1: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:10:43 ID:HiG
本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)
1925(大正14)年1月14日 - 1970(昭和45)年11月25日
日本の小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家・皇国主義者。
戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である。
代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、
戯曲に『鹿鳴館』『近代能楽集』『サド侯爵夫人』などがある。
晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。
1970年(昭和45年)11月25日、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁。
バルコニーでクーデターを促す演説をした後、割腹自殺を遂げた。

辞世の句
〈益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜〉
「益荒男」はおそらく自衛隊。
「たばさむ太刀の鞘鳴り」は、剣を抜きたくても抜けずに、鞘の音だけがしている様子。
自衛隊は戦後憲法の元で行動を抑えつけられ何年も耐えてきたが、初霜の降りた今日、ついに決起の日が来た。

〈散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐〉
命をかけて行動するのを嫌う世の中だが、小夜嵐で潔く散る桜こそ美しいように、
そんな世の中や人に先駆け、命をかけて行動することに価値がある。
転載元:http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1456308643/
【閲覧注意】なんJ深夜の未解決事件部
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/5014353.html
三島


2: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:11:47 ID:HiG
小説の世界では、上手であることが第一の正義である。
ドストエフスキーもジッドもリラダンも、先づ上手だから正義なのである。
下手なものは、千万言の理論の正不正とは別に、悪である。われわれ若い者は下手なるがゆゑに悪である。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「上手と正義(舟橋聖一『鵞毛』評)」より



3: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:12:28 ID:HiG
凡(すべ)てにわかり合はうといふことがおそろしいほど欠けてゐる時代である。
お互がわからないことを誇る悲しい時代である。
なまじつかわかり合はうとすれば自分の体に傷がつくことを知つてゐるからだ。
もうすこしバカにならうではないか。そしてよいものをよいと言はうではないか。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「上手と正義(舟橋聖一『鵞毛』評)」より



4: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:13:02 ID:HiG
極端に自分の感情を秘密にしたがる性格の持主は、一見どこまでも傷つかぬ第三者として身を全うすることができるかとみえる。
ところがかういふ人物の心の中にこそ、現代の綺譚と神秘が住み、思ひがけない古風な悲劇へとそれらが彼を連れ込むのである。
「盗賊」より



5: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:13:37 ID:HiG
男には屡々(しばしば)見るが女にはきはめて稀なのが偽悪者である。
と同時に真の偽善者も亦(また)、女の中にこれを見出だすのはむつかしい。
女は自分以外のものにはなれないのである。
といふより実にお手軽に「自分自身」になりきるのだ。宗教が女性を収攬しやすい理由は茲(ここ)にある。
「盗賊」より



6: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:14:11 ID:HiG
女の心に全く無智な者として振舞ひながらその心に触れてゆくやり方は青年の特権である。
「盗賊」より



7: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:14:45 ID:HiG
嫉妬こそ生きる力だ。
だが魂が未熟なままに生ひ育つた人のなかには、苦しむことを知つて嫉妬することを知らない人が往々ある。
彼は嫉妬といふ見かけは危険でその実安全な感情を、もつと微妙で高尚な、
それだけ、はるかに、危険な感情と好んですりかへてしまふのだ。
「盗賊」より



9: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:15:56 ID:HiG
明治時代にはあだし男の接吻に会つて自殺を選んだ貞淑な夫人があつた。
現代ではそんな女が見当らないのは、人が云ふやうに貞淑の観念の推移ではなくて、快感の絶対量の推移であるやうに思はれる。
ストイックな時代に人々が生れ合はせれば、一度の接吻に死を賭けることもできるのだが、
生憎今日のわれわれはそれほど無上の接吻を経験しえないだけのことである。
どつちが不感症の時代であらうか?
「純白の夜」より



10: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:16:31 ID:HiG
何か、極く小さな、どんなありきたりな希望でもよい。
それがなくては、人は明日のはうへ生き延びることができない。
明日にのこつてゐる繕ひものとか、明日立つことになつてゐる旅行の切符とか、
明日飲むことにしてある罎ののこりの僅かな酒とか、さういふものを人は明日のために喜捨する。
そして夜明けを迎へることを許される。
「愛の渇き」より



11: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:17:04 ID:HiG
人生が生きるに値ひしないと考へることは容易いが、それだけにまた、
生きるに値ひしないといふことを考へないでゐることは、多少とも鋭敏な感受性をもつた人には困難である。
「愛の渇き」より



12: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:17:37 ID:HiG
ある人たちにとつては生きることがいかにも容易であり、ある人にとつてはいかにも困難である。
人種的差別よりももつと甚だしいこの不公平。
「愛の渇き」より



13: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:18:11 ID:HiG
あまりに永い苦悩は人を愚かにする。
苦悩によつて愚かにされた人は、もう歓喜を疑ふことができない。
「愛の渇き」より



14: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:18:44 ID:HiG
感傷といふものが女性的な特質のやうに考へられてゐるのは明らかに誤解である。
感傷的といふことは男性的といふことなのだ。
「青の時代」より



15: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:19:18 ID:HiG
近代が発明したもろもろの幻影のうちで、「社会」といふやつはもつとも人間的な幻影だ。
人間の原型は、もはや個人のなかには求められず社会のなかにしか求められない。
原始人のやうに健康に欲望を追求し、原始人のやうに生き、動き、愛し、眠るのは、近代においては「社会」なのである。
新聞の三面記事が争つて読まれるのは、この原始人の朝な朝なの生態と消息を知らうとする欲望である。
「青の時代」より



16: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:19:51 ID:HiG
人間の弱さは強さと同一のものであり、美点は欠点の別な側面だといふ考へに達するためには、年をとらなければならない。
「青の時代」より



17: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:20:19 ID:HiG
感動すまいとする分析家は、感動以上の誤りを犯す場合がままある。
「青の時代」より



20: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:20:52 ID:HiG
家庭といふものはどこかに必ず何らかの不幸を孕んでゐるものだ。
帆船を航路の上に押しすすめる順風は、それを破滅にみちびく暴風と本質的には同じ風である。
家庭や家族は順風のやうな中和された不幸に押されて動いてゆくもので、家族をゑがいた多くの名画には、
華押のやうに、ひそんだ不幸が手落ちなく一隅に書き込まれてゐる。
「禁色」より



23: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:21:56 ID:HiG
女といふものはな、頭から信じてしまふか、頭から疑つてかかるか、どつちかしかないものだな。
どつちつかずだと、こつちが悩んで往生する。漁も同じだ。
「今日はとれるかな、とれないかな」……これではいかん。
必ず大漁と思つて出ると大漁、からきしダメだらうと思つて出ると大漁、全くヘンなものだ。
こつちが中途半端な気持だと、向ふも中途半端になるものらしい。全くヘンなものだ。
「愛の疾走」より



24: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:22:30 ID:HiG
初恋がすらすらと結ばれたら、そんな夫婦の一生は、箸にも棒にもかからないものになる。
人間は怠け者の動物で、苦しめてやらなくては決して自分を発見しない。
自分を発見しないといふことは、要するに、本当の幸福を発見しないといふことだ。
「愛の疾走」より



26: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:23:03 ID:gLJ
死なずに東京都知事にでもなればよかったのに
実際なれたろ



27: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:23:16 ID:HiG
自殺はどんな高尚なそれも低級なそれも、思考それ自体の自殺行為であり、
およそ考へすぎなかつた自殺といふものは存在しない。
「禁色」より



29: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:24:25 ID:HiG
『君は僕が好きだ。僕も僕が好きだ。仲良くしませう』──これはエゴイストの愛情の公理である。
同時に、相思相愛の唯一の事例である。
「禁色」より



31: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:24:57 ID:HiG
女はあらゆる価値を感性の泥沼に引きづり下ろしてしまふ。
女は主義といふものを全く理解しない。
「何々主義的」といふところまではわかるが、「何々主義」といふものはわからない。
主義ばかりではない。独創性がないから、雰囲気をさへ理解しない。わかるのは匂ひだけだ。
「禁色」より



33: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:25:59 ID:HiG
思想を抱いてゐる男は、女の目にはもともと神秘的に見えるものである。
女は死んでも「青大将は俺の大好物だ」なんぞと言へないやうに出来てゐるからである。
「禁色」より



35: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:27:07 ID:HiG
大体私は女ぎらいというよりも、古い頭で、「女子供はとるに足らぬ」と思っているにすぎない。
女性は劣等であり、私は馬鹿でない女(もちろん利口馬鹿を含む)にはめったに会ったことがない。
事実また私は女性を怖れているが、男でも私がもっとも怖れるのは馬鹿な男である。まことに馬鹿ほど怖いものはない。

また註釈を加えるが、馬鹿な博士もあり、教育を全くうけていない聡明な人も沢山いるから、何も私は学歴を問題にしているのではない。
こう云うと、いかにも私が、本当に聡明な女性に会ったことがない不幸な男である、
という風に曲解して、私に同情を寄せてくる女性がきっと現れる。こればかりは断言してもいい。
しかしそういう女性が、つまり一般論に対する個別的例外の幻想にいつも生きている女が、実は馬鹿な女の代表なのである。
「女ぎらひの弁」より



36: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:28:05 ID:HiG
女性は抽象精神とは無縁の徒である。
音楽と建築は女の手によってろくなものはできず、透明な抽象的構造をいつもべたべたな感受性でよごしてしまう。
構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の現実主義、
これらはみな女性的欠陥であり、芸術において女性的様式は問題なく「悪い」様式である。
私は湿気の高い感性的芸術のえんえんと続いてきた日本の文学史を呪わずにはいられない。
「女ぎらひの弁」より



37: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:28:52 ID:HiG
私は芸術家志望の女性に会うと、女優か女声歌手になるのなら格別、
女に天才というものが理論的にありえないということに、どうして気がつかないかと首をひねらざるをえない。

実際芸術の堕落は、すべて女性の社会進出から起つてゐる。
女が何かつべこべいふと、土性骨のすわらぬ男性芸術家が、いつも妥協し屈服して来たのだ。
あのフェミニストらしきフランスが、女に選挙権を与へるのをいつまでも渋つてゐたのは、フランスが芸術の何たるかを知つてゐたからである。
「女ぎらひの弁」より



38: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:29:47 ID:HiG
道徳の堕落も亦(また)、女性の側から起つてゐる。
男性の仕事の能力を削減し、男性を性的存在にしばりつけるやうな道徳が、
女性の側から提唱され、アメリカの如きは女のおかげで惨澹たる被害を蒙つてゐる。
悪しき人間主義はいつも女性的なものである。
男性固有の道徳、ローマ人の道徳は、キリスト教によつて普遍的か人間道徳へと曲げられた。
そのとき道徳の堕落がはじまつた。道徳の中性化が起つたのである。
「女ぎらひの弁」より



39: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:30:45 ID:HiG
一夫一婦制度のごときは、道徳の性別を無視した神話的こじつけである。
女性はそれを固執する。人間的立場から固執するのだ。
女にかういふ拠点を与へたことが、男性の道徳を崩壊させ、男はローマ人の廉潔を失つて、ウソをつくことをおぼえたのである。
男はそのウソつきを女から教はつた。キリスト教道徳は根本的に偽善を包んでゐる。
それは道徳的目標を、ありもしない普遍的人間性といふこと、神の前における人間の平等に置いてゐるからである。
これに反して、古代の異教世界においては、人間たれ、といふことは、男たれ、といふことであつた。
男は男性的美徳の発揚について道徳的責任があつた。
なぜなら世界構造を理解し、その構築に手を貸し、その支配を意志するのは男性の機能だからだ。
男性からかういふ誇りを失はせた結果が、道徳専門家たる地位を男性をして自ら捨てしめ、道徳に対してつべこべ女の口を出させ、
つひには今日の道徳的瓦解を招いたものと私は考へる。
一方からいふと、男は女の進出のおかげで、道徳的責任を免れたのである。
「女ぎらひの弁」より



40: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:31:32 ID:HiG
サディズムとマゾヒズムが紙一重であるやうに、女性に対するギャラントリィと女ぎらひとが
紙一重であるといふことに女自身が気がつくのは、まだずつと先のことであらう。
女は馬鹿だから、なかなか気がつかないだらう。私は女をだます気がないから、
かうして嫌はれることを承知で直言を吐くけれども、女がその真相に気がつかない間は、欺瞞に熱中する男の勝利はまだ当分つづくだらう。
男が欺瞞を弄するといふことは男性として恥づべきことであり、
もともとこの方法は女性の方法の逆用であるが、それだけに最も功を奏するやり方である。「危険な関係」のヴァルモン子爵は、(中略)
女性崇拝のあらゆる言辞を最高の誠実さを以てつらね、女の心をとろかす甘言を総動員して、
さて女が一度身を任せると、敝履(へいり)の如く捨ててかへりみない。(中略)
女に対する最大の侮蔑は、男性の欲望の本質の中にそなはつてゐる。
女ぎらひの侮蔑などに目くじら立てる女は、そのへんがおぼこなのである。
「女ぎらひの弁」より



41: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:32:41 ID:HiG
地位を持つた男たちといふものは、少女みたいな感受性を持つてゐる。
いつもでは困るが、一寸(ちょっと)した息抜きに、何でもない男から肩を叩かれると嬉しくなるのだ。
「鍵のかかる部屋」より



43: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:34:08 ID:HiG
自殺をすれば、国民貯蓄課の属官たちはかう言ふにちがひない。
「前途有為な青年がどうして自殺なんかするのだらう」前途有為といふやつは、他人の僭越な判断だ。
大体この二つの観念は必ずしも矛盾しない。未来を確信するからこそ自殺する男もゐるのだ。
「鍵のかかる部屋」より



44: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:35:14 ID:HiG
本当に男を尊敬できるのは、劣等感を持つた女だけだ。
「鍵のかかる部屋」より



45: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:35:47 ID:HiG
鈍感な人たちは、血が流れなければ狼狽しない。
が、血の流れたときは、悲劇は終つてしまつたあとなのである。
「金閣寺」より



46: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:36:16 ID:HiG
滑稽な外形を持つた男は、まちがつて自分が悲劇的に見えることを賢明に避ける術を知つてゐる。
もし悲劇的に見えたら、人はもはや自分に対して安心して接することがなくなるのを知つてゐるからだ。
自分をみじめに見せないことは、何より他人の魂のために重要だ。
「金閣寺」より



47: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:36:45 ID:HiG
どんな邪悪な心も心にとどまる限りは、美徳の領域に属してゐる。 
「美徳のよろめき」より



48: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:37:14 ID:HiG
どんな驚天動地の大計画も、一旦心が決り準備が整ふと、
それにとりかかる前に、或る休息に似た気持が来るものである。
「美徳のよろめき」より



49: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:37:44 ID:HiG
われわれが未来を怖れるのは、概して過去の堆積に照らして怖れるのである。
恋が本当に自由になるのは、たとへ一瞬でも思ひ出の絆から脱したときだ。
「美徳のよろめき」より



50: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:38:19 ID:HiG
道徳は、習慣からの逃避もみとめないが、同時に、習慣への逃避も、それ以上にみとめてゐないのだ。
道徳とは、人間と世界のこの悪循環を絶ち切つて、すべてのもの、あらゆる瞬間を、
決してくりかへされない一回きりのものにしようとする力なのだ。
「美徳のよろめき」より



51: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:38:54 ID:HiG
あふれるばかりの精力を事業や理想の実現に向けてゐる肥つた醜い男などは何といふ滑稽な代物だらう。
みすぼらしい風采の世界的学者などは何といふ珍物であらう。
仕事に熱中してゐる男は美しく見えるとよく云はれるが、もともと美しくもない男が仕事に熱中したつて何になるだらう。
「美徳のよろめき」より



52: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:39:24 ID:HiG
女に友情がないといふのは嘘であつて、女は恋愛のやうに、友情をもひた隠しにしてしまふのである。
その結果、女の友情は必ず共犯関係をひそめてゐる。
「美徳のよろめき」より



53: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:39:52 ID:HiG
女が一等惚れる羽目になるのは、自分に一等苦手な男相手でございますね。
あなたばかりではありません。誰もさうしたものです。そのおかげで私たちは自分の欠点、
自分といふ人間の足りないところを、よくよく知るやうになるのです。
女は女の鑑(かがみ)にはなれません。いつも殿方が女の鑑になつてくれるのですね。
それもつれない殿方が。
「美徳のよろめき」より



54: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:40:25 ID:HiG
情に負けるといふことが、結局女の最後の武器、もつとも手強い武器になります。
情に逆らつてはなりません。ことさら理を立てようとしてはなりません。
情に負け、情に溺れて、もう死ぬほかないと思ふときに、はじめて女には本来の智恵が湧いてまゐります。
「美徳のよろめき」より



55: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:40:56 ID:HiG
女は恋に敗れた女に同情しながら、さういふ敗北者の噂をひろげるのが大そう好きで、
恋に勝つてばかりゐる女のことは、「不道徳な人」といふ一言で片附けるだけなのでございます。
いはば、さういふ勝利者は抽象的な不名誉だけで事がすみ、細目にわたる具体的な不名誉は、
お気の毒にも、不幸な敗北者の女が蒙ることになるのです。
「美徳のよろめき」より



56: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:41:31 ID:HiG
女にとつて優雅であることは、立派に美の代用をなすものである。
なぜなら男が憧れるのは、裏長屋の美女よりも、それほど美しくなくても、優雅な女のはうであるから。
「美徳のよろめき」より



57: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:42:44 ID:HiG
悲しい気持の人だけが、きれいな景色を眺める資格があるのではなくて?
幸福な人には景色なんか要らないんです。
「鹿鳴館」より



58: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:43:54 ID:HiG
政治とは他人の憎悪を理解する能力なんだよ。
この世を動かしてゐる百千百万の憎悪の歯車を利用して、それで世間を動かすことなんだよ。
愛情なんぞに比べれば、憎悪のはうがずつと力強く人間を動かしてゐるんだからね。
「鹿鳴館」より



59: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:45:03 ID:HiG
人生のいちばんはじめから、人間はずいぶんいろんなものを諦らめる。
生れて来て何を最初に教はるつて、それは「諦らめる」ことよ。
そのうちに大人になつて不幸を幸福だと思ふやうになつたり、何も希まないやうになつてしまふ。
「夜の向日葵」より



60: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:46:03 ID:HiG
幸福つて、何も感じないことなのよ。幸福つて、もつと鈍感なものよ。
幸福な人は、自分以外のことなんか夢にも考へないで生きてゆくんですよ。
「夜の向日葵」より



61: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:47:08 ID:HiG
もしあたくしが豚だつたら、真珠に嫉妬なんか感じはしないでせう。
でも、人造真珠が自分を硝子にすぎないとしぢゆう思つてゐることは、
豚が時たま自分のことを豚だと思つたりするのとは比べものにはならないの。
「夜の向日葵」より



