杏「きらりがハピハピって言わなくなったから」
『働きたくない』
それは労働という責務を強いられたこの世の中で、確かな自由を与える魔法の言葉。
そうだー! 働きたい人が働けばいいんだー!
そんな杏の足掻きは、この世界には通用することもなく。杏は働かなければならなかった。
アイドルになって、夢の印税生活が待っていたはずなのに……。ど、どうしてこうなった……。
そうだ! どうしてっ! どうして、働かなければいけないんだー!
働くことが素晴らしいなんて、そんなことは思わないぞー!
め、メーデー! ここに非労働者の墓を建ててやるー!
……なーんて。
男女共同参画社会が生んだ弊害を一身に受けた杏は、働くことを強いられたわけなのだ。いも。
あ、そうだ。
杏のことを知らない人もいるかもしれないから、ちょっとだけ昔話をしよっか。
むかーしむかし。
双葉家に産まれた双葉杏は、「不労所得万歳!」という言葉と共にこの世に生を受けました。
その時、母は「お父さん、保有株の株価が上がってるわ!」と喜び、父は「これで我が家も貯蓄に困らなくて済むな!」と返したそうな。
日経新聞は大慌てで杏のことを取り上げて、「日本に舞い降りたアダム・スミスだ!」と騒ぎ立てた。
ついでに、杏の銀行口座には大量のお金が舞い降りた。
めでたしめでたし。
――まあ、そんなわけもなく。
双葉杏は、どこにでもいる平凡な女の子だったそうな。
……ん? 本当にそうだったっけ?
む、昔話かあ。
うーん、思い出してみてもあんまり楽しいことはなかった気がするなあ……。
そもそもさ。杏は昔からめんどくさがりを理由に色んなことを言われることが多かったんだよね。
思い出せばたくさんあるけど、クラスの友達にもよく言われたセリフがこれ。
「双葉さんって、どうしてそんなにやる気ないの?」
あー、ごめんごめん。やるやる、やりますよ~。
っていうのが、いつものパターンだったっけ。
そんな小言を言われつつ、窓から外を眺めたらさ。
学校の外にはいつも部活動で走り込みしてる陸上部だったり、必死になって同じフレーズを練習してる吹奏楽部の子がいたわけ。
他にも、学校行事に精を出して夜まで残ったり、校舎の裏で一生懸命先輩に告白したりしてる子がいたり。
学校ってそういう子で溢れてた。
そんな子たちを見る度に、杏には無縁の世界だなあって、ひしひしと感じながら食べる飴玉はいつもよりほろ苦かったんだよね……。
ただのコーヒー牛乳味の飴玉だっただけなんだけどさ。
うーん、雪印……。
「やればできるのに、本当に双葉さんはもったいないね」
……っていうのは担任の先生の言葉。
やればできる子って、それ生きているうちに何回言われたか分かんないよねー。
言われるたびに、はい次は頑張りますー。
って返したら、まだ言い足りないぞって顔しててさ。
その顔見る度に、家に帰ったら何のソフトで遊ぼっかなあって考えてた。
まあ、詰まる所。
杏は「頑張る」ってことを頑張らなかったわけ。
そんな杏にも、ようやく頑張ると言う気持ちが芽生えたのは17歳のころ。
な、な、なんと。
杏はアイドル事務所からスカウトされたんだ。
杏が食いついたのは、アイドルっていう仕事じゃなくて、『印税』と言う言葉だったんだけど。
印税、それは不労所得を得るための栄光の架橋……。
瞳の奥でキラキラと輝く幾千ものお金。
二つ返事で返したものの、すぐには決まるわけもなく。
名刺を差し出してきたプロデューサーという男の話を詳しく聞くために、向かった先がアイドルのオーディションだった。
い、印税について詳しく聞かせてもらおうか……。
という意気込みでいたのは、あの中では恐らく杏だけだったはず。
……オーディション。そんなこともあったなあ。
たしか、あのとき初めて――きらりに会ったんだっけ。
きらり、と言えば『諸星きらり』という女の子のことなんだけど。
きらりは、まず第一印象からものすごかった。
喋り方もズレてるし、は、ハピハピ? なんじゃそりゃ……ってなったもんね。
それに、そうやって振る舞ってるのに身長が大きいんだよ。
大きいって、言っても普通サイズじゃないよ?
で、デカくない……? って聞き返したくなるくらい大きかったんだからね?
