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2015-08-22 町山智浩は実写版『進撃の巨人』をどのように評価しているのか?
8月1日の公開から早くも1ヵ月が経とうとしている実写映画版『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』だが、どうも世間の反応はあまり芳しくないようだ。まあ、もともと「人気漫画の実写化」はバッシングを受けやすい傾向が強く、過去にも酷評された作品はいくつもある。とは言え、本作の場合は酷評の度合いがちょっと常軌を逸してるような気がして仕方がない。
まずキャスティング発表の時点から原作ファンらを中心に批判の嵐が吹き荒れ、映画の公開後はキャラや設定やストーリーの変更に苦情が殺到。さらに追い打ちをかけるように、監督や製作スタッフから逆切れ発言が飛び出し、ますます状況を悪化させて現在も大炎上中…という感じで、ここまで騒ぎが拡大した映画は近年あまり例が無い。
評価自体はもちろん賛否両論なんだけど、今回の特徴は「内容に対する拒否反応が強いこと」と、監督を含め「映画に関わったスタッフからのコメントが多いこと」だろう。”内容”に関しては、「原作を大きく改変している点」に主な批判が集中し、そのことに対してスタッフが「実はこういうことなんです」と裏事情を説明しているのが興味深い(そんなパターン、今まであったか?)。
当然、怒りの矛先は脚本家に向けられ、「誰がこんなストーリー考えたんだ!」と大ブーイング。調べてみると実写版『進撃の巨人』のシナリオは、「渡辺雄介と町山智浩の共同脚本」となっている。町山氏と言えば、映画評論家として数多くの映画を批評しているベテランだ。なので、「あの町山が映画の脚本を書いたらいったいどんなものが出来るのか?」と一部の映画ファンの間では盛り上がっていたらしい。
ところが、映画が公開されるタイミングでまさかの事態が勃発。なんと、脚本を書いた町山氏本人がTBSラジオの『たまむすび』や、雑誌『映画秘宝』(過去に町山氏が編集長を務めていた映画誌)などで、「実写版『進撃の巨人』が原作と違うのはこういう理由があったからです」と映画製作の舞台裏を告白したのである。
それ自体はまあ、「出演者が撮影時のエピソードを語る」みたいなもので別に珍しくはないかもしれない。ただ、町山氏の場合は、映画を観た人の批判に対する「言い訳」、もしくはある種の”釈明会見”のように感じてしまう点がモヤモヤするのだ。以下、具体的にその内容を見てみよう。
以前、雑誌の編集をしていた町山氏は、樋口真嗣監督が『八岐之大蛇の逆襲』という自主制作映画を撮っていた頃に取材をした縁があり、さらに原作者の諌山創が町山のラジオのファンだった、という経緯から「ちょっと脚本やってみませんか?」と声をかけられたらしい。
●なぜ原作と全然違うのか?
当初、町山氏は原作漫画の4巻ぐらいまでのストーリーをそのまま参照して、90分程度のシナリオにまとめたそうだ。ところが、それを読んだ原作者の諌山創と講談社の担当編集者の川窪慎太郎が「原作とは全く違う話にして欲しい」と要望してきたという。
実はこの時、アニメ版の放送が始まった直後で、諌山氏は「マンガの映像化としてはアニメ版がベストだから、日本人の俳優が無理してマンガの真似をするよりも、日本映画として自然なものにした方がいい」と考えていたらしい。
●なぜリヴァイやエルヴィンがいないのか?
『進撃の巨人』の実写化は、「軍艦島で撮影したい」という樋口真嗣監督の提案から始まった企画だから、設定を日本に変えることが大前提だった。そのため、ベルトルト、ライナー、ハンネス、リヴァイ、エルヴィンなど、日本人っぽくない名前のキャラは全て省かれたそうだ。
●なぜエレンやジャンはOKなのか?
