鷺沢文香「短冊に願いを」
ふと、思い出した…
七月七日。
梅雨が明け始め、だんだんと陽が長くなる頃。
世間一般では七夕の日として多くに知られ、町は笹と短冊に彩られていた。
子供達は色とりどりの紙へペンを走らせ、笹に括り付ける。
綴られるは願い、届けるは天へ。
願い達の向かう遥か先には、一人の青年と一人の姫。
年に一度の逢瀬を今日この日に迎える彼等。
離れ離れとなり永い時が流れても、尚愛し合い続ける二人。
そんなロマッチックな二人きりの時間を誰にも邪魔させないと言う様に、この日の空は雲に覆われていた。
珈琲の入ったマグカップを傾け、本を開く。
折角なのだから何か七夕に関係のある本を読みたかったけれど、残念ながら店には置いていなかった。
仕方なく手に取った本は、これまた残念ながら面白いとは言い難い。
途中でなげるのは気が引けたので、ページをめくり続けてはいるけれど。
はぁ、と一息。
早く、来てくれないだろうか。
いや、仕事で忙しいのは分かっている。
そんな事は、とうの昔に理解仕切っている。
それでも、そう考えてしまうのは…
ブンブン、と。
恥ずかしくなってしまった思考を放り出す為に頭を振る。
一体…私は、何を期待していたの?
自問自答し、余計に心臓は強く波打つ。
本当にこんな事を言ってしまっていいのだろうか。
断られたりしないだろうか?
笑われたりしないだろうか?
迷惑がられたりしないだろうか?
…今更そんな事を考え出したところで、何かが変わるわけでも無い。
考えれば考えるだけ沈んでしまうなら、本でも読んだ方がよっぽど有意義だろう。
それでも彼の事を考えてしまう。
それは、私にとって今日は少し特別な日であり。
私にとって、彼は少し以上に特別な人だから…
「アイドル、どうですか?」
今思えば、本当におかしな一言からこの関係が始まったものだ。
叔父の営む書店のアルバイトとして店番をしてした私へと差し出されたのは、ザックリとし過ぎた質問と名刺だった。
その出処は、まだ二十後半になるかならないかと言うスーツ姿の男性。
思い返せば何度か、この店を訪れていた様な気もする。
…この人は、一体何を言っているんでしょうか…
質問の意味と意図が分からなかった私は、戸惑ってしまった。
アイドルが、どう?
残念ながら私はアイドルでは無いので、どんなモノなのかは分から無い。
そう言った事は、アイドル本人に尋ねてほしい。
しかし、客と店員と言う立場。
出来る限りお客様の要望に応えなければならない。
取り敢えず、何を言っているのか分からない事を隠しつつ聞き返してみる。
「アイドルをお探し…ですか?申し訳ありませんが…当店はアイドル雑誌の取り扱いは…」
「あぁいえ。そう言う訳では無く、ですね」
どうやら違ったらしい。
だとしたら、一体どう言う意味なのだろう?
「私、こういう者でして…。アイドルに、興味はありませんか?」
差し出された名刺に目を向けてみれば、346プロと書かれていた。
本ぐらいにしか興味の無い私でも、346プロと言うのは聞いた事がある。
テレビをつければ何処かしらの番組に必ず一人は見かけるくらい、有名なアイドルが沢山所属している事務所。
確か、人気投票で一位を取ったアイドルはシンデレラガールと呼ばれていた筈だ。
この人はその事務所のプロデューサーらしい。
まだ若そうに見えるけれど、腕は確かなのだろう。
人は見掛けによらないのだから。
そして、そんな人から、アイドルに興味は無いか?と問われた。
それが意味する事は、一つしか無い。
…私が…アイドル?
