1: 砂漠のマスカレード ★@\(^o^)/ 2015/01/11(日) 18:46:52.94 ID:???0.net
根本陸夫伝~証言で綴る「球界の革命児」の真実
連載第25回
◆証言者・石毛宏典(4)
1995年のシーズンオフ、現役引退を決心していた石毛宏典は、「オヤジ」と慕う根本陸夫の忠告で翻意。
翌年もダイエー(現・ソフトバンク)でプレイすることになった。
年俸は半減しても1億円。「40歳になって1億円もらって現役を続けることに喜びを感じる」と石毛は公言し、レギュラーを獲るつもりで96年のシーズンに臨んだ。
たとえ年齢的にレギュラーは無理でも、根本に言われたとおり、「ベンチからいろいろなものを見て、指導者になるための勉強ができる」と野球への思いを新たにしていた。
しかし開幕から石毛の出番はほとんどなく、スタメン出場も7月までなかった。
8月にはプロ入り初の二軍降格となり、ベンチで野球を学ぶこともできない……。
結局、18試合の出場に終わった石毛は、シーズンが終わると根本のもとへ出向き、「もう引退してもよろしいでしょうか?」と聞いた。
球団専務兼本部長の根本は「いいよ」とだけ答えた。
プロ野球で一時代を築いたスタープレイヤーの現役生活は、引退セレモニーも行なわれずに幕を閉じた。当時を振り返って石毛が語る。
●アメリカにはホークスの職員として行って来い
「ダイエーホークスでは1年のつもりが、2年間プレイさせてもらいました。ただ、あまり試合に出る機会もなく終わってしまって……。
それで僕は引退したら、パンチョ伊東さんと一緒に、アメリカを回ろう、メジャーリーグを見よう、と思っていたんです。
純粋に見てみたいという気持ちと、本場のベースボールを知らずに日本の野球は語れない、という思いもありました」
野茂英雄が日本球界を飛び出してメジャーリーグに挑戦し、ドジャースで活躍し注目されていた頃だったが、石毛はそれ以前からアメリカ野球に興味を抱いていた。
実際に海を渡り、アメリカ人と同じ地に立ち、同じ空気を吸って生活してみれば、どのような国民性と文化、慣習の上にベースボールが生まれたのかわかるはず、と考えていた。
そのためにメジャーリーグ通で知られる野球評論家・パンチョ伊東こと伊東一雄の助けを借りるつもりだった。
計画が具体化した頃、第二の人生を心配する根本が石毛に尋ねた。
「これからどうすんじゃ?」
「アメリカをうろうろしてきます」
「それはいいな。誰と行くんだ? どうやって回る?」
「パンチョさんと一緒に」
「うん? ちょっと待て。まかりならんぞ」
「えっ、なんでですか?」
「ダイエーホークスの職員として行け。コーチ留学しろ」
「なんでですか? なんでそんなことしないといけないんですか? わけがわからない」
「バカ者! お前な、野球選手は引退すると、だいたい球団から離れるもんだよ。
だけども、現場を離れた石毛がダイエーホークスの肩書きを背負ってアメリカにコーチ留学する、というのはひとつの評価だ。
普通は、離れたらまったくの他人になるんだけど、球団が引退した選手に肩書きを与えて、給料を出して、勉強させるってことは、石毛、お前に対する評価なんだよ」
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150111-00010002-sportiva-base
webスポルティーバ 1月11日(日)18時10分配信
4: 砂漠のマスカレード ★@\(^o^)/ 2015/01/11(日) 18:48:14.76 ID:???0.net
石毛本人としては、肩書きなど一切関係なく、フリーの立場としてアメリカを回りたかった。
しかし石毛に指導者の資質を見出していた根本は、あえて自由を取り上げ、肩書きを与えてコーチ留学させようとしたのだ。
この「評価」については、西武時代の石毛が、チームリーダーという肩書きに疑問を感じた時と通じている。
根本は悩む石毛に対し、「チームリーダーというのはありがたい評価だ。
評価はときに窮屈なものだが、そういう窮屈さを感じて生きていくのが大人の社会なのだ」と言って諭(さと)した。
選手だった当時はその言葉の意味がわからなかった石毛も、引退して間もないこの時には、徐々にわかり始めていたという。
「オヤジの言うことも一理あるなと思って、『わかりました。じゃあ、お願いします』と。
それで僕は、〈ダイエーホークス・オーナー付〉という肩書きの名刺を作ってもらったんです。
根本さん曰く『この名刺を持って回れば、石毛は引退してもダイエーの職員であって、球団がちゃんと面倒を見ている。
それだけの人物だということを知ってくれる。そういう評価があるということも知っておけ』と。
やっぱり当時、看板を外れるとどうなるかわからんぞ、という思いはあったので、この評価はありがたかったです」
コーチ留学は1997年の2月から始まった。家族とともに渡米した石毛はドジャース傘下のマイナー球団に所属し、4月、5月はメジャーリーグのドジャースに帯同。
野茂とも間近に接した後、6月からマイナーの3A、2A、1Aと見て回った。
2Aでは実際に打撃指導も行なった。そして、メジャーのシーズンが終わると、ドミニカ共和国のベースボールアカデミーも見学。
精力的に勉強を続け、最終的には「マイナーリーグでコーチをやらないか?」と誘われるまでになったが、
10月、石毛のもとにダイエー球団から電話が入った。翌98年からの二軍監督就任の要請だった。
●とにかくNHKに行け!
「アメリカで見てきたものを、二軍監督として生かそう。そう思って、やっていました。
でも、僕のやり方が気に入らなかったんでしょうね。チームから『もうクビだ!』と。
監督になって1年目の10月、二軍のスケジュールがすべて終わり、宮崎で教育リーグが始まるところでした。
その2、3日前に休みがあった時、僕は家族を連れて熊本の阿蘇プリンスホテルにいたんですが、根本さんから電話が入ったんです。
『帰って来い、話がある』って言われてピンと来ましてね」
仰木さんほどの人でもかなり苦労してたし