少女「好きです、マスターさん」
マスター「いらっしゃいませ」
わたしが初めて純喫茶『ねこのしっぽ』という喫茶店に入った時。
わたしとマスターさんは、客と喫茶店のマスターの関係だった。
少女「……」
その時のわたしは、学校から帰るときに間違った駅で降りてしまって、次の電車が来るまでぶらぶらしていたら道に迷ってお腹が空いてきて、偶然喫茶店があったから入ったという、なんともお間抜けな話で。
マスター「どうぞ、カウンター席にお座りになってください」
少女「あ、はい……失礼します……」
マスター「……」
少女「……」
……緊張で、落ち着きがなかったことをよく覚えてる。
初めての喫茶店で、どうすればいいのかわからなかったし。
だから、その時はマスターさんの顔とかを落ち着いて見ることができなかった。
少女「……えっ、あっ、えっと……飲めますっ」
マスター「ふふ、そうですか。 では……どうぞ」コト
少女「え」
マスター「サービスです。 角砂糖はおいくつで?」
少女「あ、ふ、ふたつ、で……」
マスター「かしこまりました。 ……はい、どうぞ」
少女「あ、ありがとうございます……いただきます……」
何を注文すればいいかわからなかったわたしに、マスターさんはコーヒーをサービスしてくれた。
少女「あ……美味しい……」
その時のマスターさんの微笑みとコーヒーの味は、今でも忘れられない。
マスターさんともいっぱいお話して、だんだんと仲良くなり始めたころに、わたしはマスターさんから ねこのしっぽ でのバイトに誘われた。
嬉しかったけど、不安でもあった。
わたしは料理なんてできないし、コーヒーの淹れ方なんてさっぱりわからなかった。
マスター「大丈夫です。 料理も淹れ方も、すべて私が責任を持ってお教えしますから」
でも。
そう言って微笑むマスターさんを見て、なぜかはわからないけれど、不安が消えて。
わたしは、純喫茶『ねこのしっぽ』で働くようになった。
少女「ありがとうございましたー!」
マスター「ありがとうございました。 ……さて、そろそろお店を閉めましょうか」
少女「はい! 看板下げてきますね」
マスター「お願いします」
一旦表に出て、『営業中』とポップな感じに描かれ、それにメニューが添えられている看板を店の中に仕舞う。
この看板はわたしが描いたもので、理由は、元々置いてあった看板に書いてあった文字が達筆すぎて読めなかったからということと、それが喫茶店の雰囲気に合わなかったからということ。
少女「おっけーです!」
マスター「ありがとうございます。 もう遅いですし、上がってしまってもいいですよ」
少女「いえいえ、まだ洗い物終わってませんし、それ終わってから上がります」
マスター「暗くなると、ご両親も心配するでしょう」
少女「大丈夫ですってば。 今日はお客さんも多かったですし、一人だと大変でしょ」
マスター「……確かに量は多いですが、大丈夫です」
少女「ダメです。 わたしも手伝います」
マスター「……」
少女「……」
マスター「……すみません、お願いします」
少女「はい♪」
スポンジを手にシンクに向かい、食器を洗い始める。
顎に人さし指を当てて、マスターさんが言う。
少女「いえいえ、平気です。 飲みたいです」
マスター「ふふ、わかりました。 用意しておきます」
少女「やった!」
あの時……初めてマスターさんの淹れてくれたコーヒーを飲んだ時から、わたしはマスターさんの淹れてくれるコーヒーが好きになった。
だから、お礼のコーヒーをもらうために、こうして残ってお仕事をするのがわたしの密かな楽しみだったりする。
少女「終わりました!」
マスター「ありがとうございます。 もうすぐでできますから、着替えて待っていてください」
少女「はい」
バックルームに行って、私服に着替える。
カウンターに戻って席に座って、コーヒーが出来上がるのを待つ。
少女「……良い匂いですね」