62: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:48:00 ID:HiG
表題の「薔薇」はどうしても「バラ」ではいけない。薔薇といふ字をじつと見つめてゐてごらん。
薔の字は、幾重にも内側へ包み畳んだ複雑なその花びらを、
薇の字はその幹と葉を、ありありと想起させるやうに出来てゐる。
この字を見てゐるうちに、その馥郁たる薫さへ立ち昇つてくる。
「あとがき(『薔薇と海賊』)」より



63: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:48:57 ID:HiG
ワシントンは子供心に、ウソをついた場合のイヤな気持まで知っていたので、正直に白状したのかもしれません。
たいてい勇気ある行動というものは、別の或るものへの
怖れから来ているもので、
全然恐怖心のない人には、勇気の生れる余地がなくて、そういう人はただ無茶をやってのけるだけの話です。
「不道徳教育講座 大いにウソをつくべし」より



64: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:50:12 ID:HiG
女はあやふやなものに敏感です。あやふやなものを嗅ぎつけると、すぐバカにしてかかります。
経済的主権のあやふやな、現代の大多数の若い男性は、同時に、その性的主権もあやふやなものと見られつつある。
これこそは男性の危機なのである。
「不道徳教育講座 女から金を搾取すべし」より



65: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:50:58 ID:HiG
お節介は人生の衛生術の一つです。われわれは時々、人の思惑などかまわず、これを行使する必要がある。
会社の上役は下僚にいろいろと忠告を与え、与えられた方は学校の後輩にいろいろと忠告を与えます。
子供でさえ、よく犬や猫に念入りに忠告しています。
全然むだごとで、何の足しにもならないが、お節介焼きには、一つの長所があって、「人をいやがらせて、自らたのしむ」ことができ、
しかも万古不易の正義感に乗っかって、それを安全に行使することができるのです。
人をいつもいやがらせて、自分は少しも傷つかないという人の人生は永遠にバラ色です。
なぜならお節介や忠告は、もっとも不道徳な快楽の一つだからです。
「不道徳教育講座 うんとお節介を焼くべし」より



66: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:51:59 ID:HiG
誰でもなかなか本当の自信などもてるものではない。しかし己惚れなら、気持の持ちよう次第で、今日から持てるのです。
「あたしの鼻はどうしてこう低いんでしょう」と思うより、
「あたしの鼻は何てかわいらしい形をしてるんでしょう。アメリカの美容整形って、みんな高すぎる鼻を削ってるんだってね」
と思うほうがいい。しかしこの己惚れにもやはり他人の御追従が、裏付として必要になり、
他人と社会というものが、われわれの必需品である理由はそこにあります。
「不道徳教育講座 できるだけ己惚れよ」より



67: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:52:54 ID:HiG
流行は無邪気なほどよく、「考えない」流行ほど本当の流行なのです。
白痴的、痴呆的流行ほど、あとになって、その時代の、美しい色彩となって残るのである。
「不道徳教育講座 流行に従うべし」より



68: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:54:03 ID:HiG
世間に尽きない誤解は、「殺人そのもの」と、「殺っちまえと叫ぶこと」と、
この二つのものの間に、ただ程度の差しか見ないことで、そこには実は非常な質の相違がある。
私はイギリスで探偵小説や犯罪推理小説がもっともさかんなのを面白い現象だと思いますが、
あの乙に澄ました英国紳士が殺人の描写を読んで夢中になっているところを想像すると、いかにも自然に思える。
英国人は、「殺っちまえと叫ぶ」国民ではあるが、それは虫も殺さぬ常識人であることと少しも矛盾しません。
いちばん沢山実際に人を殺したのは、あの崇高な理想主義者のドイツ人です。
「不道徳教育講座 『殺っちゃえ』と叫ぶべし」より



69: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:54:41 ID:HiG
たいていの気取ったエチケット講座には、洋食の作法として、「スープは決して音を立てて吸ってはいけません」などと、おごそかに戒めています。
子供のときから味噌汁を音を立ててのみ、お薄茶もおしまいのときには
チューッと吸い込む作法に馴れて来たものに、むりやり西洋人の作法を押しつけようというのです。
ところでこういう表面的作法に一等影響をうけやすいのは女性であって、女性はとかく上っ面だけで物事を判断しますから、
「好きな彼氏がいたんだけど、はじめて二人で夕食をしに行って、スープが出て、いきなり彼氏が、ズルズルッという、
 ラーメンでも流し込むような音を立てて、ポタージュを吸い出した瞬間、わたしは生理的嫌悪を感じて、それ以来、彼氏がすっかりイヤになりました」
などというのは、たいていの女性雑誌の「恋愛心理の微妙さの特集」とかいう、告白記事に出ています。
私は別にこんな女性心理は、微妙でも何でもなく、ただの虚栄心だと考えますが……。
エチケット講座の担当者たちを見ればわかりますが、彼らは私にとっては格段尊敬すべき人たちとも思えません。
洋食作法を知っていたって、別段品性や思想が向上するわけではないのですが、
こんなものに影響をうけた女性は、スープを音を立てて吸う男を、頭から野蛮人と決めてしまいます。
それなら、あんなフォークやナイフという凶器で食事をする人は、みんな野蛮人ではないでしょうか?
「不道徳教育講座 スープは音を立てて吸うべし」より



70: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:55:53 ID:HiG
たまたまここへスープの音の話を持ち出したのは、私の最も尊敬する先輩が、二人まで、すさまじい音を立ててスープを吸う。
二人とも外国をまわって来た人ですが、外国のどこかの都市の、気取ったレストランで、もし御両人が相会してスープを吸ったら、さぞや壮観だろうと思われる。
御両人とも日本最高の頭脳に属するが、スープを音を立てて吸ったりすることは、日本最高の頭脳たることを少しもさまたげないのである。
そればかりではない。私は両氏を見ていると、あれだけあたりかまわずズーズー音を立ててスープを吸えたら、
あのくらい頭がよくなるんじゃないかと思うことがある。
──事はスープだけにとどまらない。或る中世芸能の研究家が、私の目の前でナイフに肉をのせて、
御丁寧に刃のほうを下唇へあてがって、口の中へ肉をほうり込むところを見たが、
これなんかは、いつ口が切れやしないかと相手をヒヤヒヤさせて、スリルを満喫させる点だけでも功徳というものである。
「不道徳教育講座 スープは音を立てて吸うべし」より



71: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:56:37 ID:HiG
エチケットなどというものは、俗の俗なるもので、その人の偉さとは何の関係もないのである。
静まり返った高級レストランのどまん中で、突如怪音を発して、ズズズーッとスープをすすることは、社会的勇気であります。
お上品とは最大多数の決めることで、千万人といえども我ゆかんという人は、たいてい下品に見られる。
社会的羊ではないという第一の証明が、このスープをすする怪音であります。
「不道徳教育講座 スープは音を立てて吸うべし」より



72: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:57:11 ID:HiG
男というものは、もし相手の女が、彼の肉体だけを求めていたのだとわかると、一等自尊心を鼓舞されて、大得意になるという妙なケダモノであります。
男にとって最高の自慢になることは、彼のやさしい心根や、純情や、あるいは才能や、頭脳を愛されたということではなくて、
正にそのものズバリ、彼の肉体を愛されたということなのである。
これは男性の通性であって、高級な知的な男たると、低級な男たるとを問いません。ところが女性は全然ちがうらしい。
彼女たちは、「私」のほうが「私の体」よりも、ずっと高級な、美しい、神聖な存在だと信じているらしい。
だから、この高級で清浄で美しい「私」をさておいて、
それ以下の「私の体」だけを欲望の対象にする所業はゆるせないのである。
これは奇妙な自己矛盾であって、もし女性が自分の肉体を、高級で、美しくて、神聖なものと信じていたら、
それにあこがれる男の欲望をも、高く評価する筈であるが、
多くの淑女は妙に自分の肉体それ自体を神聖で美しいものと感じない傾きがある。
「不道徳教育講座 痴漢を歓迎すべし」より



73: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:57:45 ID:HiG
女性が自分の肉体について持っている考えは二重になっており、「私の体は美しいわ」という自信は、ともすると個性とかかわりのない、
「女一般の肉体として優れている」という感じ方にすぐつながるらしい。女性は自分の肉体に、終局的に、個性と主体性を自らみとめない傾向がある。
これが女性が流行に弱い一つの理由でもあります。
とにかく女の人が自分の体に対して抱いている考えは、男とはよほどちがうらしい。
その乳房、そのウェイスト、その脚の魅力は、すべて「女たること」の展覧会みたいなものである。
美しければ美しいほど、彼女はそれを自分個人に属するものと考えず、何かますます普遍的な、女一般に属するものと考える。
この点で、どんなに化粧に身をやつし、どんなに鏡を眺めて暮らしても、女は本質的にナルシスにはならない。
ギリシアのナルシスは男であります。
「不道徳教育講座 痴漢を歓迎すべし」より



74: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:58:22 ID:HiG
男と女の一等厄介なちがいは、男にとっては精神と肉体がはっきり区別して意識されているのに、
女にとっては精神と肉体がどこまで行ってもまざり合っていることである。
女性の最も高い精神も、最も低い精神も、いずれも肉体と不即不離の関係に立つ点で、男の精神とはっきりちがっている。
いや、精神だの肉体だのという区別は、男だけの問題なのであって、女にとっては、それは一つのものなのだ。
だから亭主の純肉体的浮気に、女房がカンカンになって怒るのは尤もであって、女は女の立場から類推する他はないから、
「体だけの浮気だ」などと亭主がいくら弁解しても、逃げ口上にしか思えない。
「不道徳教育講座 いわゆる『よろめき』について」より



75: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:58:51 ID:HiG
女性がよく知らなければならないことは、嫉妬においても、女の嫉妬と男の嫉妬は完全にちがうということです。
女の嫉妬は、さっき述べたあの同じ根、あの深い宿命の形式から出ています。
しかし男の嫉妬は、それとはちがって、御当人の意識している以上に、社会的性質のものなのです。
虚栄心、自尊心、男性たることの対社会的プライド、 
男性としての能力に関する自負、……こういうものはみんな社会的性質を帯びていて、
これがみんな根こそぎにされた悩みが、男の嫉妬を形づくります。
男の嫉妬の本当のギリギリのところは、体面を傷つけられた怒りだと断言してもよろしい。
そう説明すると、「お前はまだ人生経験が足りない」と言いかえす人があるだろうが、
私もすぐ、「お前さんは自己分析が足りない」と言いかえしてやります。
「不道徳教育講座 いわゆる『よろめき』について」より



76: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:59:23 ID:HiG
われわれは死者のことをなるたけ早く忘れたいのです。
憎まれ嫌われていた死者のことほど早く忘れたいのです。
そのためにはほめるに限る。ですから死者に対する賞賛には、何か冷酷な非人間的なものがあります。
死者に対する悪口は、これに反して、いかにも人間的です。
悪口は死者の思い出を、いつまでも生きている人間の間に温めておくからです。
ですから私は死んだら、私の敵が集まって呑んでる席へ行って、みんなの会話をききたいと思う。
「全くいい気味だ。あのいけ図々しいキザな奴がいなくなって、空気までキレイになった」
「本当だよ。あんな阿呆に、よく永いこと世間がだまされていたもんだ」
「あいつはバカの上に大ウソツキで、あいつと五分も話してるとヘドが出そうだった」
こんなことを言っている連中の頭を、幽霊の私はやさしく撫でてやるでしょう。
私はどうしても、ピンシャン生きているうちに私が言われていたのと同じ言葉を、死後もきいていたい。
それこそは人間の言葉だからです。
「不道徳教育講座 死後に悪口を言うべし」より



77: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)19:59:58 ID:HiG
やたらに人に弱味をさらけ出す人間のことを私は躊躇なく「無礼者」と呼びます。
それは社会的無礼であって、われわれは自分の弱さをいやがる気持ちから人の長所をみとめるのに、
人も同じように弱いということを証明してくれるのは、無礼千万なのであります。
そればかりではありません。どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿をみとめてもらい、
あわよくば真実の姿のままで愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめてかかった考えです。
というのは、どんな人間でも、その真実の姿などというものは、不気味で、愛することの決してできないものだからです。
これにはおそらく、ほとんど一つの例外もありません。
どんな無邪気な美しい少女でも、その中にひそんでいる人間の真実の相を見たら、愛することなんかできなくなる。

幸福でありすぎるか、不幸でありすぎるときに、ともすると告白病がわれわれをとらえます。
そのときこそ辛抱が肝腎です。身上相談というやつは、誰しも笑って読むのですから。
「不道徳教育講座 告白するなかれ」より



78: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:00:32 ID:HiG
「外国のように夫婦そろってどこへでも出かけてたのしむ姿は、夫が妻をいたわる姿は、何と美しいことでしょう。それなのに日本では……」
「外国では、あの慣習に困り切っている。イギリスには、女人禁制のクラブが発達し、ブラジルには、女人禁制の島まであって、
 そこで男たちは女のお喋りをのがれて、のびのびと釣をしている。どこへでも夫婦同伴だから、女房も亭主も、
 たびたび相手の一寸(ちょっと)した精神的浮気まで目撃しなければならん。(中略)
 スペインや日本のような古風ゆかしき国で、女房を家にとじこめて、亭主ばかり外出するのは、まことに当を得た美風である。
 これがお互いに倦怠期防止策になるし、家へかえれば亭主も一層やさしくなる。人前では女房を叱るが、二人きりの時はいたわる。
 偽善というものが少しもない。大体、男女というものは、色事以外は、別種類の動物であって、興味の持ち方から何からちがうし、
 トコトンまでわかり合うというわけには行かないのであるから、どこへも男女同伴夫婦同伴などというのは、人間心理をわきまえぬ野蛮人の風習である」
………………。かくの如く、日本がいいという点を並べ立てれば、日本がわるいという点と、丁度同点になるに決まっています。
日本は日本であって、何ということはありません。ゲーテはドイツ人の悪口を言いつづけながら、国民的文豪になりました。
ただゲーテは、ちゃんと、「ドイツ人は悪い」とか「ドイツは悪い」とか、名ざしで堂々と非難しました。
よく日本の悪口を言うときのように、「どこかの国では」などと、女性的アテコスリの言辞なんか弄しませんでした。
ゲーテは全く偉かった。そこへ行くと日本人は。……(?)
「不道徳教育講座 日本及び日本人をほめるべし」より



79: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:01:06 ID:HiG
皿の外へ飛び出した少年のカツレツを、笑うことのできなかった老貴族たちは、不幸な人たちでした。
彼らは生まれつきのしつけと、エチケット的教養で、人間自然の心を抑えつけてしまったのです。
冬、凍った路上で見事にころぶ人だとか、風のひどい日に、自分の帽子をけんめいに追いかけてゆく人だとか、
そういう気の毒な人たちを笑う気持が、われわれの心を世界に結びつけます。
世界を結ぶ環は、人類愛なんぞではなくって、むしろ無邪気な嘲りの哄笑だと私は思います。
「不道徳教育講座 人の失敗を笑うべし」より



80: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:01:41 ID:HiG
戦時中の日本の女性で、アメリカの俘虜を見て、「お可哀想に!」と言ったので、問題を起した事件があったが、
私はこういう、嘲笑を欠いたセンチメンタルな同情と、好戦主義とは、紙一重だと思います。嘲ることができないので、人は戦うのです。
嘲られていちいち決闘していた西洋中世の武士たちは、やっぱり、野蛮人の一種であったと思われる。
ギリシアの喜劇、アリストファネスの「雲」では、ソクラテスがめちゃくちゃに劇画化されているが、ソクラテス自身も多分観衆の間にまじって、
自分の漫画が舞台の上に動いているのを、ゲラゲラ笑いながら見ていたらしい。ソクラテスは、自分の失敗を笑われるという快楽を知っていたらしいのです。
これは正(まさ)しく賢人の快楽で、このごろのインテリのように、無学と思われることを死ぬほど恥かしがる、みみっちい自尊心なんか持っていませんでした。
「不道徳教育講座 人の失敗を笑うべし」より



81: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:02:12 ID:HiG
事業者に失敗して、一億円の借金をこしらえてしまった人を、笑うことができるでしょうか。しかり、笑うことができるのである。
この世の中では、他人から見て、可笑しくないほど深刻なことは、あんまりないと考えてよろしい。
人の自殺だって、大笑いのタネになる。荷風先生(永井荷風)の三千万円かかえての野垂れ死だって、十分、他人にはユーモラスである。
そこまで考えたら、人に笑われるなどということは全く大したことじゃありません。だから我々は大いに他人の失敗を笑うべきなのであります。
「不道徳教育講座 人の失敗を笑うべし」より



82: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:02:51 ID:HiG
英語で一番好きな言葉は何かときかれたら、私は、それはフー・ノウズだと答えましょう。すなわち、Who knows? であります。
何でもない言葉だが、こいつはちょっと訳しにくい。直訳すれば、「誰が知ろう」ということになるが、それでは何の面白味もない。
この言葉の裏にはどうやら、「天知る。地知る。我知る」というニュアンスがあるのです。その上での「フー・ノウズ」なのであります。
たとえば子供が、両親の顔を見計らって、踏み台に乗って、茶ダンスの上のお菓子の箱の蓋をあけ、一つ失敬する。
あとはそしらぬ顔をして、内心呟くには、「フー・ノウズ」
これが正にこの言葉の味わいで、たった今台所からお魚を一枚失敬した猫が、沿岸の日向へ来て、何喰わぬ顔で、お化粧をしていたりする。
この何喰わぬ顔というやつが、「フー・ノウズ」なのであります。
亭主が会社の宴会といつわって、タイピストと温泉マークへしけ込み、適当な時刻に悠然と奥方のもとへ御帰館になり、
「全く男の附合の煩わしさには閉口だよ」などとのたまう。これがすなわち、「フー・ノウズ」であります。
「不道徳教育講座 フー・ノウズ」より



83: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:03:17 ID:HiG
人生には濃い薄い、多い少ない、ということはありません。誰にも一ぺんコッキリの人生しかないのです。
三千人と恋愛をした人が、一人と恋愛をした人に比べて、より多くについて知っているとはいえないのが、人生の面白味ですが、
同時に、小説家のほうが読者より人生をよく知っていて、人に道標を与えることができる、などというのも完全な迷信です。
小説家自身が人生にアップアップしているのであって、それから木片につかまって、一息ついている姿が、すなわち彼の小説を書いている姿です。
「不道徳教育講座 小説家を尊敬するなかれ」より



84: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:03:46 ID:HiG
どうも、日本人が見かけばかり国際的になつて、外人と平気で友だち附合をし、時には英語で喧嘩もし、
外人に対して卑屈にならず、日本人に対して傲慢にもならず、……という風に、
近ごろの若い人ほどそうなってゆきますが、それで立派な日本人ができつつあるかというと、そうもいえないのです。
卑屈な日本人のほうがずっと勉強家で、ずっと立派な業績を残したとあっては、私は「オー・イエス」でも何でもいいじゃないか、という気になります。
勉強して、立派な業績を残せば、外人がどう思ったって、相客の若造がどう思ったって、そんなことはとるに足らぬことではないでしょうか。
「不道徳教育講座 オー・イエス」より



