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「私はナチスの7つの収容所を体験した92歳です。アウシュヴィッツのタトゥーもあります。何でも聞いてください」ホロコースト生存者が海外掲示板で質問に答える:らばQ
2016年04月05日 12:10

「私はナチスの7つの収容所を体験した92歳です。アウシュヴィッツのタトゥーもあります。何でも聞いてください」ホロコースト生存者が海外掲示板で質問に答える

 

92歳のホロコースト生存者00
第二次世界大戦を経験した世代は減り、当時のことを直接知る人も少なくなりました。

海外掲示板で、ホロコーストの体験者が質問を受け付けていました。(ホロコースト=ナチス・ドイツがユダヤ人などに対して行った大量虐殺)

「私はホロコーストの生存者で、92歳になったところです。腕にはアウシュヴィッツ収容所のタトゥーがあり、7つの収容所を体験しました。全てをサバイバルし、人生を存分にに生きています。何か質問があればどうぞ」

92歳のホロコースト生存者01
名前はヘンリー・フレッシャーと言います。オーストリアのウィーンで1924年3月14日に生まれました。現在はフロリダ州に住み、2人のすばらしい娘と3人の孫がいます。(孫の1人がこの質疑応答を手伝ってくれます)
そして生きていて幸せです。質問に答えられることを嬉しく思います。
Henry Flescher,Imgur


Q: ホロコーストの映画は見たことがありますか、それとも見るのが困難ですか?
A: 全て見ました。体験したものを見ることは困難ではありません。全て見ました。今でも友人が「電話のワイヤーをずり落ちるズボンのベルト代わりに使った」ことを理由に、目の前で首をつられたことを覚えています。

Q: 歴史と英語の教師をしています。教師にぜひホロコーストについて生徒に話して欲しいことはありますか?
A: ありのまま話して欲しいと思います。歴史の残忍さから目を背けてはいられません。通常は私たちは歴史を本から学びます。ですがこれは私の人生に起きたイベントでした。自分は目撃し、そして今まだ生きていて話ができます。もうすぐ生存者はいなくなるでしょう。私は92歳です。
全ての生存者がいなくなれば、残念なことに懐疑論者がまた現れるでしょう。だから全員を教育する必要があるのです。これは500年前に起きたことではありません。自分の人生で本当に起こりました。

Q: 「シンドラーのリスト」についてどれくらい正確だと思いますか?
A: かなり近いところまで表現しています。よくできていると思いました。

Q: 収容所への行くことはどういうものでしたか? 何が自分を待っているか理解していましたか? もし知らなかったとしたら、いつそれを理解しましたか?
A: 最初、家畜車に乗せられて、ドランシー収容所へ連れていかれました。食糧や水もなく大勢が詰め込まれて、トイレの代わりにバケツが1つ真ん中にあるだけでした。当時の私は16歳で、においはひどいものでした。
6日経って列車が止まると、看守が私たちを数え始めました。300人が選ばれて列車から下ろされ、私は298番でした。列車はそのままアウシュヴィッツへ向かい、そこで全員が殺されました。私は298と言う数字を絶対に忘れません。

Q: 私たちが当たり前になっていることで、最も楽しんでいることは何ですか?
A: 人生は美しい。家族に会うのが大好きさ。

Q: 解放されたときはどんな気持ちでしたか? 収容所を出てノーマルな暮らしを始められる日のことです。そんな日が来ると思っていましたか?
A: 思っていませんでした。理解もできませんでした。その時、自分は次の死の収容所へ移動させられていました。何とか抜け出して鳥小屋に隠れていました。そのときアメリカの護衛隊が侵攻してきました。米軍の戦車を見て、米兵を見て、私は殺されるんだと思いました。彼らの軍服を知らなかったのです。知らずに鳥小屋を離れて、彼らのところに近づきました。体重は70ポンド(約32kg)でほとんど立っていられませんでした。4月11日のことでした。
解放される日が来るとは思いませんでした。病気で食べることも、話すことも、歩くこともできなかったのです。