「…え?えっと…お、お話が良く呑み込めないのですが…」
いや、そんな事は無い。
この人が何を言っているかなんて、充分に理解出来ている。
ただ、少しばかり気が動転しているだけ。
何せアイドルだなんて、自分からは縁遠いモノだと思っていたから。
「是非とも貴女に、ウチのアイドルとしてデビューして頂きたいんです。まずは、お話だけでも…」
「アイドル…ですか。それは、私が…ですよね?」
「ええ、一目見てティンときました。貴女には、輝く才能があると」
頭がこんがらがる。
思考は乱れ、冷静さを欠く。
もしかしたら、口をパクパクして目を回してしまっていたかもしれない。
私が…アイドル?
沢山の人の前で歌って踊ってテレビに出る、あのアイドル?
キラキラしたフリフリの衣装を着てステージに立つ、あのアイドル?
ティンときた、の意味は良く分からないけれどおそらくピンときた、みたいなものなのだろう。
だから何度か、店を訪れていたのか。
要するに、私はスカウトとやらをされた。
…いやいやいや。
「…私…あまり、人前に立つのが得意では無いので…。申し訳ありませんが…」
こんな性格の私が、そんな事を出来る筈がない。
大勢の前に立つ?店の一対一の対応で精一杯だ。
歌って踊る?座って本のページをめくりたい。
沢山の否定の意見が渦巻く頭の中から、最低限の言葉を取り出してお断り。
そもそも今だって、相手の目を見てすらいない。
そんな私が…アイドルだなんで…
「ええと…ならせめて、少しでも話を聞いて頂けませんか?」
なかなか、諦めて貰えない。
確かに直ぐはいそうですかと納得して帰ってしまっては仕事にならないのだろうけれど。
こっちとしては、一刻も早くお引き取り願いたい。
けれど、そんな事を強く言えるなら最初からキッパリ断っている。
「まぁ…お話、だけなら…」
私がそう言うと、途端に笑顔になる。
まるで子供みたい、と此方も少し微笑みそうになった。
「それはよかった。あ、名刺です。ええと、お名前は?」
「鷺沢文香です…」
名刺を受け取り、名前を名乗る。
そう言えば、差し出されているのに受け取っていなかった。
こういう時まずは記載されている電話番号に掛けて確認するべきなのかもしれないけれど、どのみち断るのだから必要無いと判断。
「それでは鷺沢さん。まず、我が346プロはーー
「長々とすみません。つい喋り過ぎてしまって…」
「いえ…。お真白いお話でしたし…特に用事もありませんから」
気が付けば、時計の長い針は真上から真下に下りていた。
こんなに早く時間が進むなんて、まるで本を読んでいる時の様。
私が人とこれだけ会話するなんて珍しい。
殆ど彼の話を聞いているだけだったけれど。
最初は、適当に相槌を打って流すつもりだった。
どのみち断る話の説明なんて聞いても無駄なのだから。
けれど、気付けば私は彼の話に引き込まれていた。
それは彼が話上手だったからと言うよりは、話す彼が楽しそうだったから。
アイドルについて語る彼の目は、とてもキラキラ輝いていた。
アイドルについて語る彼の言葉は、強い情熱に溢れていた。
まるでファンダジーの世界の物語を聞くかのような感覚にとらわれ、気付けば時間は流れていた。
私の今の生活と彼の語るアイドルの話は、確かに別世界と表現しても差し支え無いものなのだ。
「私ばかり話してしまってすみません。それで、鷺沢さん。少しでも、アイドルに興味を持って頂けましたか?」
ここでいいえと首を振れば、流石に彼は諦めるだろう。
それが一番簡単な選択肢である事は分かっていた。
けれど、私の中に。
ほんの少しだけれど、アイドルに対する憧れの様なものが芽生えていた。
「ええと…少し、楽しそうだな、とは…」
「では…!」
「けれど…申し訳ありませんが、今はまだキチンとした返事は出来ません…」
幾ら何でも、そんな直ぐに決断は出来無い。
それは私で無くとも同じ事…だと思う。
「まぁ、今直ぐお返事を頂かなくても構いません。また、来ますので」