85: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:04:23 ID:HiG
今のところまだ落ちるか落ちないかわからぬ水爆よりも、目の前のナメクジのほうが怖い!実はこれがわれわれの住む世界の本質的な姿なのです。
この法則からは英雄も凡人ものがれることができない。世界中の恐怖が論理的に説明のつく正当なものだけならば、
世界中の人の恐怖心は一致して、水爆も原爆も戦争も、立ちどころにこの世から一掃されることでしょう。
しかし歴史がそんな風に進んだことは一度もありません。人間にとって一等怖いのは「死」の筈であります。
でもあらゆる人が死の恐怖において一致したということはない。アパートの一室で死にかけた病人が死の恐怖にすべてを忘れているとき、
隣りの部屋では、健康な青年が油虫を怖がって暮しているのです。
「不道徳教育講座 自由と恐怖」より



86: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:04:52 ID:HiG
フランス語の単語を五千知っているのと、胸囲が一米十センチあるのと、どっちが立派なことかというと、甲乙がつけにくいというのが私の考えだが、
世間はもちろん単語五千のほうへ軍配をあげます。世間の女房というものもそうだ。
「うちの主人も今度課長になりまして」とか、「宅も自動車を買ったものですから」とか、くだらない自慢ばかりしている。
「主人の胸囲は一米十センチございますのよ」とか、「主人の上膊は三十八センチですのよ」とか自慢しているのをきいたことがない。
こういうことは、女性の大きなまちがいで、男性は女性の好むところに従って行動しようとするものですから、
胸囲を十センチふやす手間を惜しんで、課長になったり、自動車を買ったりすることばかりに熱中する。
その結果女性は、一人の完全な男を失うのです。男の肉体ははかないものである。
一文にもならないし、社会的に無価値で、誰にもかえりみられず、孤独で、
……せいぜいボディ・ビルのコンテストへ出て、人に面白がられるぐらいのことしかできない。
現代社会では、筋肉というものは哀れな、道化たるものにすぎない。だからこそ、私は筋肉に精を出しているのであります。
「不道徳教育講座 肉体のはかなさ」より



87: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:05:18 ID:HiG
人を待たせる立場の人は、勝利者であり成功者だが、必ずしも幸福な人間とはいえない。
駅の前の待ち人たちは、欠乏による幸福という人間の姿を、一等よくあらわしているといえましょう。
「不道徳教育講座 人を待たせるべし」より



88: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:05:52 ID:HiG
友人がプラスティックの入れ歯を五本も入れたと言って自慢して、やたらに歯をむき出してみせる。
「何がいいんだろう」「まるで白いタイルだね」「そのタイルに富士山の絵でも描いたらどうだ」などと、われわれは悪口を言います。
──それで思い出すのは、ニューヨークで会ったフランク・シナトラの従弟という青年が、怪我でグニャグニャになってしまった鼻梁を立て直すために、
ラス・ヴェガスへ行って整形手術をして、そこでプラスティックの鼻柱を入れてもらう、と自慢していたことです。
人間はどうしてこんなことを自慢するのでしょうか?
見場のよくなったことは確かでしょうが、プラスティックは死んだ物質で、もはやわれわれの生体の一部ではありません。
ところがよく考えてみると、われわれの自慢するものは、たいてい死んだ物質であって、本当の生体の一部ではない。
お金持が自分のもっているお金を自慢する。大邸宅を自慢する。一九六ニ年型の新車を自慢する。
もっとささやかなところでも、カフス・ボタンの自慢をする。スイス製の腕時計の自慢をする。
……これはみんな要するに、「死んだ物質」の自慢をしているのです。そしてそれらの「死んだ物質」が、それを持っている人間を、
持たない人間より立派に、見場がよく見せる点では、プラスティックの歯と同じことです。
「不道徳教育講座 プラスティックの歯」より



89: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:06:45 ID:HiG
人間は生まれたときから、あるかどうかわからぬ「私」というものを、ただ無限に、
周囲の「死んだ物質」の中へ放射してゆこうとする、ラジウムみたいな存在なのでしょう。
そして「私」というものが、だんだん減り、消え、衰えてゆくにつれて、彼はそれらの「私」の刻印を捺した「死んだ物質」のおかげで、
ますます偉大に立派に見えてゆくだけのことなのでしょう。
偉人英雄もプラスティックの歯にすぎないが、それでもそれは本当の歯を失くしたままの歯欠けの男より、ずっと立派に見えるのです。
「不道徳教育講座 プラスティックの歯」より



90: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:07:50 ID:HiG
現代は一方から他方を見ればみんなキチガイであり、他方から、一方を見ればみんなキチガイである。これが現代の特性だ。
アメリカからソ連を見ればみんなキチガイであり、ソ連からアメリカを見ればみんなキチガイである。
近ごろはもっとも、東西のキチガイ代表が仲よく会談して、お互いの病状を無邪気に交換するほど、時代が進歩してきましたが……。
「不道徳教育講座 痴呆症と赤シャツ」より



91: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:09:10 ID:HiG
形容詞は文章のうちで最も古びやすいものと言はれてゐます。
なぜなら、形容詞は作家の感覚や個性と最も密着してゐるからであります。(中略)
しかし形容詞は文学の華でもあり、青春でもありまして、豪華なはなやかな文体は形容詞を抜きにしては考へられません。
「文章読本」より



92: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:10:17 ID:HiG
右翼とは、思想ではなくて、純粋に心情の問題である。
「宴のあと」より



93: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:11:09 ID:HiG
偶然といふ言葉は、人間が自分の無知を湖塗しようとして、尤もらしく見せかけるために作つた言葉だよ。
偶然とは、人間どもの理解をこえた高い必然が、ふだんは厚いマントに身を隠してゐるのに、
ちらとその素肌の一部をのぞかせてしまつた現象なのだ。
人智が探り得た最高の必然性は、多分天体の運行だらうが、それよりさらに高度の、さらに精巧な必然は、
まだ人間の目には隠されてをり、わずかに迂遠な宗教的方法でそれを揣摩してゐるにすぎないのだ。
宗教家が神秘と呼び、科学者が偶然と呼ぶもの、そこにこそ真の必然が隠されてゐるのだが、
天はこれを人間どもに、いかにも取るに足らぬもののやうに見せかけるために、
悪戯つぽい、不まじめな方法でちらつかせるにすぎない。
「美しい星」より



95: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:12:16 ID:HiG
人間どもはまことに単純で浅見だから、まじめな哲学や緊急な現実問題やまともらしく見える現象には、
持ち前の虚栄心から喜んで飛びつくが、一見ばかばかしい事柄やノンセンスには、
それ相応の軽い顧慮を払ふにすぎない。
かうした人間はいつも天の必然にだまし討ちにされる運命にあるのだ。
なぜなら天の必然の白い美しい素足の跡は、一見ばからしい偶然事のはうに、あらはに印されてゐるのだから。
恋し合つてゐる者同士は、よく偶然に会ふ羽目になるものだ。それだけならふしぎもないが、
憎み合つてゐて、お互ひに避けたいと思つてゐる同士も、よく偶然に会ふ羽目になるものだ。
この二例を人間の論理で統一すると、愛憎いづれにしろ、関心を持つてゐる人間同士は否応なしに偶然に会ふといふことになる。
人間の論理はそれ以上は進まない。
「美しい星」より



96: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:12:56 ID:HiG
しかしわれわれ宇宙人の鳥瞰的な目は、もつと広大な展望を持つてゐる。
そこから見ると、関心を抱き合ひつつ偶然に会ふ人の数とは比べものにならぬほど、人間どもは、電車の中、
町中で、何ら関心を持ち合はない無数の他人とも、時々刻々、偶然に会つてゐるのだ。
おそらく一生に一度しか会はない人たちと、奇蹟的にも、日々、偶然に会つてゐるのだ。
ここまでひろげられた偶然は、もう大きな見えない必然と云ふほかはあるまい。
仏教徒だけがこの必然を洞察して、『一樹の蔭』とか『袖触れ合ふも他生の縁』とかの美しい隠喩でそれを表現した。
そこには人間の存在にかすかに余影をとどめてゐる『星の特質』がうかがはれ、天体の精妙な運行の、遠い反映が認められるのだ。
実はそこには、それよりもさらに高い必然の網目の影も落ちかかつてゐるのだが……。
「美しい星」より



97: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:13:32 ID:HiG
人間には三つの宿命的な病気といふか、宿命的な欠陥がある。
その一つは事物への関心(ゾルゲ)であり、もう一つは人間への関心であり、もう一つは神への関心である。
人類がこの三つの関心を捨てれば、あるひは滅亡を免れるかもしれないが、
私の見るところでは、この三つは不治の病なのです。
「美しい星」より



98: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:14:17 ID:HiG
いくら人間が群をなして集まつても、宇宙法則の中で『生命』といふものが例外的なものにすぎないといふ
無意識の孤独感は拭はれず、人間はとりわけ物に、無機物に執着します。
金貨と宝石とは人間の生命と生活に対する一等冷淡な対立物であるにもかかはらず、さういふ物質をとらへて、
人間的色彩をこれに加へ、人間的臭気をこれに与へることに人々は熱中して来ました。
そのうちに人間は物に馴れ親しみ、物の運動と秩序のなかに、人間の本質をみつけ出すやうにさへなつたのです。
そして有機物にすら、生きて動いてゐる猫にすら、人間の惹き起す事件にすら、
いや、人間そのものにすら、物の属性を与へなくては安心できぬやうになつた。
物の属性を即座に与へることが事物に完結性の外観をもたらし、
人間が恒久性の観念と故意をごつちやにしてゐる『幸福』の外観をもたらすからです。
「美しい星」より



99: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:15:01 ID:HiG
政治的スローガンとか、思想とか、さういふ痛くも痒くもないものには、人間は喜んで普遍性と共有性を認めます。
毒にも薬にもならない古くさい建築や美術品は、やすやすと人類共有の文化的遺産になります。
しかし苦痛がさうなつては困るのです。
大演説の最中に政治的指導者の奥歯が痛みだしたとき、数万の聴衆の奥歯が同時に痛みだしては困るのです。
「美しい星」より



100: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:15:40 ID:HiG
若さは礼儀正しく、しかも兇暴に撃ちかかつて来て、老年はこちらにゐて、微笑しながら、じつと自信を以て身を衛る。
青年の、暴力を伴はない礼儀正しさはいやらしい。
それは礼儀を伴はない暴力よりももつと悪い。
「剣」より



101: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:16:21 ID:HiG
相手の完璧さは完璧さの仮装であり、完璧さに化けてゐるのだ。
この世に完璧なものなんぞあらう筈はない。
「剣」より



102: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:16:51 ID:HiG
廉恥の心は持ちつづけてゐるべきだが、うじうじした羞恥心などはみな捨てる。
「……したい」などといふ心はみな捨てる。
その代りに、「……すべきだ」といふことを自分の基本原理にする。
さうだ、本当にさうすべきだ。
「剣」より



104: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:17:33 ID:HiG
少年のころ、一度、太陽と睨めつこをしようとしたことがある。
見るか見ぬかの一瞬のうちの変化だが、はじめそれは灼熱した赤い玉だつた。
それが渦巻きはじめた。ぴたりと静まつた。するとそれは蒼黒い、平べつたい、冷たい鉄の円盤になつた。
彼は太陽の本質を見たと思つた。……しばらくはいたるところに、太陽の白い残影を見た。
叢にも。木立のかげにも。目を移す青空のどの一隅にも。
それは正義だつた。眩しくてとても正視できないもの。
そして、目に一度宿つたのちは、そこかしこに見える光りの斑は、正義の残影だつた。
「剣」より



105: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:18:43 ID:HiG
人間が本当に学んで会得することといふのは、一生にたつた一つ、どんな小さいことでもいい。
たつた一つあればいいんだ。
「剣」より



106: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:19:16 ID:HiG
幸福なんて男の持つべき考へぢやない。
「剣」より



107: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:19:53 ID:HiG
若くてきれいな人たちは、黙つてゐるはうが私は好き。
どうせ口を出る言葉は平凡で、折角の若さも美しさも台なしにするやうな言葉に決つてゐるから。
あなたたちは着物を着てゐるのだつて余計なの。着物は醜くなつた体を人目に隠すためのものだから。
恋のためにひらいた唇と同じほど、恋のためにひらいた一つ一つの毛穴と、ほのかな産毛は美しい筈。
さうぢやなくて?
恥かしさに紅く染つた顔が美しいなら、嬉しい恥かしさで真赤になつた体のはうがもつときれいな筈。
「黒蜥蜴」より



108: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:20:27 ID:HiG
全然愛してゐないといふことが、情熱の純粋さの保証になる場合があるのだ。
「絹と明察」より



109: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:20:54 ID:HiG
若さが幸福を求めるなどといふのは衰退である。
若さはすべてを補ふから、どんな不自由も労苦も忍ぶことができ、
かりにも若さがおのれの安楽を求めるときは、若さ自体の価値をないがしろにしてゐるのである。
「絹と明察」より



110: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:21:32 ID:HiG
想像できないものを蔑む力は、世間一般にはびこつて、その吊床の上で人々はお昼寝をたのしみます。
そしていつしか真鍮の胸、真鍮のお乳房、真鍮のお腹を持つやうになるのです、磨き立ててぴかぴかに光った。
あなた方は薔薇を見れば美しいと仰言り、蛇を見れば気味がわるいと仰言る。
あなた方は御存知ないんです。
薔薇と蛇が親しい友達で、夜になればお互ひに姿を変へ、蛇が頬を赤らめ、薔薇が鱗を光らす世界を。 
「サド侯爵夫人」より



111: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:22:21 ID:HiG
はつきりいつてしまふと、学校とは、だれしも少し気のヘンになる思春期の精神病院なのです。(中略)
先生たちも何割か、学生時代のまま頭がヘンな人たちがそろつてゐて、かういふ先生は学生たちとよくウマが合ふ。

本当の卒業とは、「学校時代の私は頭がヘンだつたんだ」と気がつくことです。
学校をでて十年たつて、その間、テレビと週刊誌しか見たことがないのに、
「大学をでたから私はインテリだ」と、いまだに思つてゐる人は、いまだに頭がヘンなのであり、
したがつて彼または彼女にとつて、学校は一向に終つてゐないのだ、といふよりほかはありません。
「をはりの美学 学校のをはり」より



112: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:22:53 ID:HiG
私は「私の鼻は大きくて魅力的でしよ」などと頑張つてゐる女の子より、美の規格を外れた鼻に絶望して、
人生を呪つてゐる女の子のはうを愛します。
それが「生きてゐる」といふことだからです。だつて、死ねばガイコツに鼻の大小高低など問題ではなく、
ガイコツはみんな同じで、それこそ個性のをはりですからね。
「をはりの美学 個性のをはり」より



113: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:23:28 ID:HiG
今の日本の大威張りの根拠は、みんな西洋発明品のおかげである。
これはそもそも、大東亜戦争の航空機についてさへ言へることで、
あの戦争が日本刀だけで戦つたのなら威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦つたのである。
ただ一つ、真の日本的武器は、航空機を日本刀のやうに使つて斬死した特攻隊だけである。
そして今日の「日本は大したもんだ派」は、みんなこの上に立脚してゐるのである。
私がお茶漬ナショナリストといふのは、かれらのナショナリズムの根拠を追ひつめてゆくと、舌の上に感じる「ものの味」といふ、
どうにも否定できない、しかも主観的で説得力のない、さういふもののエモーションを一方に持ちながら、
一方では文明開化以来の迷妄に乗つかつてゐることだ。 
では、「日本はまだ貧しい」とか、「日本はどうして大したもんだ」とか言はないで、問題をそんな風に大きくしないで、
ただ、「お茶漬は実にうまいもんだ」とだけ言つたらどうだらうか?比較を一切やめたらどうだらうか?
「お茶漬ナショナリズム」より



114: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:24:01 ID:HiG
自然な日本人になることだけが、今の日本人にとつて唯一の途であり、その自然な日本人が、多少野蛮であつても少しも構はない。
これだけ精妙繊細な文化的伝統を確立した民族なら、多少野蛮なところがなければ、衰亡してしまふ。
子供にはどんどんチャンバラをやらせるべきだし、おちよぼ口のPTA精神や、青少年保護を名目にした家畜道徳に乗ぜられてはならない。
ところで、私はこの元旦、わが家の一等高いところから、家々を眺めて、日の丸を掲げる家が少ないことに一驚を喫した。
こんな美しい国旗はめづらしいと思ふが、グッド・デザインばやりの現在、むづかしいことは言はずに、
せめてグッド・デザインなるが故に、門毎に国旗をかかげることがどうしてできないのか?
「お茶漬ナショナリズム」より



115: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:24:35 ID:HiG
去秋の旅で、私は二度鮮明な日の丸の思ひ出を持つた。
一つは私の泊つてゐたニューヨークのウォルドルフ・アストリア・ホテルに、たまたまオリエント研究関係の 
国際会議か何かで、
三笠宮殿下が御来泊になり、正面玄関に大きな日の丸の旗が掲げられ、パーク・アヴェニューにひるがへつた。
これは実に晴れがましい印象だつた。
自分も一日本人、一同宿者として、その巨大な日の丸の旗の、一センチ角ぐらゐを受持つてゐる感じがして、心がひろがるのであつた。
もう一つは、他にも書いたが、ハムブルグの港見物をしてゐたとき、入港してきた巨大な貨物船の船尾に、へんぽんとひるがへつてゐた日の丸である。
私は感激おくあたはず、その場にゐたただ一人の日本人として、胸のハンカチをひろげて、ふりまはした。
「お茶漬ナショナリズム」より



116: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:25:10 ID:HiG
かういふことを、私は別に自慢たらしく言ふのではない。私にとつては、ごく自然な、理屈の要らない、日本人の感情として、
外地にひるがへる日の丸に感激したわけだが、旗なんてものは、もともとロマンティックな心情を鼓吹するやうにできてゐて、
あれが一枚板なら風情がないが、ちぎれんばかりに風にはためくから、胸を搏つのである。
ところが、こんな話をすると、みんなニヤリとして、なかには私をあはれむやうな目付をする奴がゐる。
厄介なことに日本のインテリは、一切単純な心情を人に見せてはならぬことになつてゐる。(中略)
自分の国の国旗に感動する性質は、どこの国の人間だつてもつてゐる筈の心情である…(中略)
私の言ひたいことは、口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬の味とは縁の切れない、
さういふ中途半端な日本人はもう沢山だといふことであり、日本の未来の若者にのぞむことは、
ハンバーガーをパクつきながら、日本のユニークな精神的価値を、おのれの誇りとしてくれることである。
「お茶漬ナショナリズム」より