当初はキャラの名前を全て日本人に変更する案もあったが、「主要キャラの名前だけは原作通りでいきたい」というプロデューサーの意向で、「日本人の名前でもギリギリおかしくないキャラ」だけが残された。エレンは「江蓮」、ミカサは「三笠」、ジャンは「醤」、サシャは「沙紗」みたいな感じで、無理矢理”これは日本人名だ”と解釈したらしい(アルミンはどうなるんだよw)。
原作のエレンは巨人を恐れずに正面から堂々と立ち向かっていく熱血漢である。しかし、作者の諌山氏から「あまりにも少年漫画のヒーロー的すぎて実写には合わない。感情移入もできない。だから、巨人を恐れる普通の人として描いて欲しい」との要望があったため、キャラクターが大きく変更された。
原作では、エレンが巨人と戦う動機は「母の仇」となっていたが、実写版のプロデューサーが「それはやめてくれ」と言ったので変更されることに。「母親を殺される」というのは物語的には説得力があるが、「観客全員が共有している感情じゃないから」とのこと(そうかな〜?)。
エレンの設定を変えたためにミカサの設定も変わった。原作の2人は幼い頃に人を殺したことで強い絆が生まれるが、実写版ではそういう関係性が無くなってしまったからだ。そこで、脚本家の渡辺雄介が「エレンとミカサを引き離そう」と提案。「巨人に襲われそうなミカサをエレンが助けに行けない」というエピソードを書き加えたらしい。
もちろん、町山氏が最初に書いた脚本にはそんなシーンなど無かったが、今回は「町山氏と渡辺氏の共同脚本」という編成になっているため、エピソードの追加や削除が頻繁に行われたとのこと。まず町山氏が書いた文章を渡辺氏がリライトし、さらに樋口監督、諌山氏、プロデューサーなどがそれぞれ修正を加え、30回以上も書き直した結果、ようやく最終決定稿が出来上がったそうだ。
もともとプロデューサーは町山氏に”シナリオドクター的な監修”を依頼していたらしいので、メインの脚本家は渡辺氏になる予定だったのかもしれない。ちなみに、渡辺雄介が過去に書いた映画の脚本は、『20世紀少年』、『GANTZ』、『ガッチャマン』、『MONSTERZ モンスターズ』、『ジョーカー・ゲーム』などである。う〜ん…
●なぜ調査兵団が弱いのか?
実写版『進撃の巨人』を観た人の多くが「調査兵団が弱すぎる!」と文句を言っていたようだが、そもそもエレンたちは調査兵団ではない。樋口真嗣監督が「兵団とか兵士という言葉を使いたくない」「訓練の様子も描きたくない」と言い出したため、「壁外再建団」という組織を新たに考えたからだ(エレンたちはそこに所属する”作業員”という位置付け)。
つまり「作業員だから戦闘に不慣れだし、兵士としての統率も取れていない」という設定らしい。「じゃあ、調査兵団はどうなったんだ?」というと、実写版では壁が壊されてからの2年間で巨人に喰われて全滅したことになっているそうだ(町山氏が書いた脚本にはその辺の状況も描かれていたのに一切撮影されず)。
ちなみに、超大型巨人によって破られた壁を修復しに行く壁外再建団の作業員とは、地震と津波によって壊された原発を修復しに行く東電の作業員をイメージしたもの。だから途中で”牛”が出てくるとのこと(←どういうこと?)。
エレンたちが壁の修復に向かっている途中、巨人の群れに襲われるシーンで、なぜかいきなりサンナギ(松尾論)が「うおおお〜!」と叫んで巨人を背負い投げするという信じられない映像が飛び出す。観た人が全員「ファ?」となったこの場面、実は町山氏が書いた脚本ではもっと小さいサイズ(ほぼ人間ぐらい)の巨人を想定していたそうだ。
ところが、現場で撮影していた樋口真嗣監督が、「デカい方が迫力があっていいだろう」と考え、勝手にサイズを変更してしまったのである。後でこのシーンを観た町山氏は想定外のデカさに「大きすぎるよ!」とビックリしたらしい。脚本を書いた本人でさえビックリしているのだから、観客が驚くのは当然と言えるだろう。
●なぜシキシマはリンゴをかじっているのか?