Q: 解放された日を記念日にしていますか?
A: 私の誕生日は2つあります。3月14日と4月11日です。

Q: 私は栄養士をしています。解放されたときに体重が70ポンド(約32kg)だったと言っていましたが、食べ始めた最初の数週間に興味があります。
食べ始めたことにより、あなたが気づいたことはありますか? 解放されてからどんなものを食べていましたか? そして体重が常人に戻るまでどれくらいかかりましたか? ありがとうございます。
A: 食べ過ぎて気分が悪くなる人がいました。自分はゆっくりゆっくり食べて回復しました。体重が戻るまでには4〜5カ月かかったと思います。

Q: 3年間の収容所生活のあと、一般の市民生活に戻ってからの移り変わりはどんなものでしたか?
A: 世界を旅したいと思いました。後ろではなく前に進みました。日常生活の変化はかなり難しいものでした。感染症のために胃の4分の3を切除し、かなりの痛みを伴いました。

Q: 収容所で一番記憶に残る体験は何ですか?
A: 赤痢になったときに3日間トイレに行けませんでした。その時はほとんどすべてをあきらめました。

Q: あなたをそんな目に遭わせた人々への憎しみでいっぱいですか? それとも許していますか?
A: 許すことはできません。ですが、憎しみでいっぱいではありません。憎しみは何も向上させません。

Q: 幾人かのホロコースト生存者を知っています。そのひどいホラーをどうやって過ごしたのですか?
A: 毎日生きることだけを考えました。私たちは死ぬために生まれます。ですが人生に感謝しています。1日ずつ生きていきます。私はいつもこう言います。「昨日は歴史、今日は現実、明日は夢」と。

Q: 本にしようと思ったことは? 今でもホロコーストを否定する人がいるので、記録の全てが役立つと思うのですが。
A: ありません。生存者はそれぞれにストーリーがあります。私はスピルバーグ監督にインタビューされ、それがテープに残されています。おそらく全ての生存者は彼によってインタビューされ、記録されているはずです。

Q: 看守は全てひどかったですか? あるいは中には人間らしさや同情する人もいましたか?
A: 兵士たちはみんな自分の仕事をしていました。兵士から同情された覚えはありません。

Q: 収容所にいるときに後悔したことや、やり直しできたと思うことはありますか?
A: 何もやり直しはできず、何も後悔できません。私たちは動物よりひどい仕打ちを受けていました。私の名前は177153でした。

Q: ドイツからですが、ここではホロコーストの否定は犯罪で禁固刑を受けます。このことについてのあなたの意見は?
A: 歴史は否定できず、何らかの罰則は必要だと思いますが、禁固刑が正しいかどうかはわかりません。大勢の人が無知でもあり、それに対してできることは少ないと思います。

Q: 看守が許しを乞うてきたらなんと答えますか。
A: 許さない、忘れない。

Q: 被害者を人間扱いしなかったり、殺したりがシステム化されていたと聞きます。聞けば聞くほど純粋に悪にも思えますが、看守をしていたナチスの人数を考えると、統計的に全員の気が狂っていたとは思いにくいのですが、質問です。
ノーマルな兵士に対してどんな思いでいましたか? 彼らに後悔や嫌々やっている兆候はありましたか?
A: 後悔は見たことがありません。ノーマルな兵士を1人も知らないし、見た覚えもありません。

Q: 私の祖母もホロコーストの生存者です。祖母はワルシャワ出身でアウシュヴィッツから解放されました。86歳の祖母からの質問です。「彼は独身かしら?」
A: 49年半の結婚の後、離婚しました。今でも時々話はします。自分には彼女がいて幸せです。元妻は離婚後すぐに再婚しました。私はあまり長い間独身ではいません。

以前ご紹介した、アウシュヴィッツ生存者の質疑応答は以下をどうぞ。
アウシュヴィッツ強制収容所の人体実験で生き残った双子の女性が、海外掲示板で質問に答える

IamA Holocaust Survivor who just turned 92.

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