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セピアな思い出∫泣ける話 第2話 てんこもり。


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セピアな思い出∫泣ける話 第2話

1: 大人になった名無しさん 2008/01/23(水) 03:54:28 .net

セピアな思い出。感傷的な気持ちにさせてくれる話をうp汁!!みんなでしみじみ泣こうじゃないか!!

前スレ
セピアな思い出∫泣ける話
http://bubble6.2ch.net/test/read.cgi/sepia/1076319536/

保守をサボっていたら前スレがなくなってしまったので、建てました。

21: 大人になった名無しさん 2008/04/10(木) 22:47:27 .net
俺の祖父は医者だった。 
っていっても金はなく家はボロボロで食事なんか庭の野菜とお茶漬けと患者さんからの頂き物だけ。 
毎朝4時に起きて身寄りのいない体の不自由なお年寄りの家を診察時間になるまで何件も往診して回る。 
診察時間になると戻ってきて待合室に入りきらないで外まで並んでる患者さんを診察していく。 
昼休みはおにぎりを片手にまた往診。 
午後の診察をこなし食事をすませてまた往診。 
夜中に玄関口に患者が来たり電話があればいつでも駆けつける。 
一年365日休みなど無かった。 
自分の体調が悪くなっても自分を必要としている人がいるからと病院にもいかず診療を続け無理矢理家族に 
病院に連れて行かれた時にはもう手遅れ。 
末期がんだった。 
でもどうせ治らないなら入院はしないと痛みをごまかし死ぬ間際まで往診続けてた。 
遺産なんか何もなし。残ったのはボロボロの家だけ。 
聞けば治療費を支払えない人ばかりを診察・往診していてほとんど収入なんか無かったんだって。 
でも葬式のとき驚いた。 
患者だけで1000人ぐらい弔問に訪れ、中には車椅子の人や付き添いの人に背負われながら来る人もいた。
みんな涙をボロボロ流して「先生ありがとう、ありがとう」と拝んでいた。 
毎年命日には年々みんな亡くなっていくからか数は少なくなってきてはいるけど患者さんたちが焼香に訪れる。 
かつて治療費を支払えず無償で診ていた人から毎月何通も現金書留が届く。 
いつも忙しくしてたから遊んだ記憶、甘えた記憶など数えるぐらいしかないけど今でも強烈に思い出すことがある。
22: 大人になった名無しさん 2008/04/10(木) 22:47:47 .net
それは俺が厨房のときに悪に憧れて万引きだの、恐喝だの繰り返していたとき。 
万引きして店員につかまって親の連絡先を教えろと言われて親はいないと嘘ついてどうせじいちゃんは往診でいないだろ 
と思ってじいちゃんの連絡先を告げた。 
そしたらどこをどう伝わったのか知らないけどすぐに白衣着たじいちゃんが店に飛び込んできた。 
店に着くなり床に頭をこすりつけて「すいません、すいません。」と土下座してた。 
自慢だったじいちゃんのそんな無様な姿を見て自分が本当に情けなくなって俺も涙流しながらいつの間にか一緒に土下座してた。 
帰り道はずっと無言だった。 
怒られるでも、何か聞かれるでもなくただただ無言。 
逆にそれがつらかった。 
家にもうすぐ着くというときふいにじいちゃんが「おまえ酒飲んだことあるか?」と聞いてきた。 
「無い」と言うとじいちゃんは「よし、着いて来い」と一言言ってスタスタ歩いていった。 
着いた先はスナックみたいなところ。そこでガンガン酒飲まされた。 
普段仕事しているところしか見た事がないじいちゃんが酒飲むのを見るのも、なによりこんなとこにいる自体なんだか不思議だった。 
二人とも結構酔っ払って帰る道すがら川沿いに腰掛けて休憩してたらじいちゃんがポツリと 
「じいちゃんは仕事しか知らないからなぁ。おまえは悪いことも良い事もいっぱい体験できててうらやましい。 
お前は男だ。悪いことしたくなることもあるだろう。どんなに悪いことをしても良い。ただ筋の通らない悪さはするな。」 
と言われてなんだか緊張の糸が切れてずっと涙が止まらなかった。 
それから俺の人生が変わった気がする。 
じいちゃんのような医者になるって決めて必死で勉強してもともと頭はそんなに良くは無いから二浪したけど国立の医学部に合格した。 
今年晴れて医学部を卒業しました。 
じいちゃんが残してくれたボロボロの家のほかにもうひとつ残してくれたもの。 
毎日首にかけていた聴診器。あの土下座してたときも首にかかっていた聴診器。 
その聴診器をやっと使えるときがきた。 
さび付いてるけど俺の宝物。 
俺もじいちゃんみたいな医者になろうと思う。 

