涙目で熱い吐息を漏らす姉が弟に抱かれる話
定間隔に聞こえていた線路の継目を踏む音が、少しそのテンポを落としてきた。
さっきまで見えていた空は、今は聳え並ぶビルに隠れている。
大都会という程ではない地方都市でも、その地域で最も大きな駅に近付いているのだから当然の光景だ。
流れる看板にはどれも見覚えがある。
前にここを訪れたのは三ヶ月前、5月の連休の事だった。
明るいブラウンのタイル張りのビルが間近に視界を横切った、それを合図とするように車窓の色が変わる。
列車が河口に近く広い川幅を渡る橋に差し掛かり、再び空が眼前に広がったのだ。
僕は隣りの空席に置いた荷物を膝に載せかえ、もう一度車窓へと視線を戻した。
数分前、まだ建物の少ない地域を走っていた時から気にとめていた入道雲は、高さをぐっと増したようだ。
その覆い被さるような堂々とした姿が背負う青は、僕と姉が他人になったあの日の空によく似ていると思った。
……………
………
…
「よろしくね」
「…うん」
十数年前、姉ちゃんは僕の姉ちゃんになった。
父ちゃんと、姉ちゃんの母さんが結婚したからだ。
僕は小学校の三年生で彼女は四年生の夏だった。
本当の母ちゃんは僕が幼稚園の頃に死んだ。
理由はその時はよく解らなかったけど、くも膜下出血だったらしい。
とにかく酷く辛くて、泣いた記憶ばかりが残っている。
姉ちゃんの両親は離婚したらしい、それも当時の自分にはよく解らなかった。
「弟ができるの嬉しいよ」
「…僕も嬉しい…かな…」
嘘じゃなかったと思う。
でも本当は照れ臭さの方が勝っていた。
初めて会ったのは夏休みの期間中、地元の映画館の前だった。
まだ互いの親が再婚する前、その機会が設けられたのはたぶん子供二人の仲を取り持つため。
映画の内容はほとんど忘れてしまったけれど、座席順が母・姉・僕・父でひどく緊張しっぱなしだった事ははっきりと覚えている。
程なくしてそれぞれの親は結婚し、四人で暮らすようになった。
近い年頃の姉弟となった僕達は自然と打ち解けていった。
「ちびちゃん、ゲームやろう」
姉ちゃんは当時背が平均より低かった僕を、からかうようにそう呼んだ。
けっこう失礼な呼び名だとは思う。僕も時々「チビって言うな」と反抗していた。
でも内心では『僕のことをチビと呼ぶ姉がいる』という事実が嬉しく気に入っていた。
「姉ちゃん、ゲーム下手だもん」
「ぷよぷよなら負けないよ?」
「そうだっけなー」
知らない人の目から見ればきっと昔からの姉弟のように見えた事だろう、そのくらい僕達は仲が良かった。
ただ本人達はその関係を、姉弟よりも幼馴染のそれに近いものと感じていた。
「お前、いっつもあのオンナと一緒にいるなー」
「当たり前だよ、姉ちゃんだもん」
「変なの、新しくできるのは弟か妹なんだぞ? 後から姉ちゃんができるとか──」
「──姉ちゃんは、変じゃない!」
ものの数ヶ月、僕は姉ちゃんが大好きになっていた。
思いがけず突然にできた、一番身近な友達。
「ちびちゃん…! どうしたの、その顔!?」
「…ケンカした」
「痛そう…こっちおいで、消毒しよう」
誰にも貶されたくない、最も親しい異性。
「──ちびちゃん、そろそろ好きな娘とかいる?」
「そんなのいない」
「本当かなー?」
よく解ってはいなかった。
僕達が家族であるということ、それは生まれながらにしての関係ではないこと。
なんとなくぼんやりと、普通の姉弟でもただの友達でもないという感覚だけはあった。
「…姉ちゃんは?」
「んー、どうなんだろ」
ただその感覚は思春期を迎えようとする僕達にとって、特別な感情の芽生えを抑制できるほど強いものではなかった。
………
…
僕達が姉弟になった翌年の夏休み、家族みんなで父ちゃんの実家へ帰省した。
母さんや姉ちゃんはもちろん初めて、僕も二年ぶりの事だった。
そこは絵に描いたような、まさに日本の正しい田舎といった趣きをもつところ。
初めて訪れた姉ちゃんは「すごい」「水きれい」「田んぼ広い」と、目に映るもの全てに感嘆していた。
以前からそこを知っていた僕は「すごいでしょ」「川魚いっぱいいるんだよ」と、なぜか得意げに答えていた。
「よう来んさったなぁ、疲れたじゃろう」
田舎には婆ちゃんが一人で暮らしていた。
ただその地域では集落全体が親戚のようなもので、生活に困る事は無いと婆ちゃんは言っていた。
確かにその集落には苗字は三種類か四種類くらいしかなく、各家は屋号で呼ばれるのが普通だった。
婆ちゃんの家は集落の中では比較的新しかったので、屋号は『新家(にいなえ)』になったと教えてくれた。
「はじめまして」
姉ちゃんは少し緊張した声色で婆ちゃんに挨拶をし、ぺこんと頭を下げた。
途端に婆ちゃんは目尻の皺を一層深くし、くちゃくちゃに顔を綻ばせて姉ちゃんの頬を掌で撫でた。
「よう来んさった、ありがとうねぇ」
「お婆さん…」
「あんたもこの婆の大事な孫じゃ、なぁんの遠慮も要らんけぇね」
姉ちゃんは涙ぐんでいた。
僕はそれをじろじろ見るわけにはいかず視線を反らしたが、内心とても嬉しかった。
婆ちゃんが何も区別せず家族だと思ってくれた事、姉ちゃんがそれを喜んでいる事が解ったから。
滞在したのは五日か六日、そのあいだ僕と姉ちゃんは地元ではできないような遊びに夢中になり日が暮れるまで外を駆け回った。
「婆ちゃん! 胡瓜かじりたい!」
「ああ、ああ、ええとも。好きなのを千切って食いんさい」
「あの…お婆さん、トマトは?」
「ええよ、うんと赤くなったのを選ぶとえぇ」