117: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:25:46 ID:HiG
僕たちのことばが、外国語に翻訳される場合に、人情は通じると思うのですよ。
人情は通じると思いますが、ことばは通じない。(中略)
たとえばある橋を渡ったという場合に、その橋という観念のなかに、どういう橋がイメージとして浮かんでくるか。
そのイメージだけは、どんなことをしても伝えられない。文学はそれでいいのではありませんか。
ゲーテの小説を日本語で読んで、橋(ブリユツケ)ということばが出てくるとき、
その橋がドイツのどこの橋がゲーテの頭のなかにあったか、そんなことがわれわれにわかるわけがないですよね。 
林房雄との対談「対話・日本人論」より



118: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:26:24 ID:HiG
一度、僕は新聞に原爆のことを書いたことがある。
そして、ナセルが「落とすなら原爆を落としてもいいよ」とか、
中共が「水爆を落としてもいいよ、われわれは人口七億だから、半分なくなってもあと戦える」と言った、
ああいうのはもっとも危険な思想だろうと、そういうことを書いたら、
没になったことがあるのです、だいぶ前に。
林房雄との対談「対話・日本人論」より



119: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:29:53 ID:HiG
純粋とは、花のやうな観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の胸にすがりつくやうな観念を、
ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。
「花と散る」といふときに、血みどろの屍体はたちまち匂ひやかな桜の花に化した。
純粋とは、正反対の観念のほしいままな転換だつた。だから、純粋は詩なのである。
「奔馬」より



120: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:30:38 ID:HiG
壁には西洋の戦場をあらはした巨大なゴブラン織がかかつてゐた。
馬上の騎士のさし出した槍の穂が、のけぞつた徒士の胸を貫いてゐる。
その胸に咲いてゐる血潮は、古びて、褪色して、小豆いろがかつてゐる。
古い風呂敷なんぞによく見る色である。
血も花も、枯れやすく変質しやすい点でよく似てゐる、と勲は思つた。
だからこそ、血と花は名誉へ転身することによつて生き延び、あらゆる名誉は金属なのである。
「奔馬」より



121: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:31:12 ID:HiG
忠義とは、私には、自分の手が火傷をするほど熱い飯を握つて、ただ陛下に差し上げたい一心で握り飯を作つて、御前に捧げることだと思ひます。
その結果、もし陛下が御空腹でなく、すげなくお返しになつたり、
あるひは、「こんな不味いものを喰へるか」と仰言つて、こちらの顔へ握り飯をぶつけられるやうなことがあつた場合も、
顔に飯粒をつけたまま退下して、ありがたくただちに腹を切らねばなりません。
又もし、陛下が御空腹であつて、よろこんでその握り飯を召し上つても、直ちに退つて、ありがたく腹を切らねばなりません。
何故なら、草莽の手を以て直に握つた飯を、大御食として奉つた罪は万死に値ひするからです。
では、握り飯を作つて献上せずに、そのまま自分の手もとに置いたらどうなりませうか。
飯はやがて腐るに決まつてゐます。
これも忠義ではありませうが、私はこれを勇なき忠義と呼びます。
勇気ある忠義とは、死をかへりみず、その一心に作つた握り飯を献上することであります。
「奔馬」より



122: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:31:46 ID:HiG
法律とは、人生を一瞬の詩に変へてしまはうとする欲求を、不断に妨げてゐる何ものかの集積だ。
血しぶきを以て描く一行の詩と、人生とを引き換へにすることを、万人にゆるすのはたしかに穏当ではない。
しかし内に雄心を持たぬ大多数の人は、そんな欲求を少しも知らないで人生を送るのだ。
だとすれば、法律とは、本来ごく少数者のためのものなのだ。
ごく少数の異常な純粋、この世の規矩を外れた熱誠、……それを泥棒や痴情の犯罪と全く同じ同等の《悪》へおとしめようとする機構なのだ。
「奔馬」より



123: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:32:15 ID:HiG
忠告は無料である。
われわれは人に百円の金を貸すのも惜しむかはりに、無料の忠告なら湯水のごとくそそいで惜しまない。
しかも忠告が社会生活の潤滑油となることはめつたになく、人の面目をつぶし、
人の気力を阻喪させ、恨みをかふことに終はるのが十中八、九である。
「葉隠入門」より



124: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:32:41 ID:HiG
もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじないわけにいくだらうか。
いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。
「葉隠入門」より



125: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:33:16 ID:HiG
私はテレヴィジョンでごく若い人たちと話した際、非武装平和を主張するその一人が、
日本は非武装平和に徹して、侵入する外敵に対しては一切抵抗せずに皆殺しにされてもよく、
それによつて世界史に平和憲法の理想が生かされればよいと主張するのをきいて、
これがそのまま、戦時中の一億玉砕思想に直結することに興味を抱いた。
一億玉砕思想は、目に見えぬ文化、国の魂、その精神的価値を守るためなら、保持者自身が全滅し、
又、目に見える文化のすべてが破壊されてもよい、といふ思想である。
戦時中の現象は、あたかも陰画と陽画のやうに、戦後思想へ伝承されてゐる。
このやうな逆文化主義は、前にも言つたやうに、戦後の文化主義と表裏一体であり、
文化といふもののパラドックスを交互に証明してゐるのである。
「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より



126: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:33:51 ID:HiG
もう貧血症の、屁理屈屋の教授連は一切要らん。銃一つ持てないほど非力だから、
我身可愛さにヒステリックな平和主義の叫びをあげる、きんたまを置き忘れたインテリは一切要らん。
少年に向つて亡国の教へを垂れ、祖国の歴史を否定し歪曲する非国民教師どもは一切要らん。
「わが友ヒットラー」より



127: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:34:32 ID:HiG
左翼のいふ、日本における朝鮮人問題、少数民族問題は欺瞞である。
なぜなら、われわれはいま、朝鮮の政治状況の変化によつて、多くの韓国人をかかへてゐるが、
彼らが問題にするのはこの韓国人ではなく、日本人が必ずしも歓迎しないにもかかはらず、日本に北朝鮮大学校をつくり、
都知事の認可を得て、反日教育をほどこすやうな北朝鮮人の問題を、無理矢理少数民族の問題として規定するのである。
彼らはすでに、人間性の疎外と、民族的疎外の問題を、フィクションの上に置かざるを得なくなつてゐる。
そして彼らは、日本で一つでも疎外集団を見つけると、それに襲いかかつて、それを革命に利用しようとするほか考えない。
たとえば原爆患者の例を見るとよくわかる。原爆患者は確かに不幸な、気の毒な人たちであるが、
この気の毒な、不幸な人たちに襲ひかかり、たちまち原爆反対の政治運動を展開して、
彼らの疎外された人間としての悲しみにも、その真の問題にも、一顧も顧慮することなく、
たちまち自分たちの権力闘争の場面へ連れていつてしまふ。
「反革命宣言」より



128: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:35:10 ID:HiG
私は、横笛の音楽が、何一つ発展せずに流れるのを知つた。何ら発展しないこと、これが重要だ。
音楽が真に生の持続に忠実であるならば、(笛がこれほど人間の息に忠実であるやうに!)
決して発展しないといふこと以上に純粋なことがあるだらうか。
「蘭陵王」より



129: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:35:43 ID:HiG
人間の美しさ、肉体的にも精神的にも、およそ美に属するものは、無知と迷蒙からしか生れないね。
知つてゐてなほ美しいなどといふことは許されない。
「天人五衰」より



130: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:36:11 ID:HiG
日本で「育ちがいい」といふことは、つまり西洋風な生活を体で知つてゐるといふことだけのことなんだからね。
純然たる日本人といふのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。
これからの日本では、そのどちらも少なくなるだらう。
日本といふ純粋な毒は薄まつて、世界中のどこの国の人の口にも合ふ嗜好品になつたのだ。
「天人五衰」より



131: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:36:42 ID:HiG
スポーツマンだといふと、莫迦だと人に思はれる利得がある。
「天人五衰」より



132: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:37:20 ID:HiG
何かを拒絶することは又、その拒絶のはうへ向つて自分がいくらか譲歩することでもある。
譲歩が自尊心にほんのりとした淋しさを齎(もた)らすのは当然だらう。
「天人五衰」より



133: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:37:47 ID:HiG
この世に一つ幸福があれば必ずそれに対応する不幸が一つある筈だ。
「天人五衰」より



134: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:38:16 ID:HiG
この世には幸福の特権がないやうに、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もゐません。
あなたの確信と夢の根拠は全部不合理なんです。
もしこの世に生れつき別格で、特別に美しかつたり、特別に悪(わる)だつたり、
さういふことがあれば、自然が見のがしにしておきません。
「天人五衰」より



135: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:38:43 ID:HiG
老いは正(まさ)しく精神と肉体の双方の病気だつたが、老い自体が不治の病だといふことは、
人間存在自体が不治の病だといふに等しく、しかもそれは何ら存在論的な病ではなくて、
われわれの肉体そのものが病であり、潜在的な死なのであつた。
衰へることが病であれば、衰へることの根本原因である肉体こそ病だつた。
肉体の本質は滅びに在り、肉体が時間の中に置かれてゐることは、衰亡の証明、滅びの証明に使はれてゐるこに他ならなかつた。
「天人五衰」より



136: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:39:19 ID:HiG
われわれは心の死にやすい時代に生きてゐる。しかも平均年齢は年々延びていき、ともすると日本には、
平八郎とは反対に、「心の死するを恐れず、ただただ身の死するを恐れる」といふ人が無数にふえていくことが想像される。
肉体の延命は精神の延命と同一に論じられないのである。
われわれの戦後民主主義が立脚してゐる人命尊重のヒューマニズムは、ひたすら肉体の安全無事を主張して、魂や精神の生死を問はないのである。
社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全を保障しはしない。心の死ぬことを恐れず、
肉体の死ぬことばかり恐れてゐる人で日本中が占められてゐるならば、無事安泰であり平和である。
しかし、そこに肉体の生死をものともせず、ただ心の死んでいくことを恐れる人があるからこそ、
この社会には緊張が生じ、革新の意欲が底流することになるのである。
「革命哲学としての陽明学」より



137: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:39:51 ID:HiG
何故日本人はムダを承知の政治行動をやるのであるか。
しかし、もし真にニヒリズムを経過した行動ならば、その行動の効果がムダであつてももはや驚くに足りない。
陽明学的な行動原理が日本人の心の中に潜む限り、これから先も、
西欧人にはまつたくうかがひ知られぬやうな不思議な政治的事象が、日本に次々と起ることは予言してもよい。
「革命哲学としての陽明学」より



138: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:41:55 ID:HiG
私は自分の顔をさう好きではない。しかし大きらひだと云つては嘘になる。
自分の顔を大きらひだといふ奴は、よほど己惚れのつよい奴だ。
自分の顔と折合いをつけながら、だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。
六十か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう。
「私の顔」より



139: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:42:52 ID:HiG
不安は奇体に人の顔つきを若々しくする。
「毒薬の社会的効用について」より



140: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:46:10 ID:HiG
剣道は礼に始まり礼に終ると言はれてゐるが、礼をしたあとでやることは、相手の頭をぶつたたくことである。
男の世界をこれは良く象徴してゐる。戦闘のためには作法がなければならず、作法は実は戦闘の前提である。

男の作法は、ただ相手に従ひ、相手の意のままになることが目的ではない。
しかし、作法こそどうしてもくぐらなければならない第一前提であるにもかかはらず、現代に於ては人間の正直な、
むき出しの姿がそのまま相手の心に通用するといふ不思議な迷信がはびこつてゐる。
アメリカ流のフランクネスが、どのやうなビジネス上の罠を隠してゐるとも知らず、
アメリカ人のいきなり肩をたたくやり方、につこりと美しくほほゑみかけるやり方にだまされて、
ついこちらもフランクになりすぎて、思はぬ仕事の上の損失をかうむつた例は枚挙にいとまがない。
「若きサムラヒのための精神講話」より



141: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:47:03 ID:HiG
外国人の目には、すべて民族的な服装は美しい。しかし美しいのと、便利とは別である。
日本人は、わりに便利といふことに弱い国民である。
服装は強ひられるところに喜びがあるのである。強制されるところに美があるのである。
「若きサムラヒのための精神講話」より



142: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:47:32 ID:HiG
社会全体のテンポが、早く走れる人間におそく走ることを要求し、おそく走る人間に早く走ることを要求してゐるのである。
これが現代日本の社会のひづみの、おそらく根本原因である。
「若きサムラヒのための精神講話」より



143: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:48:01 ID:HiG
ゲエテがかつて「東洋に憧れるとはいかに西欧的なことであらう」と申しましたが、
これを逆に申しますと「西欧に憧れるとはいかに東洋的なことであらう」ともいへるのです。
「日本文壇の現状と西洋文学との関係──ミシガン大学における講演」より



144: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:48:31 ID:HiG
他への関心、他の文化、他の芸術への関心を含めて、他者への関心ほど人間を永久に若々しくさせるものはありません。
「日本文壇の現状と西洋文学との関係──ミシガン大学における講演」より



145: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:49:11 ID:HiG
子供はよもや鯉幟(こひのぼり)を、形やデザインの面白さといふふうには見まい。
小学校では五月の図画の時間に、よく鯉幟の絵を描かされるが、子供の描く鯉幟はいづれも概念的で、
青葉若葉に埋もれた家々の屋根高く、緋鯉と真鯉が、地面と平行に景気よく風をはらんでゐる姿である。
風がなくて、ダランとした鯉幟を描く子は、よほどの問題児であると考へてよいが、
どの子も、実際は、風がなくて垂れた鯉幟を見てゐるのに、絵に描くとさうは描かない。
ある意味では、垂れた鯉はリアリズムなのであるが、子供は、物事を典型的な、あるべき姿でしかとらへようとしないのである。
それに、垂れた鯉は本当の魚ではなくて、ただの布のオモチャだといふことを、あからさまに証明してゐる。
しかし風をはらんだ鯉は、ウソと本当、象徴と現実とを兼ねて、遊泳してゐるのである。
大胆で誇張された鯉幟のデザインは、遠目で見られることを計算してゐる点で、あくまで機能的である。
歌舞伎の小道具に見られるやうな、強い、なまなましい、野蛮な配色が、鯉の活力を表現してゐる。
「こひのぼり」より



146: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:49:50 ID:HiG
殊に真鯉は、五月の青空を背景にして、その黒い鱗の土俗的な新鮮さが、官能的でさへある。
日本の五月の空がこんなに明るく、日本の五月の風がこんなに光りに充ちてゐなかつたら、
もちろんこんな配色やデザインは生れなかつたであらう。(中略)
インドには、ヒンズー教の一つのあらはれとして、サクティ(エネルギーの意)崇拝といふのがあつて、
エネルギーは本来女性に属するものと考へられ、その神像は大地母神カリやドゥルガである。
日本の鯉幟に象徴されてゐるエネルギーはあくまで男性の活力であつて、武士階級の思想をあはらしてゐる。
農耕民族の神話時代の日本人は、天照大神をすべてのエネルギーの源泉と考へたのであるが、武士社会の男性中心主義が、
男性的活力を、ほがらかな明るい五月の空に、尚武の象徴としてひるがへしたのは当然である。
今のやうな女性の強力な時代には、そして日本男児がこれほど衰微した時代には、鯉幟なんか廃棄されてもよささうなものであるが、
これに代る女性的活力の象徴としては、まさか、パンティーをひるがへすわけには行くまい。
「こひのぼり」より



147: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:50:25 ID:HiG
人間の肉体はそれが酷使されるときに実にさはやかな喜びをもたらすといふフシギな感じを持つてゐます。
それと同時に精神が生き生きしてまゐります。深刻にものを考へがちな人はとにかく戸外に出て駈けずりまはらなければいけません。
しかし、駈けずりまはつて、スポーツばかりやつて、まつたく精神を使はなくなつてしまふのもまた奇形であります。
「青春の倦怠」より



148: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:50:58 ID:HiG
男性の突出物は、実に滑稽な存在であるが、それをかうまで滑稽にしたのはあまりに隠蔽する習慣がつきすぎたためであらう。
「私の見た日本の小社会 全裸の世界」より



149: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:51:39 ID:HiG
日本人には、無意識のうちに、俳句的な感情類型といふものは潜んでゐる。
五七五でものを考へ、事物を把握し、ふとした嘱目の風景を、いつのまにか五七五の形に要約して見てゐるといふことはありうる。
小さなもの、たとへば蝶、蚊、こでまりの花、水引草、……そんなものを見た時ほど、さうである。
われわれの目には昔ながらに、美的な、顕微鏡がついてゐる。(中略)
私はもう俳句を作ることもできず、その才能もないくせに、
日本の季節々々が、かういふ小さな美的理論で、モザイクのやうにぎつしり詰まつてゐることを感じると、
いつのまにか、その理論にきつちりとはまつてゐる自分を痛感することがある。
長い冗々しい長編小説なんか書いて、自分が巨人国の仲間入りをしたやうな気になつてゐて、
ふと気がつくと、それは夢で、もともと親指サムぐらゐな背丈しかなかつたことに気のつくやうなものである。
実際北米ニュー・メキシコ州の、西部劇によく出てくる峨々たる岩山ばかりの、乾燥した空々漠々たる風景などに触れたとき、
私は自分の目のレンズがどうしても合はないのを感じた。
「蝶の理論」より



150: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:52:32 ID:HiG
やつぱり僕は日本の女の人、好きだよ。だつて、いざとなりや、親切だもの。
ほんと、親切ですよ。ずいぶん意地悪なこと言つても、結局、親切だもの。
外国の女性はね、友達になつても、日本人みたいに人情が通じないしね、第一、ソバカスが出てて気味が悪いもの。
それにみんな巨きい女つて嫌ひなんだ。(中略)
僕の女の友達、いつぱいゐるけどね、みんな口が達者で、お互に悪口ばつかり言つてて、僕なんかボロクソにやられてゐる。
三文文士扱ひでね、まづ着てるものを全部ケナすんですよ。「趣味の悪いセーターを着てる」とか、
「その頭の格好は何さ」とか「クツシタがなつちやゐない」とかね。
さうして「一緒に歩くの恥づかしい」なんて、サンザン言ふんだ。
だけど、その口の悪い友達がね、この間、僕のおふくろが病気で入院したら、
三島さんがさぞ困つてゐるだらう、ショックを受けただらうと思つて泣いたつていふんだな。
あとでその話を聞いてね、僕はちよつとホロリとするんですよ。
僕はヘンな性質があつてね、けんくわ相手みたいなのが好きなんだ。
けんくわ相手で時どき親切つていふのが好きなんです。
「僕の理想の女性」より