樋口真嗣監督から「シキシマのキャラ作りに何か小道具を持たせたい」と言われた町山氏が、J.J.エイブラムス監督の『スター・トレック』(2009年)で、ジェームズ・カーク(クリス・パイン)がコバヤシマル演習の時、一人だけリンゴをかじっていたのを思い出し、本作に採用したとのこと。
●なぜリルはアクションをしないのか?
リル役を演じている武田梨奈は、クレディセゾンのCMで「頭突き瓦割り」を披露して以来、すっかり有名になった空手有段者のアクション女優だ。当然、観客も彼女のアクションを期待していたことだろう。しかし、なぜかリルのアクションシーンはほとんど無い。
一体どうしてこうなってしまったのか?樋口真嗣監督の説明によると「どうせみんな武田梨奈のアクションを期待してるだろうから、裏をかいてわざとアクションをしない役をやってもらった」とのことだが、さっぱり意味がわからない。
町山智浩は『進撃の巨人』の脚本を書く際、エレム・クリモフ監督の『炎628』(1985年)や、ベルンハルト・ヴィッキ監督の『橋』(1959年)などを参考にしたらしい。中でも、教会に閉じ込められた人々が巨人に喰われるシーンは、『炎628』のクライマックスとほぼ同じ状況になっている。
アルミンがマッシュポテトを使って壁の修復方法を説明するシーンは、プロデューサーから「ミッションを事前にキッチリ説明してくれ」と言われた町山氏が、スティーブン・スピルバーグ監督の『未知との遭遇』(1977年)を元に考えたとのこと(主人公がマッシュポテトで山を作るシーン)。
映画を観た観客の大半が「何だあの唐突なラブシーンは!?」「意味が分からん!」とドン引きしたであろう、とんでもないシーン。これの元ネタはジャン=ジャック・アノー監督の『スターリングラード』(2001年)で、ジュード・ロウとレイチェル・ワイズがエッチしている場面だ。
『進撃の巨人』ではリル(武田梨奈)とフクシ(渡部秀)が、他の登場人物たちの目の前でいきなりエッチなことを始めるという凄い展開になっているが、実は元ネタの『スターリングラード』の方がもっと凄くて、仲間の兵士たちが寝ているすぐ隣でジュード・ロウとレイチェル・ワイズがやりまくっているのだ。
しかしそれ以上に驚いたのは、「そもそも脚本にこんなシーンは存在しなかった」ということである。武田梨奈のインタビューによると、「脚本には何も書いてなかったんですが、撮影当日になって樋口真嗣監督から”突然で悪いけどキスシーンって出来る?”と聞かれたんです。お昼ご飯を食べた後だったので、”ヤバイ!歯を磨いてない!”って焦りました(笑)」とのこと。
つまり、樋口監督が急に現場で「ラブシーンを撮りたい!」と思い付き、脚本に無いエピソードを勝手に付け加えていたのだ。しかし、思い付いたものの、どうやって映画に組み込めばいいのか分からない。そこで町山氏に相談したところ、「『スターリングラード』みたいにすればいいんじゃないの?」と助言されたらしい。
一番かわいそうなのは武田梨奈だろう。なんせ心の準備も出来ていないのに、いきなり「ラブシーンをやってくれ」と言われたのだから気の毒すぎる(事務所的にはOKだったのだろうか?)。しかも彼女にとっては、これが映画での初キスだったのだからなおさら酷い話だ(5月に公開された『原宿デニール』にもキスシーンはあるが、撮影は『進撃の巨人』の方が早かった)。
