5年ほど前に隠し子がいることが発覚して記者会見を開いた愛之助さんですが、当時は黙して語らなかった隠し子の母が週刊文春に過去のいきさつを暴露したのです。
そのきっかけは、愛之助さんに子供のDNA鑑定を求められたこと、と彼女は話しています。
愛之助さんは文春の記事内容を否定していますが、弁護士を立てて話し合いをしていることは認めており、両者の間に何らかのトラブルがあることは間違いないようです。→ Geinou Ranking
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愛之助さんと紀香さんの結婚以降、当ブログではこの記事へのアクセスが急増していました。
→ 片岡愛之助、隠し子認めた!子供の認知は、本人の意思を尊重
5年ほど前、愛之助さんが市川海老蔵さんの代役を務めたことから一気に知名度が上がり、それに伴って隠し子の存在が明らかとなったため記者会見を開いたときのものです。
こちらの記事に沿って、愛之助さんと隠し子のお母さんであるA子さんとのなれそめを一覧表にしてみます。
今回文春さんは大宮美絵さん(47)という仮名で報じてますので、今回は美絵さんと表記します。
1991年 美絵さんと出会う
1993年 片岡秀太郎の養子となる
1995年 国立劇場奨励賞を受賞・上方歌舞伎界でホープとして活躍するようになる
1999年 美絵さんと交際スタート・美絵さん出産
2001年頃 美絵さんと破局
2011年 隠し子発覚・記者会見
という流れですが、今回、大宮さんが文春に話したという内容とはかなり食い違う部分があります。
まずは、愛之助さんが11年の記者会見で話したこんな内容についてです。
(以下引用)
騒動を受けて、大阪松竹座で釈明会見を開いた愛之助の口から明らかにされたのは、
「女性との入籍も、子どもの認知もしていない」
という事実。
「結婚しなかったのは、2人で話し合い、それぞれの生き方で行こうと決めた」
「(認知は)子供が大きくなって、本人の意思を聞いて決める」
と説明した愛之助だが、美絵さんはこう語る。
「『それぞれの生き方で行こう』なんていう話し合いは一切していません。
彼は何も言わず、家を飛び出してフェードアウトしていったんです」
(以上引用 週刊文春)
何も言わずに家を出てフェードアウト。
愛之助さんの元カノ・熊切あさ美さんとの別れ方にそっくりですね。
美絵さんによると、愛之助さんと知り合ったのは18年前とか。
つまり98年ごろということになりますね。
当時堺の実家で暮らしていたという愛之助さんは、だんだんと美絵さんの家に泊まることが増えていったとか。
美絵さんも愛之助さんの実家に遊びに行くなど、愛之助さんの実父母公認の仲だったそうです。
交際スタートから1年後の99年に美絵さんは妊娠。
愛之助さんの反応は「困ったな」というものだったとか。
(以下引用)
「『芸養子なので(養父の)秀太郎さんにも言いにくい』と。
認知というのは戸籍に入れるのとは別なのに、
『戸籍に入れるんやったら、(当代の)仁左衛門さんにも許可を得ないとあかん。そんな話を今のオレはできない』と。
なら、いつすんの。私が話をしに行く、と言ったら、
『そんなんしたら、自分食べれなくなるで』と言うんです。
『オレの仕事も全部なくなって、オレの収入もなくなって、松竹から追い出されて、歌舞伎もすべて失うことになるねんで、それでもええの?』と言うんですよ。
それでもええの、とか言われたら……。
この人から歌舞伎をとったら可哀想やなと思って、ずっと黙ってたんです」
(以上引用 週刊文春)
芸養子というのは、そういうものなんでしょうか。
歌舞伎界で隠し子騒動ってそんなに珍しくないイメージですし、芸の肥やし、なんて言葉もありますし、怒られて歌舞伎界から追放されるようなことだとは思いませんでした。
こんなにいる!芸能界・隠し子一覧
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それでも、愛之助さんとは家族ぐるみの付き合いが続き、愛之助さんの実父母の最期を看取ったのは美絵さんだったのだそう。
11年の会見で、愛之助さんは美絵さん母子とは3、4か月しか一緒に住んでおらず、子供が自分を父親だと認識しているかはわからない、と述べていますが、実際はお子さんが幼稚園の年中になるまで一緒に暮らしていたといいます。
(以下引用)
「彼が出て行ったのは息子が幼稚園の年中(4〜5歳)のとき。
もちろん父親が誰かということはわかっています。
幼稚園でも友達のお母さんから
『パパは歌舞伎役者でしょ』
と言われることもありました。
(同棲は)割とあけっぴろげにやっていたんです。
3人で松竹座の近くの生國魂神社にお宮参りにも行きましたし、幼稚園に車で送り迎えしたこともあります。
