因果応報かんじたとき
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因果応報
90: 名無しさん@おーぷん 2015/02/07(土)01:07:32 ID:r0m
親の因果応報に便乗。
最初に謝るけど長いです。
読みたくない人はすみませんが飛ばしてください。

私と弟、今思えば放置子だった。
母親(専業主婦)は子供にギリギリまで外にいる事を望み、子供らが学校行ってる間に家事をやる。
やれやれと思ったら子供が帰宅する時間。
宿題は晩御飯食べてからでいいから外で遊んでと笑顔で追い出される。
キレイになった家で一人静かに過ごす至福の時を邪魔されたくない一心だったのは子供ながらにわかってた。
「(近所の)○○ちゃん誘って公園行きなさい」
と言われてその通りにする。
最初はニコニコしてくれてた○○ちゃんのお母さんも次第にいい顔しなくなる。「今日は(遊ぶの)やめよう」と。
放置子なりのルール、やめようと言われたらもうその家のピンポンは鳴らせない。
その家のお母さんのあのウザそうな顔にもう耐えられないから。
弟は弟でスーファミある家にハシゴしてはウザがられて一軒…また一軒と行ける家を失う。


夕飯が終わったらすぐ自室に行くよう言われる。
テレビデオ買って部屋に置いてくれてた。
当時はドラマの家なき子を毎週録画して、次週の放送まで毎日それを見てたなぁ。

雨の日は外で遊べない。
当然母は機嫌が悪く、ずっと怖い顔をする。
こっちもそんな顔されるのは辛い。
だから私も雨の日は嫌いだった。

91: 名無しさん@おーぷん 2015/02/07(土)01:32:25 ID:r0m
ご飯は食べさせてもらえてた。
「あんた少食だからお母さん助かるわ」
って面と向かって言われた。
だから食欲がある日でもう少しご飯を食べたい日でも黙って食事を終えた。
ごく稀に外食もしたけれど、リクエストなんかただの一度も聞かれた事がない。
親にとっても外食は数少ない楽しみだったから常に親の行きたい店に無言で連れて行かれる。
蕎麦屋や中華屋がほとんどで、中華屋でも親が食べたい物だけ頼んで「さぁあんたらも食べなさい」。
小学生に本格派のエビチリはキツイ。
基本親が勝手に取り分けた物だけ。
唐揚げもう一個欲しかったけど言えなかった。
弟もそう思ってたようで「楽しいはずの外食なのに本当に辛かったよな」と最近ポロっと。
前の晩~朝食でご飯足りなかった日はお腹空くから給食でおかわりしたかったけど、小学校の高学年にもなれば女がおかわりするのは恥ずかしいって風潮が出始めるから学校に居づらくなるのはまずいから保身を選んで食べる事は我慢した。

一軒家に住んでたし汚い服装でもなかったけど、常に私の服は4つ下の弟にお下がりする前提でしか与えられなかった。
すべてジャージ。青、黒、紫…
体育のない日はピンクのトレーナーの下に白いブラウスを重ね、下はスカートで登校してくるクラスメイトがすごく羨ましかった。
中学になったら指定ジャージが私服。
日曜に友達と遊べなかった。
だって服ないからw
休みの日に学校のジャージ着て行くとか…ねぇ。
だから基本平日の放課後しか遊ばなかった。制服やジャージ着てても不自然じゃないから。

92: 名無しさん@おーぷん 2015/02/07(土)02:10:50 ID:r0m
両親は私が中学卒業するタイミングで離婚した。
ど田舎で2つしか高校がなく、バカ高校とそう思われずに住む高校の2つ。
母親は後者を望んだ。
私がバカ高校に行く事で離婚する親の娘らしいわwという世間の目()をいたく気にしていたから。
たかが田舎の高校を受験、かもしれない。
だけど受験の時期に家庭内が大きく変化したのは当時の私にとってそれなりに修羅場だった。
勉強なんか集中できるはずもなく、まつ毛を全部抜いてしまったり自傷行為みたいな事もしてた。
毛穴に針刺して無理やり角質取ったり。
親も限界だったかもしれないけど私も限界だった。

