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守口で戦後70年展 死と隣り合わせの戦時生活回想戦後70年の節目に守口市民らの戦争体験を知ってもらおうという企画展
「回想の守口1940~1945」が京阪守口市駅前テルプラザで開かれている。
死と隣り合わせだった当時の暮らしぶりなどが紹介されており、
主催者は「(戦後生まれの)市民にも戦争の悲惨さを知ってもらい、
平和を考えるきっかけにしてもらえれば」と話している。19日まで。市民らへの取材を通じ、学生たちに地元で戦争があったことを知ってもらおうと、
大阪国際大学(同市藤田町)の村田隆志准教授が企画した。http://www.sankei.com/west/news/150706/wst1507060089-n1.html
普通に生活範囲内の町が昔は海軍基地だったんだが
戦争当時は爆撃がひどくて山をいくつか越えた実家から
真っ赤に燃えてるのが見えたそうだ
のどかな農村地帯なのにそんなことがあったんやなあ・・・
って何か不思議な感じがするわ
爺ちゃんが戦争はダメだ泥沼になるから外交でなんとかすべきだって言ったら
向こうがヤル気なのにそんな弱気でどうする非国民と罵られ大変な目にあったそうだ
終戦後はみんなこんなことになる前になんとかすべきだったって言ってたらしいw
東京済みの祖父談。
空襲の時は部屋を真っ暗にしていても、焼夷弾のあかりで新聞が読めたと言っていた。
技術者だったので戦争には行っていないらしい。
叔母が広島出身というだけで見合いを断られた
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鉄砲の弾が当たると、痛いより熱いって
じっちゃんが言ってた
とりま満州から本土にかえるとき幸運にも台風で船一本おくれて乗ったらしいが、
前の船が魚雷でやられたって話はきいたな。
家の死んだ爺様の話
戦前台湾で爺さんは小学校卒業して高雄で漁師をしていたそうな
当時は戦争中にもかかわらずサメを獲ってフカを福建に売ってたそうだ
たまに澎湖付近で墜落した敵機の箱らしいものを回収して
軍から小遣いをもらってたそうな
戦時中だから空腹だったって話は聞かなかったな、
逆に戦後の引揚げで長崎に来て漁師をしていた時がきつかったと言っていた
満州で配給をもらいに来た中国人が日本軍から食用油を壷に入れてもらったのに
帰り道に壷を落としちゃったんだそうな
その落としちゃったおっさんは何ヵ月分かの家族の食事を台無しにしたからか
ワンワン泣き始めたそうな
それを見て日本軍の兵隊達は大爆笑したんだってさ
まぁ命のやり取りをしてる戦時下でこれをかわいそうとか思う奴はいねぇよな・・・
本当に戦争て奴はどこまでも狂ってやがる
戦後の話だけど、東京は食料不足で餓死者が出るのでは?と言われた頃
地方の農村では食料が余って腐らせていたそうな、
ちゃんと中央の役人が地方役人通じて農村に食料の供出依頼して、
特別列車仕立てて輸送したら助けられたのではないか?
うちの爺さんは戦艦武蔵沈む
↓
フィリピンのコレヒドール島
↓
帰る船また沈む
↓
台湾
↓
日本帰還
とか聞いたな
仕事先のじじいの話だと中国人撃つの楽しかったとか言ってた。
本当 狂ってるよな
仕事柄リアル戦争世代から話を聞ける機会は有るが
どうしても亡くなった戦友の話になるから下手に聞けない
行く時はめっちゃ盛大に送り出してくれたのに帰ってきた時は誰も迎えに来なくて
上官から毛布1枚渡されて3日ぐらいかけて汽車と徒歩で帰ったという話だった
満州にて
寒さに耐えかねて焚き火したらそれめがけて丘から砲撃を受け怖かった
市内に軍の物資をため込んでるとこがあって
戦争末期になると軍の奴らが着服したり横流ししたりしてたそうで
それを見て「戦争は終わるんやな~」って思ってたって話も聞いたな
昔バイトで一緒に働いてたインドネシア人は
東ティモールの独立戦争かなんかに民兵として参加して人も殺したと言ってた
ハタチくらいの俺の同僚は「あんた人殺しだったのか!?」と言ったら
