菜々「怠け者のお姫様」
「杏ちゃん! まって! まってよ!」
「ん? ごめんね、きらり」
道を歩く小さな子供達を眺めていて、これは夢なんだと気づいた。
「杏ちゃんは速すぎだよ!」
「あー、気づかなかったよ。次から気をつける」
私がまだ北海道にいた頃。
まだうさぎのぬいぐるみが綺麗だった頃。
「お願いだよ? 杏ちゃんはほんとうに……あっ」
「どうしたのきらり? ……あれって、アイドル?」
うさぎを抱いた女の子と、鞄や服にかわいい飾りを少しだけつけた女の子がビルのモニターを見上げた。
「ふーん、まぁいいんじゃない? でも疲れそう」
「またそんな事言って。ダメだよ?」
「はいはい、わかったよ。きらりはアイドルが好きなの?」
偉そうな物言いに笑ってしまう。
あの頃の私は自分が天才だと本気で思っていて、事実運動でも勉強でも負けたことはなかったけど、所詮は十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人。
早々に並ばれ、追い抜かれ、いつしか追いかけることも嫌になるくらいの差ができていた。
残った才能は頭の回転だけ。結局、やればできるのにやらない子って言われるようになったっけ。
「だって、とってもかわいいんだよ!」
「……へぇ。確かに、きらりがそこまで言うからにはいいものかもね」
「ふふふ、今度いっぱい見せてあげる」
「え、それは……はぁ、わかったから。今度ね」
「えへへ、ありがと!」
これは本当に小さかった頃の、昔の話。
私の隣で笑ってたこの子は、今はどうしているんだろうか。
……………
………
…
「杏ちゃん? あんずちゃーん? 起きてください。そろそろ時間ですよー?」
体を揺さぶられる。
薄っすらと目を開けると、蛍光灯の光が目に入った。
ソファの上で横を向いてから目を開ける。
「あ、起きましたね? さっき社長さんがいらっしゃるって連絡がありましたよ」
「ん……ありがとう、菜々さん」
ここは……芸能プロダクションの一室だ。
道を歩いていたら根負けするまでしつこくスカウトされて、今日が事務所での初めての顔合わせ。
菜々さんはオーディションで選ばれたらしい。
時間丁度にここに来たら鍵を持った菜々さんがいて、社長は遅れるってことを聞いた。
「まったく、杏を待たせるなんて」
「忙しかったんですよ。ほら、今はこんな状態ですし……」
菜々さんと事務所の中を見回す。
必要最低限のものしかなく、寂れた室内にいるのは私と菜々さんだけ。
倒産寸前なんじゃないかと思うような風景が広がっていた。
「こんな風になってるとは思わなかったよ。納得はしたけど」
「それでも、まだいい方なんでしょうね。昔は――」
ドアの開く音がした。
菜々さんの言葉が途切れる。
「待たせてごめんなさい」
入ってきたのは一人の女性。
この人がこの会社の社長だ。
「いえいえ、気にしないでください」
「杏は寝れたから、まぁいいよ」
「あ、杏ちゃん?」
菜々さんもそんなにあわてなくていいのに。
私は働かないって言ってあるから。
私はアイドルに憧れなんてないんだから。
それでも、私を採用したのはこの人なんだから。
「それでは、お話を始めましょうか」
あの後、社長は何事もなかったかのように私達の対面に座った。
前のときもそうだったけど、この程度のことは気にしないらしい。
表情もほとんどと言っていいほど動かない。
「私はこのプロダクション、Circusの社長兼プロデューサーの松村です。よろしくお願いします」
座ったまま、軽く一礼。
「まずは、我が社に入ってくれてありがとうございます。このプロダクションは…………昔のことは、知ってますよね?」
菜々さんと揃って頷く。
