっても、法を順守し倹約に務め、民の暮らしが楽になるように努めた。
民に愛され、異動を取りやめる署名が行われるほどだった。
融通もきいて、ある罪に連座しそうになった李恢を合法的に助かるようにしむけた事もあった。
諸葛亮に敬愛され、彼は董和に行政を学んだ節が多い。
彼の目は君主ではなくて常に民に向けられていたと言って良いと思う。
使える君主が変わっても、彼の下の民は幸せだったのだから。
62 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)16:48:18 ID:HXU
http://i.imgur.com/89XgttW.jpg
陳震
蜀の外交官。
蜀と呉の間を度々往復した。
若年の頃は従軍もしていたようである。
誠実さを見込まれ使者に選ばれてたり太守を歴任したりと諸葛亮には気に入られていたようである。
63 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)16:52:51 ID:HXU
http://i.imgur.com/KXSydou.jpg
秦宓
高名な学者であり、人材派遣業も営む。
自身を招聘しに来た君主に何故か自分以外の人を紹介・斡旋する事を繰り返した。
劉備が入蜀してからは思うところがあったのか出仕してきた。
その後は劉備の関羽敵討を諌めたりしたりなんだり。
64 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)16:55:10 ID:HXU
http://i.imgur.com/MEMoGLq.jpg
楊洪
超地味キャラ。
覚えている人なんか居るのか?
俺も思わず調べてしまった。
ウィキ以上の事がかけないので
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E6%B4%AA
参照のこと・・・
65 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)16:58:01 ID:HXU
http://i.imgur.com/AlYDgEX.jpg
程畿
ごめん、この人もマジで覚えてない・・・
一応正史は読んだはずなんだけど・・・
というわけでウィキ先生頼んます!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E7%95%BF
66 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)16:58:41 ID:HXU
というわけで武侯祠の像は以上だぜ!
最期はウィキ頼りで情けなかったな!
67 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)17:32:18 ID:HXU
http://i.imgur.com/P0KgpSY.jpg
おまけ。
魏延
魏延は諸葛亮の遺命に逆らったという性質上、成都の武侯祠には像がない。
ただし、五丈原の武侯祠には彼の像があるので画像をUPする。
魏延、彼を理解できていたのは劉備だけだったのかもしれない。
劉備に投降した魏延はまさに水を得た魚で、破竹のような勢いで活躍をし続けた。
その結果、張飛より能力は上と判断され、大事な漢中を劉備に任された。
しかし、劉備の後を継いで統帥権を得た諸葛亮と、感覚的に戦場を往来する彼はまさに水と油だった。
諸葛亮が右だと思えば魏延は左と、彼らの意見が交わることは決してなかった。
そして、魏延にしたら自分の方が戦は玄人だという自負があったのだろう、諸葛亮の出した戦術案にはことごとく異を唱えた。
後世から客観的に見ても、諸葛亮より魏延の方が戦術的価値がある作戦を立案している。
というか、あろうことか戦略、政略的に見ても魏延の方が意義がある戦いを立案しているのだ。
例えば、最初の北伐で蜀の領土を辺境に広げることのみにこだわった諸葛亮と対照的に、魏延は長安を急襲して天下に義を示そうとした。
これがまさに北伐の元々の意義であり、そしてそれに呼応する者こそ天下の援軍であったはずだった。
結局諸葛亮は辺境を冒して終わり、呼応したのは異民族ばかりだった。しかもそれも魏軍の襲来にあっけなく奪い返された。
一体何のための北伐だったのか?
結果論になるが、慎重に帰した諸葛亮の戦略では、ついぞ魏の土地は奪えなかった。
そして蜀は諸葛亮の死後30年で滅びるのである。
それなら魏延の様に、危ないかけでも天下に魏を示す戦いをするべきではなかったのか?
というか、そもそもそのための入蜀であり、皇帝を践祚した大義名分出会ったのではなかったか?
諸葛亮は蜀を肥え太らせるという政略から最期まで脱さなかった。
天下を見て兵を動かそうとしていたのは魏延一人だったといえる。
しかも、その実力は十分にあったと思う。
当時、魏で生き残っていた歴戦の勇士で最強と目されていた張?の軍も彼は軽々と打ち破ったし、やれるところまでやってみてほしかった。
結局、諸葛亮の保守的で本末転倒な政略にもみ潰されて、彼が引き継いだ劉備の正義は永遠に果たされる機会を失った。
68 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)17:35:36 ID:HXU
以上、貼りたいものは全て貼り、言いたいことは全て言った!
69 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)17:37:17 ID:IFD
乙
関羽さんは関帝廟で別枠?
70 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)17:42:09 ID:HXU
>>69
関帝廟???
中国全土の関帝廟やってたらそれだけで1000レス行きそうwww
あれ?そういえば何で関羽ないんだろう?
画像見逃してたかな???
71 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)17:44:34 ID:IFD
そんなにいっぱいあるのかwwwwwwwwwww
愛されてるのねwww
72 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)17:57:26 ID:HXU
http://i.imgur.com/lucSG4p.jpg
http://i.imgur.com/fWtHAjK.jpg
全国の関羽ファンの皆様大変申し訳ありませんでした。
関羽を見逃していて、しかも>>69大人に指摘されるまで気が付きませんでした。
すいません。
というわけで、
関羽雲長
ヒゲがやたら長い劉備の義弟。
そして顔が常に赤黒い。多分傍から見たらかなり怪しい人。
赤い物体からやたら長い毛が生えていたら、銅鑼をジャーンジャーンジャーンと鳴らして、声を合わせて
「げぇ、関羽!」
と叫ぼう。
閑話休題。
彼は義の人である。
曹操に下った時も忠犬ハチ公よろしく劉備への義を貫いた。
そして独尊の人でもあった。
プライドがビンビンに高く、劉備以外に傅くのを良しとしない人。
武勇と用兵もかなりのもので、魏の名だたる武将を何度も退けている。
曹操が惚れ込むのも無理は無い。
少なくとも張遼と同程度には評価されていると見て間違いない。
その見込は正しく、荊州では大活躍。
ようやくまともな兵力と武装を手に入れた関羽にもはや敵なし状態だった。
関羽が居る限り、魏は荊州を取り戻せなかっただろう。
趣味としては、春秋左氏伝が大好きで片時も手放さない。でもその割には政治や外交がど下手・・・
彼は春秋左氏伝から一体何を学んだんだろうか?