まあ、そんなインパクトも背丈もデカかったきらりだったけど、話してみたら実は普通の女の子でさ。
大きな体に似合わず、結構緊張したりするし、小心者みたいなところもあったんだよね。
杏はこんなんだから、小さい体を不思議そうな目で見られたこともあったけど、きらりはきらりで大きい体を気にしてて。
――そんな二人だったから、どこか馬が合ったのかもね。なーんて。
で、ここからが大事な話。
それはいつも通り、杏が事務所でダラダラしてたときのこと。
ポチポチって新作のゲームで遊んでたら、事務所の扉が開いてさ。すぐに扉の向こうからきらりが現れたんだ。
「お~、きらり。やっほー」
ひらひらときらりに向かって杏が手を振ったとき、ちょっとした違和感を感じたんだ。
……あれー? きらりが「にょわー! 杏ちゃーん!」って言ってこないなあって。
「……きらり?」
やっていたゲームを置いて、きらりの方を眺めると、きらりは俯き加減で立ち尽くしてて。
これは、何かヤバい予感がする……って杏の第六感が感じ取ったんだ。
「き、きらり……。どうしかしたの?」
三度目の呼びかけにも、きらりは反応しなかった。
ただ何も言わずに、その場に立っていた。
……。
「杏ちゃん……」
いつもより、低いトーンでようやくきらりが声を出した時、杏はきらりの前まで足を運んでいた。
気分悪いのかなとか、もしかして女の子の日? とかいろいろ考えてた矢先。
「うっきゃー!」
「わっ!」
落ち込んでいたと思ったきらりは、突然ふるふると体を揺らし始めた。
な、何事だ? と若干反応に困っていた杏だったけど、しばらくするとまたすぐにきらりは俯いていた。
情緒不安定だな……やっぱりあの日なのかな? と憶測を結論へと近づけていた杏であった。
……いやいや、そうじゃなくて。
「どうしたんだよ、きらり。なんか今日変だぞー」
その言葉に反応して、またピクリときらりが肩を動かす。
それから、ズリズリと大きな体をソファのところまでその足で持って行くと、ドサリと腰を下ろした。
あ、杏ちゃ~ん……。とモジモジと杏の名前を呼ぶきらり。
な、なんだよ……。とうろたえる杏。
そして、一言。
「……す、好きな人出来ちゃった」
へ? って杏の口からそんな声が出た。
およそ三秒ほどの沈黙が流れた。
杏は、ぽかーんと口を開いたまま、きらりの方を眺めていた。
きらりはと言うと、恥ずかしそうにソファに置いていたクッションに顔を埋め、杏の方を見ないようにしていた。
けらけらと杏が大声で笑ったのは、きらりの言葉の意味を理解した後だった。
ひーひーとお腹を抱えて杏が笑ったのが気に障ったのか、きらりは頬を膨らませていた。
「もう杏ちゃん……! あんまり、笑わないで欲しいにぃ……」
語尾が下がっていくきらりは、そのまま顔を俯かせた。
その顔はリンゴ飴みたいに真っ赤だった。
そんなきらりにゴメンゴメンと謝ると、杏はぽけーっときらりの顔を見つめていた。
へー、そっかあ。あのきらりがねえ。
なんだか感慨深いようで、未だあまり理解できずにいた杏であった。
……って違う違う。ぽけっとしてる場合じゃなくて。
「で、その好きな人って?」
ぽりぽりと頭を掻きながら飛び出してきたのは、そんな問いかけだった。
いやあ、好きっていうんだったらさ。
やっぱり気になるよねー。
普段はこんなこと首を突っ込む柄でもないんだけど、きらりが相手ってなるとそういうわけにもいかないでしょ?
ソファまで足を運ぶと、杏はじーっときらりを眺めた。
きらりはと言うと、もじもじと人差し指を合わせながら、ちらちらとこっちを見つめていた。
「なんだよー。言えよー」
肘でうりうりときらりを突っつくと、きらりは蚊の鳴くような声でぼそぼそと話し始めた。
……ふむふむ。
相手は、同じ学校の男の子かあ。
思ってたよりありがちだな……。
きっかけはなんかあったの?
んー。困ってたところを助けてくれたんだ。
へえ、それで気になっちゃったと。
それで? その子、どんな子なの?
ほー、同い年。あ、でもクラスは違うんだ。
髪型は? ふーん、普通。
身長は? はあ、普通。
頭いいの? え? 普通?