151: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:53:10 ID:HiG
他人に場ちがひの感を起させるほどたのしげな、内輪のたのしみといふのはいいものだ。
たとへば、祭りのミコシをかついだあとで、かついだ連中だけで集まつてのむ酒のやうなものだ。
われわれに本当に興味のある話題といふものは他人にとつてはまるで興味のないことが多い。
他人に通じない話ほど、心をあたたかく、席をなごやかにするものはない。
「内輪のたのしみ」より



152: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:53:37 ID:HiG
足るを知る人間なんか誰一人ゐないのが社会で、それでこそ社会は生成発展するのである。
実際、空虚な目標であれ、目標をめざして努力する過程にしか人間の幸福が存在しないとすれば、よほどぐうたらな息子でない限り、
学校の勉強や入試を通じて、苛酷な生存競争に立ちまじつてゆくことを選ぶにちがひない。
「小説家の息子」より



154: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:54:48 ID:HiG
日本人はほとんど英語を話さない。
と云ふとアメリカ人の旅行者はおどろくだらうが、ホテル業者やガイドや 
貿易商社関係や、
つまり英会話の能力で利益を得る人たちが英語の巧いのは当り前である。
だから、本当の日本人、外人と附合はなくてもやつて行ける日本人は、ほとんど英語を話さない、と云つたはうが正確だらう。
そしてかういふ本当の日本人は、外人風に肩をすくめたり、身ぶり手ぶりを使つたり決してしない。
英語で話しかけられると、「わからない」といふしるしに、例の有名な「不可解な微笑」をうかべるだけである。
この微笑が、西洋人には、実に気味のわるい、謎に充ちたものにみえることは定評がある。
しかしわれわれにとつては単純な問題である。悲しいから微笑する。困惑するから微笑する。腹が立つから微笑する。
つまり、「悲しみ」と「困惑」と「怒り」は本来別々の感情だが、それをXならXといふ同じ符号で表現するわけだ。
このX符号を示された相手は、すぐ次のやうに察しなければならない。
「アメリカ人の日本神話」より



155: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:55:51 ID:HiG
「ははア、これはきつと何か、隠しておきたい感情があるんだな。そんなら触れずにそつとしておかう」
つまり微笑は、ノー・コメントであり、「判断停止」「分析停止」の要請である。
こんなことは社会生活では当たり前のことで、日本のやうに個人主義の発達しない社会では、微笑が個人の自由を守つてきたのである。
しかもそれは礼儀正しさの要請にも叶つてゐる。
ところが外国人はさうは行かない。殊にアメリカ人となると、絶対に我慢できない。一体このX符号は何だらう。
彼は頭を悩まし、分析し、判断し、質問する。そしてあげくのはてに、相手が怒つてゐるのだと知ると、茫然としてしまふ。
「そんならはじめから、微笑したりせずに、怒ればいいぢやないか」しかしそれは礼儀に外れた方法である。
「アメリカ人の日本神話」より



157: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:56:34 ID:HiG
日本の伝統は大てい木と紙で出来てゐて、火をつければ燃えてしまふし、放置(はふ)つておけば腐つてしまふ。
伊勢の大神宮が二十年毎に造り替へられる制度は、すでに千年以上の歴史を持ち、この間五十九回の遷宮が行はれたが、
これが日本人の伝統といふものの考へ方をよくあらはしてゐる。
西洋ではオリジナルとコピイとの間には決定的な差があるが、木造建築の日本では、
正確なコピイはオリジナルと同価値を生じ、つまり次のオリジナルになるのである。
京都の有名な大寺院も大てい何度か火災に会つて再建されたものである。
かくて伝統とは季節の交代みたいなもので、今年の春は去年の春とおなじであり、去年の秋は今年の秋とおなじである。
だから一般的に云つて、日本人くらゐ、伝統を惜しげなく捨て去つて、さつさと始末してしまふ国民もゐない。
伝統の重圧といふものは、日常生活には少しも感じられず、東洋風な敬老思想もなくなつて、
今日では、日本の老人は、若者の御機嫌をとるのに汲々としてゐる。
「アメリカ人の日本神話」より



159: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:57:18 ID:HiG
今年はいよいよオリンピックの年ですが、今から私がおそれてゐるのは、外人に向つての「日本趣味」の押売りが、どこまでひどくなるか、といふことです。
振袖姿の美しいお嬢さんが、シャナリシャナリ、花束を抱へて飛行機へ迎へに出ること自体は、
私はあへて非難しませんが、一例が次のやうな例はどうでせうか?
日本の服飾美学の伝統はすばらしいもので、江戸の小袖の大胆なデザイン、
配色など、今のわれわれから見ても、超モダンに感じられます。
日本人の色彩感覚はすばらしく、それ自体で、みごとな色の配合のセンスを完成してゐます。
この感覚の高さは、決してフランス人にも劣るものではありません。
しかし一方、先年、フランスからコメディー・フランセエズの一行が来たとき、舞台衣裳の配色の趣味のよさ、調和のよさ、(中略)
カーテン・コールで、登場人物一同が手をつないで舞台にあらはれたときは、その美しさに息を呑むくらゐでした。
しかし、突然、日本のお嬢さん方の花束贈呈がはじまり、色彩の城はとたんに、見るもむざんなほど崩壊しました。
「『日本的な』お正月」より



160: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:57:50 ID:HiG
色とりどりの振袖姿、色とりどりの花、わけても花束につけた俗悪な赤いリボンの色、
……これで、今まで保たれてゐた寒色系統の色の調和は、一瞬のうちにめちやくちやにされ、劇の感興まで消え失せてしまひました。
かういふのを「日本的」歓迎と思ひ込んでゐる無神経さ、私はこれをオリンピックに当つてもおそれます。
本当に「日本的な」心とは、フランスの衣裳美にすなほに感嘆し、
この感嘆を純粋に保つために、かりにも舞台上へほかの色彩などを一片でも持ち込まない心づかひを示すことなのです。
そこにこそ「日本的な」すぐれた色彩感覚が証明されるのです。右のやうな仕打は、決して「日本的」なのではありません。
「日本的なもの」についていろいろと心を向ける機会の多いお正月に、今年こそ、ぜひ、本当の「日本的なもの」を発見していただきたいと思ひます。
「『日本的な』お正月」より



161: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)20:59:41 ID:HiG
私は決して平和主義を偽善だとは言はないが、日本の平和憲法が左右双方からの政治的口実に使はれた結果、
日本ほど、平和主義が偽善の代名詞になつた国はないと信じてゐる。
この国でもつとも危険のない、人に尊敬される生き方は、やや左翼で、平和主義者で、暴力否定論者であることであつた。(中略)
知識人たち、サロン・ソシアリストたちの社会的影響力は、ばかばかしい形にひろがつた。
母親たちは子供に兵器の玩具を与へるなと叫び、小学校では、列を作つて番号をかけるのは軍国主義的だといふので、
子供たちはぶらぶらと国会議員のやうに集合するのだつた。
「『楯の会』のこと」より



162: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:02:31 ID:HiG
格の正しい、しかも自由な踊りを見るたびに、私は踊りといふもののふしぎな性質に思ひ及ぶ。
無音舞踊といふのもないではないが、踊りはたいがい、音楽と振り付けに制約されてでき上がつてゐる。
いかに自由に見える踊りであつても、その一こま一こまは、厳重に音楽の時間的なワクと振り付けの空間的なワクに従つてゐる。
その点では、自由に生きて動いて喋つてゐるやうに見える人物が、実はすべて台本と演出の指定に従つてゐる他の舞台芸術と同じことだが、
踊りのその音楽への従属はことさら厳格であり、また踊りにおける肉体の動きの自由と流露感は、ことさら本質的なのである。
よい踊りの与へる感銘は、観客席にすわつて、黙つて、口をあけて、
感嘆してながめてゐるだけのわれわれの肉体も、本来こんなものではなかつたかと感じさせるところにある。
「踊り」より



163: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:03:07 ID:HiG
踊り手が瞬間々々に見せる、人間の肉体の形と動きの美しさ、その自由も、
すべての人間が本来持つてゐて失つてしまつたものではないかと思はせるとき、その踊りは成功してをり、
生命の源流への郷愁と、人間存在のありのままの姿への憧憬を、観客に与へてゐるのである。
なぜ、われわれの肉体の動きや形は、踊り手に比べて、美、自由、柔軟性、感情表現、いやすべての自己表現の
能力を失つてしまつたのであらうか。
なぜ、われわれは、踊り手のあらはす美と速度に比べて、かうも醜く、のろいのであらうか。
これは多分、といふよりも明らかに、われわれの信奉する自由意思といふもののためなのである。
自由意思が、われわれの肉体の本来持つてゐた律動を破壊し、その律動を忘却させたのだ。
それといふのも、踊り手は音楽と振り付けの指示に従つて、右へ左へ向く。
しかしわれわれは自由意思に従つて、右へ向き左へ向く。結果からいへば同じことだが、
意思と目的意識の介入が、その瞬間に肉体の本源的な律動を破壊し、われわれの動きをぎくしやくとしたものにしてしまふ。
「踊り」より



164: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:03:36 ID:HiG
のみならず、何らかの制約のないところでは、無意識の力をいきいきとさせることができないのは、人間の宿命であつて、
自由意思の無制約は、人間を意識でみたして、皮肉にも、その存在自体の自由を奪つてしまふのだ。
踊りは人間の歴史のはじめから存在し、かういふ肉体と精神の機微をよくわきまへた芸術であつた。
武道ももともとは、戦ひの技術を会得するために、まづ肉体に厳重な制約を課して、
無意識の力をいきいきとさせ、訓練のたえざる反復によつて、その制約による技術を無意識の領域へしみわたらせ、
いざといふ場合に、無意識の力を自由に最高度に働かせるといふ方法論を持つてゐるが、
踊りに比べれば、その目的意識が、純粋な生命のよろこびを妨げてゐる。
「踊り」より



165: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:04:05 ID:HiG
踊りはよろこびなのである。悲しみの表現であつても、その表現自体がよろこびなのである。
踊りは人間の肉体に音楽のきびしい制約を課し、その自由意思をまつ殺して、人間を本来の「存在の律動」へ引き戻すものだといへるだらう。
ふしぎなことに、人間の肉体は、時間をこまごまと規則正しく細分し、それに音だけによる別様の法則と秩序を課した、
この音楽といふ反自然的な発明の力にたよるときだけ、いきいきと自由になる。
といふことは、音楽の法則性自体が、一見反自然的にみえながら、実は宇宙や物質の法則性と遠く相呼応してゐるかららしい。
そこに成り立つコレスポンデンス(照応)が、おそらく踊りの本質であつて、われわれはかういふコレスポンデンスの内部に肉体を置くときのほかは、
本当の意味で自由でもなく、また、本当の生命のよろこびも知らないのだ、としかいひやうがない。
「踊り」より



166: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:04:34 ID:HiG
…ずいぶん話が飛んだやうだが、実は私は、新年といふ習慣も、この踊りの一種であるべきであり、
新春のよろこびも、この踊りのよろこびであるべきだといひたかつたのである。
新しい年の抱負などと考へだした途端に、われわれの自由意思は暗い不安な翼をひろげ、未来を恐怖の影でみたしてしまふ。
未来のことなどは考へずに踊らねばならぬ。たとへそれが噴火山上の踊りであらうと、踊り抜かねばならぬ。
いま踊らなければ、踊りはたちまちわれわれの手から抜け出し、
われわれは永久によろこびを知る機会を失つてしまふかもしれないのである。
「踊り」より



167: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:05:09 ID:HiG
新聞の持つてゐる社会的正義感といふものには、ときどき反撥を感じることがある。
だれでもみづから美徳の代表者を買つて出れば、サンザンな目に会ふのが当節で、
新聞だけが、何の傷も負はずに社会的正義の代表者たりうるはずがないからである。
また、いろいろと虚偽の多い時代に、新聞が、子供も読むものだといふので、
ともすると家庭ダンラン趣味、事なかれの小市民趣味に美的倫理的基準を置くのも困る。
みにくいものは、みにくいままに報道してほしい。
戦争中の大本営発表以来、新聞は一たん信用をなくしたが、こんどあんなことがあるときは、
新聞はこんどこそ、最後までグヮンばつて抵抗するだらうといふことを我々は期待してゐる。
この期待を裏切らないでほしい。
某紙の新聞批判に「新聞を愛すればこそ批判するのだ」と言訳がついてゐたが、いやしくも批評をするのに、
こんな言訳を要するやうな空気がもしあるならば、それを払拭されんことをのぞむ。
「ありのままの報道を──私の新聞評」より



168: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:05:37 ID:HiG
このごろは、デモ見物に歩くことが多くなつた。
デモの当事者からすれば、弥次馬は唾棄すべき存在だらうが、かういふときには、一人ぐらゐ「見る人間」も必要である。
鴨長明が洛中の屍体の数まで、自分手で数へあげてゐる態度は、学ぶべきだと思ふ。
新聞を見てもテレビを見ても、どうしても報道そのものに主観的態度が入つてゐるやうに思はれる。
写真や映画は正に実物そのものの筈だが、必ず主観的なアナウンスが入つてゐて、印象を混濁させる。
かうなつてくると、いはゆるマス・コミは却つて不便で、どうせ主観なら自分の主観、どうせ目なら自分の目を信ずる他はなくなるのだ。
私の目だつて大したことはないが、カメラのレンズよりは少しばかり精巧であらう。
「同人雑記」より



169: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:06:06 ID:HiG
理想的な父親の教育とは、父子相伝の技術の教育であつた。そこに父親といふものの意味があつた。
漁師の父親が、息子に、縄のなひ方から、櫓のこぎ方、網の打ち方、などをだんだんに教へてやる。
時には、わざと教へないで、息子に危険を犯させて自得させる。
そして父親の死後、息子は若かりし日の父親とそつくりの、村一番の、逞しい、熟練した漁師になる。
舟を漕いで沖に向ふとき、朝焼けの空の雲一つが、人の顔のやうに見え、その顔から、父親のきびしい、しかし温かな面影を思ひ出す。
……これが本当の父子といふものだ。しかるに都市のインテリ階級は、息子に伝へるべき技術を何も持たぬ。
上役におべんちやらを言ふ技術なんか、息子に教へるわけには行かない。
私のやうに、都市インテリ階級の家に生れて、その上、特殊な文筆業の、
決して息子に伝へることのできない一代限りの技術で生活してゐる者はどうすればよいのか?
「わが育児論」より



170: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:06:41 ID:HiG
事業を持つてゐれば、事業を息子に継がせるための教育といふものもあらう。
しかし、私は自分の息子が文筆業者になることを決して望まないのである。
世俗の目からは収入(みいり)のいい職業だと思はれてゐるかもしれないが、この職業の心の地獄を私はよく知つてゐるからだ。
そこで子供には普通の市民生活への道を歩ませたいのだが、そのためには家庭の環境が特殊すぎる。
大体子供が向上心を持つには、親が適度に貧乏であることが必要なのだが、
むかしの日本では、貧富を問はず、子供(殊に男児)に贅沢をさせない気風は徹底してゐた。
私は貿易自由化の今でも、学生が、高価なスイス製の腕時計をはめてゐたり、
舶来の万年筆を使つてゐたりすると、言ひやうのない不愉快な感じをもつ。しかし今の子供は昔とちがふ。(中略)
今では、収入の多い親が、ムリヤリ経済的に子供を圧迫して、自分の古い儒教的倫理観を満足させたところで、
そんな不自然なことには、子供がついて行かないのである。
「わが育児論」より



171: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:07:12 ID:HiG
私は今六歳の女児と三歳の男児を持つてゐるが、女児が生れたとき、私は父親の最低限度の教育として、三つの言葉を教へようと骨を折つた。
それは、「こんにちは」「ありがたう」「ごめんなさい」の三つである。
「こんにちは」は、「おはやう」「おやすみ」「ごきげんよう」「こんばんは」「さやうなら」等々を含み、要するに日常の挨拶である。
「ありがたう」は、社会生活の要求する最低限度の言葉で、人に何かをしてもらつたとき、人に何かをもらつたとき、必ず言ふべき言葉である。
「ごめんなさい」は、自分があやまちを犯したとき、素直に口をついて出るべき言葉である。
この三つが、大人になつてもスラリと出ない人間は、社会生活の不適格者になる。
私は口やかましくこれだけを言ひ、子供たちはどうやら言へるやうになつたが、言はないときは忘れずに寸時を措かずにこちらから催促する。
とにかく命令して言はせるのである。
「わが育児論」より



172: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:07:42 ID:HiG
それから、テレビをみんなで眺めながら黙つて食事をするこのごろの悪習慣は、
私のもつとも嫌悪するところであるので、どんな面白い番組があつても、食事中はテレビを消させる。
私は一週一回は必ず子供たちと夕食をとるが、多忙な生活で、それ以上食事を共にすることができない。
子供たちの就寝時間は厳格に言ひ、大人の都合で遅寝をさせるやうなことも決してせず、まして子供のわがままで時間をおくらせることもしない。
休日といへども、同様である。子供を連れて出れば、必ず、就寝時間三十分前には帰宅する。
子供のつくウソは、卑劣な、人を陥れるやうなウソを除いては、大目に見る。
子供のウソは、子供の夢と結びついてゐるからである。
「わが育児論」より



173: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:08:31 ID:HiG
言ひ古されたことだが、一歩日本の外に出ると、多かれ少かれ、日本人は愛国者になる。
先ごろハンブルクの港見物をしてゐたら、灰色にかすむ港口から、巨大な黒い貨物船が、船尾に日の丸の旗をひるがへして、威風堂々と入つて来るのを見た。
私は感激措くあたはず、夢中でハンカチをふりまはしたが、日本船からは別に応答もなく、まはりのドイツ人からうろんな目でながめられるにとどまつた。
これは実に単純な感情で、とやかう分析できるものではない。もちろん貨物船が巨大であつたことも大いに私を満足させたのであつて、
それがちつぽけな貧相な船であつたとしたら、私のハンカチのふり方も、多少内輪になつたことであらう。
また、北ヨーロッパの陰鬱な空の下では、日の丸の鮮かさは無類であつて、日本人の素朴な明るい心情が、そこから光りを放つてゐるやうだつた。
「日本人の誇り」より



174: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:09:06 ID:HiG
それでは私もその「素朴な明るい」日本人の一人かといふと、はなはだ疑はしい。
私はひねくれ者のヘソ曲りであるし、私の心情は時折明るさから程遠い。
それは私が好んでひねくれてゐるのであり、好んで心情を暗くしてゐるのである。
これにもいろいろ複雑な事情があるが、小説家が外部世界の鏡にならうとすれば、そんなにいつも「素朴で明るい」人間であるわけには行かない。
しかし異国の港にひるがへる日の丸の旗を見ると、「ああ、おれもいざとなればあそこへ帰れるのだな」といふ安心感を持つことができる。
いくらインテリぶつたつて、いくら芸術家ぶつたつて、いくら世界苦(ヴエルトシユメルツ)にさいなまれてゐるふりをしたつて、
結局、いつかは、あの明るさ、単純さ、素朴さと清明へ帰ることができるんだな、と考へる。
「日本人の誇り」より



