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【増補】古代末期の歴史について適当に学ぼうぜ | 不思議.net

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【増補】古代末期の歴史について適当に学ぼうぜ

2016年08月23日:20:00

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コメント( 5 )



2: アスペニート 2016/08/22(月) 15:47:20.803 ID:ykPl+wVy0
イギリスからチュニジアまであっちこっち話飛ぶしややこしい時代なんでまず最初に大まかな流れを説明すると
ローマ帝国弱体化して四世紀末東西に分裂、キリスト教が広まる

フン族に攻撃されてゲルマン民族の一派ゴート族が動き出したのを皮切りに次々にゲルマン人がローマ領内へ侵入

旧ローマ領各地にゲルマン人による王国ができる。ゲルマン人が文明化されはじめる

気がついたら西ローマ帝国滅亡

他のゲルマン人王国も滅んでいく中でフランク王国が強大になる

イスラームの勃興により強国だった東ローマ帝国も弱体化する

九世紀初頭フランク王国のカール大帝のあとヨーロッパ各国の枠組みが出来始めヨーロッパは本格的な中世世界へ
一言で言えばゲルマン人世界とローマ人世界がミックスされた結果なんか新しい時代が誕生(するような気が)したのがこの時代

3: 海老天 ◆EBITEN.OiVVZ 2016/08/22(月) 15:49:21.610 ID:qye22f17d
摂関政治の終わりから急激に変わったよな

4: アスペニート 2016/08/22(月) 15:50:17.970 ID:ykPl+wVy0
>>3
院政あたりからもまた急激に変わってるぞ

5: アスペニート 2016/08/22(月) 15:50:45.566 ID:ykPl+wVy0
ちなみにこのスレは依然立てたスレの流用で増補部分は東ゴート戦争あたりからです
古代末期とかいう動乱の時代の歴史を適当に学ぼうぜ
http://world-fusigi.net/archives/8384333.html

6: アスペニート 2016/08/22(月) 15:51:46.600 ID:ykPl+wVy0
まずゲルマン民族・ゲルマン人ってなに?ってお話
印欧語族という言葉がある
これは「インドで昔使われてたサンスクリットって言葉とヨーロッパのほとんどの言語は親戚じゃん!」と近代の学者に発見された概念
つまりもともと一つの言葉(印欧祖語)を話していた民族がどこかにいてインドとヨーロッパに分かれたということなんだけど
そのヨーロッパに行ったグループの中でもさらに幾つかの集団に分けることができる

7: アスペニート 2016/08/22(月) 15:54:28.183 ID:ykPl+wVy0
現代も話されている言葉を元に分類すると
ゲルマン語派―英語、ドイツ語、オランダ語、フィンランドを除く北欧各国語
スラヴ語派―ロシア語、ポーランド語、チェコ語、バルカン半島の諸語等
ロマンス語派(ローマ系、つまりラテン語の子孫)―イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語
バルト語派―リトアニア語、ラトビア語
ケルト語派―ゲール語、ブルトン語等
ヘレニック語派―ギリシャ語
アルバニア語派―アルバニア語
これが現在の印欧語系の言語を使う国の分布
no title

ハンガリー語、エストニア語、フィンランド語、バスク語、サーミ語などもヨーロッパで使われている言語だけど印欧語族ではない
この中のゲルマン語派の言語を話していた人たちがこのスレで言うゲルマン民族・ゲルマン人というわけ

8: アスペニート 2016/08/22(月) 15:57:32.993 ID:ykPl+wVy0
ゲルマン人はもともと現在のデンマークとドイツの国境地帯、それにスウェーデン南部などに住んでいた事がわかっている
それがローマ人が地中海沿岸地域を中心に巨大な帝国を築く頃になると
ゲルマン人も生息域を拡大して今のドイツ一帯に広まっていた
緑がゲルマン人の地ゲルマニアと呼ばれるようになった地域
この地図には乗ってないけど北欧もゲルマン系の民族が住んでる
no title

このあと何回か出てくるローマの主要な属州の名前もカナで書いといたんで参照してくれ

9: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 15:58:17.710 ID:G3mc7ZmW0
ヨーロッパの起源後って、古代って感じせーへんねん

アウグストゥス前までが古代って感じ

12: アスペニート 2016/08/22(月) 15:59:16.835 ID:ykPl+wVy0
>>9
でも中世って感じもしないからなぁ

10: アスペニート 2016/08/22(月) 15:58:44.605 ID:ykPl+wVy0
そのころからゲルマン民族とローマ帝国とは良く戦っていた一方で平和なときには人的交流、経済的交流もなされていた
紀元9年にローマの将軍ウァルスがゲルマニアを征服しようと信頼する部下のゲルマン人アルミニウスの手引で敵地奥深くまで進軍したが
アルミニウスはその裏で密かにローマと戦うためにゲルマンの諸部族を糾合して同盟軍を作り上げウァルスの軍団を待ち伏せしていた
そして「トイトブルクの森」と呼ばれる場所で奇襲を受けたローマ軍の三軍団二万人超は三日間に及ぶ激闘のすえ全滅する
ゲルマン人の英雄アルミニウス。現代のドイツ語ではヘルマンという名前になり一種の民族的英雄になっている
no title

この敗戦以降ローマ帝国はゲルマニア全土の征服を諦め、ローマ世界とゲルマン世界の境界線ができあがった

13: アスペニート 2016/08/22(月) 16:01:19.717 ID:ykPl+wVy0
典型的なゲルマン人とラテン系のローマ人の違いについて
身体的特徴で言えば黒髪が普通ののローマ人に対してゲルマン人は金髪碧眼で身長も高い
文明で言えばローマ人は城壁に囲まれた都市を作ってその周りの農地と海を支配する民族だとするとゲルマン人は森の民族
ゲルマン人の社会は貴族・自由人・奴隷からなり有力貴族から首長や王なども登場し始めていたが
絶対的な権力はなく重要事項は民会という貴族と自由人の会議で決定される
ゲルマン人の主要な生業は牧畜で農業はかなり未熟な段階で補助的なものに過ぎなかった
農耕に頼らない暮らしをしていたからこそ、この時代に家族と財産を伴ってヨーロッパを大移動できたということでもある

14: アスペニート 2016/08/22(月) 16:02:45.418 ID:ykPl+wVy0
宗教について
ゲルマン人にはもともと固有の多神教を信仰していて
それは数百年後の北欧でオーディンやトールという名で記録されることになる神々だった
一方この時代のローマ帝国ではキリスト教が台頭しつつあり、皇帝コンスタンティヌスがミラノ勅令(313年)でキリスト教を公認してからその勢力は伸びる一方だったが
同時に教義をめぐっていろいろな宗派で論争もあってキリスト教徒も一枚岩でなかった
その上旧来のローマの多神教の信仰も根強く生き残っていて、さらにプラトン哲学を宗教的に発展させた新プラトン主義やさまざまな宗教の教義を取り入れたマニ教…etcもあってこの時代は宗教事情も混沌としていた

15: アスペニート 2016/08/22(月) 16:04:29.039 ID:ykPl+wVy0
そしてローマ帝国が三世紀の危機と呼ばれる内乱の時代をなんとか乗り越えた時
すでに全盛期とは違ってローマはその長大な国境線を守り切ることが困難になっていた
少しでも領土を守りやすくするために国境線の奥に軍団を配備し複数の皇帝で領土を分割して統治する慣習ができた
293年からの「テトラルキア」と呼ばれる分割統治体制の変遷図
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しかも内乱の最中ローマの傭兵として使われることが多かったのは野蛮人と馬鹿にされていたゲルマン人で
以降ローマ軍の指揮官の中にもゲルマンの血を引く人物が多くなる

16: アスペニート 2016/08/22(月) 16:10:18.276 ID:ykPl+wVy0
さてゲルマングループの中の東方に広がった「東ゲルマン」というグループのそのまた一派にゴート族という民族がいた
伝承によればもともとスウェーデン南部(黄緑)に住んでいたというが真偽はよくわからない
とりあえずバルト海南岸(赤)にいたことがあるのは確実で豊かな土地を求めてローマ帝国の衰退期には
黒海北岸(オレンジ)の草原地帯に到達しそこで独自の国を築いていた
no title

ゴート族の国家はいくつかに分かれて統合と分裂を繰り返していたようだが、
有力だったのは西ゴート王国と東ゴート王国の二つだった
彼らは三世紀のローマの内乱時にローマ領を攻撃して荒らしまわったが
その時は帝国を揺るがす程の被害にはならなかった
このゴート族が民族大移動時代の主役と言ってもいい働きを演じる

17: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 16:11:43.041 ID:GpGSJZkCd
>>16
ゴート札と関係あるのか

18: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 16:13:08.073 ID:Ksr6I8o/0
マケドニアって現代もあったのか初めて知った

21: アスペニート 2016/08/22(月) 16:14:44.140 ID:ykPl+wVy0
>>17
たぶん名前だけ借りたんだと思う

>>18
確かに日常ではあんまり聞かないね

19: アスペニート 2016/08/22(月) 16:13:25.793 ID:ykPl+wVy0
そんな中で四世紀にはゴート人とゴート人の捕虜となって連れてこられたギリシャ系ローマ人のキリスト教徒との間に生まれたウルフィラという人物が現れる
ウルフィラはキリスト教徒として育ち、ゴート語とギリシャ語の両方を操り東ローマと関わりを持つうちにゴート族への伝導を託されるようになる
彼はわざわざ自分たちの言語で書き表すのために文字まで考え出して
ギリシャ語の新約聖書をゴート語に翻訳してゴート族の間に広めた

ウルフィラの翻訳したゴート語聖書
no title
ただウルフィラはキリスト教の中でも325年のニカイア公会議で正統の宗派とされ今のカトリック教会にも繋がる「アタナシウス派」ではなくて
「アリウス派」という異端の司祭だったことが後々にゴート族がローマ領へ入りこんだ際に尾を引くことになる

20: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 16:13:39.180 ID:MWpFzrcl0
盾と槍の国旗の国だよな確か

22: アスペニート 2016/08/22(月) 16:16:13.327 ID:ykPl+wVy0
西暦375年頃ゴート人たちの住んでいた黒海北岸より遥か東の彼方から
正体不明のフン族とそのフン族に攻撃されて追われたアラン族という騎馬民族の集団がやってくる

当時の東ゴート王国はエルマナリックというかつてなく強力な王(伝承によれば100歳以上!)の元で繁栄していたが騎馬民族の侵入の前にはまるで歯が立たなかった
絶望したエルマナリックは自殺し、ある者は殺されある者は西ゴート王国へと逃げ出した残った東ゴート族は以降半世紀以上フン族に隷従して生きることになる