そのインドネシア人は「こちらが殺さないと自分が殺されてた」と
真面目な顔で語ってて凄く印象的だった
戦地で戦闘中に上官が
味方の銃撃で死ぬ事が何度かあったと死んだ爺ちゃんが言ってた。
気にくわない上官をどさくさ紛れに後ろから撃つなんて事は
良くある話だみたいな事も言ってたな。
降下してくる飛行機(戦闘機)は一瞬止まったように見える
うちのじいさんが二ニ六事件にも参加した陸軍大佐だったけどある日、
東条英機に呼びだされたことがあったらしい。
呼ばれた理由を聞いたら「それは軍事機密だ」と言って死ぬまで教えてくれなかった
西表島の守備隊だったそうで
目の前で味方の船が魚雷で沈められて大変だったらしいけど、
敵に向けて鉄砲撃たなくて良かったと言ってたわ
学生時代のバイト先の爺さんから大陸の慰安所の話を聞いたことがあったな
日本から来てた売春婦はツンケンして感じ悪かった、
中国朝鮮の売春婦は言葉は通じないが愛想がよくて日本女より安かった、ってさ
まだ世間が従軍慰安婦問題だのでうるさくなかった頃だよ
祖母の弟は飛行機乗りになれると思いウキウキと海軍に入ったが、
飛行機を操縦する直前に終戦になってしまい、ふてくされて帰ってきたらしい
陸軍司令部で暗号解読に携わっていた祖母は毎日オヤツが出て、
貝を山ほど食べられてと優雅な日々を送れたそうだ
お爺ちゃん亡くなる少し前に、海軍にいた頃の夢見てたのか寝言が凄かった
将校にミサイルが飛んでくるであります!どうしたらいいでしょうか!
みたいな話を寝言で延々聴かされた
お前らの大好きな戦艦の舵握ってたの、うちの爺ちゃんだよ
>>60
初めて見たわ、他にもなんか持ってるんですか?
>>193
満州の歌を書いた手帳とか
http://i.imgur.com/9J7edMT.jpg
うちの亡くなった祖父は四国から横浜の連隊所属だったらしい。
同じ班の誰かがミスをすれば連帯責任当たり前はよくきくが、
目の前で自分達の班の食事をひっくり返されて
無意味に食卓をよいと言われるまで班の皆で持ち上げ続けさせられたとか。
上官から理不尽なしごきをいっぱい受けた話をする時は
何十年たっても恨み節たっぷりで、普段無口めな人だけにちょっと恐かった。
終戦でやっと帰れるって時は
荷物盗まれて飲まず食わずで四国に帰るしかなくて踏んだり蹴ったり。
無事に実家に帰れた時は農家だから食べ物もあって嬉しかったって。
うちの爺さんは終戦のドサクサに紛れて
北鮮からレアメタルを山のように持って帰って一財産作ったらしい
父方の祖父は、
鈴木貫太郎と近しい間柄だったと聞いている。
職業軍人だったけど、この戦争はヤバイらしいと言った途端に
家の周りに特高警察に見張られた時期があったらしい。
祖父は朝鮮人
志願兵になったら日本に行けるって言われたから、志願兵に
その後は軍隊から逃げて鳥取の防空壕で逃げ回って、何食わぬ顔で日本で商売
クソみたいな血が俺には流れてる
ごめんな
>>79
あんたは日本人だよ
>>79
当時は日本人でも一杯いたんじゃね?
外道な行為は絶対だめだけど、
戦中戦後は混乱期だからしょうがなかったんじゃなかろうか
終戦直後、樺太から逃げてくるときにソ連の潜水艦から魚雷攻撃受けたあと、
反撃して潜水艦を撃沈させた。
恐らく帝国海軍最後の戦果。
これに婆ちゃんが乗ってた
祖父はラバウルで米軍の捕虜になったそうだが、
物怖じしない性格の祖父は仲良くなったんだかなんだかしらんが
収容所の米兵に「お前んとこの拳銃はどんなんだ、見せてくれよ」と
それに応じる米兵もアレだが
(もちろん弾抜いた状態で)ガバメントを触らせてくれたという
ずっしり重い精巧なその銃を持った祖父は「そりゃ勝てんわ」と思ったそうな
敗戦後、演奏家だった父に連れられて鬼畜と教えられた米兵たちの祭りに
戦争終わったとはいえ、敵国相手になんで演奏など・・・と思っていた
父はそこで素晴らしい演奏をしたのだが、
終了後、米兵数人が涙を流しながらこちらにきて何か英語で話し
父と私に敬礼をしてきた
通訳によると演奏の素晴らしさに心打たれ云々だったらしい
