その昔、白人が白人と認めない白人がいたという話
昔アメリカやオーストラリアに移民を認められる白人と認められない白人がいたって知ってました?
今年に入ってオーストラリアと米オレゴンの白人ユートピア建造史のことをブログに書いたんですが、専門家に取材して意外だったのがイタリア人の入植史です。白人と認められなくて散々苦労したみたいなんですね。
戦後は「白人」ということになりましたけど、20世紀初頭までイタリア人は米・豪両国で白人以外の「その他」のカテゴリでした。特にオーストラリアは1901年から1970年代半ばまで白豪主義だったので、白人と認めてられないことは死活問題でした。
豪州イタリア移民史に詳しいサザンクイーンズランド大学のCatherine Dewhirstさんがメール取材に答えてくれましたので、以下に抄訳しておきます。
19世紀後半から20世紀はじめに入植したイタリア人も最初は、オーストラリアにどれだけ貢献できるかに応じて平等に扱ってもらえると期待してきたはずです。宗主国イギリスとはイタリア統一前から交流もあったし、イタリアは貧しくて職もなかったので新天地求めてやってきたのですね。
イタリア系移民の新聞に人種の話が初めて登場するのは1905年から1909年頃で、一般のマスコミに「白人ではない」と叩かれたニュースが最初。
オーストラリアの白豪主義政策(1901年移民制限法)は、米国の1896年移民制限法と1897年出生地移民制限法にヒントを得たものでしたが、その前から植民地主義的な移民政策の素地はありました(特にイタリア人に対して)。これについては以下2つの見方ができます。
まず1点目は、西欧の領土・経済・文化拡張主義に対し、日本の拡張主義が台頭し、 有色人種が広まり白人の国が世界で少数派になるという不安が広まったことです。その根底には白人の文明が優位だという故なき信仰があり、それは人種差別主義者の「理論」(植物学者ジュリアン・ジョゼフ・ヴィレーからジョゼフ・アルテュール・ド・ゴビノー伯爵まで)、科学理論(チャールズ・ダーウィンの進化論からフランシス・ガルトンの「遺伝的天才」まで)、学会の潮流にも根を張っていました。特にヴィクトリア植民地に移民した英国の論客チャールズ・ピアソンが記した黄禍論「National Life and Character」は1893年に出版されるなり世界的な反響を呼び、白豪主義のバックボーンとなります。
同時に、イタリア国内では全員純血の白人ではないという疑似科学信仰が広まります。これは犯罪学の父チェーザレ・ロンブローゾが創始した犯罪人類学によるものです。
2点目は、1860年代から始まった中国人排斥運動です。特にLambing Flats金鉱の暴動(個人プレイの欧州系移民より、中国系は人海戦術で砂金から金を見つけるのがうまかった。そこで頭にきた欧州系移民が中国系を襲撃し炭鉱から追い出した事件)を見た国民の間では、南ヨーロッパからの移民は社会に順応しないのではないかとの不安が広まります。
移民制限法で中国系や「非白人」が強制送還されると、今度はアイルランド系や南欧・東欧の移民に差別の鉾先が向きました。当時の人種差別は社会全体に蔓延しており、どんな文化も国も安全ではなかったんです。アイルランド系は豪・英両国で長年虐げられた歴史がありますが、北欧系でも英国系でもいつ差別の鉾先が向いてもおかしくない、そんな時代でした。
アイルランド系が認められた後も、南欧・東欧系移民(20世紀初頭に急増)は文化も違うため、白豪主義の脅威と見なされたのです。
[中略]
豪州がイタリアなどの移民を受け入れなかった主な理由は、帰化しないで本国に仕送りする出稼ぎを心配したからです。炭鉱、農園など単純労働は特にそう。確かに本国に仕送りする人はいました。 20世紀初頭の段階でそれがどれぐらいの規模だったかは記録に残っていませんが。ただそれは帰化が難しかったからというのもあります。帰化申請には最低2~5年滞在が必要だし、読み書きできない人(多かった)は筆記試験にパスできないという問題もありました。
初期の左派労働党が人種差別主義で反イタリア系だったことはよく知られています。オーストラリアにシチリアから初期入植した社会主義者の Francesco Sceusaは、1885年、初のイタリア語新聞を創刊しました。ニューサウスウェールズ植民地のイタリア系移民の支援に奔走した人ですが、西欧諸国同様、この南半球でも社会主義は恐れられていました。そこでSceusaは1892年に労働組合に書簡を書き、「読み書きができて、豪州の労働基準(つまり残業しない、最低賃金未満で働かないこと)を守り、清潔の習慣(石けんで手を洗う)が身についており、違法な職業(マフィア)から足を洗ったイタリア人」だけ入植を認めるよう進言しています。氏は別にイタリア人が嫌いだったわけではないんですが、このままでは資本主義社会でイタリア人が奴隷化されると思って、なんとかそれを食い止めようとやったんですが、この書簡がマスコミにリークして、ブリスベーンの保守系イタリア人から新聞で非難を受けたりしています。
ただマスコミは、労働組合が反イタリア感情を煽る道具に使われていた側面もありますね、特に豪労働組合機関紙「The Worker」、大衆紙「The Bulletin」、タブロイド紙「Smith’s Weekly」。
これに対し、米Gizmodo読者からはこんな反応が出てますよ。
・友だちの父親、「wogs(色の浅黒い外国人)」がどうこう言うんだよね。それなに人?って聞いたら、「Everyone south of Calais(カレーより南に住んでる全員)」だって。
・アイルランド系アメリカ人のおばあちゃんが言ってた。自分が子どもの頃の1920-40年代シカゴでは、結婚するならアイルランド人で、カトリックのドイツ人まではOKだけど、イタリア人は絶対ダメだって教えられたんだって。あまりにもフォーリンだから。
・そうそう。で、それに従ったのがうちの家族(アイルランド×ドイツ)で、晩ごはんは大体まずかった。茹でた野菜に焼いた肉にミルクで終わり。そんな言いつけなんてどうでもいいから、どっかでイタリアの血が入ってたらよかった。
・うちのアイルランド×WASPのニューイングランド生まれの母親は1970年代、ピアスも許さなかったよ。「耳に穴開けるなんて、イタリア人のすることよ」ってね。
・うちのじいちゃん(1925年生まれ)がギリシャ×ハンガリー人のばあちゃん(同)と結婚するって言ったら、ひいばあちゃんに言われたんだって。子どもブラックになるよって。
・イタリア人と結婚したドイツ人だけど、義父が言ってた。むかしは校庭でボコボコに殴られたって。1950年代にだよ。イタリア人っていうだけで。そのうち家のイタリア料理店が人気になって、喧嘩めちゃ強い兄弟がいたから落ち着いたけど。数年かかったって言ってた。
・イタリア系1世の義母は今でも、アイルランド系アメリカ人の義父母にひどい扱い受けた話をします(結婚したの1960年代ですよ!)。あんたのせいで階級が下がったっていじめられたみたい。結婚すると言ったら、息子はカトリックだから、おたくのバプティスト派牧師の祖父に絶対反対されるって心配して大変でした。仲間はずれにされて散々苦労したという話の後で、私がメイフラワー号の先祖の家系でD.A.R.(アメリカ革命の娘)に入る資格があると知ったら大喜びして。なんでわざわざWASPから出ようとするのか、信じられない様子でした。まるでストックホルム症候群。
Top image by 1911年当時のニューヨーク市内のイタリア系移民。写真家は 「読み書きができないため、名称不詳」と書いている。(国会図書館所蔵)
Matt Novak - Gizmodo US[原文]
(satomi)