こうして無理矢理ラブシーンを入れたものの、やはり不自然な感じは否めない。町山氏は以前から、「戦地へ赴く兵士が女を抱くのは、人間の本能として当たり前だ!」と力説しており、実写版『進撃の巨人』でも「生きるか死ぬかの過酷な状況下で、若い男女が自分たちの種を残そうとするのは当然の行為だよ!」とこのシーンを必死で正当化しようとしている。だがどんなにフォローしても無理なものは無理。残念ながら『スターリングラード』みたいに上手くはいかなかったようだ。
というわけで、ラジオや雑誌等で町山氏が語った「『進撃の巨人』製作の裏事情」をまとめてみたんだけど、最大の問題は「映画を観てガッカリした人たちがこの説明で納得できるのか?」ってことだろう。いくら「原作者が変えてくれと言ったから…」と理由を説明したところで、実際にそのストーリーが面白くなければ、お客さんにとっては何の意味もない。
「キャラクターの名前が変わったのは舞台を日本にしたからです(日本の俳優が日本で撮影するから)」という理由も同様に、「それは製作側の都合でしょ?」と言われてしまえばそれまでだ。結局、全てが「こういう状況だったんだから仕方ないじゃん!」という”言い訳”にしか聞こえないのである。
そしてそれは「少ない予算と厳しい制約の中で我々は精一杯頑張ったんだよ!」という自己弁護に繋がると思うし、だからこそ、製作スタッフから「みんな映画はハリウッドがいいんだね!じゃあハリウッド映画だけ観ればいいよ!」みたいな発言が飛び出したのだろう。
確かに、「原作と違う!こんなの『進撃の巨人』じゃない!」などと酷評されたら、「いや、そうじゃないんだ!変えざるを得ない事情があったんだよ!」と言いたくなる気持ちは良く分かる。「映像がショボい!」と言われたら、「予算が無いんだから仕方ねえだろ!」とブチ切れるのも無理はない。
だがしかし!作り手側がそれを言ったら、身も蓋もないんじゃないだろうか?過去に激しいバッシングを受けた『キャシャーン』や『デビルマン』だって、「いやいや!俺らにも言いたいことは山ほどあるよ!」ってなるんじゃないの?でも他の監督たちは皆”言葉”ではなく、”映画の内容”で伝えようとしてるんだよ。「映画作り」って、そういうものじゃないのかなあ?
さて、このような状況を考えた時、「じゃあ町山さん自身は実写版『進撃の巨人』をどう評価してるんだろう?」ということが気になった。なにしろ本職が”映画評論家”であり、今まで散々他人の映画を厳しく批評し続けてきたのだから、自分の関わった映画も当然批評してもらわなければ!と誰もが思うだろう。
ところが、映画公開後の町山氏の発言内容を注意深く見てみると、実写版『進撃の巨人』を客観的に批評しているコメントが一つも無いのだ。まあ、そりゃそうだろうね。いくら映画評論家と言えども、自分が脚本の段階から関わった映画について客観的に語れるはずがない。
だから、「超大型巨人ってCGじゃなくて巨大なパペットなんですよ!」とか、「巨人も特殊メイクした俳優さんが実際に演じてるんですよ!」とか、「PG12の限界に挑戦したグロシーンがメチャクチャ怖いんですよ!」とか、とにかく「凄いんですよ!」としか言ってない。「面白いかどうか」については敢えて触れようとしないのだ。
この辺に、町山氏の”映画評論家としての葛藤”みたいなものが感じられる。スタッフの一人としてはこの映画をプッシュしなくてはならない。しかし、うっかり「面白いですよ!」などと言ってしまうと、映画評論家としての審美眼に傷がつく。なので「とりあえず無難なコメントでやり過ごそう」って魂胆なのだろうか?