175: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:09:39 ID:HiG
私は十一世紀に源氏物語のやうな小説が書かれたことを、日本人として誇りに思ふ。中世の能楽を誇りに思ふ。
それから武士道のもつとも純粋な部分を誇りに思ふ。日露戦争当時の日本軍人の高潔な心情と、今次大戦の特攻隊を誇りに思ふ。
すべての日本人の繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐひ稀な結合を誇りに思ふ。
この相反する二つのものが、かくもみごとに一つの人格に統合された民族は稀である。
……しかし、右のやうな選択は、あくまで私個人の選択であつて、日本人の誇りの内容が命令され、統一され、押しつけられることを私は好まない。
実のところ、一国の文化の特質といふものは、最善の部分にも最悪の部分にも、同じ割合であらはれるものであつて、
犯罪その他の暗黒面においてすら、この繊細な感受性と勇敢な気性との結合が、往々にして見られるのだ。
「日本人の誇り」より



176: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:10:13 ID:HiG
われわれの誇りとするところのものの構成要素は、しばしば、われわれの恥とするところのものの構成要素と同じなのである。
きはめて自意識の強い国民である日本人が、恥と誇りとの間をヒステリックに往復するのは、理由のないことではない。
だからまた、私は、日本人の感情に溺れやすい気質、熱狂的な気質を誇りに思ふ。
決して自己に満足しないたえざる焦燥と、その焦燥に負けない楽天性とを誇りに思ふ。
日本人がノイローゼにかかりにくいことを誇りに思ふ。
どこかになほ、ノーブル・サベッジ(高貴なる野蛮人)の面影を残してゐることを誇りに思ふ。
そして、たえず劣等感に責められるほどに鋭敏なその自意識を誇りに思ふ。
そしてこれらことごとくを日本人の恥と思ふ日本人がゐても、そんなことは一向に構はないのである。
「日本人の誇り」より



179: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:39:41 ID:HiG
実は、人間は未来に向かつて成熟してゆくものではないんです。それが人間といふ生き物の矛盾に充ちた不思議なところです。
人間といふものは“日々に生き、日々に死ぬ”以外に成熟の方法を知らないんです。
「葉隠」といふ本を御覧になつた方があるとみえて、笑つてゐる方がそこに居りますが、
やはり死といふ事を毎日毎日起り得る状況として捉へるところから人間の行動の根拠を発見して、そこにモラルを提示してゆく。
非常に極端な考へ方なのですが、あれ程生きる力を与へられた本を私は知りません。
あの思考には、未来が無いのです。我々は常識で考へて「未来がない」と言ふと、まるで破産宣告を受けた人間とか、
ガンの宣告を受けた人間のやうに考へますが、さうではなくて、私は、「青年にこそ未来がない」と、私自身の考へから、経験から言へるのです。
「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より



180: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:41:28 ID:HiG
そこで、何も未来を信じない時、人間の根拠は何かといふことを考へますと、次のやうになります。
未来を信じないといふことは今日に生きることですが、刹那主義の今日に生きるのではないのであつて、
今日の私、現在の私、今日の貴方、現在の貴方といふものには、背後に過去の無限の蓄積がある。
そして、長い文化と歴史と伝統が自分のところで止まつてゐるのであるから、自分が滅びる時は全て滅びる。
つまり、自分が支へてきた文化も伝統も歴史もみんな滅びるけれども、しかし老いてゆくのではないのです。
今、私が四十歳であつても、二十歳の人間も同じ様に考へてくれば、その人間が生きてゐる限り、その人間のところで文化は完結してゐる。
その様にして終りと終りを繋げれば、そこに初めて未来が始まるのであります。
「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より



181: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:43:07 ID:HiG
われわれは自分が遠い遠い祖先から受け継いできた文化の集積の最後の成果であり、これこそ自分であるといふ気持で以つて、
全身に自分の歴史と伝統が籠つてゐるといふ気持を持たなければ、今日の仕事に完全な成熟といふものを信じられないのではなからうか。
或ひは、自分一個の現実性も信じられないのではなからうか。
自分は過程ではないのだ。道具ではないのだ。自分の背中に日本を背負ひ、
日本の歴史と伝統と文化の全てを背負つてゐるのだといふ気持に一人一人がなることが、それが即ち今日の行動の本になる。(中略)
「俺一人を見ろ!」とこれがニーチェの「この人を見よ」といふ思想の一つの核心でもありませう。
けれども、私は中学時代に「この人を見よ」といふのは「誰を見よ」といふのかと思つて先輩に聞きましたところ、
「ニーチェを見よ」といふことだと教へて貰ひ、私は世の中にこんなに自惚れの強い人間がゐるのかと驚いたことがあるのです。
しかし、今になつて考へてみると、それは自惚れではないのであります。
「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より



182: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:46:31 ID:HiG
自分の中にすべての集積があり、それを大切にし、その魂の成熟を自分の大事な仕事にしてゆく。
しかし、そのかはり何時でも身を投げ出す覚悟で、それを毀さうとするものに対して戦ふ。(中略)
ここにこそ現在があり、歴史があり、伝統がある。彼らの貧相な、観念的な、非現実的な未来ではないものがある。
そこに自分の行動と日々のクリエーションの根拠を持つといふことが必要です。これは又、人間の行動の強さの源泉にもなると思ふ。
といふのは人間といふものは、それは果無い生命であります。しかし、明日死ぬと思へば今日何かできる。
そして、明日がないのだと思ふからこそ、今日何かができるといふのは、
人間の全力的表現であり、さうしなければ、私は人間として生きる価値がないのだと思ひます。
「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より



183: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:47:08 ID:HiG
本日ただ今の、これは禅にも通じますが、現在の一瞬間に全力表現を尽すことのできる民族が、
その国民精神が結果的には、本当に立派な未来を築いてゆくのだと思ひます。
しかし、その未来は何も自分の一瞬には関係ないのである。
これは、日本国民全体がそれぞれの自分の文化と伝統と歴史の自信を持つて今日を築きゆくところに、生命を賭けてゆくところにあるのです。
特攻隊の遺書にありますやうに、私が“後世を信ずる”といふのは“未来を信ずる”といふことではないと思ふのです。
ですから、“未来を信じない”といふことは、“後世を信じない”といふこととは違ふのであります。
私は未来は信じないけれども後世は信ずる。
特攻隊の立派な気持には万分の一にも及びませんが、私ばかりでなく、若い皆さんの一人一人がさういふ気持で後輩を、
又、自分の仕事ないし日々の行動の本を律してゆかれたならば、その力たるや恐るべきものがあると思ひます。
「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より



184: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:47:43 ID:HiG
劇画や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点でもうおしまひである。
かつて颯爽たる「鉄腕アトム」を想像した手塚治虫も、「火の鳥」では日教組の御用漫画家になり果て、
「宇宙虫」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも「ガロ」の「こどもの国」や「武蔵」連作では見るもむざんな政治主義に堕してゐる。
一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。
「もーれつア太郎」のスラップスティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか。
ヤングベ平連の高校生と話したとき、「もーれつア太郎」の話になつて、その少年が、
「あれは本当に心から笑へますね」と大人びた口調で言つた言葉が、いつまでも耳を離れない。
大人はたとへ「ア太郎」を愛読してゐてもかうまで含羞のない素直な賛辞を呈することはできぬだらう。
赤塚不二夫は世にも幸福な作者である。
「劇画における若者論」より



185: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:48:13 ID:HiG
世の中といふのは困つたもので、劇画に飽きた若者が、そろそろいはゆる「教養」がほしくなつてきたとき、与へられる教養といふものが、
又しても古ぼけた大正教養主義のヒューマニズムやコスモポリタニズムであつてはたまらないのに、さうなりがちなことである。
それはすでに漫画の作家の一部の教養主義になつて現はれてをり、折角「お化け漫画」にみごとな才能を揮(ふる)ふ水木しげるが、
偶像破壊の「新講談 宮本武蔵」(一九六五年)を描くときは、芥川龍之介と同時代に逆行してしまふからである。
若者は、突拍子もない劇画や漫画に飽きたのちも、これらの与へたものを忘れず、自ら突拍子もない教養を開拓してほしいものである。
すなはち決して大衆社会へ巻き込まれることのない、貸本屋的な少数疎外者の鋭い荒々しい教養を。
「劇画における若者論」より



186: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:48:41 ID:aP8
面白い



187: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:48:52 ID:HiG
日本人の明治以来の重要な文化的偏見と思はれるのは、男色に関する偏見である。江戸時代までにはかういふ偏見はなかつた。
西欧では、男色といふ文化体験に宗教が対立して、宗教が人為的に、永きにわたつてこの偏見を作り上げたのである。
しかるに日本では明治時代に輸入されたピューリタニズムの影響によつて、簡単に、ただその偏見が偏見として伝播して、奇妙な社会常識になつてしまつた。
そして元禄時代のその種の文化体験を簡単に忘れてしまつた。
男色は、男色にとどまるものでなく、文化の原体験ともいふべきもので、あらゆる文化あらゆる芸術には、男色的なものが本質的にひそんでゐるのである。
芸術におけるエローティッシュなものとは、男色的なものである。
そして宗教と芸術・文化の、もつとも先鋭な対立点がここにあるのに、それを忘れてしまつたのは、文化の衰弱を招来する重要な原因の一つであつた。
「偏見について思ふこと」より



188: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:49:46 ID:HiG
ぼくはいつも、あとから自分の素質を発見するのですけれども、
──ぼく、剣道なんて、けっしてうまくありませんけれども、剣道やる人間になるなんていうことは、昔は想像もしなかった。
おなじことで、論理的能力を発見するなんて、昔は想像もしなかった。
だから、人間って、あきらめないでじっくりやっていれば、何か出てくるんだと思うのです。
自慢じゃないですが、英語の会話ができるようになったのは三十越してからですからね。
それまで英語でしゃべれなかった。アメリカへ行っても、ほんとに語学で不自由いたしました。
三十ごろになって、アメリカに半年くらいいてから、まあまあしゃべれるようになった。
人間の能力なんていうものは、ほんとに、早く決めてしまうことないと思いますね。
三好行雄との対談「三島文学の背景」より



189: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:50:21 ID:HiG
スキャンダルの特長は、その悪い噂一つのおかげで、当人の全部をひつくるめて悪者にしてしまふことである。
スキャンダルは、「あいつはかういふ欠点もあるが、かういふ美点もある」といふ形では、決して伝播しない。
「あいつは女たらしだ」「あいつは裏切者だ」──これで全部がおほはれてしまふ。
当人は否応なしに、「女たらし」や「裏切者」の権化になる。一度スキャンダルが伝播したが最後、世間では、
「彼は女たらしではあるが、几帳面な性格で、友達からの借金は必ず期日に返済した」とか、「彼は裏切者だが、親孝行であつた」とか、
さういふ折衷的な判断には、見向きもしなくなつてしまふのである。(中略)
マス・コミといふものが、近代的な大都会でも、十分、村八分を成立させるやうになつた。
「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より



190: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:50:58 ID:HiG
遊び、娯楽、といふものは、むやみと新らしい刺戟を求めることでもなく、
阿片常習者のやうな中毒症状を呈することでもなく、お金を湯水のやうに使ふことでもなく、
日なたぼつこでも、昼寝でも、昼飯でも、散歩でも、現在自分のやつてゐることを最高に享楽する精神であり才能であらう。(中略)
プロ野球見物と庭の水まきと、どつちが現在の自分にとつてもつともたのしいか、といふことに、
自分の本当の判断を働らかすことが、遊び上手の秘訣であらう。
世間の流行におくれまいとか、話題をのがさぬやうにとか、「お隣りが行くから家も」とか、
「人が面白いと言つたから」とか、……さういふ理由で遊びを追求するのは、
人のための遊びであつて、自分のための娯楽ではないのである。
「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より



191: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:51:39 ID:HiG
世の女性方は、たとへイギリス製の生地の背広を着こなした紳士の中にも、
「ガーン!」「ガバッ!」「ガシーン!」「バシーン!」などの
擬音詞に充ちた低俗なアクションへの興味が息をひそめてゐることを、知つておいて損はなからう。
男にとつては、いくつになつても、そんなに「バカバカしい」ことといふものはありえない。
「バカバカしい」といふ落着いた冷笑は、いつも本質的に女性的なものである。
「社会料理三島亭 いかもの料理『大人の赤本』」より



192: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:52:19 ID:HiG
よく人の家へ呼ばれて、家族の成長のアルバムなんかを見せられることがある。ところがこんなに退屈なもてなしはない。
人の家族の成長なんか面白くもなんともないからである。写真といふものには、へんな魔力がある。みんなこれにだまされてゐるのである。
ある家族が、自分の家族の成長の歴史を写真で見れば、なるほど血湧き肉をどる面白さにちがひない。
しかもそれが写真といふ物質だから、物質である以上、坐り心地のよい椅子が誰にも坐り心地よく、美しいガラス器が誰が見ても美しいやうに、
面白い写真といふものは、誰が見ても面白からうといふ錯覚・誤解が生じる。そこでアルバムを人に見せることになるのであらう。(中略)
大部分の写真は、不完全な主観の再現の手がかりにすぎない。それは山を映しても、ふるさとの懐しい山といふものは映してくれない。
ただ「ふるさとの懐しい山」を想ひ起す手がかりを提供してくれるにすぎない。
「ふるさとの懐しい山」といふものは、あくまでこちらの心の中にあるので、
その点では、われわれ文士の用ひる言葉といふやつのはうが、よほど正確な再現を可能にする。
「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より



193: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:52:55 ID:HiG
いちばんいい例が赤ん坊の写真である。
他人の赤ん坊ほどグロテスクなものはなく、自分の赤ん坊ほど可愛いものはない。そして世間の親がみんなさう思つてゐるのだから世話はない。
公園で乳母車を押した母親同士が出会つて、「まあ、可愛い赤ちゃん」「まあ、お宅さまこそ。何て可愛らしいんでせう」などとお世辞を言ひ合ふが、
どちらも肚の中では、『なんてみつともない赤ん坊でせう。まるでカッパだわ。それに比べると、うちの赤ん坊の可愛らしいこと!…(中略)』さう思つてゐる。
カメラはこの「可愛い赤ん坊」を写すのである。
実は、本当のことをいふと、カメラの写してゐるのは、みつともないカッパみたいな未成熟の人間像にすぎないが、
写真は、言葉も及ばないほど、「可愛い赤ん坊」の手がかりを提供する。(中略)
かへすがへすも注意すべきことは、自分の赤ん坊の写真なんか、決して人に見せるものではない、といふことである。
「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より



194: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:53:30 ID:HiG
私はこの世に生をうけてより、只の一度も赤い羽根を買つたことがない。
そのシーズンの盛期に、大都会で、赤い羽根をつけないで暮すといふ絶大のスリルが忘れられないからだ。
赤い羽根をつけないで歩いてごらんなさい。
いたるところの街角で、諸君は、何ものかにつけ狙われてゐる不気味な眼差を感じ、交番の前をよけて通るおたづね者の心境にひたることができる。
自分は狙われてゐるのだといふ、こそばゆい、誇らしい気持に陶然とすることができる。もし赤い羽根をつけて歩いてごらんなさい。
誰もふりむいてもくれやしないから。冗談はさておき、私は強制された慈善といふものがきらひなのである。(中略)
駅の切符売場の前に女学生のセイラー服の垣根が出来てゐて、カミつくやうな、もつとも快適ならざるコーラスが、
「おねがひいたします。おねがひいたします」と連呼する。
私がその前を素通りすると、きこえよがしに、「あの人、ケチね」などといふ。
「アラ、心臓ね」「図々しいわね」と言はれたこともある。
「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より



195: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:54:00 ID:HiG
これは尤も、通るときの私の態度も悪いので、なるべく悪びれずに堂々とその前をとほるのが、よほど鉄面皮に見えるらしい。
しかし、ただ胸を張つてその前を通るだけのことで、鉄面皮に見えるなら、それだけのことができない人は、
単なる弱気から、あるひは恥かしさから、醵金箱(きよきんばこ)に十円玉を投じてゐるものと思はれる。
一体、弱気や恥かしさからの慈善行為といふものがあるものだらうか?
それなら、人に弱気や羞恥心を起させることを、この運動が目的にしてゐると云はれても、仕方がないぢやないか?
大体、弱気や恥かしさで、醵金箱にお金を入れる人種といふものは、善良なる市民である。
電車で通勤する人たちがその大半であつて、安サラリーの上に重税で苦しめられてゐる人たちである。
さういふ人たちの善良なやさしい魂を脅迫して、お金をとつて、赤い羽根をおしつける、といふやり方は、どこかまちがつてゐる。
「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より



196: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:54:34 ID:HiG
もつと弱気でない、もつと羞恥心の欠如した連中ほど、お金を持つてゐるに決つてゐるのだから、
おんなじ脅迫するなら、そつちからいただく方法を講じたらどうだらう。
大体、私のやうに、赤い羽根諸嬢の前を素通りすることで鉄面皮ぶつてゐる男などは甘いもので、もつと本当の鉄面皮は、
ひよこひよこそんなところを歩いてゐるひまなんぞなく、車からビルへ、ビルから車へと、ひたすら金儲けにいそがしいにちがひない。(中略)
本来なら、慈善事業とは、罪ほろぼしのお金で運営すべきものである。
さんざん市民の膏血をしぼつて大儲けをした実業家が、あんまり儲かつておそろしくなり、まさか夜中に貧乏人の家を一軒一軒たづねて、
玄関口へコッソリお金を置いて逃げるのも大変だから、一括して、せめて今度は罪ほろぼしに、困つてゐる人を助けようといふ気で金を出す。
これが慈善といふものだ。ところが日本の金持は、政治家にあげるお金はいくらでもあるのに、
社会事業や育英事業に出す金は一文もないといふ顔をしてゐる。
「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より



197: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:55:12 ID:HiG
ちつとも世間に迷惑をかけず、自分の労働で几帳面に仕入れたお金なんかは、世間へ返す必要は全然ないのである。
無意味な税金を沢山とられてゐる上に、たとへ十円でも、世間へ捨てる金があるべきではない。
その上、赤い羽根なんかもらつて、良心を休める必要もないので、そんな羽根をもらはなくても、
ちやんと働らいてちやんと獲得した金は、十分自分のたのしみに使つて、それで良心が休まつてゐる筈である。
さんざんアクドイことをして儲けた金こそ、不浄な金であるから、世間へ返さなければ、バチが当るといふものである。(中略)
社会保障は、憲法上、国家の責務であつて、国が全責任を負ふべきであり、次にこれを補つて、大金持が金をふんだんに醵出すべきであり、
あくまでこれが本筋である。しかし一筋縄では行かないのが世間で、(中略)
助けられる立場にゐながら、人を助けたい人もある。
赤い羽根も無用の強制をやめて、さういふ人たちを対象に、静かに上品にやつたらいいと思ふ。
「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より