Circusは元々電波曲を中心に何でもありの姿勢で売っていた。
アニメやゲームとのタイアップも多かったっけ。
それが動画サイトとかで沢山使われて、かなり有名だった。
「数年前までは順調でした。ですが、勢いは徐々に衰えていきました。最大の原因は世代交代に失敗したこと、ですね」
引退した跡を継げる人が居なかったらしい。
確かに、今では他のプロダクションに移籍した一部の有名な人以外は姿を見ない。
「祖父――先代は先細りが見えているならば、致命的になる前に畳むと決めました。移籍先や転職先を探して全員を送り出した後で、Circusは一度終わりました」
この辺りは当時から推測されていたことだ。
珍しく穏便に無くなったプロダクションとしても話題になった。
「その上で、私はCircusを復活させたいと思っています。そのために、アイドルとして二人を選びました」
社長の目に僅かに熱がこもる。
「だからどうか、二人の力を私に貸してください。お願いします」
社長が深々と頭を下げる。
数秒、時が止まった。
「あ、頭を上げてください! 私なんかでいいなら、いくらでも協力しますから!」
静寂を破ったのは、菜々さんの声だった。
「というかですね、歌って踊れる声優アイドル、永遠の十七歳、ウサミン星人のナナをそのままでいいって言ってくれたのはここしかありませんでしたから……ここが、最後のチャンスですから。だから……ナナに、ここで働かせてくださいっ!」
菜々さんも社長と同じくらい頭を下げた。
「菜々ちゃん……ありがとうございます」
「はいっ! ……へ? 菜々、ちゃん? 今まで安部さんだったのに……?」
菜々さんがきょとんとした顔をする。
「だって、菜々ちゃんは年下ですよね?」
「え、あ、ハ、ハイ。だってナナは十七歳ですから!」
「いや、実年――」
「あー! あー! これで契約成立ですね! いやあ! よかったよかった!」
菜々さんが大声で社長の言葉を遮った。
そっちだって、社長を社長とも思わないことしてるじゃん。
菜々さんの方はこれで契約成立らしい。
二人の視線が私に向いた。
「杏はね、面倒くさいのは嫌。ただ自由でいたいの、わかる?」
そう、杏は頑張らないって決めたんだから。
「それをさ、有名プロダクションの復活なんて疲れる仕事をさせる気?」
「ちょっと杏ちゃん!」
菜々さんが声を荒げる。
社長は何も言わない。
「だからさ、遊びみたいに楽して稼げる! そんな仕事を回してよ」
「ってそんなのあるわけないじゃないですか!?」
「わかりました。そうしましょう」
「ええっ!? 通っちゃうんですか!?」
菜々さんはツッコミが映えるなぁ。苦労人というか。
実際、この話はもう社長としていた。
だからこれはただの儀式。
「杏の条件を飲んでどーしてもって頼むなら、やってあげなくもないよ」
「どうしても、お願いします」
スカウトされたときみたいに、あれだけ熱心に必死に誘われたら、メリットさえあればちょっとは何かしてあげる気にもなる。
アイドルとして才能があるって言われたから、それも試してみようかって思うくらいには。
楽してお金を稼げるならそれで十分だ。
「仕方ないなぁ。それじゃあ、アイドルやってあげるよ」
「……ええと、これって杏ちゃんも加入ってことでいいんですよね?」
「はい、そうですよ。二人とも、よろしくお願いします」
「はぁ……よかったぁ……あんなこと言って、もうどうなるかと」
菜々さんが脱力したようにソファにもたれかかる。
失礼な、杏は優しい人なんだ。
「それでは、早速契約と……この後、少しレッスンをして行きましょうか。大丈夫ですか?」
「はい! ナナはいつでもバリバリやれますよー!」
「……えっ?」
レッスン……?