しかし色々調べていると、ついに”町山氏の本心”と思われる発言を見つけてしまった。『映画秘宝』で柳下毅一郎と対談している中で、途中からいきなり関係ない話をし始めて「町山さん、それはいったい何の話をしてるのかな?」と突っ込まれる場面がそれだ。以下にその部分を抜粋↓
脚本には「ここ笑うとこです」とは書けないんだよ!一見シリアスなシーンに見えても、実はちょっとマヌケなシーンを狙ってる。これはシリアスに撮りすぎたらダメだ。でも、あからさまにギャグっぽく演出してもダメなんだよ。
『プライベート・ライアン』で壁が崩れると敵が出てくる瞬間の戦慄と爆笑。死ぬほど怖いのに、怖すぎて観客は思わず笑ってしまう、あれは映画の奇跡だよ!その奇跡が欲しいんだ!だから、今年の「死んでほしい奴」にも書いたけど、やっぱり自分で演出しないと…
なぜ自分は編集者なんかになってしまったのか。なぜ評論家なんかになってしまったのか。なぜ、あの時のカメラをそのまま撮り続けなかったのか。悔やんでも悔やみ切れない。 (『映画秘宝』2015年3月号より)
この町山氏の発言を素直に解釈するならば、「俺が書いた脚本の意図を、監督が正しく読み取ってくれない!やっぱり自分で演出しなければダメなのか…。ああ、どうして俺は映画監督への道を捨てて、映画評論家なんかになってしまったんだ!」という”町山智浩の心の叫び”が伝わってくる。
町山氏は過去に短編映画を何本か撮っているが、結局、映画を撮り続けることなく、映画評論家の道を選んだ。それが、「なぜ、あの時のカメラをそのまま撮り続けなかったのか。悔やんでも悔やみ切れない」というセリフに繋がっているのではないだろうか?
このことから察するに、おそらく町山氏は実写版『進撃の巨人』の出来映えに満足していない(満足していたらこんなセリフは出て来ない)。そもそも町山氏は『進撃の巨人』の実写化に対して、「可能な限り原作通りに作ろう」と考えていたという。プロデューサーからキャラの変更を要請された際も、「ミカサは絶対に原作のキャラクターを守るべきだ!」などと強く主張していたそうだ。以下、スタッフの証言より↓
当初、諌山先生は「(実写版では)もう好き勝手やってください」っておっしゃって下さったんですよ。でも、逆に町山さんの方が「原作のここは守るべきだ!」って主張されてましたね。それはたぶん、評論家としての見方もあったからかもしれません。町山さんが強く主張していたのは、例えば「ミカサは絶対に原作のキャラクターを守った方がいい!」とか、「立体機動装置はとにかくカッコよくなきゃいけない!」といったことでした。 (「シネマ★シネマスペシャル2015年夏号」より)
しかし、様々な要因が重なった結果、当初の目論みはことごとく瓦解していく。それは原作者サイドの要望だったり、プロデューサーの意向だったり、監督のワガママだったり、打ち合わせ会議で必然的に発生する”それぞれの思惑”が、意見を集約する過程でコンフリクトしてしまったのだ。中でも決定的だったのは”アニメ版”の存在らしい。
最初は原作通りに行こうって感じで、町山さんも「俺が観たいのはコレだ!」みたいな感じでバンと書いたわけですよ。そりゃもう、元編集者ですから、編集者として見事な編集なわけですよ。あっ、すげえいいホン(脚本)が出来たと思って、それとほぼ同時期に始まったのがアニメ版だったんです。見たら全く同じだったんですよ!時系列の直し方とかも同じで、何よりアニメーションの完成度ももの凄く高かったので、我々がこれを追いかけても仕方がないなと。全員がそう思ったんですよ。 (樋口真嗣監督インタビューより)
なんと、町山氏が最初に書いたシナリオは、アニメ版『進撃の巨人』と全く同じだったという。ファンの気持ちとしては「だったらそれをそのまま撮ってくれよ!」になるのだろうが、先に書いたように”色々な事情”で変更せざるを得なかったと(それでも町山氏は「そんな改変を加えたら映画としてダメになる!」と最後まで難色を示したらしい)。