23: アスペニート 2016/08/22(月) 16:17:37.526 ID:ykPl+wVy0
東ゴート王国の惨状を見た西ゴート族の一部(特にキリスト教に改宗してたやつら)はローマ帝国内への移住を願い出る
当時の東のローマ皇帝ウァレンスはゴート人を農地開拓に当たらせたり兵士として利用するつもりでそれを認めた
ところが実際にローマ帝国領に入ってきた西ゴート族は予定の量よりもずっと多かったのである

西ゴート族の大群を持て余した東ローマでは西ゴート族の武装解除も進まず土地も割り当てず放置する有様
当然食料も不足気味でローマの役人はそれに付け込んで犬の肉を高値で売りつけて搾取したりしていたので西ゴート族はブチ切れて各地を略奪し始めた

24: アスペニート 2016/08/22(月) 16:22:21.080 ID:ykPl+wVy0
西のローマ皇帝グラティアヌスは援軍を送って協同して西ゴートと戦うよう提案するが
東のローマ皇帝ウァレンスは敵をあなどって援軍の到着を待たずに自ら出陣する
そして378年「アドリアーノプルの戦い」で西ゴート族の大群と衝突するが惨敗

負傷して近くの民家に担ぎ込まれたウァレンスはその家ごと焼き殺された
ゴート族は本職の騎馬民族にはかなわなかったとはいえ黒海北岸の平原地帯で暮らすうちに重装備の騎兵の運用法を身につけていて
それが歩兵主体のローマ軍を破る決定打となったのである

25: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 16:22:35.208 ID:aCGyjyf00
最近世界史、主に軍事の歴史に興味持ち始めたから静かに読ませてもらうわ

26: アスペニート 2016/08/22(月) 16:27:12.803 ID:ykPl+wVy0
東のウァレンス皇帝の戦死を見て西のローマ皇帝グラティアヌスは慌てた
そして事態を収集するためにテオドシウスという将軍を東の皇帝に任命して送り込んだ

テオドシウスは西ゴート族に正面から立ち向かうことをさけ「ローマ帝国の同盟部族」として懐柔することに成功する
これは西ゴート族を彼らの部族組織を保ったままでローマ領内に定住させるという危険な方策だったがこれで一旦ゴート問題は安定した

27: アスペニート 2016/08/22(月) 16:28:13.120 ID:ykPl+wVy0
そして西の皇帝グラティアヌスが反乱者のマキシムスに
その後に立った西の皇帝ウァレンティアヌス二世も反乱者のエウゲニウスにそれぞれ倒されるという
もはや恒例となった感のあるゴタゴタが起こると
テオドシウスは二度にわたって帝位簒奪者を破り最終的に東西の帝国を再統一するわけだが
その際には西ゴート族の軍も従軍して東ローマ軍と肩を並べて戦った

この時代の西ゴート族に王として選ばれたのがアラリック
no title

最後の統一ローマ皇帝テオドシウス
彼の時代にローマ帝国ではキリスト教以外の宗教が公的に禁止された
no title

28: アスペニート 2016/08/22(月) 16:30:36.812 ID:ykPl+wVy0
テオドシウスが395年に死亡すると遺言によってローマ帝国は再び東西に分割され以降二度と元に戻ることはなかった
テオドシウスの死の時点での東西ローマ帝国と諸蛮族
no title

しかも彼の二人の息子はいずれも若年なうえ成長しても無能かつ政治的に無気力で
ここから皇帝が戦場に立つことはほとんどなくなっていく
この時代の帝国の実権は摂政が握るようになっていった

東の皇帝アルカディウス 即位時18歳
no title

西の皇帝ホノリウス 即位時11歳
no title

29: アスペニート 2016/08/22(月) 16:37:00.060 ID:ykPl+wVy0
テオドシウスという偉大な皇帝が死んだことで西ゴート王アラリックを抑えられる者はいなくなり、
彼に率いられた西ゴート族はバルカン半島一帯を荒らし始めギリシャの諸都市まで略奪の被害にあった
東ローマはこれ以上領土を荒らされたくないので西ローマとの国境にあるイリュリクムの軍司令官にアラリックを任命する

厄介者を体よく追い払ったわけだが要はこれ「うちじゃなくて西ローマを略奪してよ」と言っているようなものである
イリュリクム
no title

30: アスペニート 2016/08/22(月) 16:39:20.832 ID:ykPl+wVy0
しかもゴート族が移動するきっかけになったフン族もこの頃から東ローマ領を攻撃するようになって
東ローマ帝国は勝てそうにもないのでフン族にはお金を払って平和を買っていた

東ローマの優位性はシリアやエジプトを領有していることによる圧倒的な経済力で、西ローマはこの豊かさを持たなかった
これが東西の帝国が別の運命をたどった究極的な原因といえるかもしれない

31: アスペニート 2016/08/22(月) 16:41:06.945 ID:ykPl+wVy0
さて西ローマの摂政だったのはスティリコという人物だった
彼はテオドシウスの右腕で有能な軍人で皇帝ホノリウスの義父というエリートだったが、
父親はヴァンダル族というゲルマン人の出自であるがゆえにローマ内に敵も多かった

一説によれば東ローマ政府はスティリコがこれ以上権力を拡大して
東ローマ政府までがスティリコに乗っ取られることを警戒してアラリックを差し向けたとも言われている

スティリコと家族
no title

32: アスペニート 2016/08/22(月) 16:44:07.516 ID:ykPl+wVy0
イタリアを狙っているアラリックに対応するためにスティリコはガリア(現フランス)の軍勢を連れて行かざるを得なかった
スティリコはアラリックを二度にわたって散々に打ち破りその家族まで捕虜にしたが
アラリックはくじけず再起の機会を伺っていた
さらにアラリック侵入に便乗して他のゲルマン部族をごたまぜにした東ゴート族のラダガイススという人物が攻撃してくるがこれも全滅させる

しかし北ではローマと同盟していたフランク族がガリア防衛を期待されていて
一度はヴァンダル族の王を戦死させる程の戦果を挙げたものの
結局はヴァンダルに加えアラン人やスエビ人らの大群に押されてローマ領への侵入・略奪を許してしまっていた

33: アスペニート 2016/08/22(月) 16:45:47.562 ID:ykPl+wVy0
スティリコはイタリア以外の地域も防衛するために自らが破ったアラリックと和解し彼の兵力を味方につけるべく交渉を開始する
しかしこれが蛮族の血を引くスティリコは結局他の蛮族にも甘くアラリックと内通して反乱を起こそうとしているのではないかという疑念を生んだ

しかもゲルマン人ハーフであるスティリコには政治的な敵も多かった
そして408年、西ローマ皇帝ホノリウスは側近の讒言に流されてそれまで大活躍してきたスティリコを処刑してしまう
これに激おこした一部のゲルマン系の軍団兵は脱走して本当にアラリックの軍団に加わってしまう

34: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 16:47:24.520 ID:1xJFyiqX0
一方そのころ肥沃な三日月地帯では

36: アスペニート 2016/08/22(月) 16:50:13.736 ID:ykPl+wVy0
>>34
後半になったら東ローマVSササン朝ちょっとだけやる…

35: アスペニート 2016/08/22(月) 16:48:06.671 ID:ykPl+wVy0
スティリコがいなくなったことでアラリックは悠々とイタリア半島を荒らし回り410年ついにローマ市が陥落する
ローマはアラリックの指示によってキリスト教教会を除き三日間徹底的に略奪された
この時ホノリウスの妹のガッラ・プラキディアも西ゴート軍の捕虜となる
ちなみにホノリウスはラヴェンナという鉄壁の都市に引きこもっていて何の対応も講じなかった
(ローマは既に西ローマ帝国の首都じゃなくなっていた)

もうとっくに首都じゃなくなっていたとはいえ巨大都市ローマが数百年ぶりに「蛮族」の手に落ちたことは衝撃で
ローマが略奪されたのは先祖伝来の神々を捨ててキリストを拝んだからだとか
逆にローマ市民がキリストを信じなかったからだとかいう論争も起きた

37: アスペニート 2016/08/22(月) 16:58:51.508 ID:ykPl+wVy0
その後アラリックはイタリア半島の南端までいって
西方の属州の中でもっとも豊かだというアフリカに渡る計画を立てていたが前からかかっていた流行病でまもなく病没した
天罰だーと騒がれたのは言うまでもない

アラリックの後に王に推戴されたのは義弟のアタウルフである
彼はアフリカ行きを取りやめガリア南部にルートを変えた
捕虜にした皇帝テオドシウスの娘ガッラ・プラキディアと結婚したあげくしかもこんな面白いことをいっている
「最初私はローマ帝国を征服してゴート帝国に作り変えてやろうと思っていた。
だがローマ人の法で統治された世界とゴート人の野蛮さを見て考えを変えた。私は今やローマの破壊者ではなく再建者として後世に知られることを望む(要約)」

アタウルフの像
no title

38: アスペニート 2016/08/22(月) 16:59:53.670 ID:ykPl+wVy0
しかしアタウルフの野望は実現しなかった
皇帝ホノリウスと和解しかつてのようにローマの同盟部族として西ゴート族を認めさせようとしたものの
アタウルフがガッラ・プラキディアの引き渡しを拒んだため和睦は成立しなかった

しかもガッラ・プラキディアとの間に生まれて母方の祖父の名にあやかってテオドシウスと名付けられた息子は生後数日で死んだ
アタウルフ自身も415年に暗殺されて次の王となった弟のワリアがガッラ・プラキディアを送り返すことで西ゴート族はようやくローマと和解する

39: アスペニート 2016/08/22(月) 17:01:37.348 ID:ykPl+wVy0
ガッラ・プラキディアはその後ローマの将軍と結婚して二人の子供を儲ける

ガッラ・プラキディアと後に皇帝となる息子ウァレンティニアヌス三世
さらにフン族に西ローマ帝国を委ねようとした娘のホノリア
no title

さてスティリコがガリアから軍を引き抜いたことでローマ領に入り込めたスエビ、ヴァンダル、アランの諸民族はそのままローマ領奥地へ突き進み
この頃にはヒスパニア(元スペイン・ポルトガル)の西端まで到達してローマ領を不法占拠していた
そしてワリアの西ゴート族は「ローマ皇帝からの依頼で」正式にヒスパニアの蛮族を討伐する権利を得る

濃い赤が西ゴート
黄色がヴァンダル(アンダルシアという地名の語源と言われる)
茶がアラン
緑がスエビ
no title

41: アスペニート 2016/08/22(月) 17:03:24.560 ID:ykPl+wVy0
ちなみに民族学的なことをいうとヴァンダル人はゲルマン民族の一派と言われる一方でスラヴ系という説もある
アラン人はペルシア系の遊牧民で、スエビ人はゲルマン系といわれているがケルト系という説もあるしいろんな民族の混成集団という説もある
「ゲルマン民族」大移動というが実際にはゲルマン人以外も大移動していた

