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「思い出補正」って言葉が釈然としない理由
 

「思い出補正」って言葉が釈然としない理由


<思い出は美化されるもの>

 こないだ、飲みの席でファミコンの面白さについて語ってたら「それ、思い出補正じゃん!」ってつっこまれた。僕は大人なので笑ってやりすごしたが、内心は釈然としないものがあったのだ。

 このわかってるようで、よくわからない言葉「思い出補正」ってそもそも何だろうか!?

 補正と言ってるくらいなのだから〝もともと適正ではなかった”ということだろう。つまり、当時それほど面白くないゲームが記憶の中で「面白い」と美化されてしまう現象が、思い出補正ということになる。

 しかし、どうもしっくり来ないのだ。


ファミコンの思い出

 なぜなら、ファミコンは本当に面白かったからである。つまらなかったら社会現象にまでなってないし、世界進出も成功してなかっただろう。そう考えるとファミコンの面白さが〝適正ではなかった”なんて、どうしても思えないのである。



<思い出補正のカラクリとは?>

 思い出補正のカラクリについては以下のような説が指摘されている。

・子どもの頃は何をやっても新鮮で刺激的だったので
 何でも面白く感じただけだよっていう幼少補正説

・誰だって初恋の思い出が忘れられないように
 初めてのゲームが忘れられないだけだよっていう初恋補正説

・たまたまその時代、ファミコンの性能が群を抜いており
 相対的に評価が高かっただけだよっていう時代補正説※1

・かつて人々が特定のイデオロギーに扇動されたように、
 熱狂的なファミコンブームの中で、みんなが同調して
 そう思い込んでしまっただけだよっていう集団補正説


 しかし、どの説も我々が大人になり、ファミコン以降の様々なゲームを体験してきたから言えることではないだろうか。結果論に過ぎないのだ。

 したがって当時、我々が抱いた「面白い」という感情は、正真正銘の本物だったはずで、僕なんかは、それでいいじゃないかと思うのだが、やつらは言う。「いやいや、それが偽物だったんだ!」と。

 じゃあどうすればいいのか。それは実際にプレイしてみればいいのだ。



<まるでマインドコントロール>

 我々が大人になった今、実際にファミコンをプレイしてみて「つまらない」場合、残念ながら補正されていたということになるだろう。そこは素直に認めようじゃないか。でも「面白い」場合、それは補正ではなく本物だったということになる。それは認めてくれないか?

 実際にプレイしてみて(現在)

 つまらなかった → 思い出補正
 面白かった → 思い出補正じゃない




 でもやつらは言う。「それこそ、典型的な思い出補正じゃないか!」

 実際にプレイしてみて(現在)

 つまらなかった → 思い出補正
 面白かった → 思い出補正



 そうなのだ。この「思い出補正」という言葉、どう転んでも答えはいっしょなのだ。もはや「レトロゲーム=思い出補正」と言わんばかりである。

 たとえばYahoo!知恵袋で「思い出補正なしで面白いゲーム教えて下さい」って質問よく見かけるよね。「俺は思い出補正かかってるから面白いけど」って断ってからゲームを勧めるひともいる。つまり、思い出補正の有効範囲は“思い出”にとどまらず、現実の感情にまで及んでいることになるのだ。これはもう補正云々とかいうレベルではない。まるでマインドコントロールだ。

 あるいは、記憶と感情は密接な関係があって、本当にそういう作用があるのかもしれない。でも、だったらもう「面白い」でいいじゃん。何が補正なの。何を正してるの?って思っちゃう。



<そもそも「面白い」とは何か?>

 しかし、以下のような主張もあるだろう。

 ファミコンが誕生して30年、目覚ましく進化してきた現代のゲームに比べ、ファミコンがあらゆる側面で劣っているのは歴然たる事実。それなのに「面白い」と感じるほうが不自然だ。したがってなんらかの補正がかかっているに違いない!



 こうなってくると、そもそも「面白い」とは何かって話になっちゃう。もしかしたら「面白い」って感情自体が、いろんな補正の集合体なのかもしれないじゃないか。「じゃあ、なんで君はツムツムが面白いの。かわいいから? それってディズニー補正じゃん」「みんなで楽しめるから? それってソーシャル補正じゃん」「恋人といっしょにやってるから? それってイチャイチャ補正じゃん」何でも言えちゃうのだ。

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 もっと言えば、それならそれでいいじゃんって思う。補正だったから何? 面白ければ補正でもいいじゃんって思うのだが……



<僕たちは正しいからゲームをするのか?>

 ここまで考えてきて、気づいたことがある。

 こういう風に「補正だ、補正だ」言いたがるひとたちは、アイドルや有名人にやたら「整形だ、整形だ」言いたがるひとたちに似てるのだ。

 この手のひとたちはある種の潔癖症で、変な正義感を持ってたりする。そんなのは正当な評価じゃない。正しい認識じゃないって「正しさ」に人一倍のこだわりを見せ「正しくない」と判断したものに対しては極端に拒絶したり攻撃したりするのである。

 しかしあえて言おう。「正しさ」なんてものは捨て置け。

 なぜなら、僕たちは正しいからゲームをするのではない。面白いからゲームをするのだ。正しいものが面白いんじゃなくて、面白いものが正しいんだ!

 つまり、感情が先にあり、後から肯定があるってこと。なぜなら人間はつねに自分が正しいと思って生きているじゃないか。誰だってそうだよ。大げさに言えばそれは生きることへの肯定だ。
 ただし、それゆえに相手が自分と違う考えを持っていると「正しくない」と思ってしまうところがあるのが人間なのだ。



<結論>

 話を整理しよう。つまり「思い出補正」っていうのは一人だと成立しないってことだ。一人で勝手に面白いと思っているかぎりは、それは補正ではなく本物の感情である。
 したがって必ず相手が必要であり、しかも相手と(面白いという)感情に差があって初めて成立するものだってことがわかった。

 そして「補正だ、補正だ」言いたがるひとたちは、「自分が正しい」って気持ちに人一倍こだわりを持っているひとたちなので、ついつい他人を指摘してしまうのだろう。しかしそれは自分を認めてほしいっていう承認欲求の裏返しに他ならない。

 正直それならそれでいいのだけども、だったらまず他人を認めようぜって話だよね。思いっきり矛盾してるじゃん……

 僕が釈然としない理由はこの“矛盾”だったのか?

 なんとも釈然としない結論かもしれないが(笑)、まだまだ考察の余地があるということだろう。たとえば今回はゲーム限定の話だけど、これが映画とか思い出の品とかになってくると、また違ってくるのかもしれない。



※1 「時代補正」と「思い出補正」は違うものだとする意見もある。

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