畑で収穫した野菜を納屋にあった金属のカゴに入れて、僕達が向かったのは田んぼの向こうに流れる川。
流れの中でカゴを引っ掛けられるような石を見つけ、そこへ野菜ごとそれを沈めた。
そのすぐ横に座ろうとしたけれど、日に晒された岩肌はとても熱かった。
「こっちなら平気かな」
「うん、ひんやりして気持ちいいね」
日陰で少し流れにかかる岩を選んだ。
少々湿っていようとそんな事は関係ない、服が濡れないようになんて考えもしなかった。
「うわぁ、冷たーい!」
流れに足を浸し、ぱしゃぱしゃと水を蹴って遊んだ。
真っ白なノースリーブにジーンズのショートパンツ、麦わら帽子を被った姉ちゃんはいつもよりも幼く可愛く見えた。
その横顔に、湿った白いシャツを透き通す肌に僕は度々目を奪われていた。
「…あれ? ちびちゃん、どうかした?」
それは明らかに家族に送る視線ではなく──
「どうもしない、野菜冷えたかな」
「うん上げてみよう」
──幼い恋の色を帯びた、胸の高鳴りを伴うものだった。
虫取りをして、山登りをして、川で泳いで、手を繋いで昼寝をして。
日々はあっという間に過ぎていった。
帰路につく予定の朝、僕は「もう一日泊まろう」と我侭を言って父ちゃんを困らせた。
「毎年でも来られるさ、ここは父ちゃんの故郷だからな」
「本当に?」
「ああ…それにお前達が大人になって父ちゃんが定年したら、父ちゃんはここに戻るつもりだ」
そんな話を聞くのは、その時が初めてだった。
父ちゃんは「その時はお前達が自分で何度でも、父ちゃん達に会いに来てくれ」と言って笑った。
婆ちゃんも笑っていた。
だから僕と姉ちゃんも頷いて笑った。
乗ってきたワゴン車は家の前までは乗りつけられないから、田んぼのそばに停めていた。
そこへ向かって歩く途中で、婆ちゃんは僕達二人にだけ聞こえるよう声を掛けた。
「ちょっと、こっち来んさい」
僕と姉ちゃんは「なんだろう」と顔を見合わせ、婆ちゃんが手招きするところへ歩んだ。
「なに、婆ちゃん」
「父ちゃんから聞いとるか…? 婆には本当は娘…お前らの父ちゃんの姉がおった」
聞いた事は無かった。
突然の告白、子供心にもそれはかなり重い話であると察せられた。
「ううん、知らない」
「この田舎…しかも昔の話じゃ。なんの病気じゃったかもよう分からん…じゃが、十歳で死んでしもうた」
「私と同い年で…?」
「じゃから、婆は嬉しかった。あの娘が戻ってきたと思うた」
「お婆さん…」
涙目で語る婆ちゃんの話を聞きながら、情けなくも僕は「それは違う」と思った。
姉ちゃんは父ちゃんの姉ちゃんじゃない、僕の姉ちゃんだ。
でも婆ちゃんはその先に思い掛けない言葉を続けた。
「あの娘が、このおちびちゃんの可愛い嫁さんになって戻った…そう思うてなぁ」
そして婆ちゃんは姉ちゃんの手を取り、そこへ押し込むように何かを握らせた。
渡し方、その仕草からして「内緒だ」という意図は見て取れる、だから姉ちゃんは掌を開きはしなかった。
「お婆さん…これ…」
「持っといとくれ、もう婆は先が長うはない。お姉ちゃんが持っといとくれ──」
帰りの長い道中、一度だけ小声で「姉ちゃん、何を貰ったの」と尋ねたが姉ちゃんは答えなかった。
僕もそれをさらに問い詰めようとは思わなかった。
『──あの娘が戻ってきたと思うた』
『このおちびちゃんの可愛い嫁さんになって──』
話の流れを考えれば、小学四年生の僕にも大方の予想はついたから。
きっとこの時が最初だった。
いつの間にか家族でありながら姉ちゃんに惹かれている…その事を子供心にも後ろめたく感じていた。
だけど初めてそれを他の誰かに認めて、許してもらえたような気がしたんだ。
でももう一つ、この時が始まりとなった事があった。
そしてそれは僕も姉ちゃんも、まだ気付いていなかった。
……………
………
…
婆ちゃんの田舎には毎年でも来られる…その言葉は嘘になった。
「私にだって親はいるわ」
「やめないか、子供達の前で」
「最初から言わないなんて卑怯よ」
「まだ決めたわけじゃない」
姉ちゃんの母さんには、僕らの地元の隣県に住まう両親が健在だった。
そして母さんはその両親にとって一人娘だった。
『定年したら、父ちゃんはここに戻るつもりだ』
あの時父ちゃんが僕に投げた言葉が生んだ波紋は、この家庭にとって次第に大きな波となっていた。
コメント一覧
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- 2015年08月10日 22:41
- 私的詩的ジャック
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- 2015年08月10日 22:51
- 詩的私的ジャックだろと私的に指摘
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- 2015年08月10日 22:55
- 視界ジャック?
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- 2015年08月10日 22:56
- 支店ジャック?
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- 2015年08月10日 23:26
- こういうのすき
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