42: アスペニート 2016/08/22(月) 17:05:26.266 ID:ykPl+wVy0
さて西ゴート族がひとまず落ち着いたところで話をローマに戻すとあの無能なホノリウスは423年に死去しゴタゴタがあったあと、
あのガッラ・プラキディアの息子のウァレンティニアヌス三世が西ローマ皇帝に即位する
しかしライバルたちとの権力闘争のあと実権を握ったのは優秀な将軍のアエティウスだった
アエティウス
no title

44: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 17:06:10.419 ID:3s1XuBeD0
ためになる

45: アスペニート 2016/08/22(月) 17:06:33.165 ID:ykPl+wVy0
このアエティウスという人物はローマの高位の軍人の息子として生まれたが、若いころにまず西ゴート族、ついでフン族に人質として出されて蛮族の風習をよく知っていた
のちにフン族の王となるアッティラとも面識があったらしい

そんなアエティウスの方針は「フン族やゲルマンの蛮族を互いに戦わせてその間で西ローマが主導権を握り存続を図る」というものだった
ガリア南東で勢力を拡大したブルグント王国が脅威になると437年にはフン族を呼び込んでブルグント国王グンタハールを戦死させ、
その後勢力を削がれたブルグント族に再び土地を与えて懐柔している

もはや西ローマ帝国は綱渡りのような方法でしか存続できなくなりつつあった

46: アスペニート 2016/08/22(月) 17:08:25.051 ID:ykPl+wVy0
そもそもフン族とは何者なのか?
その身体的特徴(浅黒い肌、低い身長、細い眼など)からアジア系の騎馬民族ということだけはわかる
中国の歴史書に「匈奴」として記録された民族の末裔だという説もあるが確かなことはわからない

とりあえずフン族はその弓騎兵の機動力ゆえに軍事面で他のゲルマン民族に対して圧倒的優位に立っていて
多くのゲルマン民族はフン族に従属させられその勢力は雪だるま式に膨れ上がりっていった
一方でローマ内のゲルマン人と同じようにフン族の中にもローマ領で兵士として雇われている者もいたようだ

そんな中で450年頃フン族の王として登場したアッティラの下でその勢力は絶頂を迎える

アッティラ
no title

アッティラのフン帝国
星はアッティラの宮殿のあった場所
no title

47: アスペニート 2016/08/22(月) 17:20:06.361 ID:ykPl+wVy0
アッティラはその強大な勢力にものを言わせて東ローマ帝国から金をむしり取っていたが、皇帝が強硬派のマルキアヌスに変わると東ローマは貢納金を停止した
アッティラは次の獲物を探していたわけだが、それを呼び込んだのが西ローマ皇帝ウァレンティニアヌスの姉ホノリアだった

ホノリアは自分の運命が弟に握られ結婚も許されないのを不服として、密かにフン族の宮廷へ使者を送りアッティラに婚姻を申し込んだのである
この事件が露見すると当然皇帝は驚いて姉を軟禁したが、アッティラはこれを口実として持参金として西ローマ帝国の半分とホノリアとの結婚を要求してガリアへ攻め入った

48: アスペニート 2016/08/22(月) 17:31:34.674 ID:ykPl+wVy0
東ゴート族を始め配下のゲルマン人らを引き連れてガリアに進軍したアッティラだったが、メッツ、ランス、トロワと次々と都市を落としていくものの
住民に傭兵として雇われたアラン族に強固に守られたオルレアンを落とすのに手間取っているうちにアエティウスに時間を与えてしまった

ローマ軍だけの力ではアッティラに勝てないと見たアエティウスは
西ゴート王国を始めブルグント族やフランク族、サクソン族などフン人に反抗的な周辺のゲルマン部族と同盟を結び軍を集める
アエティウスの連合軍が迫るのを見て退却しようとしたアッティラは
今の北仏のシャロン近郊で捕捉されこうして451年この時代の最大の戦闘カタラウヌムの戦いが起きる
no title

49: アスペニート 2016/08/22(月) 17:45:39.969 ID:ykPl+wVy0
アッティラは開戦前の占いによって「戦いには負けるが敵の指揮官は死ぬ」というお告げを受けて開戦に踏み切ったという
だが死んだのは自軍を鼓舞するうちに落馬して踏み潰された西ゴート王テオドリック一世でアエティウスは生き残った
テオドリック一世はあのアラリックの息子で、ローマを略奪した男の息子がローマ帝国のための戦いで死んだことになる
西ゴート軍は王を失いながらも王子トリスムンドの指揮のもとで奮戦し、アッティラを陣地の中に追い詰める

カタラウヌムの戦い
no title


混戦の末陣地に立てこもったフン族をトリスムンドが追撃しようとしたが
アエティウスはこの戦いの結果西ゴート族が強大になりすぎるのを警戒していた
そして「他のものに王位を奪われないうちに国に帰るべきだ」とトリスムンドを説いて帰還させた

50: アスペニート 2016/08/22(月) 17:47:28.456 ID:ykPl+wVy0
この後追撃を受けなかったおかげで帰還できたアッティラは
カタラウヌムの翌年452年には態勢を整えて今度はイタリアへ攻め込んだ
そして北イタリアの諸都市を制圧し、ローマ市にも攻め込もうかという時になって突然ローマ司教(教皇)のレオ一世がアッティラの元を訪れる

51: アスペニート 2016/08/22(月) 17:57:07.967 ID:ykPl+wVy0
そして両者の会見の後アッティラは突如軍を返してアルプスの北へ戻っていった
レオ一世がどうやってアッティラを説得したのかという疑問はさまざまな伝説を生んだが
どうやらフン軍の間に疫病が流行っていたのと東ローマ軍が出動して背後から攻撃をかけるような動きがあったから撤退に踏み切ったというのが真相らしい

レオ一世とアッティラの会見(ラファエロ画)
no title


いずれにせよアッティラはイタリア戦役でもめぼしい成果を出せず帰還後の453年
ヒルディコという何人目かの妻との婚礼の翌朝鼻から大量に血を流して死んでいるのが発見された
このあとフン帝国はアッティラの後継者争いであっという間に崩壊し始める
フン族の脅威は消えて支配下だった東ゴート族を始めゲルマン人たちが独立を果した
皮肉な話だがアッティラが生きている間だけフン帝国が強力にまとまっていたために、アッティラは蛮族の権化のようにゲルマン人たちの間で伝説的に語られることになった

52: アスペニート 2016/08/22(月) 18:15:11.933 ID:ykPl+wVy0
フン族の脅威が去ると将軍アエティウスはその強大すぎる権力を皇帝ウァレンティニアヌスに妬まれ、554年皇帝自らの手で処断されてしまう
そしてその翌年閲兵中にウァレンティニアヌス三世自身もアエティウスの部下だった二人の兵士に殺される
並み居る兵士の誰もウァレンティニアヌスの殺害を制止しようとしなかったという

ここから西ローマ帝国では政局の混乱が続き決定的に凋落し始める

53: アスペニート 2016/08/22(月) 18:30:53.114 ID:ykPl+wVy0
皇帝不在となった西ローマ帝国ではウァレンティニアヌス暗殺の糸を引いていたマクシムスという男が即位したが
455年イタリアの混乱を見たヴァンダル国王ガイセリックが艦隊を編成してローマを海路から襲撃してくる
皇帝マクシムスは真っ先にローマからの逃亡を図り、その行動にブチ切れた民衆の投石を受けて死亡してしまう

全く役に立たなかった皇帝に代わってこの時もローマ司教レオ一世がヴァンダル族と交渉におもむき
抵抗しない者の命は取らない、建物への放火はしないなどの約束をさせたうえでヴァンダル族にローマを明け渡した
もはや民衆にとって頼りになるのは政府よりもキリスト教会の時代になり始めていた
略奪は13日間も続き多くの人員や財産がローマから失われたという

455年のヴァンダル族によるローマ略奪
no title

54: アスペニート 2016/08/22(月) 18:33:25.185 ID:ykPl+wVy0
その後ガリア方面の司令官アウィストゥスが西ゴート王国の支援を受けて皇帝を名乗ったが、
イタリア本国では蛮族出身の将軍リキメルが権力を握りアウィストゥスのを退けてマヨリアヌスという貴族を皇帝に即位させた
リキメルの操り人形として即位したはずのマヨリアヌスは精力的に活動し、
ヴァンダル王国からアフリカを奪還する計画も立てるがガイセリックに敗れて頓挫する

敗北したマヨリアヌスを暗殺したリキメルはその後セウェルス、
さらに東ローマから派遣された皇族アンテミウスという傀儡皇帝の元で権力を振るった
西ローマ帝国はもはやイタリア以外の地域では全く権力を喪失した単なる地方政権になり下がっていた

55: アスペニート 2016/08/22(月) 18:43:41.608 ID:ykPl+wVy0
そして472年にリキメルが死ぬと
東ローマ帝国は西ローマの皇帝としてネポスという人物を派遣した
しかし例によって西ローマの蛮族出身の将軍オレステスという人物がネポスを追放して権力が移る

このオレステスはなんとフン族の宮廷アッティラの腹心として使えていた人物で
詳しいことはわからないものの主人の死後西ローマ帝国でも活躍し出世したらしい
出自についてもフン族の血を引くともゲルマン系の蛮族とも言われている

56: アスペニート 2016/08/22(月) 18:53:02.058 ID:ykPl+wVy0
オレステスはローマ人女性との間に儲けた息子のロムルス・アウグストゥルウスという少年を皇帝として権力を振るった
しかしオレステスは476年配下の蛮族の傭兵たちの反乱で斃され、
その頭目として王に立てられたのが教科書にも西ローマ帝国を滅ぼした人物として載っている有名人オドアケルである

宮廷を押さえたオドアケルが最初にやったことは最後の皇帝ロムルスを廃位して年金を与えた上で田舎に隠遁させ
皇帝の標章をコンスタンティノープルに東ローマ帝国に返却することだった

オドアケルに帝冠を渡す皇帝ロムルス
no title


ちなみオレステスに追放されたネポスは480年まで生きていたので彼を正統な皇帝とし、この年をもって西ローマ帝国の滅亡とする説もある

57: アスペニート 2016/08/22(月) 18:59:52.772 ID:ykPl+wVy0
この事件に対して東ローマ帝国の皇帝ゼノンは何も言わず、オドアケルのイタリア支配を黙認した
オドアケルは旧来の西ローマ帝国の統治機構を何も改変せずそのまま受け継いだ
さらに蛮族の一派ルギィ族を撃退してイタリアの安全を守り、
ヴァンダル王国とは和解して食料供給を確保するなどそれまでの皇帝に比べれば遥かに優秀な支配者だった

形式上は以降10年以上イタリアは東ローマ帝国の宗主権の元でオドアケルが統治することになったのである

58: アスペニート 2016/08/22(月) 19:06:44.358 ID:ykPl+wVy0
さて少し話は戻るがアッティラの死後フン帝国は急速に瓦解し始めた
長男エラクがアッティラの後を継いだが、支配下のゲルマン部族は一斉に蜂起した
たった一度の戦いでエラクは戦死、フン帝国は首都を置くハンガリーを失って東方に後退した

