ファミコン偏重主義者
(※1)をやめてからというもの、僕はなるべく色んなゲームをやるようにしています。もちろんスマホのゲームもその対象です。でもファミコンやってるときよりも、スマホでゲームやってるときのほうが嫁から「ゲームなんて時間の無駄だよ」と言われてしまうんですね。
※ファミコンソフトに囲まれた我がスマホ 正直、僕自身もなぜかスマホゲームをやることに関してはうしろめたい気持ちがあります。このうしろめたさはどこから来るのでしょうか……
今回はその謎に迫ってみたいと思います。
<時間の無駄とは何か?> まずは「時間の無駄」という言葉の定義から始めましょう。うちの嫁さんのようなごく一般のひとたちの中で成り立っているのは
「生産性のない行為=時間の無駄」という式なんだと思います。何か形あるものを生み出す行為、たとえば料理や工作などは有意義だと言われます。一方、形こそありませんが充実感や知識といった何かしらのプラスを生み出す行為、たとえば映画鑑賞や読書なども有意義だとされていますね。
でもそんなこと言ったらスマホゲームだって同じじゃないですか
(※2)。
ゲーム性を蔑ろにし消費者からお金を搾取することしか考えてないような低俗なコンテンツが多い。
スマホゲームに対する否定的な意見をまとめるとこんなところでしょうか。しかしゲーマーでもネットユーザーでもないうちの嫁がそんな見解をもっていると思えませんし、そもそも本質じゃない気がします。スマホゲームと他の趣味・娯楽との間には、もっとぐうの音も出ないくらいの決定的な違いがあるはずなんです。(彼女の中では)
<そもそもゲームは生産性を持たなくてもいい?> 先日、田舎の古いドライブインホテルに密着取材したドキュメンタリー番組を見てました。薄暗いゲームコーナーで独り麻雀ゲームに没頭する男性にインタビューするシーンで「なぜ毎日ゲームをやっているんですか」と問うたインタビューアーに対し、そのおじさんは淋しそうにこう応えたんです。
「ゲームしてたら
何もかも忘れられるだろ」
詳しくは憶えてませんが彼は病気を患って仕事をやめたとのことでした。僕はこの発言にハッとさせられたんです。僕はそれまでゲームにも何かしら生産性があるはずだと思い込んでいました。でもそうじゃなくても良かったんです。
そもそもゲームは何か生み出す必要あるのか?
もっと正確に言うと
「プラスを生み出す必要があるのか」ということに気が付いたんです。毎日麻雀ゲームやってるおじさんは何も生み出してないかもしれませんが、つらさや苦しさを忘れること(マイナスすること)によって精神バランスを保ってるわけじゃないですか……
もうひとつ、こんな話があります。
<パラオには何もなかった> 僕は旅行が好きじゃありません。お金ばっかり使いますよね。どうせ行くならって一泊ウン万円もする宿とか泊まっちゃったり、旅先で気が大きくなって、ものすごくいい肉とか食べちゃったりするわけです。ひたすら散財して心も体もボロボロになって家に帰ってくると「やっぱり家が一番だな」って、じゃあ行くなよ!(笑)
でも、女性って旅行好きが多いですよね。若い頃パラオに行ったという嫁が言ってました。パラオには何もなかったけどそれが良かったと。「じゃあ、何をしてたんだ」と聞いたら、彼女は得意げに
「何もしなかった」と答えたんです。
パラオに行って何もしない時間を過ごすこと。それが最高の贅沢なんだと……
Photo by (c)Tomo.Yun 正直、何言ってんだコイツと思いましたけど(笑) 要するに、せせこましい日常生活とか人間関係のしがらみとか何もかも忘れてのんびり過ごすことができたってことを言いたかったのですよね。でもさ、それってドライブインで毎日麻雀ゲームやってるおじさんと目的はいっしょじゃん!って思ったんです。
程度の差はあれど実質は同じなんですよ。したがって嫁は必ずしも「生産性のない行為=無駄な時間」と思ってない
(※3)ということになります。だとしたらスマホゲームとそれ以外の趣味・娯楽の違いはどこにあるのか。実質同じなら、そこには程度の差しかないじゃないか!