なんか、すごく普通な子だなあ……。
「で、でもでも! すっごくいい人なんだよ?」
きらりが言うなら、まあいい人なのかもしれないけどさ。
なーんか、イマイチ、ピンと来ないよね。
頭で、その男の子のイメージ図を思い浮かべてみる。
……。いや、めちゃくちゃ普通だ。そりゃそうか。
「はあ……」
疲れた。
心の底から疲れ切った杏は、もう真剣に何もしたくないと思い始めていた。
街はもうすっかり暗くなっていて、ちらほらとお店の灯りが道を照らしていて。
杏はベンチに深く腰掛けて、そんな風景を眺めていた。
……帰って、寝たい。いや、もうほんと眠たい。
そんな杏に、はいこれ! と嬉しそうにきらりはクレープを渡してきた。
んー、ありがとー。とそれを受け取ると、もがもがと口に頬張る。
ほお、コレは中々いけるなあ。
バナナと苺にたっぷりの生クリームとアイスが挟み込まれたクレープは、疲れた体に効くね……なんてことを考えながら、しみじみとそれを味わう。
「……」
ふと、隣を眺める。
きらりは、手にクレープを握りしめたまま、それを食べようとしなかった。
それ、食べないの?
杏がそう尋ねると、ふるふると首を横に振る。
んー? ときらりの様子がおかしいことに首を傾げる。
「……どうかしたの?」
クレープから口を離すと、杏はそう口にする。
喧騒が、辺りを埋め尽くしていて。
――きらりは、どこか遠くを見つめていた。
思わず、きらりの見ていた方を眺める。
すると、そこには学校帰りの女子高生が三人並んで話していた。なにやら、楽しそうに盛り上がっているみたいだ。
別にその光景自体が、特に珍しいものに思えなかった杏は、やっぱり首を傾げた。
きらりはずっと遠くを見つめていて。
ずっと、ずっと。その子たちを焦がれるように見つめていたんだ。
そしたら、ぼうって光が街の明かりが靡いてさ。
そんな光景が凄く、切なくて。
杏はぐっと息をのんだんだ。
……きらりね。
そう前置きを入れると、きらりは何かを思い出したかのように話し始めた。
「……身長が、ちょっとおっきいから。昔から、みんなに怖がられちゃって」
うん。
「だから……、喋り方をもっと、もーっとかわいくしようって思ったんだにぃ」
……知ってるよ。
「そしたらね。みんなきらりと一緒にハピハピってしてくれて……毎日がすーっごくあったかくなったんだぁ」
……杏は何も言わないで、ただじっときらりの言葉を聞いていた。
きらりの一言、一言を飲み込むみたいに。
「でも、きらりも、いつまでもこんな喋り方……出来ないって、思って……」
きらりは杏の方を見ないで、ずっと自分に話しかけるかのように呟いていた。
少しずつ。
少しずつ、声が小さくなっていく。
「普通って……、むずかしいね……」
きらりが最後にそう声を絞り出した時。
もう、目の前にはさっきの女子高生はいなくてさ。
だから。
だから、杏は、なんども、なんどもきらりの言葉を頭で繰り返したんだ。
……そっか。
だから、きらりは。
さっきの子たちのこと、ずっと見てたんだ。
ずっと普通になりたくて。
でも、生まれ持ったものがそれを邪魔をしてきたから。
だから、殻を被って、自分を閉じ込めた。
きらりは、いま、それを脱ごうともがいてるんだ。
――好きな人に、自分のいちばんを見せたくて。
だったら。
きらりがそう言うんだったら、杏にも考えがあるよ。
「……カエダーマ大作戦だね」
「え?」
突然、杏がそんなことを言ったもんだから、きらりは素っ頓狂な声を上げた。
もがもがと最後までクレープを口に詰め込むと、がたりとベンチから立ち上がる。
「諸星きらり、カエダーマ大作戦だよ!」
「カエ、ダーマ?」
……まあ、作戦名はこっちの話として。
「デートまであと何週間あるの?」
「え、っと……。デートは2週間後、だよ?」
「それじゃあさ――」
手伝うよ、最後まで。と、杏は頷く。
杏の言葉をはじめは理解していなかったきらりだったけど、杏の真剣さが伝わったのか、ぐっと唇を強く噛んでいた。
「杏ちゃんには、いっつも助けられてばっかだだにぃ……」
なんだよ、そんな顔するなよー。
杏がきらりの頭を撫でると、きらりは嬉しそうに笑った。
大丈夫。きっとうまくいくよ。
だって、きらりは、きらりだもん。
なんて、杏もつられて笑った。
別れ際。
それじゃあまたね。ってきらりに手を振って、杏が帰路につこうとしたとき。
後ろからきらりが、杏の名前を叫んだ。
なんだなんだと振り向くと、きらりは手を口元に当てて、こう一言付け足した。
――きらり、今日からハピハピって言うのやめゆー!