ソレを聞いた私は
「米兵も日本人と変わらず心揺さぶられ泣く人間なんだ」と初めて実感し
米国でも日本でもなく悪いのは戦争だったんだと理解した
って話をラジオで
じいちゃんがギリギリシベリアに行かずに済んで中国から逃げてくるとき
中国軍から匿ってくれてたのは現地の中国人だったって言ってたわ
あと山上の中国兵と戦うために毒ガス兵器を駆使してたって言ってた。
過去形でいうと死んだみたいであれだから一応言っておくとじいちゃんはまだ生きてる
通信兵だった爺さん
爆撃されるから避難しろと言われ、同僚が逃げ出す中で一人残り仕事をする
色々あってかろうじて生き残ったが、
先に逃げ出した同僚たちは全滅していた という話をなんべんも聞いた
父方爺さん
ダイナマイト工場長、玉音放送が信じられず工場に全力稼働させた
戦後は空対空ミサイルの開発に従事、痴呆にかかって山で行方不明
母方爺さん
10兄弟の末っ子、中卒。朝日のカメラマンとして中国戦線へ。
ソ連軍迫るの報を一般人よりも早く知ることが出来たため一旦は日本へ。
その後も繰り返し朝鮮半島へ。子供3人に土地を残した。
先祖=土蜘蛛を退治した渡部綱
祖父=フィリピンあたりに出兵。無事生還
祖母の兄=戦艦大和の製造に携わる。呉で爆撃を受けて死亡
祖父の叔父=日本軍の諜報員。ソ連や満州で活動
俺の叔父=元自衛官
俺=なんか戦記ものとか書く作家
満州からの引き上げの時、
知り合いの家族が使用人の朝鮮人に騙されて皆殺しにあって財産を奪われたから
朝鮮人は絶対に赦さない、って婆ちゃんが言ってた
自分達は仲良くしてた中国人の手引きで逃げられたけど、逃げる途中でまだ幼子だった長男が拐われかけて必死で取り返したとも
たまたま中国残留日本人孤児のニュースを見た時に何気無い感じで話してくれた
そんなこんなで俺の朝鮮人嫌いは婆ちゃん譲りとも言えなくもない
造兵廠で女工として働いていた婆さん
仙台空襲で命からがら逃げ延びる
地元の岩沼まで歩いて帰ったらしい
途中、田んぼにサンダルを持っていかれて片足裸足だったとか
岩沼についたら家族が驚愕 空襲で死んだと思ってたらしい
岩沼からもはっきりと赤く燃える仙台が見えたとのこと
軍隊は規律厳しくちょっとした事で下士官に木刀で殴られたらしい
よく怒られた人は、殴られて腫れ上がった所をさらにボコボコに殴られて
傷口が開いて大量の出血と膿で死ぬ事も。その晩下士官達は笑いながら
一人や二人死んだって、赤紙出せばいくらでも代わりが来るって言ってたとか
婆ちゃんが、湾岸戦争の夜の爆撃のTV映像を見て震えて泣いていた。
豊橋の大空襲にそっくりだと言って泣いていた。
ワシの母ちゃんは徳島で
空襲受けて近くの小山にある防空壕に逃げたらもうすでに満杯
しょうがなく防空壕を後にして走り出した数秒後に爆弾が防空壕を直撃
吹っ飛ばされた母ちゃんが恐る恐る振り返ったら防空壕も何もかも無くなってたらしい
防空壕には仲の良かった同級生家族やご近所さん家族もたくさん居たのに‥
ロシア人はメシもくれない
餓死なんてザラだった
でもあいつら釣り道具をくれた
釣りがうまくて生き延びた
ってじーちゃんが言ってた
ロシア人は絶対信用するなとも言ってた
ばあちゃんの実家は旅館してて終戦時に泊まってた将校が腹切ってかなわんかったと
戦後になって、米軍の将校は靴で部屋上がる、ペンキで壁塗るからかなわんかったと
どっちにしろ当時は軍人が泊まるたび、勝手するからひと悶着あって大変やったよーで
中国兵に拳銃で顎部を吹き飛ばされ
更に持病の椎間板ヘルニアが悪化し野戦病院へ
更にマラリアによる高熱が発生、じじい死を覚悟する
ある日空襲警報が鳴り響き病院から人が逃げまどう中
じじい、もうオレは死ぬからあんたらは気にせず逃げろと言う
実際は陽動作戦で逃げまどうところを全員狙い撃ちされ、じじい独り生き残る
会社の上司が戦時中江田島で教官してた時に
江田島から広島の原爆の投下を目撃したんだって
すごくきれいだったと言ってた
次の日、食卓に大きな魚が沢山だされてたと言ってた
うちのおばあちゃんに、戦争辛かったでしょ?