少なとも行政や外交は学んでなさそうだ。
最後はそのプライドと外交力の無さが仇となって呉の計略にはまりあえない最期を遂げる。
曹操軍はあくまでベースが王道で、味付け程度に計略があった。
だから関羽と魏軍が戦う時は、両将のプライドのぶつかり合いであり、ある程度のスポーツマンシップ的な息の掛け合いがあった。
しかし呉軍は計略ありきで、計略が決まって相手が弱ってから攻めてくる。
プライドが高く、内に敵と味方がはっきり分かれている関羽には呉は天敵だったといえる。
死後は、その義理堅さから、信用第一の商売人に信奉され神となった。
知名度としては君主の劉備や、上司の諸葛亮を超えてしまっている。
73 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)17:58:10 ID:HXU
ふぅ、関羽ごめんよ。これで完!
74 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)19:36:01 ID:gVA
おつおつ!
http://i.imgur.com/CzYIG5T.jpg
http://i.imgur.com/qusdIKd.jpg
諸葛亮孔明
蜀漢国の丞相(首相みたいなもの)
彼がいなくても三国時代は無かった。
有能な行政官にして司法官。
兵法にも詳しかった。
劉備に配下になることを嘱望され、三度も劉備自らが彼の家に訪れた「三顧の礼」はあまりにも有名。
人を得て地を得なかった劉備に今後の現実的な展望を語り、蜀の地に攻め入ることを進言した。
蜀漢国成立後は国を良く治め、劉備の死後は彼の志を継ぎ何度も北伐を行い魏と戦った。
彼の業績の中で特筆すべきはやはり行政である。
蜀の地の開拓と開梱を行い、富国強兵に務め、司法を整備し規律のある国家を築き上げた。
蜀の1州で魏の12州と渡り合うだけの国力と士気を保ったのは半端なことではない。
逆に用兵に関しては理屈倒れのところがあるのは否めない。
三国志演義のイメージに反して、実際の諸葛亮は策謀を嫌い、堅実な兵法を好んだ。
その戦い方は場当たり的に正面に出てきた敵と正面から戦うのみであり、速度も遅く負けないようにという方針が目立った。
確かにそれは兵の層の薄い蜀にとっては絶対条件だったかもしれない(蜀はこの軍が大敗したら国防出来ないが、魏には一軍が敗れてもまだ兵がいる)
しかし、漢王朝を取り戻すために中央に奇襲をかけず、支配面を広げるだけの辺境へ出兵には、戦略的な正しさはあっても政略的な意図は感じられず、出師の表にあるような中央を恢復する正義を実行する気が本当にあったのか甚だ疑問である。
少なからず中央にいた魏朝に不満を持つ人間は彼の行動に失望しただろう。
更に、馬謖へ敗戦の責任の押し付けたことや、李厳への理不尽な更迭を見ても、本当の公平さというものを実行できていないという誹りは免れ得ないと思う。
しかしながら、私心なく劉備の意思を継いで実行したという点では忠臣ではあると思うし、小説ほどの軍師ではなかったにせよ、行政官、司法官としてはまれに見る優秀な人材であった。
蜀の独立に足る国力は全て彼れ一人の頭脳から生まれたのだから。
7 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:28:19 ID:uBJ
ほとんど架空の話らしけど
まぁディズニーランドみたいなもんなのかな
9 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:30:53 ID:HXU
>>7
そうだね、あらすじや勝ち負けは史実だから変えられないけど、原因とか活躍した人とかが結構変えられてる。
創作の割合としては太閤記とどっこいどっこいじゃないかなw
8 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:29:32 ID:HXU
http://i.imgur.com/08e151h.jpg
http://i.imgur.com/UwaYXKU.jpg
張飛翼徳(益徳)
ど迫力、怪力無双の暴れん坊にして劉備の義弟。
やることなすこと全てダイナミック。
酒を飲んでは派手に暴れ派手に失敗し、そして劉備に派手に謝る。
その勢いは大喝すれば敵兵がビックリして落馬するほど。
組織戦や特殊任務は不得手だが、その怪力と迫力を生かした突進力で敵をなぎ倒す。
性格的には上にへつらい下に厳しく、更に酒乱ときているので上司としては最悪。
とにかくやることなす事全て豪快。夏侯惇の親戚の幼女を誘拐レイプしてそのまま嫁にしてしまうという世紀末ぶり。
(そしてその嫁との間に生まれた娘が劉禅に嫁ぐというカオスっぷり)
長い間劉備陣営のトラブルメイカーとして活躍(?)していたが、蜀攻略戦で突然知将に変化。
厳顔を飴と鞭で籠絡し、漢中戦では張?をおびき出して叩くという活躍ぶり。
どうした張飛、お前のキャラはそうじゃないだろと心配していたさなか、関羽の復讐戦を劉備に懇願してその出征前に酔って暴れて部下に寝首を掻かれるというオチもちゃんと付けてくれる。
良かった、最後までキャラはぶれてなかった。安心安心。
10 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:34:49 ID:YF6
面白い
蜀好きのおれにはもってこいのスレだな
1の考察も興味深いわ
11 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:35:12 ID:oPU
やっぱりだー!大哥!大哥!(≧∇≦)ノ
こういう武将像が祀られてる施設って結構多いの?
15 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:46:44 ID:HXU
>>10
ちなみに俺は魏ファンなんだけどねwww
>>11
結構あるけど、多分この成都武侯祠が一番大きいと思うよ。
12 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:44:59 ID:HXU
http://i.imgur.com/yb6gIsF.jpg
趙雲子龍
三国志界の必殺仕事人。
地味で自己主張が薄く、目立ったことはあまりやらないが、与えられた仕事は確実にこなす。
特殊な任務遂行に長けていて、諸葛亮が劉備陣営に加わってからは彼の複雑な作戦を履行できる数少ない人材として重用された。
特に退却戦をやらせたら三国一と言っても過言ではないと思う。
勝ち戦での彼は優秀な将軍の粋を出なかったが、敗戦処理をさせると替えのきかない超一流の将軍になる。
追うほうが損をするような状況を、その場その場で組み立てるのであるからこれほど冷静で粘り強い将軍はそうはいないと思う。
武芸にも秀でており単騎で数万の曹操軍の中から阿斗(後の劉禅。劉備の子)を救い出した時は八面六臂の大活躍。
劉備をして子龍全身是胆(ユーアーオールホルモン)と言わしめた人材。
実は蜀最強との噂も。
実力の割に自己主張が少なく、その上他人の尻拭いのような敗戦処理を淡々と見事にこなすというその縁の下の力持ち具合が日本人に大人気。
ちなみに、ここ武侯祠では各武将は諸葛亮視点となっているので、趙雲は老将である。
13 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:46:19 ID:oPU
兄貴のスレを見てると中華料理食べたくなってくる。。
14 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:46:33 ID:IFD
この人も白眉だったん?