これがアッティラの死からわずか二年後のできごと
東ゴート族もこの時にフン族と戦って独立を回復している

その頃の東ゴート族の王族として生まれたのが「大王」と呼ばれるテオドリック、
中世の伝説ではディートリッヒ・フォン・ベルンとして語られる人物である

テオドリックの肖像が残る唯一の貨幣
no title


後世に中世的騎士として理想化されたディートリッヒ・フォン・ベルン
no title

59: アスペニート 2016/08/22(月) 19:08:13.704 ID:ykPl+wVy0
テオドリックは幼時に東ローマ帝国に人質として預けられ、その首都コンスタンティノープルで教育を受けた
このローマ人の中で育てられたという経験がのちの彼の統治者としての姿勢に大きく影響してくる

テオドリックが王に選ばれたのは474年、当時の東ローマ国境地帯はフン族の残党や
独立したゲルマン諸族の襲撃でごった返した混沌状態で東ゴートもいくつかの集団に分裂していた
そんな中で東ローマ皇帝は東ゴート族を懐柔し味方につけて他の蛮族と戦わせるという政策をとっていて、
テオドリックも10年以上も部族を率いてバルカン半島を転戦していた
東ローマの政争に巻き込まれて東ゴート族同士で戦わされることもあり
陰謀渦巻く東ローマ帝国内で安住の地を得ることは難しいと思ったらしい

488年東ローマ皇帝ゼノンとイタリアのオドアケルの関係が悪化したのを機に、
テオドリックはゼノンからイタリア侵攻の許可を得て配下の10万人と言われる東ゴート族を引き連れて出発する

60: アスペニート 2016/08/22(月) 19:10:26.262 ID:ykPl+wVy0
戦争は当初兵力で勝る東ゴート軍がオドアケルを一蹴するかと思われたが敵は強かった
一進一退の攻防を繰り返したあと最終的にオドアケルを倒すまで五年もかかっている

しかも追い詰められたオドアケルが籠城した首都ラヴェンナは一年以上包囲しても落とせず
結局ラヴェンナ司教の仲介でテオドリックとオドアケルが共同でイタリアを統治するという取り決めでようやく戦争は終わった
その和解の席でテオドリックはオドアケルを暗殺し彼の一族も皆殺しにしてイタリアの支配権を確立し、

かつてのローマ帝国の中心部に蛮族による東ゴート王国が成立する

61: アスペニート 2016/08/22(月) 19:11:33.392 ID:ykPl+wVy0
テオドリックは軍事はゴート族で独占したものの
内政面では丸ごとローマ帝国以来の統治機構をそのまま存続させローマ人の元老議員の助けを借りて統治した
そしてテオドリック自身はアリウス派を信仰していたが
ローマ系住民のカトリック信仰には一切口出しせず他のアリウス派王国のような宗教対立や弾圧もなかった

さらに富国強兵に努め、後からイタリアを狙って侵入してきた蛮族も国境地帯で撃退している
そして一族の女性を各国に嫁がせて婚姻同盟を構築し外交面でも地盤を固めていた

ゼノンの後を継いだ東ローマ皇帝アナスタシウスはテオドリックに貴族(パトリキウス)の称号を贈
り正式なイタリアの支配者として認め、統治される側のローマ人も安定した長期政権を築いたテオドリックを称賛した
「大王」テオドリックの治世は30年以上続いた

62: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 20:04:22.356 ID:ykPl+wVy0
しかしその東ゴート王国にもテオドリックの晩年には影が差し始める
テオドリックの寛容な共存政策にも関わらず、カトリックとアリウス派、
ローマ人とゴート人の対立は消えたわけではなかったが致命的なのは後継者問題だった
テオドリックには娘しかいなかったのである

しかたなく娘アマラスウィンタと後継者と見込んだ西ゴート出身の貴族を結婚させたものの
この男は息子アタラリックを残しただけで死んでしまう
テオドリックの晩年には孫のアタラリックはまだ幼児で摂政による統治が避けられないのは明白だった
そして後継者問題にかこつけてローマ人の一部は東ローマ帝国の介入を策動しており、
テオドリックは長年の腹心をも粛清しなければならなかった

各国の情勢も不安定になり始めた中テオドリックは幼い孫と娘を残して526年に没する

テオドリックの死の時点での情勢
イタリアに東ゴート王国、ガリアにフランク王国とブルグント王国、ヒスパニアに西ゴート王国とスエビ王国、アフリカにヴァンダル王国などが成立している
no title

63: アスペニート 2016/08/22(月) 20:09:19.989 ID:ykPl+wVy0
さて今度は同じく五世紀の後半フランク王国の話!
今のベルギー周辺を縄張りにしていたフランク族に一人の英雄が現れる
男の名はクロヴィス 466年頃-511年

no title


クロヴィスの領土拡大
http://i.imgur.com/y07jNQc.png

64: アスペニート 2016/08/22(月) 20:17:32.344 ID:ykPl+wVy0
当時の北ガリアのソワソン管区(上の地図の紫)ではローマ軍の司令官アエギディウスが
周辺の蛮族の侵略を防いでいたがイタリア本国が衰退すると
実質的に独立王国のような状態で現地を統治していた

クロヴィスの時代にはアエギディウスの子シャグリウスが父の跡をつぎ、
周囲のゲルマン諸部族からは「ローマ人の王」と称せられていたという
クロヴィスはこのシャグリウスに戦いを挑み486年にソワソン近郊で勝利する
敗れたシャグリウスは西ゴート王国に亡命するも後にクロヴィス引き渡され処刑された

65: アスペニート 2016/08/22(月) 20:18:30.768 ID:ykPl+wVy0
シャグリウスのソワソンを併合したクロヴィスは次なる領土拡大の布石としてブルグント王国と婚姻同盟を結ぶ
そしてクロヴィスの元に嫁いできたブルグント王妃クロティルドは
この時代の蛮族としてはめずらしくカトリックの教育を受けた女性だった

クロヴィスの率いるフランク族はゴート族などとは違ってまだキリスト教に改宗しておらず古来の多神教を奉じていた
したがってアリウス派とカトリック(アタナシウス派)との確執とも無縁だったということでもある
そしてクロヴィスは続くアレマニア王国との戦いでキリストに祈ったところ窮地を脱し奇跡的な勝利を得た、
と称して497年に3000人の兵士とともにカトリックに改宗する

これがフランスのキリスト教国家としての最初の一歩となった

66: アスペニート 2016/08/22(月) 20:22:11.418 ID:ykPl+wVy0
このクロヴィス改宗事件は実際は王妃の感化により、ローマ系現地住民の多数が信仰するカトリックに改宗することが
統治上得策と判断したというところだったと思われる

ともあれフランク族がゴート族を始めとする他のゲルマン部族とは違って
アリウス派ではなくカトリックを信仰するようになったという事実はこの後の展開に重大な影響を及ぼしていく
なぜならアリウス派を奉じる西ゴート王国等の諸国は「異端」だとして
自分の戦いは異端者との「聖戦」という大義名分をクロヴィスは使うことができるようになったからである

67: アスペニート 2016/08/22(月) 20:25:09.223 ID:ykPl+wVy0
507年ヴィエの戦いでクロヴィス率いるフランク王国軍とアラリック二世率いる西ゴート王国軍が衝突し、後者は戦死する
国王を失った西ゴート王国は大混乱し、ガリアの領地はクロヴィスにそのほぼ全域が奪われてしまう
クロヴィスはそのままピレネー山脈を超えてヒスパニア(スペイン)に残された西ゴート王国領へと進撃しようとするが

ここで邪魔をしたのが東ゴート王テオドリックだった
テオドリックはクロヴィスがあまりに強大になるのを恐れ背後からフランク軍を攻撃する構えを見せたのである
東ゴートの参戦でクロヴィスはヒスパニアの征服を諦めフランク族の領土はピレネー山脈の北に限られることになった

68: アスペニート 2016/08/22(月) 20:25:59.911 ID:ykPl+wVy0
ガリアの覇者となったクロヴィスを待っていたのは東ローマ帝国の使者だった
508年にクロヴィスは東ローマ帝国から執政官に任命され、
その権力はローマ帝国のお墨付きを得た「合法的」なものになった

そして晩年には配下として戦ってきたフランク族の小王を罠にかけ次々と粛清し、
自分の子孫のライバルになりそうな勢力を根こそぎ消滅させてしまう
こうしてメロヴィング朝フランク王国の支配が万全になった

69: アスペニート 2016/08/22(月) 20:28:17.133 ID:ykPl+wVy0
クロヴィスは妻の実家のブルグント王国の内乱にも介入し従属させていて、
シャグリウス、アレマニア、西ゴート、ブルグントと群雄割拠だったガリアは大部分がフランク王国の勢力に属することになった
これがそのまま後世のフランスという国家の枠組みになったといってもいい

フランスという言葉自体フランクが変化したものである
クロヴィスの征服地
no title

70: アスペニート 2016/08/22(月) 20:35:02.733 ID:ykPl+wVy0
クロヴィスが511年に没するとその王国は四人の息子の間で分割された

息子たちの代にブルグント王国は併合され更にドイツ方面にも領土は拡大し、
フランク王国の中にはいくつもの分王国、ネウストリア、アウストラシア、ブルグント、などが分立することになった
これらの分王国はクロヴィスの子孫の間で統一と分割を繰り返したが、
最終的にアウストラシア王国から宰相家系であるカロリング一族が徐々に台頭する

最終的にメロヴィング朝がカロリング朝のピピンに王位を奪われるのはずっと後の8世紀のお話

71: アスペニート 2016/08/22(月) 20:38:42.119 ID:ykPl+wVy0
次はヴァンダル王国とここまで全然話題に出てないブリタンニアくんの運命のお話

72: アスペニート 2016/08/22(月) 22:11:06.619 ID:ykPl+wVy0
418年南仏にいた西ゴート王ワリアが西ローマ皇帝からお墨付きを得て
イスパニアの蛮族を討伐するという名目でアラン、ヴァンダル、スエビの諸族を攻撃したことは>>39のあたりですでに書いた
この後追い詰められたヴァンダル族とスエビ族は互いに争うようになり、
形勢不利になったヴァンダル族は徐々に海上に活路を見出していく

ヴァンダル族はゲルマンの蛮族としては例外的に独自に海軍を編成しはじめた
そして428年ガイセリックという長命で英雄的な業績を残す王が即位する

ガイセリックの肖像の残る貨幣
no title

73: アスペニート 2016/08/22(月) 22:11:40.715 ID:ykPl+wVy0
翌年このガイセリックの元で10万人ほどのヴァンダル族はジブラルタル海峡を渡りアフリカの地を踏む
目指していたのは西ローマ帝国領ではもっとも肥沃なアフリカ属州、
紀元前にはカルタゴという国があったところだった
(アフリカ属州はローマ領になっているアフリカ全体のことではなく今で言うならチュニジアの一帯)