それが、何かちょっとずつ……。
やっぱり売れてきて、家を空けるようになって。
そのうち、もうずっと帰ってこない時期があって。
息子は『パパ、どこへ行ったん?』って言いますし。
パパはちょっと今仕事で遠くへ行ってるんだよ、ということでなだめてはいたんですけど。
連絡はメールとかではつくんですが、電話は出ないようになって。
幼稚園の父兄参観の連絡を入れたときに、『そんなん行けるわけないやろ』と返事がきてもう帰ってこないんやと思いました」
(以上引用 週刊文春)
その後、美絵さんは、周囲が事情を知っている大阪に居づらくなり京都に転居、ほぼ独力で息子さんを育ててきました。
どうしても息子さんにお金が必要な時は愛之助さんにメールでお願いしてお金を振り込んでもらっていたそうです。
これが、愛之助さんが11年の会見で話していた、
「メールでやりとりをして(支払いを)させていただいております」
という部分に相当するのでしょうね。
あの会見後も息子に会いに来るどころか連絡すら取らなかったという愛之助さんですが、熊切さんとの交際が報じられていた14年の年末にこんな連絡が来たのだそうです。
(以下引用)
「14年の年末、突然、
『お金のことでゴチャゴチャ言われるのもいややから、こっちもこっちで代理人立ててるし』
と言って、弁護士から連絡が来たんです。
定期的に養育費が支払われるようになったのは、弁護士とのやり取りがあってからです。
認知についても近いうちに手続きを取る、ということでした」
(以上引用 週刊文春)
さて、ではここまでの流れを整理してみます。
93年 片岡秀太郎の養子となる
95年 国立劇場奨励賞を受賞・上方歌舞伎界でホープとして活躍するようになる
98年 交際スタート
99年 息子誕生
03年頃 同棲宅に帰ってこなくなる
11年 隠し子発覚・記者会見
13年 熊切あさ美と熱愛発覚
14年 弁護士を立てたと連絡あり・養育費が定期的に支払われるようになる
11年当時の記事とは、二人の出会いの時期と、破局の時期が違ってますね。
さて、なぜ今になって美絵さんが当時の内幕を暴露したのかというと、愛之助さんが紀香さんとの結婚会見の翌日に、弁護士を通じて息子さんのDNA鑑定を要求してきたから。
(以下引用)
「結婚会見の翌日、私の代理人である弁護士から、
『先方が(息子の)DNA鑑定をしてくれと言っている』
と聞いたのです。
5年前、隠し子騒動として報じられたとき、自分の息子だと発表したにも拘わらず、今さら何で?と強いショックを受けました。
弁護士は『いろんな人に言われてるんだろう。受けませんよね?』と言う。
今まで12年間、息子に対して『1回会ってご飯でも食べようか』という話もないし、『元気か』の一言も一度のメールもない。
それで今度はDNA鑑定。
息子をどうするつもりなのでしょうか」
(以上引用 週刊文春)
このタイミングでDNA鑑定を申し出るというのは、やはり最近身近になった方からの入れ知恵、という感じがしますよね。
流れ的には、きちんと養育費を払ってあげて、と愛之助さんに勧めたのが熊切さん、自分の子供かどうかきちんと調べた方がいいと勧めたのが紀香さん、ということになるでしょうか。
おそらく、愛之助さんは4、5歳まで一緒に暮らしていたこともあり、息子が自分の息子であることを疑ってはいないのでしょう。
ただ、公式には3、4か月しか一緒に暮らしていないことになっているため、それで本当に自分の子ってわかるの?と突っ込まれたら返事のしようがなさそうです。
そのあたりでDNA鑑定という話が出てきたのかな…という邪推はしちゃいますね。
この報道について、愛之助さんは“事実とかけ離れた記事の内容が出ており、僕自身大変驚いております”と、記事内容を否定しています。
どの部分を否定しているのかは定かではありませんが、続けてこう書いています。
“この件に関しましては、弁護士を立て以前より話をさせて頂いております”
弁護士を立てて話し合いをしている事実は認めたわけです。
今回の文春の報道がすべてでたらめだったとしても、美絵さんとの間に何らかのトラブルを抱えている可能性は高そうです。
愛之助さんの妻・紀香さんの事務所は、芸能界では泣く子も黙るバーニング系列です。
この報道にバーニングがどう出るのか、そして、前夫・陣内智則さんとは陣内さんの女性関係が原因で離婚した紀香さんが、この報道をどうとらえるのか、どう反応するのか、下手するとこの騒動、長引く可能性もありそうですね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
藤原紀香、片岡愛之助のブログはこちら
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