16 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:47:47 ID:HXU
>>13
武将で中華料理食べたくなるとはなかなかの豪傑よ。
>>14
老将だから白くしただけじゃないかな。ヒゲともみあげは白くないけど、これは手抜きでしょw
17 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:49:09 ID:IFD
ちょううんこしたいと言うギャグの元ネタでもある
>>17
それは初耳だわw
18 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:49:34 ID:HXU
http://i.imgur.com/lhW5zpH.jpg
黄忠漢升
熱血プッツンおじいちゃん。
いつも周りに年寄りとバカにされて「まだ老いぼれちゃいない」と発奮して戦う。
しかしそれは皆が黄忠を良いように使う為の方便だ!
騙されちゃだめだおじいちゃん!
突撃なんかしちゃだめだ、得意の弓で戦うんだ!
定軍山で夏侯淵の首取ったのはそりゃあすごいけど、あ、ほら、言わんこっちゃない。
夷陵にて老衰。いや戦死。
ていうか皆おじいちゃんをいいように扱いすぎ、特に諸葛亮、お前はダメだ。
KEIROU精神をもっと持とうYO!
19 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:52:52 ID:IFD
若い頃は何してたん?
20 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:53:28 ID:Ehe
黄忠適当すぎひでぇw
晩年の張飛は何だろうなアレ
学習したってより入れ知恵なんじゃなかろーか
22 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:02:12 ID:HXU
>>19
若い頃は劉表のところにいたみたい。
その頃から名声はあったみたいだけど、何したかは伝わってない。残念。
>>20
なんかウィキれば分かることをわざわざ書くのも何だなと思ってさ。
張飛の何だったんだろうな。諸葛亮や?統らの影響が張飛ら脳筋にもあったってことなのかな?
21 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:58:02 ID:HXU
http://i.imgur.com/XduRDmf.jpg
龐統士元
三国志界でも名うての不細工。
実は諸葛亮と比肩するほどの頭脳の持ち主なのだが、持ち前の顔のせいで誰からも相手にされず・・・
劉備ですら彼を最初は見誤った。そんなに頭悪そうな顔していたのか。
そんな彼を別陣営から気にかけてた魯粛はさすがである。三国一の良心である。
とても他人とは思えない?統だが政治に長ける諸葛亮とは反対に軍事に長ける。
入蜀戦でも劉備は諸葛亮ではなく彼を連れて行っている。
その用兵は、迅速であり尚且つ着実である。
発想の優先順位は戦略>政略>戦術であるが、政治的配慮を劉備が行う余地を与えた選択肢を常に用意しているという優秀っぷり。
張魯などの周辺状況をフルに優位になるように利用した戦略を立て、劉璋をソッコーでフルボッコ。
しかし最後まで幸薄い彼は入蜀を前にして劉備の厄を引き受け死んでしまう。
ああ、?統が生きていたら全然違う結果になったであろうに・・・惜しい人をなくしたものだ。
23 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:03:20 ID:Ehe
諸葛亮もホウ統、同じところで勉強してたんとちゃうん?
ホウ統は何で戦略戦術を諸葛亮に教えてやらんかったんか疑問だなぁ
25 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:05:45 ID:HXU
>>23
そうそう、小説では徐庶も水鏡先生のところで同門って事になってるね。
諸葛亮も知識では戦略戦術を知ってたと思うよ。
ただ実践できる才能が微妙だっただけじゃないかな。
教えられて誰でも実践できるのなら、高等教育受けた歴代の皇帝とかは皆用兵達者になるよね。
同じ頭脳明晰でも、諸葛亮は行政官向き、?統は軍事向きだったんでしょう。
30 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:09:37 ID:Ehe
>>25
なるほどなぁ
勉強したであろうのに馬謖みたいなんも居るし、うまく扱えるかどうかは様々よなぁ~
34 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:28:06 ID:HXU
>>30
逆に無学でも天才的な用兵家はたくさんいたし、天性の才能の影響が大きいのかもね。
24 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:04:29 ID:IFD
なんか髭が画一的なんだが後の時代の人が後付けしたん?
27 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:06:34 ID:HXU
>>24
武侯祠自体は唐の時代からできはじめらしいけど、時代時代に回収と拡張工事を受けてるから、今あるのは清朝の物がベースだと思う。
26 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:06:31 ID:wts
劉備の大耳がちゃんと再現されてるな
28 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:07:02 ID:HXU
>>26
手ももっと長くするべきだった!
29 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:08:16 ID:wts
成都行ったん?
33 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:27:19 ID:HXU
>>29
4年住んでた。
32 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:27:01 ID:HXU
http://i.imgur.com/IYT8ZMw.jpg
馬超孟起
馬延の子孫と称する荒武者。
涼州で反乱と帰順というマッチポンプを繰り返していた馬騰の息子。
父親は弱った中央政府に独立をちらつかせて栄達した食えない奴だったが、その息子の馬超は本気で独立できると思ってしまったらしい。
更に曹操が漢中を狙って兵を動かしたのを、やましいところがある馬超は自分を討ちに来たと勘違い。
父と弟が中央にいるのに韓遂を誘って突如反乱!(当然父と弟は処刑される)
周辺の異民族には慕われていたため反乱に呼応する者も多く、一時は曹操を追い詰めるまでに至った。
しかし頭が足りない馬超は韓遂との仲を離間され、反乱はあえなく衰亡。
のこのこと兵をまとめて引き返してその後は潜伏。
それでも懲りない馬超は数年後に再起してまたまた反乱。
しかし楊阜らのガチの抵抗にあって、これはほとんど上手く行かずに張魯の元へ亡命。
その後、劉備の元へ流れ着き、最後は成都の劉璋をビビらせて終わり。
その後はフェードアウトで死亡。
一体馬超とは何だったのか?
35 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:31:58 ID:IFD
趙括とかいって超負けた奴も昔いたしね
37 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:37:52 ID:HXU
>>35
そういう言葉遊びを聞くと、
彼女がオレのボウガチョウをころころと弄ぶと、オレのバチョウした
テツリキツがむくむくと大きくなる。ゴツトツコツ!といわんばかりに屹立した
オレのカコウボウはまさしくテイホウと呼ぶに相応しい。
彼女の舌がチョウギョクにゲンハクコと絡みつく。
そろそろか。オレは立ち上がると彼女のジュンユウなマンチョウに
チントウをソウショクする。
ガクシン、ギエン、ガクシン、ギエンとリズミカルに腰をふる。
彼女のホシツしたジュンウケイがカコウオンを奏で始める。
「シャ、シャマカになっちゃう!
