白坂小梅「溜め池からの呼び声」
夢を見た。
自宅マンション近くにある大きな溜め池のほとりに、自分が立っている夢。
何をするために自分が溜め池の前に立っていたのかはわからない。
夢なんて、そんないい加減なものだ。
とにかく俺はそこに立っていた。
いや、立ち尽くしていたと言うべきか。
不意に、足元に冷たい感触が起こる。
視線を下に向けると、ゼリー状の透明な“何か”が俺の足首までを覆っていた。
「何なんだこれは!」
にわかに全身鳥肌が立ち、必死にその場を離れようとするが、足元が固められているため動けない。
俺がもがく間にもゼリー状の“何か”は俺の足を登ってくる。
足首まで覆い尽くした“何か”は、脛、膝、太腿と俺の下半身を飲み込んでいく。
「やめろ!離せ!この野郎…!」
無我夢中で“何か”を掴み、引き剥がそうとするが、水分を含んだゼリー状の“それ”を全て掴むことはできない。
どころか、“何か”を掴んだ両手までもがどんどん水分に覆われていく。
「やめてくれ…!来るな…嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」
気づけば透明な泥のような“何か”は俺の胸まで達していた。
マズい…!
このまま俺の口や鼻まで“これ”が登ってくれば、俺はすぐにも窒息してしまう。
嫌だ!死にたくない!
「やめろ!何なんだよ!離せよ、助けてくれ、もう嫌だもう駄目だ…」
“何か”は這い上がるスピードを上げて首元まで迫る。
何とかしないと、どうにかしないと。
必死で首を掻きむしるが、ほとんど効果は無いようだ。
既に顎まで“何か”に覆われつつある。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌ゴボッ…」
何の抵抗もできず、あっさりと口も鼻もゼリーに覆われてしまった。
苦しい!!
息が詰まる…意識が遠くなる…
そこでようやく目が覚めた。
最悪の寝覚めだ。
視認せずとも全身に嫌な汗が迸っているのはわかった。
寝る前に点けたエアコンはいつの間にか停止していたようだ。
「はぁ…暑いせいで嫌な夢見たな…」
何故だか今日は目覚し時計が鳴らなかったらしい。
お陰でいつもより遅い起床になってしまった。
朝食は…食える時間じゃないな。
それと、ヒゲは事務所で剃るしかないか。
とにかく活動を始めなければ。
汗で張り付く衣服を脱ぎ捨て、風呂場へと向かう。
早くシャワーを済ませて出社しないと…
それから…ベッドのシーツが異様に湿っている気もしたが、おそらく俺のせいだろう。
あれも洗濯しなきゃな…
「おはようございまーす」
「あら、おはようございます」
「お、おはよう…」
急ぎ気味に事務所へ飛び込むと、ちひろさんと小梅が出迎えてくれた。
そう、今日は朝から小梅とロケに行く予定があったのだ。
本来なら早起きして色々と準備したかったのだが…
遅れてきた俺を咎めるように小梅は俺をじっと見ている…
「Pさん、首…」
「ん?首…?」
どうやら睨まれていたわけではなかったようだ。
小梅に指摘された通り、首を触ってみると微かな痛みがあった。
「首、赤いよ…?」
近くの鏡で確認してみると、なるほど首が赤く腫れているようだった。
ミミズ腫れ、というほどではないが、そこには掻きむしったような跡がくっきりと残っていた。
今朝の夢を思い出して薄気味悪くなったが、何とか平静を取り繕い、小梅の方へと向き直る。
「ああ…今朝ちょっと変な夢を見てた。うなされた時に引っ掻いてしまったのかもしれん」
「変な、夢…?」
「まあ移動中にでも説明するよ。とりあえず俺はヒゲを剃らないと…」
逃げるように俺は事務所の洗面所へと向かった…
小梅を車に乗せてロケ現場へと向かう。
事務所からそう遠くない距離ではあったが、今朝の夢の話をするには十分な時間があった。