当時のアフリカ総督のボニファティウスは同じ西ローマの将軍アエティウスと権力闘争を繰り広げており
現地の防衛どころではなかったという情報をガイセリックは掴んでいたらしい
老若男女を引き連れたヴァンダル族は1年ほどで目的のアフリカ属州にたどり着き
東ローマ軍の妨害を受けつつも435年には州都のカルタゴ市も占領した
こうしてアフリカの地に遥か北方からやってきた民族のヴァンダル王国が成立した
ガイセリックは海軍をさらに強化し西地中海の覇権を確立する

ヴァンダル族のたどった経路
no title

74: アスペニート 2016/08/22(月) 22:12:37.146 ID:ykPl+wVy0
そしてアエティウスもウァレンティニアヌス三世も死んだ455年には
イタリアに対して牙を剥き410年の西ゴート王アラリック以来のローマ市略奪を行っている
身代金の取れそうな富裕階級や技術者を捕虜にして連れ出したことでヴァンダル王国はますます繁栄する
この時ウァレンティニアヌス三世の娘も誘拐し長男のフネリックの妻とした

ヴァンダル王国は他の蛮族の王国のように形式的にローマ皇帝の臣下として現地を委託されたという建前ではなく
ローマの皇帝と対等の立場で条約を結んだり外交をするほどの強国になっていた

75: アスペニート 2016/08/22(月) 22:13:46.213 ID:ykPl+wVy0
こうしたヴァンダル王国の強大化を東西のローマ帝国は放置していたわけではない
461年には西ローマ皇帝マヨリアヌスがヴァンダル王国を討伐するために
巨大な艦隊を建造しようとしたがガイセリックは先手を打って敵の拠点を襲撃して計画を頓挫させた
468年には東ローマ皇帝レオン一世が大金を投じて10万と称する大軍を集め陸海からヴァンダル王国を攻撃した

ガイセリックは海戦に勝利しアフリカに上陸した軍の輸送船団を奇襲してこの東ローマの国威をかけた侵攻も撃退する
ガイセリックは477年に88歳で没した
ヴァンダル王国の版図
no title

76: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 22:15:24.882 ID:u4Vee9i60
当時日本はこうだったみたいのも併記してよ

78: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 22:17:22.776 ID:MWpFzrcl0
ローマの文化風俗が知りたい

80: アスペニート 2016/08/22(月) 22:22:12.055 ID:ykPl+wVy0
>>76
このころは大和王権が強くなってきていて大きな古墳作ったりしてた
このスレの終盤あたりで仏教伝来とかそんな感じ

>>78
全盛期ローマの風俗の本はいっぱいあるけど末期は資料が少なそうで気になる

77: アスペニート 2016/08/22(月) 22:15:31.187 ID:ykPl+wVy0
お次はブリタンニアの情勢

ブリタンニアはもともとケルト系民族ブリトン人の各部族が割拠している国だったが
紀元一世紀皇帝クラウディウスの時代に征服されて以降ローマ帝国の属州となった
ただ西ローマの属州の中でもブリタンニアは辺境でガリアの安全保障のために征服されたような土地だったので
ローマ文明の浸透の度合いが薄かったという事情がこの島のたどる歴史に大きく影響していく

79: アスペニート 2016/08/22(月) 22:18:09.840 ID:ykPl+wVy0
ティリコがアラリックと戦うためにガリアから軍団を引き上げさせた結果、
ガリアが蛮族に荒らされ放題になっていた西暦408年のこと
ブリタニア駐屯軍団は「もはや属州を守れないホノリウスに皇帝の資格はない」として
将軍にコンスタンティウス三世と名乗らせて皇帝として擁立して反乱を起こした
コンスタンティウスは中央で覇権を争うために海を渡って411年に敗死するのだが、

これ以降ブリタンニアとローマ帝国の縁はほとんど切れてしまった
残ったのは一部のローマの軍制と軍団が駐屯していたロンドンやヨークなどの都市、道路、それにキリスト教くらいのものだった
410年にはホノリウスはブリタンニアに対して「以降ブリタンニアは自分たちの力で防衛するように!健闘を祈る!」みたいな感じの無責任な通達を出している

81: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 22:23:07.770 ID:MWpFzrcl0
全盛期も知りたいところ

83: アスペニート 2016/08/22(月) 22:25:23.318 ID:ykPl+wVy0
>>81
全盛期のローマ人のある程度お金持ちな身分の人たちの生活は快適そうだよねえ
今度また調べてみるかな

82: アスペニート 2016/08/22(月) 22:23:19.387 ID:ykPl+wVy0
ローマ軍がいなくなったブリタンニアではブリトン人の「先祖返り」が起きてかつての部族的政治体制が徐々に復活していく
そんなブリトン人をまず脅かしたのは北方のカレドニア(現スコットランド)の蛮族ピクト人だった

ピクト人の侵攻に苦しんだブリトン人の有力首長ヴォーティガンは
傭兵として大陸からサクソン人のヘンギストとホルサという兄弟に率いられた一団を雇い入れる
このサクソン人がピクト人を追い払ったあとブリタンニアの豊かさに気づしまった
彼らはブリトン人に対して牙を剥き次々と故郷の仲間を呼び寄せる

やがてサクソン人だけではなく近隣のアングル人、ジュート人、フリジア人などの他のゲルマン系蛮族もブリテン島に襲来、
ブリタンニアは数百年がかりでこれらの民族に占領されていく
no title

86: アスペニート 2016/08/22(月) 22:26:43.527 ID:ykPl+wVy0
一方で時間とともに混血が進み、これらのゲルマン民族はひとまとめにアングロサクソン人と呼ばれ
「英語」と呼ばれる一つの言語を話すようになっていく
イングランドという地名もアングル人の地という意味

だがブリトン人もただやられる一方だったわけではない
西暦500年前後にはアンブロシウスという武将が「ベイドン山の戦い」と呼ばれる半ば伝説的な戦闘があり
アングロサクソン人の軍隊に大勝に半世紀は侵攻を押し留めたという出来事もあったようだ
このアンブロシウスが後世アーサー王のモデルとして伝説化されたと言われている

アングロサクソンに半分くらい占領されたブリタンニア
no title

87: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 22:27:50.364 ID:Xfv3NyMB0
細かいけど、ヘンギストはジュート族じゃなかったっけ
ヘンギスト自体、伝説上の人物だからどっちでもいいといえばどっちでもいいけど
一応ヘンギストを祖先と仰ぐケント王国はジュート族に分類されるはず……

93: アスペニート 2016/08/22(月) 22:34:28.768 ID:ykPl+wVy0
>>87
そういわれてみればそういうことになるのかな?
でもだいたいの本ではサクソン人の首長と書かれていてよくわからない

90: アスペニート 2016/08/22(月) 22:30:19.479 ID:ykPl+wVy0
ただやはり全体的にブリトン人はアングロサクソン人に押されがちだった
八世紀にはウェールズ、コーンウォール、ストラスクライドなどの辺境に追いやられていった
さらに海を渡ってガリアのブルターニュ半島に逃げた一団もいた

ブルターニュは「小ブリテン」という意味だったりする
最終的にはイングランドではブリトン人の末裔はウェールズだけに残って今に至っている
一方アングロサクソン人の立てた王国は主要なものが
ケント、エセックス、ウェセクッス、サセックス、イーストアングリア、ノーサンブリア、マーシアと7つあった
このためはブリタンニアの初期中世は七王国時代とよばれる

最終的にこれらの王国はウェセックス王国に統一されてイングランド王国が成立するが、それは10世紀のことである
no title

91: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 22:31:49.042 ID:rFEL0IAY0
そういや全盛期ローマの生活についてはさいきん邦訳書もわりと多くでてるな
定番のアルベルト・アンジェラ先生のシリーズや
ロバート・クナップ先生の「古代ローマの庶民たち」も良書だったし
「奴隷のしつけ方」なんてピンポイントな変わり本もでてたり

92: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 22:33:50.779 ID:Xfv3NyMB0
ウェセックス王国(ゲウィサ)も、強国であるのは間違いないんだけど
一早く強国になったものの政治的混乱で衰退したノーサンブリア
全盛期フランク帝国と対等に渡り合ったマーシアといったライバル国が
ことごとくヴァイキングにフルボッコにされた後をうまいことやりやがった感が少しある

アルフレッド大王の奮闘っぷり見たら文句は言えないけど、
ウェセックスが台頭できたのは地理的な問題に尽きちゃうんだよなあ

94: アスペニート 2016/08/22(月) 22:36:08.554 ID:ykPl+wVy0
>>91
おもしろそう

>>92
ウェセックス王国も滅亡寸前までいったしなぁ

95: アスペニート 2016/08/22(月) 22:38:20.779 ID:ykPl+wVy0
さあここからこのスレも終盤
話はブリタンニアから6世紀の東ローマ帝国に戻る

97: アスペニート 2016/08/22(月) 22:41:55.575 ID:ykPl+wVy0
東ローマ帝国の話

東ローマでアナスタシウスという皇帝が517年に後継者を残さず没すると
東ローマ内の有力者たちの妥協の結果ユスティヌスという将軍が皇帝として即位した

このユスティヌスはバルカン半島の貧農の家に生まれ、
若いころ軍隊に入って一兵卒から将軍にまで出世した叩き上げの人物だったために
文字の読み書きもできずすでに老齢でもあったことも手伝って東ローマ帝国の政治を主導する能力に乏しかった

そこで皇帝の補佐役として活躍したのがその甥のユスティニアヌス(482-565)という男だった
no title

98: アスペニート 2016/08/22(月) 22:43:38.882 ID:ykPl+wVy0
このユスティニアヌスは叔父のおかげでコンスタンティノープルで学問を修め
古代ローマ以来の古典的教養を身に着けていた

そして527年皇帝に即位したユスティニアヌスはローマ帝国を再興するという野望に基いて行動していく
国内では古代ローマ以来の無数の雑多な法律を整理して『ローマ法大全』を編纂し、
聖ソフィア大聖堂を建築するなどの業績を残した
一方で、対外的には各国の王位をめぐる争いに介入して軍隊を送り込んでいく
ユスティニアヌス自身は首都コンスタンティノープルにあって外征には全く参加しなかったが
彼には天才的な将軍ベリサリウスがいてその計画を支えていた

名将ベリサリウス
no title

99: アスペニート 2016/08/22(月) 22:45:04.379 ID:ykPl+wVy0
当時のヴァンダル王国ではガイセリックの長男フネリックと
西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス三世の娘エウドキアとの間に産まれたヒルデリックが王だったが、
フネリックの時代からローマ系住人とヴァンダル族、カトリックとアリウス派というもはや伝統的な対立が消えていなかった

