「産経新聞」のコラムで人種差別的な発言をしたとして、内外から批判を受けた作家の

曽野綾子(83才)氏が、反論を寄せました。

画像:【曽野綾子】
曽野綾子
https://www.youtube.com/watch?v=C3mGoaQ4JTI/

17日、曽野氏は「朝日新聞」に次のコメントを寄せました。

私はブログやツイッターなどと関係のない世界で生きて来て、今回、まちがった情報に基づいて興奮している人々を知りました。

私が安倍総理のアドヴァイザーであったことなど一度もありません。
そのような記事を配信した新聞は、日本のであろうと、外国のであろうと、その根拠を示す責任があります。もし示せない時には記事の訂正をされるのがマスコミの良心というものでしょう。

私は、アパルトヘイトを称揚したことなどありませんが、「チャイナ・タウン」や「リトル・東京」の存在はいいものでしょう。


(引用元:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150217-00000007-asahi-soci)
リトル・東京(トーキョー)
アメリカ・ロサンゼルスにあるアメリカ最大の日本人街。

リトル・東京(トーキョー)
https://www.flickr.com/photos/cwsteeds/105068796/

リトル・東京(トーキョー)(2)
https://www.flickr.com/photos/45688285@N00/34776932/


1885年、日本人漁民チャールズ・カメこと茂田浜之助がロサンゼルスのダウンタウン地区1番街340番地に日本食店カメ・レストランを開店以降、25世帯の日系人が居住、日系児童の為の学校も出来、これがリトルトーキョー発祥の基礎となった。
後に数万人の日本人がこの地域に移住したが、1941年12月に日米間で戦争が始まると人種差別を背景にした政令が施行され、全米の日系人の資産が没収され、強制収容された。
その間、アフリカ系アメリカ人が目立ち、一時期「リトル東京」から「ブロンズヴィル」に名称が変更されたが、戦後、日系人がこの地に戻り、アフリカ系アメリカ人は立ち退きを余儀なくされ、活気づいた。
その後も日本人の移住が進み、日本の大手映画会社や日本食レストラン、多くの日系企業なども進出した。

曽野氏は11日付の「産経新聞」朝刊に『労働力不足と移民』と題したコラムを投稿。

政府の移民政策に触れ、アパルトヘイト(人種隔離政策 ※)が敷かれていた南アフリカ共和国になぞらえ、

移民も人種ごとに居住区を分けた方が良いなどとつづっていました。

アパルトヘイト…南アフリカ共和国における白人と有色人種隔離政策。
1948年から1994年まで続きました。
就業、選挙権、居住地の環境、教育、異性間の交際などさまざまな面で差別的措置がありました。

黒人と白人の子供
http://en.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:WikiAfrica/Stubs/Paul_Weinberg

黒人の子供たち
https://www.flickr.com/photos/un_photo/3311473293/

このコラムが物議をかもし、NPO法人AFJ(アフリカ日本協議会)や南アフリカのモハウ・ペコ駐日大使から

抗議文が産経新聞社に送られていました。

言葉のアヤというのもありますが、曽野綾子氏は保守論客としても有名ですからね・・

この騒動、どう落ち着くのでしょうか・・