椎名法子「踵で愛を」
ぱたぱた。
たとえば、新作のドーナツがとってもおいしかった。たとえば、お仕事がうまくいった。
そんなとき、あたしは踵をぱたぱた鳴らすくせがあるみたいだった。
大きな撮影が終わった楽屋内で、あたしの目の前にはお土産のドーナツを二袋掲げたプロデューサーが立っている。
甘ーい匂いをくたびれたコートに纏わせて立っている。
お疲れ様。と声をかけてくれるから、ありがとうって返事をするけど、目は彼の持ったドーナツに釘付けのままで。
おいおい、俺よりドーナツのほうが大事なのかよ、だって。
そんなことないよ? プロデューサーには感謝してるよ~。
「もしかして。プロデューサー、ドーナツに嫉妬してるの?」
「そんなこと言うヤツには今度から持ってくるドーナツ半分にするよ」
「そんな殺生な~。ね、持ってるの全部食べていいの?」
「ダメ。片方は俺のだ。あとで食べる用なの」
あたしはずっとぱたぱた、おもちゃのロボットみたいに軽快に踵を鳴らして、このいつものやり取りをするんだ。
プロデューサーがドーナツの甘い匂いをしているときは、いつだってぱたぱたとステップを踏む。
ぱたぱた。
プロデューサーと出会ったのは、確か春先、あたしが中学生になってすぐのころだ。
街角で揚げたてのドーナツを買って、抱えたドーナツの匂いが嬉しくって。
少しだけステップを踏んで歩いていたら、急に冴えないスーツの人に声をかけられたんだった。
ドーナツひとつ分けて? って言われるんだと思った。
だから袋に手を入れて、あげるドーナツを選んでたらあの人は急に慌てて、そうじゃないって言うから。
詳しく話を聞いたら、なんとアイドルのプロデューサーだった。
「食べてる笑顔が良かった」だとか、「嬉しそうな表情にティンと来た」だとか、めちゃくちゃに捲したてるプロデューサーに、初めはちょっと困惑した。
あたしが嬉しいのも全部ドーナツのおかげだったから、納得出来なかったんだ。
でも結局、あたしはドーナツのためにアイドルになった。
それからずっと、プロデューサーと一緒。
初めての仕事はドーナツと関係がなくて、プロデューサーを困らせるようなことを言っちゃった。
プロデューサーのおかげでなんとか上手くいって、そのあとはたくさん撫でられた。
ドーナツも一緒に食べた。
ドーナツ屋さんのキャンペーンガールとしての仕事が決まったときは、二人して踊り始めるくらい嬉しかった。
仕事はもちろん大成功して、事務所で盛大にドーナツパーティーをした。
「三カ月はドーナツ見たくない」ってプロデューサーは言ったけど、次の日も一緒に食べた。
ずーっと、プロデューサーと一緒。
ドーナツは最近、前よりずっとおいしく感じるようになった。
プロデューサーの車に乗って、事務所に帰ってきた。
事務所は珍しく人が出払っていて、静かだ。
プロデューサーはあたしをここまで送ってから、ちょっとした仕事に向かったみたい。
あの人のことだから、すぐに終わらせて帰ってくるのかもしれないけど。
「プロデューサー、最近忙しいんだろうなぁ」
貰ったドーナツの封は開けないでおく。今度は、あたしからもプレゼントしようかな。
ソファーに深く座って、そこから静かな事務所のなかで、ひかえめに踵が鳴る音だけが響く。
でもそれもしばらくしたら止まった。
だれか帰ってきたらみんなで食べよう、と思って取っておいてあるドーナツの紙袋と目が合う。
けれど、そこはぐっと、食べてしまいたい気持ちを我慢した。
みんなと食べたほうが美味しいもんね。
あぁ、外はもう冬だなぁ。
あったかいココアと、チョコレートのドーナツが美味しい季節だなぁ。
窓から見えるプラタナスの木はすっかり裸になっちゃった。
撮影が少し早く終わったおかげで、まだ外は明るい。
もうすぐおやつにちょうど良い時間なんだから、早くだれか帰ってこないかな。
そんなことを考えてたら、そのうちカツカツと階段を上る音が聞こえて、あたしはドアの方を見た。
だれか帰って来たんだ。
足音に合わせてまた、踵を鳴らした。
がちゃり、と静かにドアノブが回って、帰ってきたのはゆかりちゃんだった。
「ただいま戻りました。あら、法子ちゃん一人ですか?」
「おかえりゆかりちゃん! 待ってたんだ。だれか帰ってこないかなーって」
ゆかりちゃんは、真新しいねずみ色のコートをハンガーに掛けた。
「今日も、なにか良いことがあったんですね?」
「うん! お仕事終わりにプロデューサーがドーナツ持ってきてくれたんだ!」
そう言ったら、ゆかりちゃんはうふふ、と朗らかに笑う。
「プロデューサーさんと、相変わらず仲が良いんですね」
「ずっと一緒だもん~。ゆかりちゃんこそ、そっちのプロデューサーと仲良しなんでしょ?」
「ふふ、まぁそれなりに、ですね」
今度ははぐらかすように笑って、ゆかりちゃんは答える。
なんだかんだあたしより歳上だから、すごく大人っぽいなって思うこともある。
同じくらい、ハラハラすることも多いんだけど。ゆかりちゃん、天然なところあるから。
「そういえば有香ちゃんは帰ってくるのかな」
「有香ちゃんは、今日は夜まで仕事だそうです。残念ですけど……」
「そっかぁ、仕方ないよね。お仕事が忙しいのは嬉しいことだし」