アカイナン!アカイナン!テイイク、テイイク、コウソンサァーーーンッッッ!!」
彼女はひときわ大きな声をあげる。そしてオレのチンブからは
トウトヌとエキトクが迸り、ぐにゃりとロシュクする。
このコピペを思い出す。
36 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:34:50 ID:HXU
http://i.imgur.com/Tb8qRGd.jpg
姜維伯約
蜀漢国後期の有力武将。
諸葛亮の二番弟子。劉備との直接面識はなし。
最初は魏の若き駿将として現われ、武で趙雲、智で諸葛亮の舌を巻く、そして諸葛亮に弟子入りを懇願される・・・というのは演義のお話。
実際は蜀軍の侵攻に太守が逃げてしまった城の友好の使者として蜀軍へ来ていたところで、蜀軍が撤退してしまったのでそのまま蜀へ一緒に行くハメになっちゃったちょっとかわいそうな子。
その後才能を認められ諸葛亮の弟子となる。
諸葛亮存命中はその手足となって働き、その死後は??の元で軍事に従事する。
蔣琬、費禕の亡き後は、軍事を一手に握り諸葛亮の意志を継ぐため北伐を続ける。
後期のホープだったが、度重なる遠征で結果的には国力を疲弊させてしまう。
劉備・諸葛亮の遺志を継ぎ最後まで魏と戦い抜くが衆寡敵せず剣閣関で涙しながら剣を折る。
蜀滅亡後もクーデターを起こすなど蜀復興に努めたが敗死。
判官びいきで日本でも人気がある。
38 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:48:58 ID:HXU
http://i.imgur.com/JzUWPXg.jpg
左:馮習
蜀侵攻ぐらいから名前が見え始める武将。
その後の夷陵の戦いでは緒戦で活躍。
しかし陸遜にフルボッコにされて戦死。
なぜか彼が呉軍を侮っていたせいで蜀軍は負けたとかスケープゴートにされるかわいそうな人。
先生、夷陵の敗因は普通に劉備が呉軍を侮っていたせいだと思います!
右:張南
馮習と同時期に名前が出てきて同じ夷陵の戦いで死ぬのでよくセットにされる。
キャラを立てる前に死んでしまったかわいそうな人。
39 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:53:27 ID:IFD
同じ名前で焦触とセットになってる人のがかわいそう
40 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)14:18:22 ID:HXU
http://i.imgur.com/NFXcMgp.jpg
左:張嶷
万能無敵超人。もっと早く生まれていれば張遼クラスの名声を得ていたかもしれない人。
世にでるきっかけは、自分の住む県城が山賊に襲われた時。
県令が家族や市民を置き去りにして逃亡した後、なんと張嶷は単身県令の妻子を守りながら白刃をふるって県城を脱出。
その噂を聞きつけた劉備に召しだされる。
最初はその出自からか山賊討伐などを命じられていたが、ゲリラ戦術を行う山賊を一網打尽にするため、偽りの和睦の宴会を開き、賊が集まったところをMINAGOROSHI!
騙したな!と罵る山賊に「外道お前らにそもそも道を説く資格などない」とあっさりRONPA!
その後は馬忠の副将として活躍し、羌族など異民族相手に連戦連勝。
その功績が認められて、異民族に占領されて南蛮天国になってしまった越?郡の太守に任じられて、これを実力奪取、周辺もあっさり平定。
しかしここでは飴と鞭を使い分けて異民族を上手に手懐け、蜀の国力増大に多大な貢献をした。
張嶷が後方を慰撫し続けていたので諸葛亮も姜維も北伐が続けられたのである。
晩年は歩行困難になったが、それでも姜維の北伐に従った。
知略で城を落としたりと相変わらずの活躍だったが、蜀が不利になると、倍以上の兵数を持つ敵将除質の部隊を道連れに戦死した。
蜀を支える屋台骨であったが、生まれる時代が違っていれば、中央でもっと大活躍したかもしれない人材である。
右:馬忠
上記の張嶷の元上司。
張嶷ほどの才能の煌きは感じさせないが、篤実な行政と確実な軍事行動で蜀の安定を支えた。
才能あるものを自由に活躍させる度量も持っていて、彼の下で育った将帥も多い。
蜀には数少ない教導型の将軍と言え、人材の育成と治安の維持に従事した。
41 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)14:27:16 ID:HXU
http://i.imgur.com/R1SUFRP.jpg
王平
王平だけど~横柄じゃない♪
文盲の軍人。
最初は張魯のおまけで曹操に基準した異民族の付き人として曹操の下へ行く。
そこでなぜか気に入られ位を与えられていたが、劉備の漢中攻略戦の際に劉備陣営に降りその後は蜀軍の将軍となった。
諸葛亮支配下の教養重視主義の幕僚の中で、文盲であることを理由に軽視されていたが、街亭の戦いで活躍し名を挙げる。
その内容は、兵法に通じた諸葛亮一番弟子の馬謖の戦術を、無学な王平が実戦経験から諫め、その結果は馬謖は王平の指摘通りに失敗し、そして馬謖は唯一崩れず踏みとどまった王平に助けられ撤退したというものだった。
これによって王平は実戦は机の上でなくて現場で行われている事を証明した。
その後も特に防衛戦に実力を発揮し、蜀の国土を死ぬまで守りぬいた。
54 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)15:17:36 ID:Vrt
オウヘイって張コウだったか徐晃だったかの元部下だったのは演義?正史?
55 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)15:24:38 ID:HXU
>>54
特に誰かの子飼いの部下だったって記述は正史にはないよ。
単純に定軍山の戦い辺りで曹操から小部隊を任されただけ。
その時々でどの指揮下に入ってたかわからないぐらいの部隊ってことでしょ。
45 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)14:44:28 ID:HXU
傅僉
http://i.imgur.com/3G093Eh.jpg
蜀の滅亡時に降伏せずに蜀に殉じて戦死したため、忠義の士と讃えられた。
そのせいか、演義では創作で活躍の場が増やされている。
42 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)14:33:15 ID:HXU
http://i.imgur.com/VAmIK7f.jpg
向寵
なんかキャラが立つほど目立った活躍はしてないけど、地味に名前が出てくる人。
夷陵の戦いの退却で功があったらしい。
あと、なんといっても出師の表で「善良、公平、軍事に精通!」と褒められているので有名。
43 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)14:39:20 ID:HXU
http://i.imgur.com/iB4BPNi.jpg
廖化
ミスター蜀軍。
蜀漢国の興亡をその目で見届けた人。
劉備の荊州時代辺りから名前がちらほら見え始め、関羽指揮下で下積み時代を送る。
その後も地味に活躍をし続け、蜀の人材が枯渇するとともに一級線に出てくるようになる。
一軍の将になった後も地味に勝ち続け、安定した活躍を続けた。
晩年は姜維の国力を無視した北伐を非難したりと武闘派とは違う路線に。
蜀の降伏後、それを見届けるかのように病死した。
46 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)14:51:52 ID:HXU
http://i.imgur.com/aESUUnW.jpg
張翼
漢の功臣張良の子孫というバリバリの名家出身。
しかし、先祖の張良とは違ってバリバリの武闘派!