受験はなんとか突破した。
このあたりはぽっかりと記憶がなく、今でも思い出せない所が多い。

両親は金銭的な問題が理由で離婚した。
私と弟は母と暮らす事になり、なんとか高校に通える環境が整い、私は母子家庭を理由に授業料免除の申請が通った。

この頃になるといい意味でも悪い意味でも知恵がつく。
口には出さないが、母は私にバイトをしてお金を入れてほしそうだった。
親の顔から心の内を察する能力は思った以上に極まってたw
でもあえて気付かないフリをして、私は母に部活に入ると言った。
その時の母の微妙な顔は未だに忘れられない。
中学に入った時、母は私に吹奏楽部に入るよう強く勧めてきた。
夏はコンクールがあるし、冬は年末に定期演奏会。夏休みと冬休みは部活漬けで私が家にいない時間が多いからね。
「え?お母さん働くのに家に弟しかいなくなるから身の回りの世話?弟小5だから留守番だけならできるじゃん、私は夕飯までに帰れるよ。」
こんな事を母に言った。
母子家庭だから授業料と一緒で部費や遠征費はかからない。
お金が必要になっても知れてる。
もう母は何も言わなかった。

母子家庭になった事で母はまわりに何も言わせまいと必死に働いた。
ここは素直にすごいと思うし感謝している、この先も変わらないだろう気持ち。
片親になった事で私がグレるんじゃないかと母は気にしだした。
だから私はそんな状況を利用した。
商業系の課にいたから検定を受ける機会が多く、受験料は自腹。
そのたびに母からお金をもらうのだが、いつだって渋る事なくくれた。
母子家庭だかrと言われるのを恐れて。
5回に1回は嘘をついてお金を騙し取った。
まぁ不合格でごまかすんだけど。
あまり頻繁にお金もらって不合格ばっかりみたいになるとバレちゃうから欲は抑えた。
申し訳ないけど高校になって小遣いないのはキツイ。
でもバイトしたら搾取確実だし、そこは少しくらい小遣いくれても…となる。
たまには購買でパンとジュース買って間食したかった。
食べ盛りだったからたまにガッツリ食べる日を作らないと体調悪くなった。
実際問題、当時は生理不順や貧血なんかもひどくて参った。


93: 名無しさん@おーぷん 2015/02/07(土)02:45:40 ID:r0m
非行に走れたらどれだけ楽かは何度も考えた。
でもそのたびにリスクを考えて思い留まった。
万引きなんかして、もしそれがバレて停学にでもなってみろ、髪染めたりして内申下がって就職に影響出てみろ…
まわりの目を気にしてる母を利用できる立場を変えない方が重要だった。
悪い事して立場弱くなる事は絶対に避けなきゃならなかったから。

勿論大学になんか行けるわけがないから当然のように就職した。
そしてまた当然のように給料の大半を家に入れた。
ボーナスは実際にもらってる半分だと嘘をついて必死にお金貯めた。

そんなこんなで数年が過ぎ、母は仕事で評価を受けて都会の本社に出向になった。
仕事はちゃんとする人だったからこれも単純にすごい事だと思って母に心からおめでとうと言えた。

離婚した父の兄弟に苦しめられた地を離れた母は憑き物が落ちたように母子家庭とか人の目とか気にしなくなってハツラツとしてた。
母と私も弟も互いにいい関係を築くようになったと思う。

そのうち私は結婚し、母と離れて住む事になった。
そしたら母は私と夫の生活に執着しだした。
夫婦で出かけると聞けば同行したがった。
もちろん断る。
それを何度か繰り返してたら昔の母を垣間見る事が増えた。
支配したがった。
それでも逃げた。

そのうち妊娠がわかった。
母は完全に壊れた。
私はこんなに頑張った、だから神様が孫を抱けるご褒美をくれた!を地でいくように…
こっちはもちろんそんなつもりはない。
夫側にとっても初孫にあたるので、こっちの母親も壊れてしまい、一時期夫婦揃ってノイローゼになった。
夫も高校は奨学金で行き、高卒で就職して奨学金返しながら月に十万入れる生活を10年強続け、それなのにひどく干渉される生活から結婚を理由に逃げたクチ。

あまりにも初孫フィーバーがひどすぎて、私はストレスで切迫早産で入院~緊急帝王切開を経て子供を抱く事ができた。
入院の事実を知った親達はさすがに大人しくなった。
でも産まれたらまた繰り返す事もわかってた。
切迫早産で入院中から子供が産まれても一切親を頼らない…いや、頼れないと思った。
こう言った私に夫は一言「わかった」とだけ言って、その年の有給全部ブッ込んだ。
痛むお腹の傷や新生児と闘ってたら、親に子供産まれた事言うの忘れてたのに気付いた。
わざとじゃなく、本当に普通に忘れてた…