そしてヒルデリックやその先王トラサムンドのようにアリウス派を信仰するヴァンダル王でありながら
ローマ文化に好意的でラテン語の詩を解するような者がいる一方
そのような王の存在を快く思わない派閥に支持されたガイセリックのひ孫のゲリメルが530年にヒルデリックを廃位しヴァンダル王に即位していた

最後のヴァンダル王ゲリメル
no title

101: アスペニート 2016/08/22(月) 22:45:48.438 ID:ykPl+wVy0
ユスティニアヌスはゲリメルを簒奪者として非難しヒルデリックを保護するという名目で533年ベリサリウスを送り込んだ
こうしてヴァンダル戦争が始まる
no title


アフリカに上陸したベリサリウスは兵士の略奪を徹底的に禁止し
現地のカトリック系住民の支持を得て簡単に都市を制圧していく
そしてたった二度の、しかもそれほど大規模とはいえない会戦でヴァンダル軍を再起不能にした

534年には逃走したゲリメルも捕虜となりヴァンダル王国はあっけなく滅亡した(ヒルデリックは既にゲリメルに殺されていた)

103: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 22:46:22.730 ID:Uulv9+H50
懐かしい
受験期に必死こいて覚えた名前がいっぱいだ

105: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 22:49:17.276 ID:FQgh0zl50
ヨーロッパなんて小国同士が意味の無い潰し合いを淡々と続けてたよな

104: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 22:47:51.521 ID:Xfv3NyMB0
>ヴァンダル王国があっけなく滅亡
ユスティニアヌス期の東ローマの戦い全般に言えるけど
一度敵王国が滅びてからが本番やから……

108: アスペニート 2016/08/22(月) 23:00:41.279 ID:ykPl+wVy0
>>104
東ゴート王国だってヴィティギスさんの代で滅んだはずだったしね…

106: アスペニート 2016/08/22(月) 22:49:37.801 ID:ykPl+wVy0
コンスタンティノープルに連行されたヴァンダル王ゲリメルは涙を流し
「なんという虚しさ、なんという虚しさ 、すべては虚しい」という旧約聖書の伝道の書の言葉を引用して己の運命を嘆いたと言われる
ゲリメルは小アジアに領地を与えられそこで余生を過ごした

かつて東西のローマ帝国を脅かしたヴァンダル王国が
ベリサリウスの手にかかればたった一年で征服されたという事実はユスティニアヌスの自信を深め
次の事業として東ゴート王国の征服を決意させる

107: アスペニート 2016/08/22(月) 22:56:48.721 ID:ykPl+wVy0
ユスティニアヌスの次の標的になった東ゴート王国では、テオドリック大王に男子がいなかった
そのため大王の長女アマラスウィンタがしばらく幼い息子アタラリックに代わり摂政として統治していた
アマラスウィンタは親東ローマ帝国的な政策を取りユスティニアヌスとの仲も良好だった
だがテオドリック大王の甥のテオダハドという人物が王位を狙って
反ローマのゴート主義者たちを取り込んで親ローマ派のアマラスウィンタと対立する

しかも534年アタラリックは成人直前にして病死してしまう
母のアマラスウィンタが女王として即位したがテオダハド一派との確執は激化し、翌年アマラスウィンタは王位を追われ暗殺された

109: アスペニート 2016/08/22(月) 23:05:23.485 ID:ykPl+wVy0
ユスティニアヌスはアマラスウィンタの廃位を非難しテオダハドの正統性を否定して同535年にベリサリウスを送り込む
ここにゴート戦争が始まった

ここまではヴァンダル王国への侵攻とほとんど同じような過程をたどった
しかし東ゴート王国にはヴァンダル王国のような被征服者の現地のローマ系住民・カトリックと
征服者の東ゴート人・アリウス派との対立はずっと少なく国家の体制も強固だった

しかもユスティニアヌスはあまりにも優秀なベリサリウスに大軍を預けるのを躊躇し、10万の兵力を擁すると言われる東ゴートと戦うのに一万人程度を与えただけでそれ以上の援軍を送ろうとしなかった

110: アスペニート 2016/08/22(月) 23:09:51.171 ID:ykPl+wVy0
それでも迎え撃つテオダハドが軍事的に無能でろくに防衛線を構築しなかったために、ベリサリウスはたちまちローマ市に迫る
ゴート軍は敵とまともに戦おうとしないテオダハドの責任を追求し、彼を追放して将軍のウィティギスを新しい王に即位させた。テオダハドは逃亡中に暗殺されている
ウィティギスは大軍を以ってベリサリウスが籠るローマを537年から攻囲して一年以上攻防を繰り広げたが落とせず、
ベリサリウスの別動隊に東ゴート側の後背地を攻撃されたため翌年の三月ついに東ゴート軍はローマから撤退した

テオダハド
no title

111: アスペニート 2016/08/22(月) 23:10:52.892 ID:ykPl+wVy0
以降ベリサリウスの反攻が始まり、540年に東ゴート王国の首都ラヴェンナを包囲する
これで戦争の大勢は決し、東ゴートの降伏も時間の問題かと思われた

だがそんな時に急遽コンスタンティノープルから皇帝の使節団が到着、司令官ベリサリウスの頭越しに東ゴート王国と交渉を始める
なぜ急に東ローマが戦争の終結を求めるようになったのかというと、東方の大国ササン朝がアジア側の東ローマ領を攻撃する構えを見せ始めたからである
ユスティニアヌスの使節はイタリア北部のポー川以南を東ローマに割譲するという条件で東ゴート王国と和平を結ぼうとし、ウィティギスもベリサリウスがその条件を承諾するなら、といって賛成した

112: アスペニート 2016/08/22(月) 23:13:43.791 ID:ykPl+wVy0
しかしベリサリウスはこれを拒否した。恐らく彼としては長年苦しい戦いを続けてやっとあとは消化試合という状況まで持ってきたのに、領土の一部の割譲で和睦というのはあまりに手ぬるいという気持ちだったのだと思われる
ベリサリウスはあくまで東ゴート王国の無条件降伏・完全併合にこだわり戦争を続行しようとしたのである

するとウィティギスは飛んでもない提案をしてきた
それはゴート人の生命財産を保証するならベリサリウスを自分たちの王として迎えるというものだった
つまりコンスタンティノープルの宮廷など無視して、イタリアで独立して手を組もうということである

113: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 23:17:13.797 ID:lhLrFEOG0
ベリサリウスが独断専行したくなる気持ちも分かるが
ぶっちゃけ、ここでベリサリウスが我を張ったせいで
100年後の東ローマが空前絶後の苦境に追い込まれるんだよなあ

115: アスペニート 2016/08/22(月) 23:18:54.383 ID:ykPl+wVy0
>>113
ここらへんの展開はほんと面白いね
一つ歯車が狂えばどうなってたか全然わからん

114: アスペニート 2016/08/22(月) 23:17:18.579 ID:ykPl+wVy0
ベリサリウスはこの申し出を受けた…フリをした

こうしてラヴェンナに無血で入城することに成功したベリサリウスは直ちにウィティギスらの身柄を拘束、
東ゴート王国はもはや存在せずイタリアは東ローマ帝国のものであると宣言したのである

ここに東ゴート王国は滅亡したかに思えた

116: アスペニート 2016/08/22(月) 23:20:58.560 ID:ykPl+wVy0
ユスティニアヌスは本当にベリサリウスが東ゴートの王となる「フリ」をしただけなのか、忠誠心を疑っていたが同時にその優秀な軍才を欲していた

こうしてベリサリウスにすぐさま召還命令が下り、彼は息つく間もなくササン朝との戦いへ投入された

117: アスペニート 2016/08/22(月) 23:21:48.051 ID:ykPl+wVy0
ベリサリウスに騙された東ゴート族は憤激し、王位をめぐる混乱が一年ほど続いたものの武将のトティラが541年に即位すると反撃が始まる
トティラは現地住民の支持を得ることに成功し、
ベリサリウスが去り指揮系統の不統一な東ローマの駐留軍はトティラに次々に破られ情勢は完全にひっくり返り征服戦争はまたやり直しになってしまう

東ゴート王トティラ
no title

118: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 23:22:44.380 ID:lhLrFEOG0
西ヨーロッパが生まれるかどうかの微妙なラインだもんねえ
後世目線から見た時の分岐点の多さが恐ろしいよ

119: アスペニート 2016/08/22(月) 23:23:25.741 ID:ykPl+wVy0
ペルシア戦での活躍にもかかわらず皇帝の寵愛を失ったベリサリウスはわずかな私兵を率いて544年にイタリアに戻りトティラと戦ったが決着は容易につかず、ローマ市は戦争終結まで四度も争奪の対象になるなど消耗戦が繰り広げられた
ベリサリウスは政治情勢の変化によって再び召喚され、この戦争を終結させたのは宦官のナルセスという将軍だった

ナルセスは高齢だったが軍事的才能に恵まれていて、宦官であることからユスティニアヌスの警戒心、あるいは嫉妬心を買うことがなかった
大軍を預けられたナルセスがブスタ・ガロウムの戦いでトティラを戦死させたのは551年のことだった
その後も抵抗を続けた東ゴート王国が完全に滅びるのは553年

20年近く続いた泥沼のゴート戦争の結果イタリア全土は決定的に衰退しかつてのローマ帝国の中心地の面影は消えてしまった
皮肉なことに古代ローマ時代の繁栄をイタリアから消し去ったのは蛮族ではなく同じローマ人だった

長期に及んだ東ゴート戦争
no title


トティラを破った宦官の将軍ナルセス
no title

120: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 23:24:18.148 ID:lhLrFEOG0
個人的にハロルド2世と並んで好きな王様来たー

123: アスペニート 2016/08/22(月) 23:25:38.533 ID:ykPl+wVy0
>>120
トティラは若そうだし英雄の風格あるよね

124: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 23:28:38.279 ID:lhLrFEOG0
>>123
個人的に、戦闘中に事故死してるのもポイント高い

121: アスペニート 2016/08/22(月) 23:24:37.249 ID:ykPl+wVy0
西ゴート王国でもヴァンダルや東ゴート王国と同様の王位をめぐる争いが551年からおきていた
西ゴート王アキラに対して反乱を起こしたアタナギルドがユスティニアヌスに援助を求めたのである

しかし東ローマの援助を受けたアタナギルドはアキラを倒すと今度は東ローマ軍を攻撃し始める
結局ヒスパニアでは東ローマは沿岸部分の僅かな領土しか保持できなかった

緑がユスティニアヌス一代で征服した土地
no title


地中海沿岸の大半を取り戻しかつての地中海帝国としてローマは再興されつつあるかに見えた

122: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 23:25:32.844 ID:lhLrFEOG0
本当はナルセスじゃなくてユスティニアヌスの弟ゲルマヌスが来るはずだったんだけど
出陣前に病死して、ナルセスが後任になったんだよなあ

