52 名前:大人の名無しさん[sage] 投稿日:03/10/27(月) 03:51 ID:BXopmHll [1/3]
私の実家は二世帯住宅だった。
一階に祖父と祖母が、二階に両親と私が住んでいた。
小さい頃、休日になると私はよく一階に遊びにいき、そのたびに祖父にかまってもらっていた。
時にドライブに連れて行ってもらったり、時に近所のレストランに連れて行ってもらったりしていた。
祖父は入れ歯だったのだが、家族の誰もそれを知らず、私だけがそれを知っていた。
そしてうっかりそれを暴露してしまったのも私だった。

私が小学3年のとき、初冬だった。
祖父は肝臓を悪くしたということでホスピスというところに入院した。
病名は教えてもらえず、大したことない、すぐに戻ってくるだろうと思っていた。
ホスピスというのは病院ではなく、病院のようなものとも聞かされていたからだ。
月に何度か見舞いにも行ったが、最初のうちこそ見るものが珍しくはしゃいでいたものの
空気の冷たさが和らぎ始めるのを待たずに私は飽き始めていた。
見舞いにいくたびに2,3分祖父に面会し、他の家族を残して私だけ図書室のようなところで漫画をよんで暇を潰すようになった。
しまいには見舞いを面倒がるようにさえなっていた。
いつ頃になるかは忘れたが、祖父は言葉を発さぬようになっていた。





53 名前:52[sage] 投稿日:03/10/27(月) 04:12 ID:BXopmHll [2/3]
小学4年の5月、私は3泊4日の修学旅行に出かけた。
長野のとある高原で、普段触れることのない大自然を満喫していた。
2日目の夜、皆で夕飯をとっているときのこと。何故か宿まで私に電話がかかってきた。
いぶかしげに思いながら電話をとると、受話器の先には母がいた。
なぜだか母は少々感情を込めて「今からおじいちゃんに代わるから、今日あったことを話しなさい」と告げた。
私は「どうせ話せないじゃん」などと思いながら、それでも突然のことに戸惑いながら山登りの話、ポニーに乗った話をした。
話が出来ないはずの祖父であったが、「うん、うん」と相槌をうっているのが分かった。
その後父が出て「おじいちゃんが返事したの聞こえたか?」と確認した。
旅のしおりに日記をつける時間が来ると、その日は「おじいちゃんに一刻も早く直ってほしい」と若干大人ぶった口調で書いた。

東京に戻ると学校の最寄り駅まで迎えが来ていた。
私は楽しげな気分で車に乗り込み、みやげ話をしようとした。
しかし、父が唐突に「おじいちゃん、死んじゃったよ」と静かに言った。
私はわけがわからず、泣いた。祖父は肝臓癌が体中に転移しており、手術を行わずホスピスで静かに暮らすことを願ったのだった。
いつか家に帰ってくると思っていたおじいちゃん。大好きだった僕のおじいちゃん。
なんでお見舞いをめんどくさがったんだろう?なんでお見舞いにいって漫画ばっかり読んで、おじいちゃんと話さなかったんだろう?
なんでおじいちゃんが食べ物を吐いたときに気持ち悪がったんだろう?なんで病気のことに気付かなかったんだろう?なんで、なんで・・・。
家に着いても、祖母に、大叔父に、そこら中の大人に抱きついて泣きじゃくった。
それまでの自分が悔やまれてならなかった。
ホスピスとは何かを知ったのが中学の頃、祖父の死を見つめやっと消化できたのは高校の時だった。

今でも、シャルムという祖父お気に入りだった喫茶店の前を通るたび、茶色いガウンを着て腰掛けに座り、「おお、和季」と私を迎えてくれた祖父の姿が思い出される。


54 名前:52[sage] 投稿日:03/10/27(月) 04:28 ID:BXopmHll [3/3]
余談だが、私はとある大学に合格した。
両親が歓喜し、家族総出で大学まで来、外食することとなった。
その帰りに祖母が「おじいちゃんがいつも『こいつは必ず何かやる』と言っていたのよ」と教えてくれた。
祖父の最期の数ヶ月は意識も朦朧としているような状態だったが、亡くなる2時間ほど前に意識を取り戻し、
私に電話をかけるように自ら望んでくれたのも祖父であることを知った。
所詮大学合格程度の話であるとはいえ、私は他に気付かれぬよう、暗い車中で泣いてしまった。
私は祖父に何もしてやれなかったが、そこまで自分を思ってくれた祖父に必ず報いなければならない。
祖父の気持ちを汚すようなことは決してするまい。無論、今此処にいる家族のためにも。恩は必ず返す。
そう決意した瞬間でもあった。
>>43様も人に大事にされていた、ということに自信を持ち以後の人生の糧とできるようお祈りしています。