出来れば夢のことは思い出したくなかったが、小梅に相談すれば何かわかるかもしれない、と思ってのことだ。
まあ、結局はその目論見も外れるわけだが…
「それで首が赤かったんだね…」
「ああ。もしかして俺、なんか悪い霊とか憑いてる?心当たりは無いんだけどなぁ…」
「ううん…何も見えないよ。今のところは…」
「そうか…それなら少し安心かもな。単に俺が疲れてただけかもしれん」
「ただ…見えないからこそ余計に怖いものなのかもね…」
「えっ!?そういうこともあんの!?」
「ご、ごめんね…怖がらせちゃったら…私の考えすぎだったらいいんだけど…」
「…」
余計に不安が募る。
小梅が悪いわけじゃないが、何せ正体の見えない不安というのは厄介だ。
その不安がいつどこで牙を剥くのか想定できないというのはどうにも…
「気にしないのが一番かもな」
小梅に言う、というよりは自分に言い聞かせるように俺は呟いた。
「ふ、不安なら…朋さんに相談しても良いかも…」
小梅は健気に俺の身を案じてくれているらしい。
そうだ、俺がシャキっとせねば。
「朋か…ちょうど今日事務所に来るし、訊いてみるよ。ありがとう」
小梅を降ろした後、俺はそのまま事務所へとUターンする予定だった。
「Pさん…気を、つけてね…」
心配そうに小梅が手を振る。
俺はなるべく気丈に見えるよう、わざと大きく手を振り返した。
「ふぅ…」
駐車場へと着いた俺は車のキーを慎重に回した。
気持ちが焦って交通事故でも起こしたら問題だ。
気持ちを落ち着けるために、運転席で深呼吸を行う…
するとそこで、首の後ろに冷たい感触が走った。
「うわっ!?」
反射的に手を首の裏側へやると、冷たい水分が手に触れた。
「なんだ、汗か…」
どうやら過敏になりすぎているようだ。
9月の初旬とは言え、未だ残暑は厳しい。
冷房の効いた車内で汗の冷たさを感じるのは、何も不思議なことじゃない。
そう、何も不思議なことなど起こらないのだ…
まるで願うように、俺は心の中で呟いた。
事務所にこもっての雑務処理は本来好きではないのだが、今日に限っては煩わしい作業も良い気晴らしになるだろう。
もちろん、夢のことをすっかり忘れられるほどではないだろうが…
午後三時を過ぎた頃、眠そうな顔の藤居朋が事務所にやってきた。
おおかた新しい占いにハマって夜更けまで起きていたのだろう。
普段なら小言でも挟みたくなるところだが、今は占いに没頭する朋の姿勢が頼もしくもあった。
「P、おはよ~」
「おう朋。寝不足か?」
「うっ…まあちょっとだけね」
「そうか…」
「あれ!?なんか今日元気ないわね?」
「んー…まあ少し心配事があってな」
「えっ、何なに?占いで解決できそうなことかしら!?」
能天気というか何というか。
その前向きさを分けてもらいたいくらいだ。
そんな朋の様子は、漠然とした不安を抱えた俺にとって有り難いものではあるが…
「朋…夢占いに自信はあるか?」
「もちろん!気になる夢でも見た?」
「ああ…」
自分が溜め池のほとりに立っていたこと。
そこでゼリー状の“何か”に襲われたこと。
その際感じた俺の恐怖と動揺。
なるべく事細かに説明するよう努めた。
話している途中、我ながらよくここまで仔細に覚えているものだと思ったが…
「うーん…夢占いだと基本的には湖とか水たまりは安心の象徴にされるわね」
「えっ、それなら…」
しかし甘い期待は脆くも打ち砕かれる。
「ただ、それは穏やかな湖の場合に限るの。マイナスのイメージを抱く夢なら…凶兆になるわ」
「そうか…何となく予想はしてたけど、改めて断定されると不安だな」
「そ・こ・で♪」
消沈した俺の顔を見て、待ってましたと言わんばかりに朋はカバンを探る。
何やら秘策めいたものがあるのだろうか。
「水難から身を守るにはこのおまもりよ!」