趙雲の指揮下で対曹操軍相手に活躍し、その功で各地の太守を歴任。
しかし法に厳しすぎて、法をいまいち理解できない異民族の反感を買い、統治に失敗。
更迭されたが、後任の馬忠がやりやすいようにと軍備はちゃんと整えて置いてあげるナイスガイ!
その後は北伐に従い前線で活躍し続け、戦術規模での勝利をし続ける。
が、後年は姜維の北伐に批判的で、その指揮下に従いなからも北伐を諌め続けた。
最期は蜀の降伏時の姜維と鐘会の反乱に巻き込まれて殺されるというかわいそうなものだった。
47 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)14:56:54 ID:HXU
http://i.imgur.com/S4KxpFA.jpg
孫乾
パシリの達人。
パシリもここまでくれば大したものである。
劉備のパシリとして、中国全土を右往左往!
相手が袁紹だろうが劉表だろうがちゃんとお使いを済ませて劉備の居場所を確保して帰ってくる。
劉備が生き残った原因の一翼を担った存在である。
戦国時代に生まれていたら弁士として活躍しただろうに。もったいない。
?食其なんか目じゃないぜ。
48 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)15:00:10 ID:HXU
http://i.imgur.com/zhGURC5.jpg
張苞
張飛の長男・・・らしい。
名前だけが出てくるだけで、しかも父より先に死んだという記述のみ。
演義ではなんかすごい活躍させられているが、本当は病弱な人だったんだろう。
49 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)15:03:31 ID:HXU
http://i.imgur.com/0zdUmcM.jpg
張遵
張苞の子。
叔母が劉禅に嫁いでいることから外戚として勢力を持っていたらしい。
蜀滅亡時に戦死。
50 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)15:09:02 ID:HXU
http://i.imgur.com/CyjpIXQ.jpg
劉諶
劉禅の五男。
張皇后との子供なら張飛の孫でもある。
蜀滅亡時に降伏しようとする父に反対。
国に殉じる意志を妻に伝えると妻は自害、その妻の首を持参して劉備の廟で自分の首を刎ねて自害した。
その行動を美談として受け取った後世の人から蜀漢国最後の輝きの様に語られている(像も金ぴかだし)
しかし、その熱意と行動力をもっと実践的な行動に移せなかったのかと俺は思う。
追い詰められた結果が自害とは、いかにも貴族的で、劉備が聞いたら嘆くと思う。
劉備なら全てを捨てて身一つで脱出し、屈せず機会を待ったと思う。
51 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)15:11:46 ID:HXU
ここらへんになってくると像も適当になってくるw
http://i.imgur.com/56hVO1j.jpg
左:関興
関羽の子。
父の死後、その後を継ぎ、諸葛亮に期待されたが数年で死んだ。
右:周倉
架空の人物。関羽のそばにいたいという漢民族の願いが作り上げた妄想の産物。
53 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)15:17:23 ID:HXU
http://i.imgur.com/FbyUJeY.jpg
左:関平
関羽の子。そう、史実では実子である。そして、関羽と一緒に斬られたとのみ記述がある。
演義であれだけの活躍の場が与えられたのは、それだけ関羽が漢民族に愛されているということであろう。
それにしても、あの逃亡生活の中で、いつ戦場に出られるような子供を作る時間があったのだろう?
逆算すると徐州時代か曹操配下時代か?
右:趙累
荊州時代の関羽に付けられていた都督。
でも関羽はすげーワンマンだからあんまり活躍の機会なし。
ついに歴史に一言も名言を残すこともなく名を消した。
57 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)15:58:10 ID:HXU
http://i.imgur.com/YRbaYn0.jpg
簡雍
劉備の旗揚げ時代からの配下で生粋のゴロツキ。
劉備に寄生してブラブラしていたが、一宿一飯の恩義なのか、どんな苦難にも劉備を見捨てずついてくる。
しかし、あまり役にはたたない。軍も率いることが出来ないし、策謀を巡らすわけでもない。
そんな彼は普段は劉備の話し相手をしたり、色んな所を出入りしていたりと、まさに無為徒食。
酒の席でもだらしなく、劉備や諸葛亮がいるのに寝そべって飲んだりとやりたい放題。
しかし、ヤクザが年取って人格者になるのと同じように、彼の無能具合も歳とともに凄みを増してくる。
交戦中の劉璋の城にぶらりと一人で現れて、居候になったり(軍を率いた実績や計略に関わった経歴がないから警戒されず無害だと思われたのだろう)
それで劉璋と仲良くなって劉璋を降伏に導いてしまう辺り、尋常な胆力と知力ではない。
というか、胆力と知力ではこれはなせる技ではないと思う。
思うに、彼は儒教や兵法的な胆力知力とは無縁の、老荘の徒だったのではないか?