きらりは、杏に向かってそう言ってのけた。
だから、杏は、もうブンブンって腕が千切れるんじゃないかってくらい、思いっきり手を振り返して。
きらりの姿が見えなくなるまで、ずっと手を振ってた。
きらりー、頑張れー! って。そんなの口では言わないけどさ。
きらりが見えなくなったとき。
杏は、振り返した手が少し鈍くなっていくのを感じた。
でも……それがなんでかは分からなかった。
――カエダーマ大作戦は、その次の日から実行された。
例えば、普段の会話の中で。
ハピハピすゆ~、とか言ってるきらりをつっついたり。
例えば、仕事終わりの車の中で。
プロデューサーの横に座って、なにやら楽しげに話すきらりに対して、おーい、きらり。また戻ってるぞー。と杏が注意したり。
そのたびに、きらりははっと気づいたように顔を赤らめていた。
口癖とか、そういうのってさ。ふつう、そんな数日とかそこらで直せるもんじゃないよ?
でも、きらりは本当に頑張ってたんだよ。そんな自分を見つめ直そうとしてたんだ。
そんな日が、数日ほど続き……。
程なくして、きらりは少しずつ『きらり』から遠ざかっていった。
杏の知ってるきらりから、少しずつ――。
……。
それは、デートの数日前のはなし。
カエダーマ大作戦の効果があったのか、きらりは見るからにあの喋り方をしなくなった。
仕事では、アイドルとしてのイメージがあるから、いつも通り振る舞ってはいたけれど。
それでも、日常会話ではまるで普通の女の子みたいに話してて。
周りの皆もそれに驚いたりもしたけど、きらりのことを良く知ってるから、何も怖がらないで傍にいてくれてた。
少し大人っぽくなったね、なんて年長組の人から言われると、きらりは少し照れくさそうに笑ってさ。
年少組からは……、前の方が可愛かったけど、今のきらりちゃんも可愛いね、なんて言われて、またまた照れくさそうにして。
……そんなきらりを見て、杏はどこかふわふわとした気持ちでいたんだ。
うん、これで良かったんだよね。
きらり自身が、変わるきっかけを作れてさ。
それで、デートも成功したりしたら。
……もうほんと、こっちまでハピハピじゃん。
ふふ、と笑ってから、杏はまたポチポチとゲームを続ける。
そんな杏に、誰かが声をかけてきた。
――杏ちゃん?
良く聞き覚えのある声だ。
なんだよー、いまいいところなんだぞ。っていうと、その子は困ったように眉を下げた。
……なに。なんか、用事?
そう付け加えると、きらりはいつも通り、話し始めて。
でも、そこには、いつもの『きらり』はいなかった。
――杏ちゃん、聞いてる?
そう言われて、はっと我に返る。
――もう、ちゃんと聞いてよね。
はは、ごめんごめん。
なんてそんな乾いた言葉を返す。
――デートね。お店とかいろいろ調べて、たくさんいいところ調べたんだ。
そうなんだ……まあ、そのほうが良かったかもね。
前のお店は、結構好み激しいだろうし。
――うん。いつも、ありがとう。
そんなこんなで会話をして。
ひとしきり用事を話し終えると、きらりはどこかへ行ってしまった。
気づいたら、画面にはゲームオーバーの文字列が。
ああ、またもっかいやりなおしかあ……。
そう思ってやり直しても。何度やり直しても、クリアできなくて。
いつもなら間違えることのないミスを連発してしまった杏は、そっとゲーム機を机の上に置く。
……。
ぼんやりと宙を見つめる。
そう、あれは紛れもなくきらりだった。
だけど、そうじゃなくて。
カエダーマ大作戦は、思いのほか成功したんだ。
でも。それはいつの間にか、杏にズシンと重く圧し掛かっていた。
自分で言ったはずなのに、どうしてなんだろう。
なんてそんなことを思うのだ。
そんな杏の元に、どこからともなく『だらだら妖精』が現れる。
<
コメント一覧
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- 2016年06月21日 22:47
- 杏ときらりは一緒にいないと片方がダメになる
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- 2016年06月21日 22:56
- あーもう最高の二人だよ
夢中で読んじゃったわ
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- 2016年06月21日 23:17
- やだすてき。こういうのもっと読みたいわ。
-
- 2016年06月21日 23:18
- ――そう、Pなんていらなかったんだ――
-
- 2016年06月21日 23:20
- あんきら最高かよ
男の方もちゃんとしたヤツで良かった
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