そう言いながら朋は俺に小さな巾着袋を手渡した。
紫色で、複雑な紋様が描かれた袋だ。
どう贔屓目に見ても、あまり高価なものには思えない。
「これが…?ごくごく普通のおまもりにしか見えないけど」
「そう思うでしょ?でも実はこれ奄美大島の神社に祀られている水神の…」
そこから先の朋の蘊蓄は聞き流してしまったが、とにかく霊験の篭ったおまもりらしい。
そんな立派なものを俺が借り受けていいのか、と朋に尋ねると「私はしばらく水辺でのロケは無いから」とあっけらかんとしていた。
そもそもおまもりって気軽に貸し借りしていいものなのか?などと考えもしたが、朋の厚意は純粋に嬉しかったので有り難く借りることとした。
今度彼女にはソフトクリー厶の一つでも買ってやらないとな…
朋にもらったおまもりのお陰か、心なしか気楽に仕事ができたのが良かったのだろう。
今は繁忙期でもないため、20時には会社を出ることができた。
昨日作っておいたカレーがまだ家にあることだし、寄り道せず帰ることにしよう。
夜でも明るい東京の街並みは、今の俺にとっては救いだった。
大の男が真っ暗な道を怖がるのも情けない話だが…
しばらく電車に乗った後、俺は入居しているボロアパートの前まで来た。
築40年。
経年劣化が目視できるアパートは、今の心理状態からすると限りなく不気味に見えた。
錆びて朽ちかけた鉄の階段を、足取り重く昇っていく。
新入社員の頃と違ってそれなりに貯金もあるし、そろそろ引っ越しも考えた方がいいかもな…
そして部屋まで辿り着いた俺は、着替えもそこそこにベッドへ倒れ込んだ。
おまもりが気休めになったといっても、朝から張り詰めていた気持ちがすべて消えてなくなったわけではない。
なんだか少し眠気もある…
何ならこのまま一眠りしてもいいかな…
などと思いかけたところで、ハッと目が覚めた。
もしこのまま眠ってしまえば昨日と同じ夢を見るのでは?
それは嫌だ。それだけは絶対に嫌だ。
ゼリーに口を塞がれ窒息していく感覚が蘇る。
マズい!
とにかく頭をシャッキリさせないと!
俺は勢いよく立ち上がり、冷蔵庫に保管していたペットボトルのコーラを飲み下した。
突き抜けるような刺激が俺の喉を伝う。
そうだ。カレーを温めよう。
カレーを。温めないと。
違う。行かなきゃ…行かないと…
夢で見た景色?
違う。今は現実だ。
辺りは暗く、古びた電灯が薄く世界を照らしているだけ。
ここが現実の溜め池だと認識できているものの、妙に頭がぼんやりとしている。
何より、「ここから動いてはいけない」という意識が強く脳内を占めていた。
まるで親の言いつけを守る子どものように、押し黙って俺は立ち尽くしていた。
ああもう良いや。
ここから動けなくても。
こうやって俺はずっとここにいるのだ。
昔からずっと。
離れたくないんだ…
じっと溜め池を見続けていたい…
そんな思いに頭が支配されていく。
突如ガサガサ!と背後の茂みが鳴った。
その瞬間、我に返って俺は後ろを振り返る。
音の主は現れない。
野良猫か何かだろうか?
その音を聞くや否やこの場にいることが恐ろしくなって、俺は早足で駆け出した。
いつ俺はここに?
なぜ俺はここに?
湧き上がる疑念よりも速く、速く脚を前へ。
アパートに戻ってきた頃にはすっかり息が上がっていた。
心臓の鼓動がうるさいほどに鳴り響く。
一息ついたところで、「今夜は眠れそうにないな」と他人事のように思えてきた。
翌朝小梅と会った時の第一声がそ
コメント一覧
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- 2016年09月09日 23:36
- ツチケラかと思ったらウーだった
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小林一茶