そのとき僕は思わず膝を叩いたんです。答えはそのままだったんですよ。単純過ぎて気づかなかったんですが、それは
“程度の差”だったんです。ただし圧倒的な……
<現実逃避→高尚な趣味> どういうことかと言うと、僕はそれを
「現実で消費するエネルギーの量」で説明できるんじゃないかと考えたんです。
(※4) 趣味・娯楽ってのはだいたいが現実逃避と言えるのですが、現実逃避ってのはその性質上、なるべく現実を介さずにプロセスを完結させたい行為なんですね。
したがって「現実で消費するエネルギーの量」が少ないほど優秀な現実逃避
(※5)と言えるわけで、逆に言えば消費するエネルギー量が多い趣味・娯楽ってのはもはや現実逃避の域を越えて、いわゆる高尚な趣味・贅沢な娯楽だとされる傾向があります。
↓イメージ図
たとえばパラオは実在の島であり、遠いので体力的にも時間的にもそうとうパワーがないと行けない場所です。現実逃避といっても現実で消費するエネルギーの量がものすごく多いんですよ。麻雀ゲームだって実在するドライブインに行かなければならないわけじゃないですか。
その点、スマホゲームはどうでしょう。
なんと、驚くべきことにスマホさえ手に持ってれば
ソファーから1歩も動かなくていいんですよ!
(※6) しかもタッチスクリーン操作のおかげで、動かすのは指先1つでいいんです。
<ファミコンとの違いも説明できる> たとえば僕がファミコンをやるときはたいてい子どもとやるのでどっぷり疲れるんです。なぜなら子どもを喜ばせようと、ついつい本気でプレイしちゃうからなんですよ。したがって現実で消費するエネルギーの量が半端ないんです。
正直、仕事より疲れます(笑) また、ファミコン時代を振り返ってみれば本屋に走って、ファミコン雑誌買ってようやく手に入れてたような情報が、スマホの場合はブラウザ開いて検索すれば一発じゃないですか。友達を大勢つくって家に呼ばなくても、すでにネットワーク上に多くの仲間がいます。
たいていのスマホゲームにはあらゆる承認欲求を満たしてくれる褒章システム
(※7)がバンバン実装されているし、さらにネット上のコミュニティがそれを補完しているので、ファミコン時代に途方もない手間をかけていた行為も、簡単に
手のひらの中で自己完結してくれるんです。
人気ソフトを入手するのに学校さぼって行列に並ぶ必要もない。テレビを独占するため家族と交渉する必要もない。カセットフーフーなんていう謎の儀式をする必要もないんです!
つまりスマホゲームはファミコンに比べたら格段に、現実でしなければならないこと=現実で消費するエネルギーの量が少ないんです。それは
現実拒絶レベルが圧倒的に高いということですよ。(やっと答えが見えてきました)
<ゲームはあらゆる因果を組み込んできた> しかもスマホが素晴らしい(嫁にとってはたちが悪い)のは、それがとてつもなくお手軽にできるということです。3秒あれば充分なんです。現実を拒絶するということは周りの人間も拒絶するということですからね。そんな奴がいつの間にかソファーに座ってたら、そりゃあ「時間の無駄」って言いたくなります。
「もっと現実に介入しないよ!(※8)」と言いたくもなります。
そう考えるとゲームの進化ってのは現実の介入をそぎ落としてきた歴史だったんですね。(もちろん例外はあります)
別の言い方をすれば
あらゆる因果を組み込んできた歴史です。因果とは“原因と結果”のことです。たいていの趣味・娯楽は現実の行為そのものか、あるいは因果のプロセスに現実が介入して初めて成立するものだったんですね。
でもそうなってくると、LINEやツイッターも同じじゃないかと言われるかもしれません。しかしそれらがゲームよりも現実拒絶レベルが低いのはコミュニケーションという性質が高いからだと思われます。
そういった意味では電子コミックやYoutubeなんかはインタラクティブ性に欠ける分、ゲームよりも現実拒絶レベルが高いんじゃないのっていう話になっちゃうけど、むしろ逆で、ゲームほど因果が組み込まれてないと見ることもできます。まあ、このあたりの問題は厄介なのでバッサリと割愛させていただきますね!
(※9) ということで、今回はなぜスマホ
ある程度マトモに立ち回ろうとしたら、それこそソフト買う以上の課金は必須だし、
「○○を買うぞ」的な強固な意思とは関係なく、それこそクレカの返済額を溜め込む様に、
無自覚の内にどんどん吸い上げられるから、尚更性質が悪いというか。
無論、そうではない良心的なものもあるとは思いますがね。