無為を以って最後に有為をなした彼、そして無能だろうがなんだろうがついてくるものは抱え込む懐の深い劉備。
まさにこの君主をしてこの臣下ありといえる。
後は禁酒令をトンチで批判した話も有名だ。
水不足で禁酒令が出た時、酒造の道具を持っていた者が罰せられそうになった。
それを聞いた簡雍は街をゆく男女を指さし、
「あいつらは姦淫罪を犯そうとしてるのに何で罰せられないんだ?」
と劉備に聞いた。
びっくりした劉備が
「何でそんなこと分かるの?」
と聞くと、簡雍は
「だって姦淫罪を犯す道具を持ってんじゃん」
と揶揄した。
最高の皮肉だ。これで酒造の道具を持ってた人間は不問になった。
彼の飄々した人柄を表すエピソードだ。
58 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)16:25:41 ID:HXU
http://i.imgur.com/Od859T9.jpg
呂凱
なんとあの呂不韋の後裔らしい。
しかしその人柄は篤実そのもの。
南蛮を徳化し人々にその誠実さを愛された。
南蛮がひとまず平安を保っていられたのは彼のおかげだろう。
しかしそんな彼も後に反乱で命を落とすことになるのだが・・・
平和な時代に生まれれば良い太守になっただろうに。
59 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)16:32:08 ID:HXU
http://i.imgur.com/VaOUjFw.jpg
蒋琬
諸葛亮の後継者。
県令として適当な仕事をしてたが、ある日仕事もせずに酒のんで暮らしているのが劉備に見つかり罰せられそうになる。
そこを諸葛亮に、彼は県令の器なんかに収まる人材じゃないとフォローされて事なきを得てから諸葛亮の忠実な幕僚に。
彼の行政と軍人行動を支えるために日々数字と戦う毎日。
諸葛亮の仕事量に比例する数の業務をこなしていたのだから鉄人という他ない。
計算の鬼だ。
彼の後方支援のお陰で蜀軍は徴税も兵站も滞り無く行われていたと言って良い。
そんな彼を諸葛亮は死に挑んで後継者に指名した。自分の仕事量を引き継げるのは彼しかいないと見込んだのであろう。
後を引き継いだ蒋琬は、常に諸葛亮と比較されて陰口を叩かれれても、諸葛亮に及ばないのは当然と聞き流して泰然と業務を続けたという。
まさに宰相の器であったと言える。
軍事には積極的に関わらなかったが、胆力は持ち合わせていて、理解もあった。
諸葛亮の影に隠れがちだが、蜀を支えた大きな異才と言える。
60 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)16:36:20 ID:HXU
http://i.imgur.com/BcWbKah.jpg
傅彤
傅僉の父。いきなり夷陵の戦いの退却時に名前が出てきて、呉軍に降伏勧告を受ける。
そこで漢の将軍は呉の犬畜生には降伏出来ないと拒否して戦死した。
ある意味、この一言で歴史に名の残した人物である。
61 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)16:42:34 ID:HXU
http://i.imgur.com/OJ555vp.jpg
董和
行政のプロ。劉璋、劉備と使える。
どこの太守になっても、法を順守し倹約に務め、民の暮らしが楽になるように努めた。
民に愛され、異動を取りやめる署名が行われるほどだった。
融通もきいて、ある罪に連座しそうになった李恢を合法的に助かるようにしむけた事もあった。
諸葛亮に敬愛され、彼は董和に行政を学んだ節が多い。
彼の目は君主ではなくて常に民に向けられていたと言って良いと思う。
使える君主が変わっても、彼の下の民は幸せだったのだから。
62 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)16:48:18 ID:HXU
http://i.imgur.com/89XgttW.jpg
陳震
蜀の外交官。
蜀と呉の間を度々往復した。
若年の頃は従軍もしていたようである。
誠実さを見込まれ使者に選ばれてたり太守を歴任したりと諸葛亮には気に入られていたようである。
63 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)16:52:51 ID:HXU
http://i.imgur.com/KXSydou.jpg
秦宓
高名な学者であり、人材派遣業も営む。
自身を招聘しに来た君主に何故か自分以外の人を紹介・斡旋する事を繰り返した。
劉備が入蜀してからは思うところがあったのか出仕してきた。
その後は劉備の関羽敵討を諌めたりしたりなんだり。
64 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)16:55:10 ID:HXU
http://i.imgur.com/MEMoGLq.jpg
楊洪
超地味キャラ。
覚えている人なんか居るのか?
俺も思わず調べてしまった。
ウィキ以上の事がかけないので
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E6%B4%AA
参照のこと・・・
65 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)16:58:01 ID:HXU
http://i.imgur.com/AlYDgEX.jpg
程畿
ごめん、この人もマジで覚えてない・・・
一応正史は読んだはずなんだけど・・・
というわけでウィキ先生頼んます!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E7%95%BF
66 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)16:58:41 ID:HXU
というわけで武侯祠の像は以上だぜ!
最期はウィキ頼りで情けなかったな!
67 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)17:32:18 ID:HXU
http://i.imgur.com/P0KgpSY.jpg
おまけ。
魏延
魏延は諸葛亮の遺命に逆らったという性質上、成都の武侯祠には像がない。
ただし、五丈原の武侯祠には彼の像があるので画像をUPする。
魏延、彼を理解できていたのは劉備だけだったのかもしれない。
劉備に投降した魏延はまさに水を得た魚で、破竹のような勢いで活躍をし続けた。
その結果、張飛より能力は上と判断され、大事な漢中を劉備に任された。
しかし、劉備の後を継いで統帥権を得た諸葛亮と、感覚的に戦場を往来する彼はまさに水と油だった。
諸葛亮が右だと思えば魏延は左と、彼らの意見が交わることは決してなかった。
そして、魏延にしたら自分の方が戦は玄人だという自負があったのだろう、諸葛亮の出した戦術案にはことごとく異を唱えた。
後世から客観的に見ても、諸葛亮より魏延の方が戦術的価値がある作戦を立案している。
というか、あろうことか戦略、政略的に見ても魏延の方が意義がある戦いを立案しているのだ。
例えば、最初の北伐で蜀の領土を辺境に広げることのみにこだわった諸葛亮と対照的に、魏延は長安を急襲して天下に義を示そうとした。
これがまさに北伐の元々の意義であり、そしてそれに呼応する者こそ天下の援軍であったはずだった。
結局諸葛亮は辺境を冒して終わり、呼応したのは異民族ばかりだった。しかもそれも魏軍の襲来にあっけなく奪い返された。
一体何のための北伐だったのか?
結果論になるが、慎重に帰した諸葛亮の戦略では、ついぞ魏の土地は奪えなかった。
そして蜀は諸葛亮の死後30年で滅びるのである。
それなら魏延の様に、危ないかけでも天下に魏を示す戦いをするべきではなかったのか?
というか、そもそもそのための入蜀であり、皇帝を践祚した大義名分出会ったのではなかったか?
諸葛亮は蜀を肥え太らせるという政略から最期まで脱さなかった。
天下を見て兵を動かそうとしていたのは魏延一人だったといえる。
しかも、その実力は十分にあったと思う。
当時、魏で生き残っていた歴戦の勇士で最強と目されていた張?の軍も彼は軽々と打ち破ったし、やれるところまでやってみてほしかった。
結局、諸葛亮の保守的で本末転倒な政略にもみ潰されて、彼が引き継いだ劉備の正義は永遠に果たされる機会を失った。
68 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)17:35:36 ID:HXU
以上、貼りたいものは全て貼り、言いたいことは全て言った!
69 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)17:37:17 ID:IFD
乙
関羽さんは関帝廟で別枠?
70 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)17:42:09 ID:HXU
>>69
関帝廟???
中国全土の関帝廟やってたらそれだけで1000レス行きそうwww
あれ?そういえば何で関羽ないんだろう?
画像見逃してたかな???