125: アスペニート 2016/08/22(月) 23:29:47.313 ID:ykPl+wVy0
しかしユスティニアヌスが565年に没するとこの地中海帝国は早くもゆるぎ始める
コンスタンティノープルの目の先のバルカン半島ではフン族の再来と恐れられた遊牧民アヴァール人、
さらにゲルマン人以上にローマの文明とは異質な蛮族スラヴ人の侵入が始まっていてそちらに兵力の殆どがつぎ込まれた

126: アスペニート 2016/08/22(月) 23:31:04.333 ID:ykPl+wVy0
イタリアではパンノニア平原から国王アルボインに率いられたゲルマン系のランゴバルド族がアヴァール族の侵攻と連動して南下を始める
ユスティニアヌスの後継者のユスティヌス二世(520-578)は金が掛かり過ぎるだけで荒れ果てて旨味のないイタリア半島に遠征軍を派遣する余裕がなく、
現地駐留軍はランゴバルド族を撃退できずイタリアの北部を中心としてランゴバルド王国が成立した

ランゴバルド族の間では国王の権力は他の蛮族よりも弱く、半島の中南部ではスポレート公国やベネヴェント公国が実質的な権力を握っていた
ランゴバルド王国。オレンジが残された東ローマ領
no title


この時からイタリアは中世・近世を通して長い政治的分裂が運命づけられる
この半島がイタリア王国として再び統一されるのは19世紀である

127: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 23:32:29.038 ID:lhLrFEOG0
アルボインがすぐに暗殺されてしまったのもランゴバルド王権弱体化の一因だわなあ

128: アスペニート 2016/08/22(月) 23:36:28.438 ID:ykPl+wVy0
さらにアジア方面でも侵略は始まっていた

もともとこの地域の大国ペルシアはローマ帝国の伝統的なライバル国で、国境地域ではしばしば戦いが行われていたが
ヌシルヴァン(不死の魂)とあだ名されたササン朝の名君ホスロー一世(501–579)とユスティニアヌスの時代も同様に休戦と開戦が繰り返されていた

東ローマのユスティヌス二世はこのホスローにも敗れ、四面楚歌の情勢下で精神を病んでしまう
彼は将軍ティベリウスを後継者に指名して578年に引退、間もなく死去する
この東ローマ皇帝ティベリウス(540-582)の時代にササン朝ペルシアのホスロー一世は死去し、後継者をめぐって内乱に突入したため東ローマはしばらくの小康を得た

この頃の情勢図
アジアでは東ローマ帝国とササン朝ペルシアの二大国が対立し、バルカン半島の北ではアヴァール汗国とスラヴ人の諸族が南下の機会をうかがっている
イタリアはランゴバルド族の侵入により半ばが失われていた
no title

129: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 23:38:32.320 ID:lhLrFEOG0
薄々気づいてたけど、ラジカ戦争やらんのかー
次回の増補に期待やね

130: アスペニート 2016/08/22(月) 23:41:13.596 ID:fPtbJRKZM
>>129
適度に飛ばさないと読んでもらえないよぉ…

133: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 23:48:06.376 ID:lhLrFEOG0
>>129
アスニーなら、きっとアスニーなら、
ゴート戦争の裏側で同時並行的に進んでたラジカ戦争も
ゲピードとランゴバルドの抗争も、七王国時代と同時代のスコットランド・アイルランド・ウェールズも
さらに色々チョメチョメした挙句にアラビア半島やらナバタエやらエチオピアやらまでカバーしてくれるって信じてる……!

135: アスペニート 2016/08/22(月) 23:50:11.566 ID:ykPl+wVy0
>>133
が、がんばる…

131: アスペニート 2016/08/22(月) 23:44:34.298 ID:ykPl+wVy0
そしてティベリウスの後継者マウリキウスの時代にホスロー一世の孫ホスロー二世が部下に反乱を起こされて東ローマ帝国に亡命してくる
マウリキウスはこのホスロー二世に自らの娘を嫁がせたうえで彼を支援して590年にペルシアの玉座に復帰させることに成功し、
これに感謝したホスロー二世は東ローマと友好的な関係を結んだ

しかし592年マウリキウス帝が簒奪者フォカスに倒されるとホスロー二世は恩人マウリキウスの仇討ちと称して東ローマと開戦
この新皇帝フォカスは無能でヨーロッパ側の領土はササン朝と結んだアヴァール族に侵され、アジア側ではササン朝の侵略により帝国は危機に陥った

134: アスペニート 2016/08/22(月) 23:48:30.954 ID:ykPl+wVy0
画像貼るの忘れた

ホスロー二世(570-628)
no title

132: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 23:45:58.802 ID:lhLrFEOG0
次の皇帝のせいで、無能扱いされてるフォーカス帝きたー

136: アスペニート 2016/08/22(月) 23:54:36.199 ID:ykPl+wVy0
こんな状況下でかつてヴァンダル王国のあった東ローマ帝国のアフリカ総督府が反乱を起こし、
高齢の総督に代わって息子のヘラクレイオスが艦隊を率いて首都コンスタンティノープルに迫った
人心を失っていたフォカスはこれに抵抗できずコンスタンティノープルは開城、フォカスは処刑されヘラクレイオスが610年皇帝として即位する

このヘラクレイオス一世が危機に瀕した東ローマの救国の英雄となる
ヘラクレイオス一世のコイン
no title

137: アスペニート 2016/08/22(月) 23:58:17.452 ID:ykPl+wVy0
フォカスが倒されてもホスロー二世はそのまま戦争を続行する姿勢を見せ、東ローマは経済的に重要なエジプトとシリアの属州を喪失してしまう
その後もササン朝の進撃は続き、620年ころになるとササン朝は首都コンスタンティノープルに迫り状況は絶望的になった

621年頃、ホスロー二世の元でのササン朝の最大領土
no title


ヘラクレイオス自身も一時はコンスタンティノープルの防衛をあきらめてアフリカへ亡命政権を立てることを考えたほどだった
しかしコンスタンティノープルの総主教に引き留められて、最後まで帝国と運命を共にする決断をすると大胆きわまる反撃に出る

138: アスペニート 2016/08/23(火) 00:02:24.784 ID:us5VzpWO0
彼は首都がアヴァールとササン朝の大群に包囲されるがままにしたまま、
自ら率いる精鋭部隊を海路からアナトリア東部に上陸させペルシア軍の背後で軍事活動を展開
そのまま敵国内部まで侵攻することでコンスタンティノープル包囲軍を引き揚げさせることに成功する

ヘラクレイオスの反撃作戦
no title


そして627年のニネヴェの戦いでヘラクレイオスがササン朝の軍に決定的な勝利を収めると、
東ローマ軍は遂にササン朝の奥深く首都クテシフォン近郊まで迫ったのである

139: アスペニート 2016/08/23(火) 00:08:29.749 ID:us5VzpWO0
この事態にササン朝の宮廷では将軍ロスタム主導の下でクーデターが起こり、
628年ホスロー二世は廃位され、息子のカワードが即位してヘラクレイオスに白紙和平を申し込んだ
長年首都を離れて戦い続けたヘラクレオスは華々しく凱旋、
シリア・エジプトの属州は東ローマの手に戻り国境は完全に旧に復した

140: アスペニート 2016/08/23(火) 00:08:49.609 ID:us5VzpWO0
アヴァール族も単独で東ローマを圧倒するほどの勢力はなく、イタリア半島の領土も完全に失われたわけではない
この時点では時間をかければ地中海の覇権国家としての帝国の再建も十分に可能であるように思われた

141: アスペニート 2016/08/23(火) 00:11:48.351 ID:us5VzpWO0
しかしそうはならなかった

話は少し戻って西暦610年頃
地中海世界から遠く離れたアラビアの地ではアラブと呼ばれる民族が古来からいくつもの部族に分かれて政治的には分裂状態にあった
そのアラビア半島の都市メッカで、ムハンマドという一人の商人が天使ジブリール(ガブリエル)から「啓示」をうけてイスラームという新しい宗教を広め始める

天使ジブリールとムハンマド
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イスラーム興隆の地アラビア半島
no title

142: アスペニート 2016/08/23(火) 00:14:07.360 ID:us5VzpWO0
ムハンマドはこの宗教の名のもとに自ら陣頭に立って戦い各部族をまとめ上げ、歴史上はじめてアラビア半島を政治的に統一することに成功する
632年にムハンマドは病没したが、カリフと呼ばれる彼の後継者たちはこの宗教のさらなる拡大を目指していた

すでに628年、ちょうどササン朝と東ローマの戦争に決着がつく直前にイスラームに改宗することを勧める使者がこの両国に派遣されていた
ホスロー二世はこの使節に対してみすぼらしい砂漠の野蛮人が何をいうかと一笑に付したという
ヘラクレイオスももちろんこの申し出にまじめに取り合わなかった

143: アスペニート 2016/08/23(火) 00:16:58.658 ID:us5VzpWO0
634年第二代カリフとなったウマルの元でイスラームの軍団は北上を開始、東ローマとササン朝の両方にジハード(いわゆる聖戦)を挑む
アラブ人はローマやペルシアの先進地帯の国家から見れば取るに足らない「野蛮人」だと見なされいて、事実装備や技術では劣っていたが一枚岩の宗教で統率された力はすさまじいものだった
侵攻を受けた二国は南方の砂漠地帯からこれほど強力な勢力が現れるとは全く予想しておらず、長年の戦争で疲弊していたことが致命傷となり瞬く間に領土を奪われていった
東ローマのヘラクレイオスは反撃を試みるが636年ヤムルークの戦いで敗北、シリアの喪失は決定的なものとなりこの地は二度と東ローマの元に戻ることはなかった

「シリアよさらば、なんと良い地であることか、敵にとっては」
ササン朝との死闘の末に取り戻したこの地を去るにあたってヘラクレイオスはこのような嘆きの言葉を残したという
その後もイスラームはすさまじい勢いで次々と東ローマの領土を征服していき、東ローマ帝国はアナトリア半島を除くアジア・アフリカを完全に失い「ギリシャ文明の帝国」として生き残っていくことになる

144: アスペニート 2016/08/23(火) 00:17:50.031 ID:us5VzpWO0
ササン朝ではホスロー二世の廃位後内乱があったりと東ローマ帝国よりもさらに状況が悪かった

イラク領では636年カーディシーヤの戦いでイスラーム軍がロスタムを敗死させイラクを征服される
その後642年にはペルシアの首都クテシフォンを征服され、最後の皇帝ヤズデギルド三世はニハーヴァンドの戦いで戦死
ここにササン朝ペルシアは滅亡した

145: アスペニート 2016/08/23(火) 00:19:19.962 ID:us5VzpWO0
イスラームの拡大を簡単に年表で示すと
・636年 東ローマ帝国からシリアを征服
・637年 ササン朝からイラクを征服
・638年 東ローマ帝国からパレスチナ、エルサレムを征服
・640年 東ローマ帝国からエジプトを征服
・641年 東ローマ皇帝ヘラクレイオス死去
・642年 ササン朝からペルシアを征服。ササン朝滅亡
・644年 カリフ・ウマル死去
・698年 東ローマ帝国からアフリカを完全に征服

146: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/23(火) 00:20:37.565 ID:TZ0hLGaM0
キリスト・イスラム・ユダヤだけじゃないんだな
ゲルマンはまた特殊な感じなのか 実はユダヤなんじゃねえのか

148: アスペニート 2016/08/23(火) 00:24:39.007 ID:us5VzpWO0
>>146
ゲルマンは旧ローマ帝国領に住み着いたやつらはわりと速やかにキリスト教化、
ローマ外のやつらも中世にはキリスト教に改宗したよ

150: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/23(火) 00:26:37.162 ID:TZ0hLGaM0
>>148
表面上はーとかじゃないの?

