1: THE FURYφ ★@\(^o^)/ 2015/03/12(木) 15:35:59.90 ID:???*.net
【球界ここだけの話】
プロ野球史上最高のスライダーを操ったヤクルト・伊藤智仁投手(現ヤクルト投手コーチ)。
真横に滑るといわれた伝家の宝刀を習得したのは、三菱自動車京都へ入社してから3年目。
1991年のことだった。
「当時は金属バットを使用していましたから詰まっても、下位打線からも本塁打が出る。
アウトを取るのに安心なボールとしてスライダーを覚えました」
当時の持ち球は直球とカーブのみで、直球の最速は140キロ未満。入社後最初の登板で
3回13失点を喫したという。それがスライダーを覚えたことで直球も速くなり、入社3年目の
秋には140キロ台後半を計測した。
「握りは教えてもらいましたけど、ほぼ自分で覚えました。まあ感覚的なものですからね。
曲げようという意識はなかったんですけどね」
この急成長から91年のドラフト候補選手となったが、翌92年にバルセロナ五輪が控えていた。
伊藤は日本代表の山中正竹監督(当時)から「五輪を目指してみないか」と声をかけられ、
ドラフトを“凍結”。「僕も五輪が目標でしたから」。
そして、五輪では1大会27奪三振の大会記録(ギネス記録)を作るなど日本の銅メダル獲得に貢献。
92年秋のドラフト会議で、3球団競合の末にヤクルトから1位指名を受ける。
プロ入り後は初勝利を挙げると球宴前までに7勝2敗、防御率0・91。平均奪三振は1試合
10個を超えていた。93年6月9日の巨人戦で16奪三振をマークしながら、九回に篠塚和典に
サヨナラ本塁打を浴びたシーンは今も語り継がれている。
「実は、巨人戦は調子がよくなかったんです。9回で150球も投げていましたし。三振を取らないと
アウトにできない、そんな状況でした」
同年7月。右肘に痛みが走った。登板過多ともいわれるが、「当時の主戦投手は200球近く投げていた。
僕も198球を投げたことがある。先発は白黒つくまで投げようという時代。野村克也監督を恨むことなんて
ないです。むしろチャンスをもらえた。気にもかけてくれた」。
97年に守護神として復活。98年から3年間は先発の一角を担った。しかし、右肩の手術を3度受けるなど
11年の現役生活で通算37勝。「もう、投げられなかったから」。太く、短い野球人生だったかもしれないが、
1990年代のプロ野球界を代表する投手の1人だった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150312-00000522-sanspo-base
3: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/ 2015/03/12(木) 15:38:13.82 ID:AigX/ULy0.net
まあ異常なキレだったわ
4: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/ 2015/03/12(木) 15:38:32.50 ID:+wbvVfda0.net
化け物スライダー
もうあんなスライダー投げる投手なんて出てこねえよw
もうあんなスライダー投げる投手なんて出てこねえよw
7: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/ 2015/03/12(木) 15:39:51.94 ID:3/WEUSk50.net
潮崎のシンカーと伊藤智のスライダーはえげつなかった。
-スポンサード リンク-
|
|
|
縫い目に指を付ける位置とか、変えてますか?