198: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:56:05 ID:HiG
西部劇は純然たる男だけの世界であつてこそ意味がある。へんな恋愛をからませた西部劇ほど、おかつたるいものはない。
さて、西部劇に欠くべからざるインディアンのことだが、アメリカ人はインディアンに対しては、ニグロに対するやうな人種的偏見を持つてゐないらしい。
ユンクによると、アメリカ人の英雄類型は結局インディアンの伝統的英雄に帰着するさうである。
アメリカ人の集合的無意識は、自分の祖先を衰弱した白皙のヨーロッパ人としてよりも、精力にみちあふれた赤い肌のインディアンとして見てゐるらしい。
開拓時代にインディアンと戦ひながら、アメリカ人は敵の精力をしらずしらず崇拝し、模倣しようとしたかもしれない。(中略)
「一難去つて又一難」といふ事態に対する人間のどうしやうもない興味は、(これは西部劇に限つたことでは 
ないが)、
どんなに平和な時代が続かうと癒やしがたいものであるらしい。
平和な市民生活に直接の身体的危険が乏しいことから、この刺戟飢餓は、危険なスポーツや、自動車の制限速度の超過や、
犯罪などに向ひ、あるひは内攻してノイローゼに向ふことになる。
西部劇はかういふ不満に対するいかにも安全な薬品である。
「西部劇礼讃」より



199: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:57:29 ID:HiG
私は弱い者が大ぜい集まつてワイワイガヤガヤ言つて多数の力で意見を押しとほすといふ考へがきらひだ。
全学連だつて、一人一人会へば大人しい坊ちやんだし、体力的に弱いタイプが多い。なぜ多数を恃むのか。
自分一人に自信がないからではないのか。「千万人といへども我行かん」といふ気持がないではないか。
もつとも一人の力では限りがあることがわかつてゐる。だから私は少数精鋭主義である。
その少数の一人一人が、「千万人といへども我行かん」といふ気構へをもち、それだけ腕つ節がなければならない。
たつた一人孤立しても、切り抜けて行けなければならない。
「拳と剣──この孤独なる自己との戦ひ」より



200: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:58:03 ID:HiG
私は、諸君がこれを肚の中に一人一人持つてもらひたいと思ふ。
左翼の大衆運動といふものは、大衆を動かさなければどうにもならないので、
まづ大衆を巻き込んで、彼らの大きな力で状況を変へていく、といふのが基本的な立場ですね。
赤軍派の場合は例外と言へるかもしれないが、左翼は一般にさうですね。
ところがわれわれの立場は、孤立を恐れない、孤立でほかにみちなく、助けてくれる身方もゐない、さうなつた状況から、初めて何かが始まるのです。
いはば絶望からの出発といふのが特色だと思はれる。
いはゆる能動的虚無、さういつた絶望感を胸の中で噛みしめたことのない人間は、松陰の忠義のみちを行くことはできない。
かりにも世間を甘く考へて、世間の支持を期待したり、大衆をあてにするやうな思想の磨き方ではどうにもならないところまで来てゐることを自覚して欲しい。
「『孤立』ノススメ 七、絶望から思想を磨くといふことについて」より



201: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:58:57 ID:HiG
世の中にいつも裸な真実ばかり求めて生きてゐる人間は、害して鈍感な人間である。
「私のきらひな人」より



202: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)21:59:39 ID:HiG
親しいからと云つて、言つてはならない言葉といふものがあるものだが、
お節介な人間は、善意の仮面の下に、かういふタブーを平気で犯す。
「私のきらひな人」より



203: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)22:00:15 ID:HiG
人をきらふことが多ければ多いだけ、人からもきらはれてゐると考へてよい。
「私のきらひな人」より



204: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)22:00:54 ID:HiG
別に酒を飲んだりごちそうをたべたりしなくても、
気の合つた人間同士の三十分か一時間の会話の中には、人生の至福がひそむ。
「社交について──世界を旅し、日本を顧みる」より



205: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)22:01:31 ID:HiG
われわれが美しいと思ふものには、みんな危険な性質がある。
温和な、やさしい、典雅な美しさに満足してゐられればそれに越したことはないのだが、
それで満足してゐるやうな人は、どこか落伍者的素質をもつてゐるといつていい。
「美しきもの」より



206: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)22:02:10 ID:HiG
子供の遊びは無目的、それでいて真剣そのものでしょう。
夕方、御飯になって遊びと別れるときの、あの辛さ、ああいう辛さがなかったら、文学はビジネスにすぎなくなる。
御飯は生活です。誰でも御飯はたべなくちゃならない。
しかし「御飯ですよ」と呼ばれるまで、御飯の時間を忘れていられるような真剣な遊びを毎日みつけなくてはね。
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より



207: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)22:02:46 ID:HiG
人生では知らないことだけが役に立つので、知つてしまつたことは役にも立たない。
「裸体と衣装」より



208: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)22:03:23 ID:HiG
子供たちの目はまだ見ぬ世界への夢に輝いてゐる。
この子供たちこそ世界を所有してゐるので、世界旅行は世界を喪失することだ。
尤も、生きるといふことがそもそも人生をなしくづしに喪失してゆくことなのであるから、人間の行為と所有とは永遠に対立してゐる。
「裸体と衣装」より



209: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)22:03:59 ID:HiG
もし罪といふものがあるなら、それは罪の行為が飛び去つたあとの真白な空白にすぎぬだらう。
罪ほど清浄な観念はないだらう。
「偉大な姉妹」より



210: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)22:04:41 ID:HiG
自分の最初の判断、最初のねがひごと、そいつがいちばん正しいつてね。
なまじ大人になつていろいろひねくりまはして考へると、却つて判断をあやまるもんだ。
婿えらびをする能力といふものは、もしかしたら、三十五歳の女より、十六歳の少女のはうが、ずつと豊富にもつてゐるのかもしれないんだぜ。
「恋の都」より



211: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)22:05:22 ID:HiG
羞恥がなくて、汚濁もない少女の顔ほど、少年を戸惑はせるものはない。
「恋の都」より



212: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)22:05:59 ID:HiG
本当のヤクザといふものは、チンピラとちがつて、チャチな凄味を利かせたりしないものである。
映画に出てくる親分は大抵、へんな髭を生やして、妙に鋭い目つきをして、キザな仕立の背広を着て、
ニヤけたバカ丁寧な物の言ひ方をして、それでヤクザをカモフラージュしたつもりでゐるが、本当のヤクザのカモフラージュはもつとずつと巧い。
旧左翼の人に、却つて、如才のない人が多いのと同じことである。
「恋の都」より



213: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)22:06:35 ID:HiG
相似といふものは一種甘美なものだ。
ただ似てゐるといふだけで、その相似たもののあひだには、無言の諒解(りようかい)や、
口に出さなくても通ふ思ひや、静かな信頼が存在してゐるやうに思はれる。
「翼」より



214: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)22:07:10 ID:HiG
模倣が少女の愛の形式であり、これが中年女の愛し方ともつとも差異の顕著な点である。
「翼」より



215: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)22:07:46 ID:HiG
人間の野心といふものは衆にぬきん出ようとする欲望だが、
幸福といふものは皆と同じになりたいといふ欲求だ。
「クロスワード・パズル」より



216: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:20:19 ID:GNq
無神論も、徹底すれば徹底するほど、唯一神信仰の裏返しにすぎぬ。
無気力も、徹底すれば徹底するほど、情熱の裏返しにすぎぬ。
近ごろはやりの反小説も、小説の裏返しにすぎぬ。
「川端康成氏再説」より



217: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:20:56 ID:GNq
ちやうど舞台の夜空に描きこまれたキラキラする金絵具の星のやうな、
安つぽいロマンスこそ女の心を永久に惹きつけるものだ。 
「『からっ風野郎』の情婦論」より



218: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:21:30 ID:GNq
軽蔑とは、女の男に対する永遠の批評なのであります。
「反貞女大学」より



219: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:22:38 ID:GNq
女性の特徴は、人の作つた夢に忠実に従ふことでせうが、何よりも多数決に弱いので、
夫の意見よりも、つねに世間の大多数の夢のはうを尊重し、しかもその「視聴率の高い夢」は
大企業の作つた罠であることを、ほとんど直視しようとしません。
「だつて私の幸福は私の問題だもの」たしかにさうです。
しかし、あなたの、その半分ノイローゼ的な、幸福への夢へのたえざる飢ゑと渇きは、実は大企業が、赤の他人が作つてゐるものなのです。
「反貞女大学」より



220: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:23:11 ID:GNq
われわれ男性は、男のピアニストがどんなに偉くなり、男の政治家がどんなに成功しやうと放置つておくが、
ただ同性だからといふ理由で、女の社会的進出をむやみと擁護したり尻押ししたりする婦人たちがゐる。
フランスの或る女流作家が、現代社会では、男性が、男及び人間といふ二つの領域に采配をふるつてゐるのに、
女性は、女といふ領域だけしか、自分のものにしてゐないと云つてゐるのは正しい。
「不満な女たち」より



221: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:23:40 ID:GNq
女体を崇拝し、女の我儘を崇拝し、その反知性的な要素のすべてを崇拝することは、実は微妙に侮蔑と結びついてゐる。
(谷崎)氏の文学ほど、婦人解放の思想から遠いものはないのである。氏はもちろん婦人解放を否定する者ではない。
しかし氏にとつての関心は、婦人解放の結果、発達し、いきいきとした美をそなへるにいたつた女体だけだ。
エロスの言葉では、おそらく崇拝と侮蔑は同義語なのであらう。
「谷崎潤一郎について」より



222: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:24:14 ID:GNq
パリへのあこがれは、小説家へのあこがれのやうなもので、およそ実物に接してみて興ざめのする人種は、
小説家に及ぶものはないやうに、パリへあこがれて出かけるのは丁度小説を読んでゐるだけで満足せずに、
わざわざ小説家の御面相を拝みにゆく読者同様である。パリはつまり、芸術の台所なのである。
おもては観光客目あてに美々しく装うてゐるが、これほど台所的都会はないことに気づくだらう。
パリのみみつちさは崇高な芸術の生れる温床であり、パリの卑しさは芸術の高貴の実体なのである。
「パリにほれず」より



223: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:24:43 ID:GNq
芸術とは何かきはめていかがはしいものであり、丁度日本の家のやうに
床の間のうしろに便所があるやうな、さういふ構造を宿命的に持つてゐる。
「パリにほれず」より



224: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:25:16 ID:GNq
偉大なる戯曲がさうであるやうに、偉大な文学も亦(また)、独白に他ならぬ。
「招かれざる客」より



225: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:25:47 ID:GNq
愛情の裏附のある鋭い批評ほど、本当の批評はありません。
さういふ批評は、そして、すぐれた読者にしかできないので、はじめから冷たい批評の物差で物を読む人からは生れません。
「作品を忘れないで……人生の教師ではない私──読者への手紙」より



226: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:26:18 ID:GNq
自分を理解しない人間を寄せつけないのは、芸術家として正しい態度である。
芸術家は政治家ぢやないのだから。
「谷崎朝時代の終焉」より



227: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:26:49 ID:GNq
芸術上の創造行為は存在そのものからは生れて来ない。
自ら美しく生きようと思つた芸術家は一人もゐなかつたので、
美を創ることと、自分が美しく生きることとは、まるで反対の事柄である。
「女が美しく生きるには」より



228: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:27:21 ID:GNq
芸術には必ず針がある。毒がある。この毒をのまずに、ミツだけを吸ふことはできない。
四方八方から可愛がられて、ぬくぬくと育てることができる芸術などは、この世に存在しない。
「文学座の諸君への『公開状』──『喜びの琴』の上演拒否について」より



229: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:28:02 ID:GNq
若い女性の「芸術」かぶれには、いかにもユーモアがなく、何が困るといつて、
昔の長唄やお茶の稽古事のやうな稽古事の謙虚さを失くして、ただむやみに飛んだり跳ねたりすれば、
それが芸術だと思ひこんでゐるらしいことである。芸術とは忍耐の要る退屈な稽古事なのだ。
そしてそれ以外に、芸術への道はないのである。
「芸術ばやり──風俗時評」より



230: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:28:36 ID:GNq
さまざまな自己欺瞞のうちでも、自嘲はもつとも悪質な自己欺瞞である。それは他人に媚びることである。
他人が私を見てユーモラスだと思ふ場合に、他人の判断に私を売つてはならぬ。
「御人柄」などと云つて世間が喝采する人は、大ていこの種の売淫常習者である。
「小説家の休暇」より



231: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:29:06 ID:GNq
傷つきやすい人間ほど、複雑な鎖帷子(くさりかたびら)を織るものだ。
そして往々この鎖帷子が自分の肌を傷つけてしまふ。しかしこんな傷を他人に見せてはならぬ。
君が見せようと思ふその瞬間に、他人は君のことを「不敵」と呼んでまさに讃(ほ)めようとしてゐるところかもしれないのだ。
「小説家の休暇」より



232: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:29:39 ID:GNq
典型的な青年は、青春の犠牲になる。十分に生きることは、生の犠牲になることなのだ。
生の犠牲にならぬためには、十分に生きず、フランス人のやうに吝嗇を学ばなければならぬ。
貯蓄せねばならぬ。卑怯な人間にならなければならぬ。
「小説家の休暇」より



234: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:30:11 ID:GNq
小説家における人間的なものは、細菌学者における細菌に似てゐる。
感染しないやうに、ピンセットで扱はねばならぬ。言葉といふピンセットで。
……しかし本当に細菌の秘密を知るには、いつかそれに感染しなければならぬのかもしれないのだ。
そして私は感染を、つまり幸福になることを、怖れた。
「施餓鬼舟」より



235: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:30:49 ID:GNq
戦争が道徳を失はせたといふのは嘘だ。道徳はいつどこにでもころがつてゐる。
しかし運動をするものに運動神経が必要とされるやうに、道徳的な神経がなくては道徳はつかまらない。
戦争が失はせたのは道徳的神経だ。この神経なしには人は道徳的な行為をすることができぬ。
従つてまた真の意味の不徳に到達することもできぬ筈だつた。
「慈善」より



236: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:30:59 ID:T24
すごいのばっかりだ

いいねえ



237: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:31:19 ID:GNq
罪といふものの謙遜な性質を人は容易に恕(ゆる)すが、秘密といふものの尊大な性質を人は恕さない。
「果実」より



238: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:31:51 ID:GNq
私がいつもふしぎに思ふのは、小説家がしたり気な回答者として、新聞雑誌の人生相談の欄に招かれることである。
それはあたかも、オレンヂ・ジュースしか呑んだことのない人間が、オレンヂの樹の栽培について答へてゐるやうなものだ。
「小説とは何か」より



239: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:32:28 ID:GNq
男にしろ、女にしろ、肉体上の男らしさ女らしさとは、肉体そのものの性のかがやき、存在全体のかがやきから生れる筈のものである。
それは部分的な機能上の、見栄坊な男らしさとは何の関係もない。
「肉体の学校」より



240: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:32:56 ID:GNq
一人死んでも、十人死んでも、同じ涙を流すほかに術がないのは不合理ではあるまいか?
涙を流すことが、泣くことが、何の感情の表現の目安になるといふのか?
「真夏の死」より



241: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:33:48 ID:GNq
事件に直面して、直面しながら、理解することは困難である。
理解は概ね後から来て、そのときの感動を解析し、さらに演繹(えんえき)して、自分にむかつて説明しようとする。
「真夏の死」より



242: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:34:47 ID:GNq
女の宝石をほめるのは、面と向つてその体をほめるやうなものではなからうか。
宝石への誉め言葉が時あつてふしぎな官能の歓びを女に与へるのはそのためだ。
「宝石売買」より



243: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:35:31 ID:GNq
打算のない愛情とよく言ひますが、打算のないことを証明するものは、打算を証明するものと同様に、「お金」の他にはありません。
打算があつてこそ「打算のない行為」もあるのですから、いちばん純粋な「打算のない行為」は打算の中にしかありえないわけです。
夜があつてこそ昼があるのだから、昼といふ観念には「夜でない」といふ観念が含まれ、
その観念の最も純粋な生ける形態は夜の只中にしかないやうに、又いはば、深海魚が陸地に引き揚げられて形がかはつてゐるのに、
さういふ深海魚をしか見ることのできない人間が、夜の中になく夜の外にある昼のみを昼と呼び、
打算の中になく打算の外にある「打算なき行為」だけを「打算なき行為」とよぶ誤ちを犯してゐるわけなのです。
「宝石売買」より



244: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:36:09 ID:GNq
チベットの反乱に対して、中共は断固鎮圧に当たるさうである。
共産主義に対する反乱といふ言葉は、何だか妙で、ひつかかる。

中共もエラクなつて、正義の剣をチベットに対してふるはうといふのだらうが、
チベットに潜行して反乱軍に参加しようといふ風雲児もあらはれないところをみると
どうも日本人は弱い者に味方しようといふ気概を失つてしまつたやうだ。
世界中で一番自分が弱い者だと思つてゐる弱虫根性が、敗戦後日本人の心中深くひそんでしまつたらしい。
「憂楽帳 反乱」より



245: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:36:45 ID:GNq
思想といふものは、古からうが、新らしからうが、所詮は人間の持物で、
その思想にふさはしい器となる人物は、とにかく魅力を持ちつづける。
「憂楽帳 思想の容器」より



246: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:37:17 ID:GNq
教育も教育だが日本人と生まれて、西鶴や近松ぐらゐが原文でスラスラ読めないでどうするのだ。
秋成の雨月物語などは、ちよつと脚注をつければ、子供でも読めるはずだし、カブキ台本にいたつては、問題にもならぬ。
それを一流の先生方が、身すぎ世すぎのために、美しからぬ現代語訳に精出してゐるさまは、アンチョコ製造よりもつと罪が深い。
みづから進んで、日本人の語学力を弱めることに協力してゐるからである。
「発射塔 古典現代語訳絶対反対」より



247: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:38:16 ID:GNq
現代語訳などといふものはやらぬにこしたことはないので、それをやらないで滅びてしまふ古典なら、さつさと滅びてしまふがいいのである。
ただカナばかりの原本を、漢字まじりの読みやすい版に作り直すとか、ルビを入れるとか、おもしろいたのしい脚注を入れるとか、
それで美しい本を作るとか、さういふ仕事は先生方にうんとやつてもらひたいものである。
「発射塔 古典現代語訳絶対反対」より