戦争中は食べるもなくてひもじかったんでしょ?って聞くと
「全然!食べるものには困らなかった!戦争楽しかった!」
って言う
>>174
あるあるwww
満州帰還者の人が「露助はクズww」って言うときは目が輝いてたよ
よほどのカスだったみたいだ
>>174
食料不足は主に都会の話なんだよね
うちの親父も食事の質は悪かったが飢えた事は無いと言ってた
海でいろいろ捕れたから
父は終戦時に14歳だった。
福島の田舎ほうにいたので割とのんびりしてたようだが
ある日飛行機に手を振ってたら爆弾落とされてびっくりしたと笑ってたな
田舎とはいえ一応工場があってそれを狙った爆撃だったらしい
うちのじいさんは戦争のことを聞くと
「結構楽しかった」とだけ呟いて
それ以上ははぐらかしたり黙ったりして何も語ろうとしないまま、墓に入っちまった
ほんと何があったんだろう
>>201
あまり話しない人が多いよね
いい話なんてないからじゃないのかな
>>204
まあ戦ってたなら何らかしら周りの人間は死んでるだろうし
殺した自慢なんてバカらしいし自然と無口になるのかもな
当時の話を直接聞いた最後の世代がここに沢山居るけど、
正しく伝承されて行けばいいけど
また繰り返すんだろうな
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元スレ そろそろ8月だし、おまいらが身内や知人から聞いた戦争体験でも書いてけ
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1436190209/
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それで助かったけどヤバイと思って防空壕に入る直前にアメ公の戦闘機から
機関銃撃たれてスレスレで当たらずに逃げれたけど、あいつらは子供だってわかって
撃ってきたって言ってた、いまだに恨んでるよ、だからまだイラクで似たような事してるよ
ってヘリから親子が乗ったバンを撃ちまくってる動画見せたら、鬼畜米兵って言ってたw
しばし疎開してから帰ってみたら、全く知らない人たちがバラック建てて住んでたって話。
そのまま土地ごと持ってかれて、陸軍払い下げの山地を開墾するしかなかったって。
そんなばあちゃんは2度も空襲に合ってるんだが、2度とも馬が逃げる方向に逃げたおかげで完璧な無傷だったよ。
北海道も空襲にあってたんだよな、無知なら札幌とか思う・・・・、じゃねんだぞ!!
この対戦時に日本で新しい言葉が生まれたんだよな、まぁ知らないか老い老害にわ
まあ人間が誕生した時から戦はあったから、永遠に戦は無くならないんだろうな
ただ、戦う意思の無い人は巻き込まないでほしい
軍法に違反したからとか銃殺ではなく軍刀で首を落としたらしい。
言行から砲兵隊の参謀か隊長だったっぽいな。
野球で球は60度の角度で飛ばすのが一番よく飛ぶとか言ってたけど、
それは成層圏まで飛ばした時だろうと高校の時に思った。
その飛行機は木製のやつで、最初は練習用だったけど、終盤はそれで特攻行ったりしてたので
こりゃどう考えても勝てんわと思っていた、と言っていた
戦争末期になると近海にも潜水艦が出没するようになり、
日本本土から出撃した船も殆どが戦地に着く前に沈められたそうだ
爺さんも乗ってた船が沈められたのは1度や2度じゃないとか…
その度によくぞ戻ってきたなぁと思う
だから、ばあちゃんは中国人が大嫌いだよ
頭よかったから通信担当?かなんかで後方支援になったけど
前線に送られたやつらは皆死んだって。
あとばあちゃんはミサイルが落ちてきて、
みんな左に逃げたらそこにミサイル落としてきて、
今度右に落ちたらそこに落として、
みんな真ん中に逃げて集まって逃げられないところに
米軍がミサイル落したって、エゲツナイよね
引き上げの際にレイプされて子供の産めない身体になってると思われ、半島帰りの女性は結婚を断られることが多かったそうな。
戦争で沖縄が取られた時、次はもちろん九州だろうと竹槍の訓練が厳しくなった。「絶対に沖縄の仇をとってやるんだ」と頑張ってたらしい。
今思えば竹槍なんかでなにができるって笑ってたけど、当時は皆真剣だったらしい。
それを聞いて育ったから、今沖縄が「見捨てられた」って言ってるのを見ると悲しくなる
ばーちゃんから、当時弟妹背負って小学校授業受けたとか竹槍の練習したとか聞いたことはある
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