94: 名無しさん@おーぷん 2015/02/07(土)03:50:52 ID:r0m
そりゃーもう怒られた。
手伝うつもりでいたのに、とか色々。(義母と母でどっちが初孫と過ごせるかバチバチしてたから断ってたが諦めてなかったらしい。両方共)
そうだよね、産まれてから5日たってたんだもの。
そこはちゃんと詫びたが、思い出すのも嫌なくらい母からも義母からも罵倒された。
そこでわかったのはただ産まれたての初孫にベタベタしたかった、それのみ。
さすがに産後の私の事をほんの少しでも考えてもらえないのは無理だったので、夫婦で乗り切る選択は正しかった。
恥ずかしながらあまり間を空けずに二人目を妊娠したんだけれど、こちらも親は頼らず夫婦だけで育児を乗り切って今日に至る。
夫がちゃんと有給を消化してもいい環境で働けてる事にすごく感謝した。
夫も私も、自分が親になってみて自分の親がよくわからなくなった。
私は結婚するまでの2~3年、母とすごくいい関係を築けてると思ったのは私が母に愛情を求めてただけなんだとわかった。
私は昔住んでた一軒家で自分の部屋以外にいたら駄目同然の生活も息苦しかったけど、その後は多感な時期にどこにいても何もかも筒抜けなプライバシーゼロな生活をしなければならなかったのは私自身が知らないうちに精神病んでた。
「住む」という事が怖くてたまらなくなっては何度も夫を困らせた。

そんな事を繰り返しながら、手狭になったアパートから家を建てて引っ越した。
もちろん親は一度も呼んでない。
互いに「呼ぼうか」という言葉すら出ない。
実弟夫婦は遊びに来る。
弟は何も言わないけれど、多分母に私とこんな風に交流があるのは言ってないと思う。
弟なりに考えての事だろうから私から母の話を振ったりもしない。

みんなリビングにいる生活がこんなにも幸せな事なんだと噛み締めてる。
家って冷たい場所じゃないんだ!って。
子供にはご飯以外リビングにいるなと思わない。
ご飯は親が1食我慢してでも子供にお腹一杯、遠慮しないで食べてほしい。
リビングには常に家族全員でいたい。
友達とは公園でも遊ぶけど互いの家を行きっこしたりする関係を築いてほしい。
子供のうちは親の顔色伺わないで、子供らしい自信持って生きてほしい。
見返りなんかいらない、どうかどうか夫と私に愛されてる自信を持ってほしい。
たまに妖怪ウォッチのカードやりすぎてパパと一緒にママに怒られてるけど、たまにやるから楽しいんだよね?
時々ゲーセンで遊べるのはパパが頑張って働いてくれてるおかげだからたまには感謝しようね。
外食する時は回転寿司ばっかりじゃなくて、たまには違うとこにしようよw

95: 名無しさん@おーぷん 2015/02/07(土)04:09:09 ID:r0m
最近になって、私が子供にこんな事思いながら暮らしてるのって母にとって因果応報なのかと思い始めてる。

今の私がいるのは間違いなく母のおかげ。それはわかってる。
だけど私は母の幸せは願えても幸せにしようとは思えない。
母の為に何かを犠牲にしたくないのが本音。
夫も私もそれぞれ母の日や誕生日はスルーしてる。
親から必要以上にケチられてきたのかなって気付いたら、親にお金を使うのがもったいなくてしょうがなくなった。

自分でも歪んでるってわかる。
だけど幼少期の経験って思わぬ場所でダメージ受けてると大人になっても影響が大きいから、やはり母が間違えてたんだろうと思わざるを得ない。
親と何かを成し遂げた経験がないから子供と接する時にやはり障害になってる。
とりあえず夫と私は春になったら子供が自転車の補助輪外して乗れるようになるまでつきっきりになって喜びを共有しようと思う。


さっきまで夫と泣きながらこの話をしてました。
この事を忘れない為に今回はこの場を借りて書き込ませていただきました。
うまくまとめられずに長くなり、本当すみませんでした。


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