71 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)17:44:34 ID:IFD
そんなにいっぱいあるのかwwwwwwwwwww
愛されてるのねwww
72 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)17:57:26 ID:HXU
http://i.imgur.com/lucSG4p.jpg
http://i.imgur.com/fWtHAjK.jpg
全国の関羽ファンの皆様大変申し訳ありませんでした。
関羽を見逃していて、しかも>>69大人に指摘されるまで気が付きませんでした。
すいません。
というわけで、
関羽雲長
ヒゲがやたら長い劉備の義弟。
そして顔が常に赤黒い。多分傍から見たらかなり怪しい人。
赤い物体からやたら長い毛が生えていたら、銅鑼をジャーンジャーンジャーンと鳴らして、声を合わせて
「げぇ、関羽!」
と叫ぼう。
閑話休題。
彼は義の人である。
曹操に下った時も忠犬ハチ公よろしく劉備への義を貫いた。
そして独尊の人でもあった。
プライドがビンビンに高く、劉備以外に傅くのを良しとしない人。
武勇と用兵もかなりのもので、魏の名だたる武将を何度も退けている。
曹操が惚れ込むのも無理は無い。
少なくとも張遼と同程度には評価されていると見て間違いない。
その見込は正しく、荊州では大活躍。
ようやくまともな兵力と武装を手に入れた関羽にもはや敵なし状態だった。
関羽が居る限り、魏は荊州を取り戻せなかっただろう。
趣味としては、春秋左氏伝が大好きで片時も手放さない。でもその割には政治や外交がど下手・・・
彼は春秋左氏伝から一体何を学んだんだろうか?
少なとも行政や外交は学んでなさそうだ。
最後はそのプライドと外交力の無さが仇となって呉の計略にはまりあえない最期を遂げる。
曹操軍はあくまでベースが王道で、味付け程度に計略があった。
だから関羽と魏軍が戦う時は、両将のプライドのぶつかり合いであり、ある程度のスポーツマンシップ的な息の掛け合いがあった。
しかし呉軍は計略ありきで、計略が決まって相手が弱ってから攻めてくる。
プライドが高く、内に敵と味方がはっきり分かれている関羽には呉は天敵だったといえる。
死後は、その義理堅さから、信用第一の商売人に信奉され神となった。
知名度としては君主の劉備や、上司の諸葛亮を超えてしまっている。
73 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)17:58:10 ID:HXU
ふぅ、関羽ごめんよ。これで完!
74 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)19:36:01 ID:gVA
おつおつ!
コメント随時追加していきます。
試行錯誤の段階でいろいろとやっていこうと思っています!
コメントしてくれると嬉しいです( ´∀`)
あと、現在記事とは関係ないコメントも大量にある為、一時承認中にしています。
少し時間経てば掲載されます。管理人とかハム速にご意見ある方はメールフォームでお願いします。
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コメント一覧
ゲームだけど、夷陵後の蜀担当すると、人材のなさがぱねぇ。やっぱり人って大切だな
ビックリ
勉強になりました
谷隼人の声もよかったし
寡兵で要塞奇襲なんてまともな頭してたら絶対採用しない作戦だと思うが
馬謖と李厳のところなんてまさに暴論だろ
日本は謎なほど魏延のファンが多いからなあ
史実では一番ろくでもない集団だったような・・・
地回りのヤクザ者が、時勢に乗って裏切りと乗っ取りを繰り返してでかくなった様にしか思えん
演義こそ真実
逆に日本人がもともと魏延の評価低すぎたんだよ。孔明を持ち上げすぎるあまりな。
確かに博打要素はあるが、 そんなんは蜀の国力からしたら当たり前。
魏延の策はそれほど荒唐無稽でも無いぜ。
劉備の家は地方豪族で若い頃は遊学もしてたボンボンよ?
父親が速く死んで一時困窮したってはあるだろうけど当時の自警団はヤクザとはぜんぜん性質ちがう
三国志演義成立のはるか以前から善玉劉備と悪玉曹操と言う構図は成立してるし
劉備程度の裏切りってあの時代みんな平然と繰り返してるでしょう
はー…腹筋痛い。
ありがとうございます
謎の大活躍がぶっこまれて英雄に祭り上げられたんだぜ
ビッグネームなのに資料の少なさにビビったわ
いや中国人なんて魏延まるで評価してないよ
こんなに魏延の評価が高いのは日本人か日本の三国志に影響を受けた人くらい
それに魏延の作戦は全く勝算のない運任せで理屈も全く通ってないよ
相手がまともに対応したら即全滅で荒唐無稽にも程がある
当時中国最大級の要塞を敵の数分の一で攻めるなんてありえない
劉備から預かった国と息子、それを掛け金にするような真似はできなかった
もし諸葛亮が蜀の王になっていたらまた違ったかも知れんけど、ここまで愛されてはいないだろうね
そんな時代に人口増やす為に食糧需給率上げようという発想に行き着く諸葛亮は凄いと思うけどね。
魏延が諸葛亮に発案した時点で既に張コウの大群が長安に向けて出発してた記録が残ってることから
寡兵の強襲で仮に長安落とせたとしても絶対に保てなかったっだろうって話を聞いたことあるな
最強武将伝三国演義見たくなってきた…
陳到とか羅憲も入れてあげてほしかったな・・・
日本人の三国志好きは、曹操と劉備、あるいは孫権、董卓、呂布なんかのキャラがものすごく立ってるってのが大きい上に、最後には滅んで終わるそこが日本人好みなのが大きいだろうな
最後には勝って終わる前漢末から後漢成立期だと、光武帝本人が完璧超人でその配下も文武両道の名将ぞろいでぶっちゃけ個性に欠けて面白くないし
唐初は、李世民をヒーローにしようにもクーデターがどうにも陰惨だし、劉備みたいな理念も実力も正反対のライバルキャラがいないし
明の朱元璋成り上がり記も、結局のところ洪武帝になった後がどうにもねえ・・・
ちゃんと画像の貼り間違いも直して頂いて・・・感謝です!
他にもいろいろ中国関係のスレ立ててるので、気が向いたらまとめてくださいね!
長安とってそれからどうするんだよ?
涼州と上庸から挟み撃ちにされるだけだろ
補給だって一本道なんだからうまくいくわけない
補給路増やすために魏延抜かした本軍で涼州落とせってか?
少ない軍で長安防衛と涼州侵攻の二正面作戦やれってか?
長安なんて魏にとっても重要拠点なのに魏延の数千だけで守らせて?
ここに書いてあるのはあくまで武侯祠に像がある人だけです。
なので費禕も董允も残念ながらいません。何ででしょうね?
