1: 砂漠のマスカレード ★@\(^o^)/ 2015/03/11(水) 07:35:59.33 ID:???*.net
93年オフに実現したプロ野球のFA制度。今もって、生え抜きで巨人から日本の他球団に移籍したのは駒田徳広ただひとりだ。
92年には4番を打ったこともある主砲はなぜ出たのか。
「もう話はしない、君とは」
93年10月29日、よみうりランドのジャイアンツ球場で駒田は長嶋監督にこう言われた。
そのシーズン、駒田は開幕から打撃不振だったが、5月9日のヤクルト戦では3番に抜擢された。
ところが初回無死一、二塁の好機に犠打のサイン(成功)。
5月22日の阪神戦ではスタメン落ち。89年5月27日から続けてきた連続試合出場は450で途切れた。
その年、巨人は藤田(元司)監督から長嶋監督に代わった。
駒田は「自分は監督に必要とされているのか?」と自問自答を繰り返した。
広島遠征中の8月19日、中畑打撃コーチ(現DeNA監督)が駒田を名指しして、「オフに取り返しのつかないことになる」と言った。
長嶋監督はこれを「行き過ぎた発言」と中畑コーチを注意したが、その後、試合前のミーティングで長嶋監督はこう話したという。
「トレードというのは、みんなに可能性があるんだ。今はシーズン中だから、話す時ではないが……」
駒田は「そうか、やっぱり(トレードが)あるのか」との思いに駆られたという。
駒田は監督の真意を聞き、また自分の気持ちも伝えたいと思った。
「マネジャーを通して、長嶋監督とお話ししたいと3度お願いしました。最初はシーズン終盤で、『シーズン中だから話せない』と言われました。
2度目が中日とのシーズン最終戦が終わった10月19日。『今は忙しいからダメ』との返事でした。
次がシーズン終了後のよみうりランドでの秋季練習の時。『日本シリーズというビッグイベントの前だから』と断られました。
それで秋季練習中の29日、外野にいた監督のところに意を決して行きました。そしてお話ししたいのですが、とお願いしたのです」
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/157896
2015年3月11日
当時を伝える日刊ゲンダイ本紙
3: 砂漠のマスカレード ★@\(^o^)/ 2015/03/11(水) 07:37:39.14 ID:???*.net
そんな駒田に返ってきたのが、冒頭の長嶋監督のセリフだった。
11月1日、駒田はFA宣言する。
「FA権を行使した理由は3つありました。ひとつは自分を生かせる職場で働きたかったこと。
同じ一塁の落合さん(博満=当時中日)が巨人に移籍してくるとの報道もあった。
ふたつ目はトレードの可能性があったこと。さらには巨人に残ったとしても、果たしてモチベーションを保てるのか分からなかったからです」
モヤモヤした気持ちでいる時、駒田が相談した人がいる。藤田前監督だった。
「藤田さんから、巨人を出る決意と根性があるのか、と聞かれました。
『あります』と答えた時、気持ちが固まり、巨人から心が離れましたね」(駒田氏)
FA宣言の前にも後にも、巨人側から慰留の働きかけはなかったそうだ。
駒田との対応とは対照的に、同じくFA宣言した槙原(寛己=現評論家)には長嶋監督が17本のバラを持って自宅を訪問、慰留した。
「うらやましいとは思わなかった。同じことを監督にされたら、逆に困ったと思います。
気持ちは固まっていたから、監督に慰留されてもお断りするしかない。
そうなっては監督の顔にドロを塗ることにもなりかねないですから」(駒田氏)
FA宣言した駒田には、横浜(現DeNA)、阪神、ダイエー(現ソフトバンク)、ロッテ、西武から話があった。
結局、近藤昭仁前巨人ヘッドコーチが93年から監督に就任していた横浜に入団する。
年俸などの条件は横浜が一番悪かったそうだが、そもそもカネが目的の移籍ではなかった。
当時を振り返り駒田氏は今、こう話す。
「当時の状況から判断すれば、移籍の選択は間違ってなかったです。
あのまま残っていたら2000本安打も打てず、中途半端で終わったはずです。
でも、巨人を出たことだけは悔いが残ります。根っからの巨人ファンですし……長嶋監督からはファン感謝デーの日に『おまえにもいろいろと相談する人がいるんだろう。
エールを送るよ』と言っていただいて気持ちも晴れ、これでよかったんだと思いました」
4: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/ 2015/03/11(水) 07:38:43.47 ID:WlndrZiNO.net
取りあえずお疲れ
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巨人煽ったりする記事結構多いから学生だと思ってたわ