248: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:38:49 ID:GNq
日本人は何度でも自国の古典に帰り、自分の源泉について知らねばならない。
その泉から何ものかを汲まねばならない。
この「源泉の感情」が涸れ果てるときこそ、一国一民族の文化がつひに死滅するときであらう。
「文化の危機の時代に時宜を得た全集(『日本古典文学全集』推薦文)」より



249: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:39:30 ID:GNq
文学の勉強といふのは、とにかく古典を読むことに尽きるので、
自国の古典に親しんだのち、この世界文学の古典に親しめば、鬼に金棒である。
「小説家志望の少年に(『世界古典文学全集』推薦文)」より



250: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:40:11 ID:GNq
古典の面白さを一度味はつたら、現代文学なんかをかしくて読めなくなる危険がある。
「小説家志望の少年に(『世界古典文学全集』推薦文)」より



252: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:41:21 ID:T24
>>250
これ言うのすごく勇気要るよな

ミュージシャンに置き換えてみたら



251: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:40:44 ID:GNq
古典文学に親しむ機会の少なかつたことが、大正以後の日本文学にとつて、どれだけマイナスになつてゐるか。
又、大正以後の知識人の思考の浅薄をどれだけ助長したかは、今日、日ましに明らかになりつつある事実である。
「時宜を得た大事業(『日本古典文学大系 第二期』推薦文)」より



253: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:44:24 ID:GNq
「子供らしくない部分」を除いたら「子供らしさ」もまた存在しえないことを、先生方は考へてみたことがあるのかと思ふ。
大人が真似ることのできるのはいはゆる「子供らしさ」だけであり、
子供の中の「子供らしくない部分」は決して大人には真似られない部分であると私には思はれるが、
もしそれが事実なら、大人のいふ「童心」は大人の自己陶酔にすぎないであらう。
子供は先生たちとちぐはぐな場所で、小悪魔のやうに跳んだりはねたりしてゐるだらう。
「師弟」より



254: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:45:08 ID:GNq
私は私自身を押し流さうとする少年期の羞恥から身を守るために、共にその羞恥に責め立てられる人を師として求めた。
しかるに学校の先生たちには羞恥なんかなかつた。彼らは少年たちの羞恥に、医師の態度で接しようと身構へるのだつた。
ところが羞恥を治すためにこれほど拙ない方法は考へられない。
生理的には羞恥の、心理的には自己嫌悪の少年期における目ざめは、
それ自身病気ではなくて、自己が自己自身の医師であることの自覚に他ならないからだ。
「師弟」より



255: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:45:56 ID:GNq
つとめて虚心坦懐に、呑気に、こだはりなく、誠実に、たのもしく振舞ふこと、ケチだと思はれないこと。
男の虚栄心は、虚栄心がないやうに見せかけることである。
なぜなら虚栄心は女性的なもので、男は名誉心や面子に従つて行動してゐるつもりであるから、
「男の一分が立たねえ」などと云ふときには、云つてゐる御当人は微塵も虚栄から出た啖呵とは思つてゐない。
古い社会では、男の虚栄心が公的に是認され、公的な意味をつけられてゐた。封建時代の武士の体面や名前といふものがそれである。
男性の虚栄心に公的な意味をつけておくことは、社会の秩序の維持のために、大へん有利でもあるし、安全でもある。
金縛りよりもずつと上乗な手段である。
「虚栄について」より



256: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:46:30 ID:GNq
君の考へが僕の考へに似てゐるから握手しようといふほど愚劣なことはない。それは野合といふものである。
われわれの考へは偶発的に、あるひは偶然の合致によつて似、一致するのではなく、また、体系の諸部分の類似性によつて似るのではない。
われわれの考へは似るべくして似る。それは何ら連帯ではなく、共同の主義及至は理想でもない。
「新古典派」より



257: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:47:07 ID:GNq
実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない。
何となく「愛妻家」といふ言葉に似た、背中のゾッとするやうな感じをおぼえる。
この、好かない、といふ意味は、一部の神経質な人たちが愛国心といふ言葉から感じる政治的アレルギーの症状とは、また少しちがつてゐる。
ただ何となく虫が好かず、さういふ言葉には、できることならソッポを向いてゐたいのである。
この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。
反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる。
では、どういふ言葉が好きなのかときかれると、去就に迷ふのである。愛国心の「愛」の字が私はきらひである。
自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向う側に対象に置いて、
わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである。
「愛国心」より



259: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:47:59 ID:GNq
もしわれわれが国家を超越してゐて、国といふものをあたかも愛玩物のやうに、狆か、
それともセーブル焼の花瓶のやうに、愛するといふのなら、筋が通る。
それなら本筋の「愛国心」といふものである。
また、愛といふ言葉は、日本語ではなくて、多分キリスト教から来たものであらう。
日本語としては「恋」で十分であり、日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であつて、「愛」ではない。
もしキリスト教的な愛であるなら、その愛は無限低無条件でなければならない。
従つて、「人類愛」といふのなら多少筋が通るが、「愛国心」といふのは筋が通らない。
なぜなら愛国心とは、国境を以て閉ざされた愛だからである。
だから恋のはうが愛よりせまい、といふのはキリスト教徒の言ひ草で、恋のはうは限定性個別性具体性の裡にしか、
理想と普遍を発見しない特殊な感情であるが、「愛」とはそれが逆様になつた形をしてゐるだけである。
「愛国心」より



260: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:48:52 ID:GNq
ふたたび愛国心の問題にかへると、愛国心は国境を以て閉ざされた愛が、「愛」といふ言葉で普遍的な擬装を 
してゐて、
それがただちに人類愛につながつたり、アメリカ人もフランス人も日本人も愛国心においては変りがない、といふ風に大ざつぱに普遍化されたりする。
これはどうもをかしい。もし愛国心が国境のところで終るものならば、
それぞれの国の愛国心は、人類普遍の感情に基づくものではなくて、辛うじて類推で結びつくものだと言はなくてはならぬ。
アメリカ人の愛国心と日本人の愛国心が全く同種のものならば、何だつて日米戦争が起つたのであらう。
「愛国心」といふ言葉は、この種の陥穽を含んでゐる。(中略)
日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。
すつかり藤猛にお株をとられてしまつたが、「大和魂」で十分ではないか。
「愛国心」より



261: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:50:51 ID:GNq
アメリカの愛国心といふのなら多少想像がつく。
ユナイテッド・ステーツといふのは、巨大な観念体系であり、移民の寄せ集めの国民は、開拓の冒険、獲得した土地への愛着から生じた風土愛、
かういふものを基礎にして、合衆国といふ観念体系をワシントンにあづけて、それを愛し、それに忠誠を誓ふことができるのであらう。
国はまづ心の外側にあり、それから教育によつて内側へはひつてくるのであらう。
アメリカと日本では、国の観念が、かういふ風にまるでちがふ。
日本は日本人にとつてはじめから内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的である。
観念の上ではいくらでもそれを否定できるが、最終的に心情が容認しない。
そこで日本人にとつての日本とは、恋の対象にはなりえても、愛の対象にはなりえない。
われわれはとにかく日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である。
(本当は「対する」といふ言葉さへ、使はないはうがより正確なのだが)
しかし恋は全く情緒と心情の領域であつて、観念性を含まない。
「愛国心」より



262: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:51:59 ID:GNq
われわれが日本を、国家として、観念的にプロブレマティッシュ(問題的)に扱はうとすると、しらぬ間にこの心情の助けを借りて、
あるひは恋心をあるひは憎悪愛(ハースリーベ)を足がかりにして物を言ふ結果になる。
かくて世上の愛国心談義は、必ず感情的な議論に終つてしまふのである。
恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。
しかし、さめた冷静な目のはうが日本をより的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。
さめた目が逸したところのものを、恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。
一つだけたしかなことは、今の日本では、冷静に日本を見つめてゐるつもりで日本の本質を逸した考へ方が、あまりにも支配的なことである。
さういふ人たちも日本人である以上、日本を内在的即自的に持つてゐるのであれば、
彼らの考へは、いくらか自分をいつはつた考へだと言へるであらう。
「愛国心」より



263: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:55:20 ID:GNq
この叫び(剣道のかけ声)には近代日本が自ら恥ぢ、必死に押し隠さうとしてゐるものが、あけすけに露呈されてゐる。
それはもつとも暗い記憶と結びつき、流された鮮血と結びつき、日本の過去のもつとも正直な記憶に源してゐる。
それは皮相な近代化の底にもひそんで流れてゐるところの、民族の深層意識の叫びである。
このやうな怪物的日本は、鎖につながれ、久しく餌を与へられず、衰へ呻吟してゐるが、
今なほ剣道の道場においてだけ、われわれの口を借りて叫ぶのである。それが彼の唯一の解放の機会なのだ。
私は今ではこの叫びを切に愛する。このやうな叫びに 
目をつぶつた日本の近代思想は、すべて浅薄なものだといふ感じがする。
それが私の口から出、人の口から出るのをきくとき、私は渋谷警察署の古ぼけた道場の窓から、空を横切る新しい高速道路を仰ぎ見ながら、
あちらには「現象」が飛びすぎ、こちらには「本質」が叫んでゐる、といふ喜び、
……その叫びと一体化することのもつとも危険な喜びを感じずにゐられない。
「実感的スポーツ論」より



264: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:57:03 ID:GNq
そしてこれこそ、人々がなほ「剣道」といふ名をきくときに、
胡散くさい目を向けるところの、あの悪名高い「精神主義」の風味なのだ。
私もこれから先も、剣道が、柔道みたいに愛想のよい国際的スポーツにならず、あくまでその反時代性を失はないことを望む。(中略)
スポーツは行ふことにつきる。身を起し、動き、汗をかき、力をつくすことにつきる。
そのあとのシャワーの快さについて、かつてマンボ族が流行してゐたころ、
「このシャワーの味はマンボ族も知らねえだろ」と誇らしげに言つてゐた拳闘選手の言葉を私は思ひ出す。
この誇りは正当なもので、何の思想的な臭味もない。運動のあとのシャワーの味には、人生で一等必要なものが含まれてゐる。
どんな権力を握つても、どんな放蕩を重ねても、このシャワーの味を知らない人は、人間の生きるよろこびを本当に知つたとはいへないであらう。
「実感的スポーツ論」より



265: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:58:02 ID:GNq
人の思惑に気をつかふ日本人は、滅多に「私は天才です」などと云へないものだから、天才たちの博引旁捜で自己陶酔を味はふが、
ヨーロッパの芸術家はもつと無邪気に「私は天才です」と吹聴してゐる。
自我といふものはナイーヴでなければ意味をなさない。
「戯曲を書きたがる小説書きのノート」より



266: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:58:36 ID:GNq
日本の新劇から教壇臭、教訓臭、優等生臭、インテリ的肝つ玉の小ささ、さういふものが完全に払拭されないと芝居が面白くならない。
そのためにはもつと歌舞伎を見習ふがよいのである。演劇とはスキャンダルだ。
「戯曲を書きたがる小説書きのノート」より



267: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:59:09 ID:GNq
後進国の例にもれず、芸術性と啓蒙性がいたるところで混同されてゐる例は、戦時中の御用文学にあらはれ、
今日また平和運動と文学とのあいまいな関聯を皆がつきとめないで甲論乙駁してゐる情景に見られるのである。
フランスの深夜叢書にイデオロギーにとらはれずに多くの文学者が参加したのは、結局その根本的なイデエが、
政治的権力の恣意に対する芸術の純粋性擁護にあつたからだと思はれる。
「戯曲を書きたがる小説書きのノート」より



268: 名無しさん@おーぷん 2016/02/24(水)23:59:44 ID:GNq
外国の話は、その外国へ行つた人とだけ話題にすべきものだと思ふ。
いはば共通の女の思ひ出を語るやうに語るべきもので、人に吹聴したら早速キザになるのだ。
「外遊精算書」より



269: 名無しさん@おーぷん 2016/02/25(木)00:00:24 ID:MhC
われわれのふだんの会話を注意してきいてゐれば、すこし頭のよい人間は、物事を整理して喋つてゐる。
筋道を立て、簡潔に喋ることが、社会生活の第一条件といふべきである。
心理的な会話なんて、さうたんとはない。
頭のわるい女だの、甘い抒情的な男に限つて、廻りくどい会話をするものである。
「『若人よ蘇れ』について」より



270: 名無しさん@おーぷん 2016/02/25(木)00:01:23 ID:MhC
この間伊豆の田舎の漁村へ取材に行つてゐて、その村のたつた一軒の宿に泊り、夕食に出された新鮮な魚が、
ほつぺたが落ちるほど美味しかつたが、一晩泊つてみてびつくりした。別に化物が出たといふ話ではない。
ここは昔ながらの旅籠屋で、襖一枚で隣室に接してゐるわけであるが、前の晩の寝不足を取り戻さうと思つて、
九時ごろ床についたのがいけなかつた。(中略)
又眠らうと寝返りを打つたとたん、隣りの部屋へドヤドヤと人が入つて来て、酒宴がはじまつた。
と、それにまじつてトランジスター・ラヂオの大音声の流行歌がはじまつたが、
ラヂオをかけながらの酒宴といふのもへんなものだと思ふうちに、それがもう一つ向うの部屋のものだとわかつた。
更に別の部屋からは、火のつくやうな赤ん坊の泣き声。
……夜十時といふころ、宿全体が鷄小屋をつつついたやうな騒ぎになつてしまつた。
「プライヴァシィ」より



271: 名無しさん@おーぷん 2016/02/25(木)00:01:56 ID:MhC
やつと静まつたのが十二時すぎだつたが、それがピタリと静まるといふのではない。
しばらく音がしないで、寝静まつたかなと思ふと、連中は風呂へ行つてゐたので、風呂からかへると、又寝る前に一トさわぎがある。
西瓜の話ばかりなので、商売は何の人だらうと思つたらあとできいたら果して西瓜商人であつた。
一時すぎにやつと眠りについて、朝五時をまはつたころ、村中にひびきわたるラウド・スピーカアの一声に眠りを破られた。
「第八〇〇丸の乗組員の皆様、朝食の仕度ができましたから、船までとりに来て下さい」
それから間もなく静かになつて、又眠りに落ちこむと、今度はラヂオ体操がスピーカアから村中に放たれた。
「プライヴァシィ」より



272: 名無しさん@おーぷん 2016/02/25(木)00:02:32 ID:MhC
──かうして一日たち二日たつた。最初の一夜は、「これは大変だ」と思つたのに、馴れといふものは怖ろしいものである。
二日目にはもう隣室の話し声は気にならず、トラックやバスの響きに眠りを破られることがなくなつた。
三日目になると完全にコツをおぼえ、宿中全員が寝静まらぬうちは眠らぬことにきめ、女中を呼ぶにも大音声を張りあげ、
食事がおそいときは、「おそいぞ!」と怒鳴り、よその子供がバタバタ廊下をかけまはれば、「うるさいぞ!」と怒鳴つて、
夜寝不足ならば十分昼寝をし、ほぼ快適な生活を送れるやうになつた。
──それはさておき、かりにも都会で、プライヴァシィを重んずる「近代的」生活を、生活だと思ひ込んでゐる人間には、
人の迷惑などを考へずにのびのびと暮してゐるかういふ旧式の日本人の生活は、おどろくべきものであつた。
都会なら、となりのうるさいラヂオを容赦しないが、ここではラヂオはすべて音の競争であつて、
隣りのラヂオがうるさかつたら、家のラヂオの音をもつと大きくすればそれですむのである。
「プライヴァシィ」より



273: 名無しさん@おーぷん 2016/02/25(木)00:03:12 ID:MhC
みんながそれに馴れ、何の苦痛も感じないなら、人間の生活はそれで十分なので、何も西洋のプライヴァシィを真似なくてもいい。
西洋の冷たい個室の、完全なプライヴァシィの保たれた生活の裏には、救ひやうのない孤独がひそんでゐるのである。(中略)
そこへ行くと、日本の漁村の宿の明朗闊達はおどろくばかりで、人間が、他人の生活に無関心に暮すためには、
何も厚いコンクリートの壁で仕切るばかりが能ではなく、薄い襖一枚で筒抜けにして、免疫にしてしまつたはうが賢明なのかもしれない。(中略)
しかし、この昔風の旅籠屋が、襖一枚の生活を強制するのが、昔を偲ばせて奥床しいとは云ひながら、それが 
そのまま昔風とは云ひがたい。
何故なら、江戸時代には、人はもう少し小声で話したにちがひないし、怪音を発するトランジスター・ラヂオなんか、持つてゐなかつたからである。
「プライヴァシィ」より



274: 名無しさん@おーぷん 2016/02/25(木)00:05:20 ID:MhC
生きてゐる芸術家とは、どういふ姿になることが、もつとも好ましく望ましいか。
私は或る作家の作品を決して読まない。それは、その作家がきらひだからではない。その作家の作品を軽んずるからではない。
それとは反対に、私は彼の作家としての良心を敬重してをり、作品を書く態度のきびしさを尊敬し、
作品の示す芸のこまやかさと芸格の高さにいつも感服してゐる。
それなのに、私は彼の作品を読まうとしないのである。
何故かといふのに、私が読まなくても、彼は円熟した立派な作品を書きつづけてゐることがわかりきつてゐるからである。
さういふ作品が彼を囲んで、ますます彼の芸境を高めてゐることを知つてゐるからである。
さうなつた作家は、すでに名園である。いはば仙洞御所の御庭である。
行かなくても、そこへ行けば、その美に搏たれることがわかつてをり、見なくても、そこにその疑ひやうのない美が存在してゐることがわかつてゐるからだ。
だが、私は、自分の作品の、未完成、雑駁を百も承知でゐながら、生きてゐるあひだは、
決してさういふ千古の名園のやうな作家になりたいとは望まないのである。
「『仙洞御所』序文」より



275: 名無しさん@おーぷん 2016/02/25(木)00:15:41 ID:MhC
ところで、西洋ではグッド・デザインも意味があるので、ルイ式の家具調度や、
曾祖母ゆづりの食器一式に飽きた人たちが、かういふ簡素なデザインに魅力を感じる意味もわかる。
古くさい家具や食器に対する、離れがたいなつかしさと同時に、不便な憎たらしさがつのつてくると、新デザインの家具や食器がほしくなるのもわかる。
はるかに快適で、便利で、使ひよい。明るく清潔で、手入れも面倒でない。
しかし日本では、そこらへんが微妙である。日本の家ほど機能主義的な家はないので、一間が寝室にも客間にも居間にも茶の間にもなる。
ナイフやフォークやスプーンの代りに、箸が二本あれば足りる。襖は、壁とドアを兼用してゐる。
作りつけのベッドの代りに、ふとんがあり、くたびれたらタタミの上へぢかに寝ころぶこともできる。
……機能主義やグッド・デザインの狙ひはとつくに卒業してゐるので、日本における西洋風とは、最新のモダン・リビング、
最新のグッド・デザインでも、旧来の日本風よりいくらか反機能的な