さらに、当初は1本で完結させる予定だったのに、尺が長くなり過ぎたため、急遽二部作に変更。しかし今度は1本当たりの尺が短くなり過ぎて、クランクインの直前まで削ったエピソードを付け足す作業に追われたそうだ。こうして最終的に出来上がった映画が、当初考えていた理想形とは大きくかけ離れたものに成り果てていたなら、「俺が思ってたのと違う!」と不満を抱いたとしても無理はないだろう。
つまり、町山氏の本音は「こんな映画プッシュしたくねえな〜」と思いつつ、「でもスタッフや俳優がみんな頑張って作った映画だし、俺も脚本で関わってるし、協力しないわけにはいかないよな〜」ってことなんじゃないだろうか?もしそうなら、大人の対応としては完全に正しい。正しいけど、いつもの「歯に衣着せぬ辛口批評」を期待する身としてはやや残念だ(渡辺雄介が脚本を書いた『20世紀少年』をボロカスに貶してたのにw)。
ただし、町山氏自身は批評していないが、盟友(?)のライムスター宇多丸に「この映画、批評してよ」と頼んでいるのだ。宇多丸が担当するラジオ番組に町山氏が電話をかけてきて、『進撃の巨人』を取り上げてくれるように依頼した際、「いいんですか?俺、貶すかもしれないですよ?大丈夫ですか?」と気遣う宇多丸に、「いや……そりゃしょうがないでしょう」と答える町山氏。
結局、町山氏の推薦で実写版『進撃の巨人』を批評することになった宇多丸は、「巨人の表現とか立体機動のアクションとか、色々頑張ってるのは分かるんだけど……」とフォローを入れつつ厳しい評価を下すことになった。もしかしたら町山氏は、「今の俺は大人の事情で自由に物を言えない立場だから、あんた俺の代わりに喋ってよ」ということだったのかもしれない。う〜ん…
というわけで今は無理でも、たとえば10年後ぐらいに「いや〜、実写版『進撃の巨人』は酷かったね〜。原作者は”ストーリーを変えてくれ”って言うし、プロデューサーは”キャラの設定を変えろ”って言うし、脚本家は俺の書いたシナリオを書き換えるし、おまけに監督は脚本を無視して勝手に現場で予定外のシーンを撮っちゃうし、もうムチャクチャだったよ!」みたいな感じで、思う存分本音を語りまくってもらいたいものだ。
なお、現在発売中の「映画秘宝」10月号に町山氏のインタビューが載っているのだが、「(実写版『進撃の巨人』の)後篇を観たら、ある場面がシナリオと全然変わっていた。現場のノリでそうなったと。論理を超越した、ブルース・ウィリスの『ハドソン・ホーク』みたいな展開なので驚いた」と書かれていた。
つまり、「またしても樋口真嗣監督がシナリオを無視して現場のノリで勝手にシーンを変更しやがった!」ということらしい。「論理を超越した…」というのがどれほど凄まじい展開なのか想像もつかないが、気になるのは「ブルース・ウィリスの『ハドソン・ホーク』みたいな…」という部分である。
『ハドソン・ホーク』とは、1991年に公開されたブルース・ウィリス主演のアクション・コメディだ。しかしこの映画、プロデューサーとスタッフの意見が衝突したり、撮影中に何度も脚本が書き直されるなど、現場はトラブルだらけだったらしい。結果、観客の評価も興行成績も最悪で、第12回ゴールデンラズベリー賞では最低作品賞、最低監督賞、最低脚本賞の3部門を受賞するなど、名実共に史上最低の烙印を押された”正真正銘のクソ映画”なのである。
そんな映画と同列に扱うとは、もはや町山氏は実写版『進撃の巨人』を擁護する気がないのだろうか?擁護どころか、むしろ軽くディスってるのでは?という気さえしてくる。「後篇」の出来映えに関してますます不安要素が増えたわけだが、町山氏が本音全開トークを炸裂させる日は、もしかしたら意外と近いのかもしれない。