いつもの三人で集まることは出来なかった。少し期待してたんだけどね。
木枯らしが窓を少し叩いた。葉っぱが舞っているのも見える。
事務所のストーブ、そういえば点けてなかった。
「ココア飲みます?」
「うん、飲む飲む! ドーナツもあるよ♪」
「それは良かったです。今、淹れて来ますね」
「あたしも行くっ!」
キッチンに向かうゆかりちゃんの後をついて行く。
事務所のキッチンは毎朝お掃除してくれる人のおかげでピカピカで、シンクには曇り一つなかった。
あたしはドーナツの食器棚を開けて、埃一つないそこからふたつお皿を取り出した。
ゆかりちゃんは温かいココアを二人分持っている。
「そういえばさ、なんであたしが良いことあったってわかったの?」
「ふふっ。法子ちゃん、またぱたぱたしてたので。良いことがあったときの癖、なんですよね?」
「わわっ、あたしまたやってた? 自分でも気づいてなかったよ」
二人分のお皿とココアをそれぞれテーブルに置いた。柔らかなソファーに体を埋めて、さぁドーナツを食べよう。
だれかと一緒に食べるドーナツはいつもより美味しいのだ。当社比三倍。
お皿に乗せたドーナツはみるみるうちに数を減らしていく。チョコレート、プレーン、ハニーグレーズ。
最後に指についたグレーズを舐めたら行儀がわるいとゆかりちゃんに叱られた。
あたしがてへ、と舌を出したら、ゆかりちゃんはまたふわふわと笑った。
「法子ちゃんはいつも楽しそうで、見てるこっちも嬉しくなっちゃいます」
「そうかなぁ?」
「そうなんです。……私、楽しいことって水みたいだなって思うんです」
「えっ?」
「悲しいこととか、悔しいことはずっと残り続けるのに、嬉しかったことって何度掬い上げても零れていくように思えてしまって」
あたしにはよくわからなかった。
あたしがいつだって楽しいのはドーナツのおかげで、それに、一緒にいるみんなのおかげなのに。
「きっと法子ちゃんは、水を掬うカップをたくさん持っているんですね。そう思ったら、なんだか羨ましくなっちゃって」
「なんかイヤなことでもあったの?」
「いえ、そんなことないです。変なことを言ってしまいましたね」
忘れてください、とゆかりちゃんはふわふわ笑って言う。
「知ってますか? 法子ちゃんの癖が出るときって」
「あたしのくせ?」
「良いことがあったときも、もちろんドーナツを食べてるときも出てるんですけど、一番嬉しそうに足踏みしてるのは、プロデューサーさんと一緒のときなんです」
ゆかりちゃんはこのあと程なくして帰ってしまって、また事務所に一人になった。
あの言葉は、ドーナツを食べたあとに紙袋に溜まった、黄色いチョコレートの粒みたいにあたしの中に残っている。
しばらく、だれも帰ってこないのかな。
またカツカツと階段を登る音が聞こえる。だれか帰ってきたんだ。ドアを開けて出てきたのは、プロデューサーだった。
「あれ、法子まだいたのか」
「うん、どうかした?」
くたびれたカーキ色のコートをプロデューサーから剥ぎ取るようにして受けとって、ハンガーに掛けようとする。
もう、ドーナツの匂いはしないなぁ。
フレンチクルーラーみたいな色のコートからは、もうプロデューサーのにおいしかしなかった。
「ちょ、コートのにおいなんて嗅ぐなよ」
「かっ、嗅いでないよ?」
「変なにおいとかしなかった?」
「ぜんぜん! プロデューサーのにおいって感じだった」
「やっぱ嗅いでるじゃん」
「あっ」
プロデューサーは自分のデスクに腰を下した。ギシ、と軋む音がする。
あたしはまたキッチンに向かって、今度はインスタントコーヒーの蓋を開けた。
「はい、コーヒーだよっ♪」
「おっ、ありがとうな法子」
出来上がったそれを手渡す。
窓の外を見たらもう陽が沈みは
コメント一覧
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- 2015年12月18日 22:35
- よかった普段ドーナツキャラがこういう一面見せるのいいね
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- 2015年12月18日 22:38
- ドナ子のSRはよ
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- 2015年12月18日 22:48
- 法子可愛い
前読んだ失恋系のやつもよかった
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- 2015年12月18日 22:56
- 法子ちゃんはかわいいですねフルート
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- 2015年12月18日 23:09
- ※5
演奏中に居眠りすんなよ
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- 2015年12月18日 23:51
- L.M.B.Gにマーチングバンド演奏して貰おうか
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それはそうと法子可愛い