今日は顔合わせだけだって思ってたんだけど。
「近くのスタジオを押さえておきました。歩いて移動できますよ」
「そういう問題じゃなくて……初めからこのつもりだったな!?」
「だって、この交渉に負けるわけがないでしょう? 杏ちゃんが嫌ならちゃんと運んであげますから、安心してください」
とても綺麗に微笑みながら言いやがる。
「それから、今後私はプロデューサーとして関ることになりますから、そのつもりでお願いします」
「わかりました、プロデューサーさん」
「プロデューサー、いつか借りは返してやる……」
たった一回会って話をしただけで逃げ道を塞いでくるなんて。
なんだかもう契約書を書く気力すら無くなって……
「契約の説明に入りますよ? 杏ちゃんはどうせ聞いてますから、いいですよね」
そんなことを言って、説明を始めてしまう。
卵が先か鶏が先か、だけど。
こんな扱いするなら、私の態度だってこのままでいいよね?
……………
………
…
「今日皆さんのレッスンを担当する青木慶です。よろしくお願いします!」
あれから時間が過ぎて、非常に不本意なことにレッスンスタジオ。
目の前には、まだ若いトレーナーが立っていた。
「プロデューサーさんから今日は癖がつかないように基礎を教える、というを依頼されました。菜々さんは自主レッスンをしていて、杏ちゃんは経験無し……なんですよね?」
トレーナーさんの言葉に小さく頷く。
プロデューサーは私と菜々さんの分のジャージと靴を用意していた。
この格好だと、ものすごくだらけたくなる。
私の隣で、小声でさん付けに文句を言っている菜々さんはスルーしよう。
「実際にどんなレッスンをするかはイメージし辛いでしょうし、わたしがダンスだけ一回通して見せますから、その後でボーカルとダンスに分けてレッスンしましょう」
トレーナーさんが音楽をセットして、戻って来た。
「それじゃあ、少し見ててください」
始まった曲は『GO MY WAY!!』。
本家もカバーも併せて、最もアイドルに歌われている曲だろう。
癖が無くてレッスンには丁度いいのだと思う。
トレーナーさんは教科書のように正確にステップを刻んでいく。
「へぇ……」
今見本も見れたし、今まで見てきた動画と合わせれば……たぶん、再現できる。
「はい、ここまでです。それじゃあ、最初のところから区切って――」
「ねぇ、一回最初から通してやらせてよ」
「はい?」
トレーナーさんが気の抜けた声を出す。
「だから、一回通してみたいの。たぶんできるから。その代わり、できたら今日は終わりにしてよ」
そうしたら、動く量も時間も少なくて済むじゃないか。
それに少々無茶だけど、杏がこの先アイドルとしてやっていけるかのテストにはちょうどいい。
「またすぐ怠けるんですから……あの、ナナも一緒にやっていいですか? 帰りませんから」
「菜々さんまで……わかりました。試しにやってみましょう」
二人でお願いしたら了承してくれた。
一回だけ、試しにって言葉は便利だ。トレーナーさんは押しに弱そうだし。
菜々さんと距離を開けて横に並んだ。
「気楽にやってみてください。できるところまでで構いませんから」
トレーナーさんの言葉の後に、さっきと同じ『GO MY WAY!!』が始まった。
「「GO MY WAY!! GO 前へ!! 頑張ってゆきましょう――」」
出だしから菜々さんと声が重なる。
菜々さんもフルで通すつもりのようだ。
二人で歌って踊るとなると引っ張られることもあるけれど、今回は基礎レッスンだ。
菜々さんの声と動きを意識しないように、トレーナーさんの動きの再現に集中する。
踊りながら歌うなんてことはやったことはないけど、体は動く。
ぶっつけ本番だけど、ペース配分をしっかりすれば最後まで持つ……はずだ。
「「GO MY WAY!! GO MY 上へ!! 笑顔も涙でも――」」
開始から四分、これが最後のサビだ。
最初に比べて息が切れて体が動かなくなってきた。
菜々さんに崩れる気配はない。
もうここまで来たら、体を動かすのは意地だ。
楽をするための先行投資と思えば耐えられる。
無様な姿をさらすことに比べたら、この程度どうということはない。
杏がやるっ
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