俺も費禕最後に「ひい!」って叫んだのかなって書きたかったですw
8 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)12:29:32 ID:HXU
張飛翼徳(益徳)
厳顔を飴と鞭で籠絡し、漢中戦では張?をおびき出して叩くという活躍ぶり。
36 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)13:34:50 ID:HXU
姜維伯約
諸葛亮存命中はその手足となって働き、その死後は??の元で軍事に従事する。
47 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)14:56:54 ID:HXU
孫乾
?食其なんか目じゃないぜ。
67 :名無しさん@おーぷん:2014/12/09(火)17:32:18 ID:HXU
魏延
当時、魏で生き残っていた歴戦の勇士で最強と目されていた張?の軍も彼は軽々と打ち破ったし、やれるところまでやってみてほしかった。
最初は無双からだったけどそこから史実調べていった
この人面白すぎww
上から順に
張コウ
ショウエン
レキイキ
張コウ
です。
今までの罪を問わずこの地での地位を約束すると、山賊と和睦の為の酒宴を設けた。
山賊が「本当に自分達の罪を問わないのか?」と聞くと、
張嶷は「天に誓って、お前達の罪は問わない」と答え、酒を飲み干し酒宴が始まった。
山賊全員がいい具合に酔ってくると、潜ませていた部下を突入させ斬りかかった。
山賊が「天に誓って罪を問わないと言ったろ!嘘だったのかよ!」と食って掛かると、
張嶷は「自分はお前達山賊の罪を問いに来たのではなく、罰する為に来た」と答え、
部下には山賊は捕縛せず皆殺しにするようにと命じたというエピソードがあったっけ。
イメージとしては「無限の住人」の逸刀流酒宴&惨殺のような感じ。
劉備のインテリヤクザが
今からスレに戻って足してきます・・・
なにぶん数年前に行った時の画像だったので、見落とし&記憶から抜けてました。
すいません・・・
※37
で偉そうにありませんとか言いましたが、費禕と馬良はありました・・・
さっさと書き足してくるのでご容赦ください。
ご指摘くださった方ありがとうございます。
あと、IDがコロコロ変わるのは中国からVPN使って書き込んでるからです。悪しからず。
横山三国志の馬超の長安攻略戦の際に
長安は堀は深く塀も強固で城を落とすのは至難の業だが、
周りに木が少なく燃料不足になりがちで、
塩気の多い土地なので水を遠くまで取りに行かねばならずこれまた水不足になりがちと、
籠城戦には不向きという話が出てたっけ。
補給に苦心してた蜀としては奪えはしても守り抜くことは困難っぽい。
落とすのも無理だよ
魏延の軍到着と長安への魏の援軍到着にそんな時間差生まれない
もちろん援軍の報告を聞くだろう守将はただ少し耐えればいいだけ
魏延に対する反骨の相とか焼き殺し未遂とか
正史の知識を知って諸葛亮の神がかり的な軍略はフィクションだとは分かるのに
これらの暴行も同様にフィクションだということを分かってない人が多い
むしろ正史における諸葛亮は魏延をとても重用してるし二人が不仲だったという記述もない
むしろ諸葛亮はどちらも優秀だと信頼している楊儀と魏延が不仲な事に心を痛めてる
問題があるとすれば魏延の作戦を却下したくらいでそれもどう考えても全うな判断で
まず魏延の作戦は奇策どころか暴発の域を出てない
日本の戦国時代だと金森長近や蒲生氏郷あたりか
ちな、圧倒的に呉が好き。途中までしか読んでない、呉三国志も時間できたら続き読みたいな
劉備助けたのにいきなり反骨が~とか言い出して切ったほうがいいだしw
遺言みたいなもんで殺されたしねえ
魏延が一体なにしたってんだよ!
今は7empire
頼むから米52を読んでくれ
諸葛亮が好きな身とすれば創作の悪いところだけ抜き出されるのは悲しすぎる
魏の武将編もあればいいのにな。
実利は諸葛亮な。長安を奪われるってことは、一時的にせよ長安以西を
大混乱に陥らせる&南匈奴や遼東に衝撃を与える、とういことなんだよね。
これは後の戦略を考えるとすごい事だけど、失敗する確率も高い。
しかも、未来の予測が不確定すぎる。失敗即滅亡、成功でもどうなるか予測不可能。
だから諸葛亮は、採用できない。国の維持を考えるから。
諸葛亮の戦略は一貫していて、国力の維持と漸進を考え、北伐では
その方針に従って西涼方面を領土にすべく戦ってるわけで。殆どできなかったが。
結果的に諸葛亮の方針では、良くも悪くもならなかった。(悪くなかっただけでも凄いけど)
どちらにせよ、答えはない。
好きかどうかはおいといても諸葛亮への批判が的外れすぎるし
魏延の持ち上げが過剰すぎるよ
きっとフィクションにフィクションを重ねた結果が正史なんだろ。
だから面白いんだろうな中国の歴史は。
黄忠あるのに厳顔ってないのん?
本スレ主さんですか?お疲れ様でした。
楽しく読まさせてもらいました。
また三国志の知識などを披露して下さい。
三国志ネタは、正史、演義含めすべてが面白く、ロマンがありますよね。
これからもよろしくお願い致します。
諸葛亮孔明ではなく諸葛亮or諸葛孔明が正しい
まぁそんな固いこと言う場ではないけどね
日本の小説だと普通に諸葛亮孔明ってなってるし
別に孔明が嫌いとかじゃないさ
横山三国志読んだ時なんで魏延てあんな理不尽な扱いされてるんだろうなー?
って感想かいただけさ
正史も間違いや嘘が含まれてるけど、
大筋で史実が伝えられてると思うよ
他の正史と比べても信頼度は高い方みたいだし
(くとうじょ?が信頼度低いと聞いたことある)
日本の専門家が書いた三国志本を読むと、
どの部分の記述が信用できないかとか書いてある
某ファミ通のなにかのコーナの話
馬超とけろけろけろっぴのこらぼ・・・
してないけどね。
ありがとうございます。
他の勢力の武将も画像なしですが評価だけ続けていくつもりなので、たまにスレを覗きに来てやってください。
※71
諱と字について最初に解説して分けて書こうかと思ったんだけど、そういう専門的なのはいいやwって感じで日本風にしました。
ご指摘のとおりです。
あれは諸葛亮の預言の通り魏延は反乱を起こしました
こう言う筋書きのフィクションだと分かってくれればそれでいいです
性格破綻者なのに超優秀とか面白い人なのに
あ、本スレの人ですか?
わざわざすいません(^^;
一応わかってて日本風にしたんですね。
どこまでもヘタレなイメージw
まあ実際のことはわからんけど
物語として面白いからそれでいいんちゃうかなあ
超(反)三国志みたいに突き抜けてるのもある意味おもしろいw
適度に砕けてて読見やすい文章だ
「孔明のヨメ」はご存知ですか?
読んだことないです。面白そう!
帰国したら読んでみます!
何を読むんやw
黄月英って無双するくらいには有名やとおもったがw
醜女やったけど賢いって設定やったかー
超三国志ではソラとんでたなw
作者は曹操様ラブであり、孔明さんファンの人です。
最近は曹操、荀彧、郭嘉がでたりしてます。
鋼の錬金術師の荒川さんと「三国志」の解説漫画(演義よりかな)も書いてます。
テンションご楽しい
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