アポロ1号の悲劇がNASAを変えた
NASAが悲劇から学んだこと。
1月27日はアポロ計画にとって大きな一歩を踏み出した記念日になるはずでした。しかし、地上テスト中に船内が爆発出火するという悲劇の日に変わってしまいました。この死亡事故がアメリカの宇宙計画を大きく変えることになったのです。
1967年1月27日、3名の宇宙飛行士、ガス・グリソム氏、エドワード・ホワイト氏、ロジャー・チャフィー氏が命を落とすという悲劇が起こりました。3名は与圧宇宙服を着て、プラグ切り離しテストのために指令船内にいました。そして、2度目のチェックリスト確認中に出火。船内は純酸素で満たされていたため炎は大きくなり、気圧の上昇によりカプセルの壁が破壊されました。煙が地上作業員たちに押し寄せ、破片で怪我をした人もいました。26秒の間、恐怖に包まれた地上チームには中からの叫び声が聞こえ、そしてカメラの画面は火柱でいっぱいになったそうです。熱と煙に包まれていたため、3つのハッチドアを開けるのに5分かかってしまいました。
グリソム氏は、アメリカ最初の有人宇宙飛行計画、マーキュリー計画のクルーに選ばれた7名の宇宙飛行士の1人でした。帰還飛行時、着水時に船内とグリソム氏の宇宙服の中に海水が入り込むというハプニングが起こったそうです。彼はその後、マーキュリーに次ぐ有人宇宙飛行計画、ジェミニ計画に参加。2度宇宙へ行った初めての宇宙飛行士となりました。グリソム氏は火災時、シートベルトを外し、ホワイト氏と一緒にカプセルのドアを開けようとしていたことがわかっています。床に横たわった状態で発見されました。
ホワイト氏は第2期の宇宙飛行士としてジェミニ計画で宇宙へ行きました。アメリカ人で初めて宇宙遊泳をしたのがホワイト氏です。彼はあまりに宇宙遊泳を楽しみすぎ、船内から早く戻ってこいと指令が出たという逸話も残っています。「戻った時は人生で一番悲しい瞬間だった」とのちに語っています。そして、もう一つ。彼は宇宙で物をなくした初めての宇宙飛行士でもあります。予備の耐熱グローブを手離してしまい、グローブは宇宙の彼方へ飛んで行ってしまったのです。悲劇の起きたアポロ1号は彼の2度目の飛行になるはずでした。ホワイト氏のシートベルトは火で焼かれ、発見時はハッチのドアの下で横たわっていました。ドアを一生懸命開けようとしていたことがわかっています。
チャフィー氏は第3期の宇宙飛行士として選ばれたルーキーでした。ジェミニ計画の時には地上サポートを行ない、無人のサターン1Bロケットテストの際には、グリソム氏と一緒に撮影用のチェイス・プレーンを飛ばしました。アポロ1号には、肩を脱臼したドン・エイゼル氏の代わりとして最後の最後にクルーに選ばれ、テストフライトに参加することになりました。彼にとってこれが最初の宇宙飛行となる予定でした。チャフィー氏は火災発生中は、座席に座り続けていました。緊急時は先輩宇宙飛行士がハッチを開けるまで外部との通信を続けること、というマニュアルに最後まで従っていた証拠です。
電気火災とグリソム氏、ホワイト氏、チャフィー氏3名の犠牲が出たことで、NASAは探査プログラムの改善と安全性の優先に乗り出します。実は、事故前にアポロのモジュールに関する懸念を表していた宇宙飛行士たちがいました。それはハッチが緊急時を考慮せず、構造的統合性を重視したデザインとなっているという懸念でした。理想的な状況下であっても、3層のドアを開くのに90秒もかかってしまうのです。アポロ1号の事故後、テスト計画、製造工程、品質管理などと一緒にドアも再設計されました。
安全上の新たな取り組みの一つとして、NASAはスヌーピーの著者チャールズ・シュワルツにコンタクトしました。スヌーピーを安全のためのマスコットにするためでした。シュワルツ氏は同意してくれて、その後、宇宙飛行士が宇宙へ持って行った銀色のスヌーピーのバッジを地上のクルーにプレゼントするという伝統が始まり、それは今でも続いています。このバッジを受け取ることは、宇宙へ行った人の安全を守ったという貢献を讃えられた証。とても名誉なことなのです。3名の死を決して無駄にせず、また悲劇が起こらないようにNASAは今も努力を続けているということですね。
image by NASA
source: NASA、 Space Safety Magazine、Scientific American
Mika McKinnon - Gizmodo US[原文]
(リョウコ)