<成人式で残念だったこと> 先日、仕事関係で地元の成人式の会場にいたんですが、ちょっと残念なことがありました。式典で国歌斉唱が終わったあと司会の女の子が間髪入れずにに「ご着席ください」って言ったんです。なんならちょっと演奏とかぶってたかな。本当に終わるか終らないかってところで「ご着席ください」って言ったんですよ。
非常に残念でしたね。斉唱後に一礼する隙もなかったということもあるんですが、何よりあれじゃあ
「余韻」がないんですよ。
べつに校歌でも社歌でも何でもいいんです。式典のひとつひとつの行為って意味があるじゃないですか。たとえば朝礼のときに社訓を読む会社があるとしますよね。あれってなんでやってるのかっていうと、内容なんかどうでもいいんですよ。「さあ今から仕事するぞ」って、気持ちを切り替えるためにやってるわけですよね。
あれって自分のなかで、日常生活モードを仕事モードに切り替えるための重要な儀式なんですよ。それによって気持ちが引き締まるから、事故が減ったり生産効率が上がったりするわけじゃないですか。式典も同じなんです。ひとつひとつの動作を噛みしめるようにやらないと意味がないんですよ。
<本当に上手いJAZZプレイヤーとは?> もうひとつこんな話があります。とある知人とJAZZの話をしてたんですね。JAZZといえばアドリブ演奏なんですが、本当の上手さって何だろうなって話になったとき、彼がこんなことを言ったんです。
「本当に上手いひとは音を演奏してない」 なんだか禅問答みたいな言葉ですけど、僕の中にはスーっと入ってきたんですよ。初心者がアドリブをやるとどうしても間(ま)を音で埋めたくなってしまうんです。しかし上手い人はここぞというときにしか音を入れません。つまり、本当に上手いひとは音じゃなくて間(ま)を演奏してると言えるんですね。音というのはあくまでも間を飾るイルミネーションみたいなものだったんです。
たしかに思い返してみると、本当に上手いひとの演奏って、間が最高にかっこいいんですよ。すべての名プレイヤーがそうとは言いませんが、少なくともその言葉は、僕が今まで無意識に感じていたモヤモヤをずばり言い表していたんですね。
成人式とJAZZの話、共通して言えることは、みんな、物事を「してるとき」だけに捕らわれがちだということじゃないでしょうか。実は「してないとき」が大事なんだよってことだと思います。そして、この考え方はゲームにも言えるんじゃないかと思ったんですよ。(やっとゲームの話になりました)
<スマホゲームのプレイ後感> 前回アップした「
なぜスマホゲームは時間の無駄なのか」というエントリーでは、たくさんのご意見を頂きました。その中に「スマホゲームにはエンディング(クリア)がないからではないか」という指摘があったんですね。もちろん例外はあるんですが、僕はこのコメントにすごく引っかかるものがあって、エンディングがないということはどういうことかって考えたんですよ。
ファミコンの初期アクションゲーム、スポーツゲーム等……
正直、エンディングがないゲームなんてたくさんあるんです。じゃあ何が引っかかったのかなって「エンディングがない」という言葉をいろいろ変換してたら見えてきました。終わりがないってことはつまり、スマホゲームには
“継続しかない”ってことじゃないかって。
スマホゲームはユーザーに継続してゲームをしてもらわなければ金にならないビジネスモデルですよね。始めるだけならたいてい無料ですからね。したがって常に「継続したい」と思ってもらえるようなゲーム設計をしなければなりません。そこで一番手っ取り早いのは、
継続しなければストレスを与えるような設計なんです。
物事を途中でやめると気持ち悪いじゃないですか。でも終わりがないものについては途中でやめるしかないんです。オートセーブのおかげで、自ら区切りをつけることすらできません。だからスマホゲームの
プレイ後感ってものすごく悪いんですね。あれは、わざと解消してないんですよ。
スタミナ制を導入しているゲームは顕著です。ここでやめたくないってときに限ってスタミナが無くなったりしますよね。あれもわざとですよ。お金を払えばスタミナは回復するけど、そのまま終われば当然、後味が悪いんです。
<結論> つまりそれを僕なりの言葉で表すならば、スマホゲームはプレイしたあとにちっとも
「余韻に浸れない」ってことなんです。余韻に浸れないので、何だか無駄な行為をしていたような気分になってしまう。それが“うしろめたさ”につながっていたんですね。
その点、ファミコンはどっぷり余韻に浸れますよ。発売以来30年も経ってるのに、こうやってブログやってるやつがいるくらいですからね!
まあ、それは冗談ですけども。うしろめたさなんて感じたことないってひとは、そもそも余韻なんて気にしたことないのでしょう。ゲームなど日々大量に消費される情報(データ)でしかないのかもしれません。それはそれで時代なのかなって思います。
今回、スマホゲームに触れてみて僕が感じたことは、間違いなくスマホはゲーマーにとって
最強のツールの1つだということです。製作する側にもプレイする側にも利点がたくさんあります。でも世の中には「なんか違う」って感じてるひともいるわけで、それがたとえばプレイ後の余韻だったりするのかなと思ったわけです。
逆に言えばそういう部分がもっと研究されて、ひとつひとつ解消されていったら、スマホゲームはすべてのゲーマーに受け入れられる最強の存在になるに違いありません。
まあ、ビジネスにはつながらないでしょうけどね……
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