151: アスペニート 2016/08/23(火) 00:33:01.803 ID:AZLwGw6HM
>>150
最初は表面的な改宗で田舎の方ではいろんな迷信とか残ってたけど
何百年も教会がいるからおおっぴらにはできなかったし
ゲルマンの元々の宗教はユダヤ教と違って文字で聖典を残したりすること知らない各人バラバラで幅のある宗教だったから自然に消えていった

154: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/23(火) 00:57:58.215 ID:TZ0hLGaM0
>>151
結構ドイツ系ユダヤで優秀な人いた気がしたからさ
なんかあんじゃねえかと思ってね

155: アスペニート 2016/08/23(火) 01:03:57.229 ID:us5VzpWO0
>>154
ユダヤ人はキリスト教社会の中で金融業や商業に特化したからつよい
職業柄勉強しないといけないからね

147: アスペニート 2016/08/23(火) 00:23:00.637 ID:us5VzpWO0
そして711年、イスラーム勢力はジブラルタル海峡を渡ってヒスパニアへ上陸
グアダレテの戦いのたった一度で西ゴート王国軍は壊滅し翌年には主要な都市はほぼすべてイスラームの手に落ちた
この時生き残った西ゴート王国の貴族ペラヨが北のアストゥリアス地方の山岳地帯に逃れてゲリラ戦を展開
ここから1492年まで続くレコンキスタの長い歴史が始まる

イスラームが征服した地方
色の濃い順にムハンマドの時代に征服された地方
ムハンマド死後の正統カリフ時代(632年-661年)に征服された地方
それ以降661年に成立したウマイヤ朝の時代に征服された地方
no title

149: アスペニート 2016/08/23(火) 00:25:08.058 ID:us5VzpWO0
イスラーム勢力はフランク王国にも侵入したが
有名なトゥール・ポワティエの戦いでフランク王国の実権を握る宰相カール・マルテルに敗れる

このカール・マルテルの息子小ピピンがクロヴィスの子孫から王位を奪い、カロリング朝フランク王国が成立
ピピンの子のカールはその領地をさらに広げドイツ方面とイタリアのランゴバルド王国を併合しローマ教皇保護し、
東ローマ帝国と縁を切ろうとしていた教皇から新たに「ローマ皇帝」に任命される

フランク王国国王からローマ皇帝に出世したカール大帝
no title


これが神聖ローマ帝国の前身であり、本格的な中世ヨーロッパ世界の幕開けにもなるんだけどそれはまたいつか
おしまい

153: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/23(火) 00:55:48.636 ID:b3S35SeM0
クッソ興味深い

159: アスペニート 2016/08/23(火) 01:38:11.556 ID:us5VzpWO0
この時代のよくある勘違いQ&A

Qゲルマン民族はローマ帝国を破壊しようと思ってやってきたの?国取り合戦的な

Aいいえ。西ゴート王アタウルフなんかは「昔はローマ帝国をゴート帝国にしてやろうと思っていた」とか言ってますが
多分そこまで考えてた人はほとんどいません。蛮族の大半は単に少しでもいい生活環境を得ることが第一の目的だったと思われる

Qゲルマン民族に占領された地域ではローマ人は虐殺されていなくなったの?

Aいいえ。そもそもゲルマンの蛮族って一つの集団で最大10万人くらいでそれ以上の集団で動いたら餓死しちゃう
一方ローマ帝国の住民は一つの地域に100万単位でいるんだからこの関係は数的に覆せない

Qでもローマ文明はゲルマン民族の支配によって消え去ったんでしょ?
Aそうとも言えない。
蛮族は数で何倍もいるローマ系住民を統治していかなくてはいけない訳だけど、
彼らは都市に住む人たちで森から出てきたゲルマン民族とは何もかも違う
役人・官僚としてローマ系住民を登用しなければ蛮族国家など成立しようがなかった

Qじゃあ芸術とか技術とかいろいろ衰退したのはなんで?キリスト教が悪いんか?
A一口で言うのは難しいけど最大の要因は各地位ごとの交流・交易が衰退したことだと思う
富が一箇所に集まるということがなくなれば芸術とか大建築のための技術も必要なくなる
この時代のキリスト教の教会はむしろ古典ラテン語の文献などを保存してローマ文明を残した側

162: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/23(火) 01:47:34.551 ID:o75JAH7w0
ユダヤが排斥されてるのって国がなくてキリスト殺して国籍持ってる国で金貸ししてるから以外に何かある?

163: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/23(火) 01:51:18.173 ID:GSu4ByDg0
アスニー節で見てみたいこんな歴史俺の趣味編

中国:黄巾正に立つべし!!→司馬氏による蜀魏呉フルボッコまで

日本:ど田舎ボンビー道場一行ご上洛!俺ら京行ってビッグになるぜ!→五稜郭に夢は潰える

欧州:欧州各国「東にすげー宝の山があるらしーじゃねーか、ヒャッハー野郎ども、錨を上げろー!帆を立てろー!」→アメリゴ「・・・ここがインドですかばい!」

164: アスペニート 2016/08/23(火) 01:55:49.650 ID:us5VzpWO0
>>162
ヨーロッパ全体ではそんなとこじゃね?
ローカルで見たらもっといろいろあるんだろうけど

>>163
三國志は圧倒的に濃ゆいオタクの人たちがどっさり湧いてくるから怖くて立てられない…
新選組も似たような理由&あんまり興味なくて微妙だなぁ
大航海時代はちょっと興味あるかも!

165: アスペニート 2016/08/23(火) 01:56:50.796 ID:us5VzpWO0
日本史は院政~鎌倉初期とか南北朝あたりだったら昔ちょっとハマったから勉強し直したらスレ立てれそう

168: アスペニート 2016/08/23(火) 02:10:06.299 ID:us5VzpWO0
院政時代の天皇親政派vs上皇院政派とかわけ分かんなくて好き

169: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/23(火) 02:44:23.680 ID:MJSOEOiZ0
ゲルマンin森

っていわれるとぼくのノウミソじゃターザンのような情景しか思い浮かべられない

170: アスペニート 2016/08/23(火) 02:52:12.430 ID:us5VzpWO0
>>169
森と森の合間の開けたところに村を作って住んでる
個々の村は森によって寸断されている
みたいなイメージでいいかと

172: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/23(火) 02:57:07.605 ID:MJSOEOiZ0
>>170
なるほど。そういうことか

あと……どうしてローマ帝国は分裂するときに経済的に優劣ができる分け方をしたんだ?
本来はあくまで政治的な区分けであって経済的には一つのままだったはずが、諸々の事情で経済的にも分断しちゃった的な認識であってるかな

175: アスペニート 2016/08/23(火) 03:07:37.136 ID:us5VzpWO0
>>172
一つにはこの東西の分け方が元々文化的な区分でもあったからかな?
ローマ文明の先輩といえば東方のギリシャ文明だけど
これはアレクサンドロス大王の東征以来エジプトやシリアに伝わって地中海東部で影響力を持っていた
ローマがこの地域を軍事的に征服した後も、ギリシャの先進的な文化は優位を保ち続けた

対して西ローマ帝国の領域にはギリシャ人は進出していなかったからローマ(ラテン)系の文化の影響が元々のケルト系文化などに波及していった
あとは防衛上の理由だと思う
一人の皇帝で守りきれるように分けた訳だから飛び飛びにするわけにはいかないしね

いずれにせよこの政治的な区分けがさらにそういう文化的、経済的な差を加速させたのは事実だと思う

177: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/23(火) 03:18:50.116 ID:MJSOEOiZ0
>>175
あくまで統治を主眼にしてたってことか……
文化的区分によって内側を治めやすくして、軍事的区分によって外側を排しやすくする
なるほどな。色々と教えてくれてありがとっ。アスニー

171: アスペニート 2016/08/23(火) 02:56:05.452 ID:us5VzpWO0
ヨーロッパというと石造りの建物ってイメージがあると思うけど
それは地中海の文明の特徴で元々のゲルマン人は完全に木の文化と言ってしまっていいと思う

173: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/23(火) 03:00:19.150 ID:MJSOEOiZ0
>>171
マジか
なんだかゲルマン人の土地に木造教会が集中してるのと関係がある感じがするな

40: 以下、無断転載禁止でVIPがお送りします 2016/08/22(月) 17:02:31.857 ID:Hc2x/Io5a
こういうスレ好き
家帰ったらじっくり読むわ

アスペニート(世界史)シリーズ
http://world-fusigi.net/tag/アスペニート
※「アスペニート」とは2chで世界史に詳しい人のコテハンです。





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【増補】古代末期の歴史について適当に学ぼうぜ

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コメント

1  不思議な名無しさん :2016年08月23日 20:04 ID:f0GkI.F7O*
記事とは関係無いコメントだけれど、最近このブログ知った。好き。
ガラケーでも閲覧出来るし、管理人さん応援してます!
2  不思議な名無しさん :2016年08月23日 20:11 ID:Wv1VcdDO0*
現代のマケドニアは古代のマケドニアが神聖ローマとオスマントルコの争いの前線となったせいで生じた空白地帯が幾度かの統合と分裂を繰り返してできた国だぞ。
民族的にはスラヴ系だから古代マケドニアとは地名以上の繋がりはない。
3  不思議な名無しさん :2016年08月23日 20:47 ID:Tmatz8LR0*
欧州の黒人の歴史を白人の歴史にすり替えたんはいつごろ?
4  不思議な名無しさん :2016年08月23日 21:46 ID:F3J259s60*
なんつー素晴らしいまとめ。
中世のみならずヨーロッパは難しすぎるから助かる
5  不思議な名無しさん :2016年08月23日 23:06 ID:VhGwVKlN0*
旭日旗で有名なマケドニア

 
 
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