「…はい…え?」
「今日は失礼しました。何かあれば、名刺の電話番号にお願いします」
彼の人との出会いの日は、こうして迎えてこうして終わった。
これが、私にとっての人生の転機とも言える一日。
そして、彼と私の日常の、最初の一日。
「鷺沢さんは、ホラーとかも読みます?」
「はい…一応、目についた本は読む様にしているので…」
日曜日の夕方、日が暮れ始め街灯が街を照らす頃。
客の居ない書店では、二人の人間が語り合っていた。
片方は本について。
片方はアイドルについて。
テーブルを挟みティーカップを傾けながら話し掛ける彼の視線の先には、角川ホラー文庫があった。
ホラーは嫌いでは無い。
人の心をしっかり掴んで揺さ振る表現に富んでいる。
それに、愛読家であるからこそフィクションと現実の区別はしっかりとついているから怖くない。
怖くない、全く。
「オススメのホラーとかってあります?俺も久し振りに何か本を買って帰ろうと思うんですけど」
「…そんな事よりも…もうすぐ担当アイドルが大きなステージなんですよね?時間は大丈夫…なんですか?」
「ここに来るのも、一応仕事の一環ですから」
仕事の一環…。
分かりきっていたし理解しきっている返事に、しかし少し心が傷む。
何故か?だなんて理由は考えない。
考えても良い結果にならない事は理解しているから。
最初のスカウトから、彼は週に一度か二度の夕方、この店を訪れる様になった。
そして来る度に、アイドルの仕事や魅力について語っていく。
それは彼が私に対して、言い方は悪いが脈アリだと思っているからな筈。
…確かに段々と惹かれ始めている。
正直、私の踏ん切りがついていないだけ。
最初は自分の事を私といい、かなり固い敬語を使っていた彼も、今では俺口調となりすっかりこの店に馴染んでいた。
「…っと、そろそろいい時間ですし俺もお暇しますね。失礼しました」
「あっ…また…来てください」
何とも自分らしからぬ恥ずかしい台詞が出てしまったものだ。
初心な恋する乙女でもあるまいし…。
声は届いていたのか、振り向いて笑顔をこちらへ向けお辞儀をして去っていく彼。
…恋する乙女…あながち、間違っていない気がしてきた。
「そう言えば…何故私に声を掛けたんですか…?」
六月末、湿気の多い蒸した気候とももうすぐお別れ出来る頃。
ふと、とても今更ながらそんな事が気になった。
自分で言うのも難だが、私はそんな輝ける様な外見も人の目を引く様な外見もしていないごく普通の女子大生な筈。
アイドルのプロデューサーと言う程なのだから、女性に対する目も肥えているだろう。
だと言うのに、彼は私にここまで固執してくれる。
それは…何故?
「実はですね…俺、誰かをスカウトした経験無かったんですよ」
「つまり…私が、初めて…?」
ええ、と。
あの人は首を縦に振った。
「上司から、そう言った事に慣れておけと言われまして…それで、誰をどうスカウトしようか悩んで歩いていたら」
「私を…見掛けた、と」
まるで、運命みたいに、と。
そんな恥ずかしい言葉を想像してしまう。
もしそう言って貰えれば、私の踏ん切りはつくのに。
もし、彼が私と同じ気持ちだとしたら。
万が一、彼が私の事を想ってくれていたとしたら。
私は迷わず、アイドルの話を断り。
そして、私の方から想いを告げるつもりでいた。
アイドルは恋愛御法度。
それは彼自身が言った言葉。
そんな事をすればファンに対する裏切りとなってしまうし、その相手がプロデューサーだったとしたら尚更。
下手したら、傷害事件に繋がってしまう可能性もある。
なら、私はアイドルとは成らずに…
このまま彼と…
「一目惚れ、みたいなものです」
ふと、彼はそう呟いた。
「文香さんがステージに立ってくれたら、きっ
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今日は妙にバッドエンドSSを読んでる気がする