長文失礼しました。 







23: 大人になった名無しさん 2008/04/10(木) 22:58:18 .net

>>22
じいちゃんを超える医者になれ。それが何よりの供養だ。

そして、いい話をありがとう。


26: 大人になった名無しさん 2008/04/12(土) 01:44:35 .net

>>22
泣いたよ。
頑張って良い医者になれよ。


29: 大人になった名無しさん 2008/04/18(金) 05:17:06 .net

先日ばあちゃんが亡くなりました。
俺は今実家を離れて学校に通っているので、夜中に電話でその事を伝えられました。
俺が高校の時に足を悪くして以来、ずっと車椅子だったばあちゃん。
丁度その位から手術やらを何回もするようになって、一気に体調を崩し始めた気がする。
ばあちゃんと俺は昔は仲がよかった。
けど、大人になっていくにつれ何故だかばあちゃんとうまく話せなくなってきた。
目上と話すのに気を使ってしまうようになってしまっていたから、ばあちゃん話すのを避けていたのかもしれない。
いつのまにか、俺は自分からばあちゃんに話し掛けなくなっていた。


30: 大人になった名無しさん 2008/04/18(金) 05:40:21 .net

今年になってすぐ、母から電話。
ばあちゃんはもう長くないかもしれないと伝えられた。
医者の見立てでは、延命措置をとってもあまり変わらないかもしれないとのこと。
母は医者にその事を聞かされたとき
「延命処置するのと何もしないなら、どっちが楽ですか?」
と尋ねたらしい。

ばあちゃんは母にとっての実母。ばあちゃんが歩けなくなってからは、母は懸命にばあちゃんの面倒をみてた。
自分の睡眠時間を削って、夜中に何度も起きていたのを知っている。
母は体が丈夫ではなく、久しぶりに会ったりすると、はっきりと体調の悪さがわかった。
父は義母であるばあちゃんの介護にはノータッチだったが、母は何の文句も言わず1人で面倒を見てた。
俺自身夏休みに実家に帰っても遊んでばかりで、何も手伝ったりしていなかった。
俺は電話でばあちゃんの話を聞いた時、そんな資格もないのに
「延命措置を取ればもしかしたらまだ生きれるんじゃないか」
と母に意見した。何も手伝ってない俺には言えた事ではなかったが、母は穏やかな口調で
「今の治療でさえ大変やのに、延命措置を取ったらますます苦しくなる。
変わらんなら、おばあちゃんをもう苦しめたくないんよ」
と言った。
ばあちゃんの大変さをわかっている母だから言える言葉だった。


31: 大人になった名無しさん 2008/04/18(金) 05:52:59 .net

母の電話を受けてから俺はすぐに実家へ帰った。
ばあちゃんに会えるのはこれが最後かもしれないと思ったから。

母は電話で、今のばあちゃんを見たらびっくりすると言っていたが、本当に驚いた。
ばあちゃんは綺麗な人だったが、体は痩せ細り頬はこけ、目は虚ろで、人相が随分変わっていた。
聞けば、ここ数日何も話さず、家族の顔も認識していないらしい。
病は気からという言葉は本当で、あまり人と話さず刺激がないため、一気に症状が進行したのだ。
ばあちゃんはもう、自分で物を食べる事もベッドから起きる事もできなくなっていた。

こんなになるまで俺は何もしてこなかったんだ。後悔した。
俺は実家にいるあいだずっとばあちゃんに話し掛けた。

そして先日。ばあちゃんは亡くなった。桜が丁度満開になって、温かくなってきた時だった。


32: 大人になった名無しさん 2008/04/18(金) 06:17:33 .net

通夜の前にばあちゃんの顔が見たくて、急いで実家に戻った。

化粧をしてもらい綺麗な顔。お気に入りの着物を着てばあちゃんは静かに寝てた。
覚悟してたし、ばあちゃんの姿見ても泣かないかなと思ってたけど、すぐ涙でてきた。
心の中で、

「ばあちゃんごめんね、ごめん。ずっと何もできなくてごめん」

何度も謝った。

通夜と葬式でアホほど泣いたけど、喪主だった母の葬式の挨拶がいつまでも心に残った。
「母は足を悪くして以来、車椅子での生活でした。
不便な生活を強いられ、不満もあったと思います。
体調を崩してからは、食事も色々と制限され、大好きなお茶も飲めなくなり、恨めしい顔をされたこともありました。
それでも、苦しい闘病生活に弱虫で泣き虫だった母が泣き言を言わず耐えてくれました。
苦しまず楽に最期を迎えられたのがせめてもの救いです。

丁度去年の今頃、母と2人でお弁当を持って花見に行きました。とてもきれいな桜で、母と2人で来年も見に来ようねと話しておりました。
ありがたい事に、戒名に春と光という文字を頂きました。
今頃母は車椅子から解放され
あー、やれやれ、やっとやわ
と言いながら、春の光の中を、自分の足で歩きながら桜を眺めていると思います」
泣きながら話す母の姿に、涙が止まらなかった。



33: 大人になった名無しさん 2008/04/18(金) 06:34:42 .net

昨日色々片付けをしてると、母が何やら届いた荷物を開けていました。
何が入っているのか見てみるとそれは、カロリーを取るための桃のジュースや、血圧をあげるゼリーなど
食事制限で好きなお菓子なんかが食べれないばあちゃんのために母が注文していた商品でした。

「あー、これ全部そうやわ
間に合わんかったなー」
と苦笑いの母がとても寂しそうに見えました。


高校の時から音楽の道に進むと決めていた俺をばあちゃんは応援してくれて

「うちの孫は将来歌手になるんよー」

ってよくご近所に自慢してたっけ。

俺がもっと話し掛けて一緒に笑ってたら、ばあちゃんまだ元気だったかな?

ずっと後悔してます。


つまらない話を長々と書いてすいませんでした。
どこかにこのモヤモヤした気持ちを吐き出したかったんです。


37: 大人になった名無しさん 2008/04/20(日) 01:35:58 .net

俺の一才下の妹は、よく出来たヤツだった。
成績が、とかじゃなく人間的にっていうか。
明るいし、誰とでもすぐ仲良くなれる。「M(妹)ちゃんはええねえ!
いつもニコニコして元気で優しくてなぁ!」と近所や学校でも褒めちぎられ
る事なんてザラだ。そのうえ顔も可愛い。

一方の俺は鉄男経由のアニヲタで、俯きがちの根暗で、友人も極少、赤面症の
ダメ人間www「ほんまあのMの兄ちゃんなんか?」「お前なんか捨て子や!」
とからかわれる事もあったし、妹の同級生からも「こんなお兄ちゃんでM
ちゃん可哀想やわ~」「気持ち悪い~」と笑われた。
だから俺は、かなり妹に辛くあたっていた。
お前がそんなんだから、俺のアラが目だつんだ。お前さえいなけりゃ。
「金輪際、俺の妹だって言うなよ!」
そう言った事もあった。妹は泣きそうな顔をして、何も言わなかった。
妹はよく俺の事を友人に言っていたのだ。
「Iくん(俺の名前。妹は昔から俺を”くん”付けで呼ぶ)って超頭いい
の!何でも知ってるんだから!」
と、自慢していた。確かに俺は成績はよかった。勉強が好きだったから。
だが俺には、妹のその行動が皮肉にしか思えなかった。どうせ俺はガリ勉だ
よ、そう言いたいんだろ、お前みたいに友達が多くないから、勉強のが楽し
いんだよ…!

俺はそんな考えしかもてないような捻くれたダメ人間だった。

そんな中、イジメが悪化した。

(続く)
 


38: 大人になった名無しさん 2008/04/20(日) 02:03:01 .net

当初、幼い頃から外国にいたせいか、いまいち日本語や日本特有のカスタム
に慣れていなかったため「ガイジン!」や「非国民!」などとからか
われていた(これらは妹も言われていた)。俺は受け流せずに心を閉ざして
しまっていた。西の田舎の方だったので閉鎖的な文化があったのかもしれない。
俺は日本人そのものを嫌悪するようになっていたのだ。だから言い返さなか
ったし、無反応を決め込んでいた。

だが、そのうち「からかい」では済まなくなっていった。
詳細は省くが、とにかく俺がとある件の「犯人」にしたてあげられた
のだ。いくら俺が違うと叫んでも、誰も聞いてくれない。
「お前しかおらんやん!」「白状せえ!」「ガイジンは手癖が悪くて
かなわんな」「キャハハハハ!」
怒鳴り声、高圧的な笑い声、教師も疑わしげな表情をしている。まあ、
普段から無愛想で、「お前らの事なんて好きじゃねえよ」的オーラを出
している男子を信じろっていうのも無理な話かもしれないが。
皆の怒号と注がれる軽蔑の眼差しに耐え切れずに、俺は教室を飛び出そ
うとする。「逃げんなや!」男子がそれを阻む。「最低やな」女子がヒソ
ヒソとこちらを見ながら言う。気が狂いそうだった。周りがみんな敵なの
だと悟る。パニック障害の発作が出そうだった。

その時。

「Iくん、帰ろ!」

の声とともにドアを開け放ったのは…
目に涙をためて、顔を真っ赤にした、妹、だった。
ランドセルも背負わず、体操着のまま、今にも泣き出しそうな顔で俺に
手を差し出す妹の姿を、俺は忘れる事は無いだろう。

俺は、吸い込まれるように妹の手を取った。妹はぎゅっと握り返して
きた。そして、クラス中をキッと睨みつけ、
「you people are so pathetic!! screw you!!」(アンタら最低よ!
みたいな意味ですな。ホントはもっと汚い言葉を使ってたwww)
と泣き叫んで、俺の手をひいて駆け出した。上履きのまま、学校の外
へ出て家へとそのまま走った。おいおい授業中だぞ、と思うくらいに
俺は落ち着いていた。パニック障害の発作も引っ込んだようだった。

(続く)







39: 大人になった名無しさん 2008/04/20(日) 02:27:54 .net

その後もたいへんだった。家にたどり着いた妹は母親に泣きながら抱きつき、
英語で(この時期妹は興奮すると英語しか出てこなかった)泣き叫んでいた。
だが母親は英語がそこまで分からないので