マスター「ええ」
漂ってくる、コーヒーの香り。
この香りを、仕事終わりののんびりとした時間に楽しむのが好き。
……初めて来たときは落ち着いて見ることができなかったけど、マスターさんは綺麗な顔立ちをしている。
いっつも優しく穏やかに微笑んでいて、所作はゆっくりしているけど、すっごく丁寧で。
どこか育ちの良さが伺える。
コポコポとマスターさんがコーヒーをカップに注いで、わたしの前に置いた。
角砂糖二つを添えて。
少女「ありがとうございます、いただきます」
角砂糖を二つ入れて、スプーンでかき混ぜて。
ふーふーと少し冷ましてから、カップに口をつけて熱々のコーヒーを口に含む。
少女「んく、はふう……」
バイトの疲れとともに、息を吐き出す。
……美味しい。
マスター「いかがですか?」
少女「癒されます……」
マスター「……ふふ」
くすりと、マスターさんが笑う。
少女「う。 や、やめてくださいよ」
マスター「不安げに店内を見回す様は、なんだか小動物を連想させられましたね」
少女「やめてくださいってばー……」
マスター「ふふ、そうですね。 少女さんをいじめるのはここまでにしておきましょう」
くすくすと笑いながら、マスターさんが言った。
初めて来た喫茶店はあんなおバカな経緯からで、なんて恥ずかしいことは、早く忘れたかった。
マスター「でも……今の少女さんの顔は、初めて私のコーヒーを口に含んだ時と同じ表情をしています」
少女「え」
マスター「ふふ……さて、もう結構遅い時間ですし、そろそろ帰られたほうがよろしいのでは?」
少女「あ……うーん、そうですね……」
時計を見ると、確かにいい時間だ。
この空気と時間が惜しいけど、お母さんたちを心配させるわけにもいかないし……。
少女「ですね、帰ることにします」
マスター「今日もお疲れさまでした、少女さん」
少女「マスターさんも、お疲れ様でした。 お先に失礼しますね」
マスター「はい」
少女「あ。 でも、わたしが使ったカップくらいは片付けますね」
マスター「いえいえ、大丈夫ですよ」
少女「そうですか? じゃあ、ごちそうさまでした」
マスター「お粗末様でした。 また次のバイトの時に」
少女「はい。 失礼します」
喫茶店のドアが開いてカランコロンと鈴の音が鳴り、来客を告げる。
少女「いらっしゃいませー!」
冷蔵庫にある食材の賞味期限チェックを中断し、やって来たお客さんに顔を向ける。
「こんにちは、少女ちゃん」
少女「あっ、こんにちは!」
やって来たのは、常連のお客さん。
いつも座る席に座って、お店を見回す。
「マスターは?」
少女「買い出しに行ってます。 何か用事でしたか?」
「ううん、いないのが珍しいと思っただけよ」
少女「コーヒー豆のことはよくわからないので、コーヒー豆の買い出しはいつもマスターさんが行ってるんです……お待たせしました」
「ありがとう」
いつも頼むコーヒー豆を使ってコーヒーを淹れ、お客さんにお出しする。
少女「よかった」
「すっかり慣れちゃったみたいね、ここの仕事」
少女「ええ、なんとか」
「入りたての頃はあんなにあたふたしていたのに」
少女「う。 思い出さないでください……」
「ふふ……」
優雅に笑って、カップに口をつけるお客さん。
この人は、不動産会社の社長さんをやっていると聞いた。
社長「あたふたしてた少女ちゃん、可愛かったわ」
少女「す、素直に喜べないんですけど……」
社長「もちろん、今も可愛いわよ?」
少女「そ、それは……どうも……」
目を細めて、お客さんがわたしを見る。
……わたしは、このお客さんがちょっぴり苦手だったりする。
態度が悪いとかマナーが悪いとか、そういうのは全く無い、本当にいいひとなんだけど。
だけど……なんだか、わたしを見る目が店員を見る目とは違うような気がする。
なんとなく……熱がこもってるというか……。
その目が、わたしはなんとなく苦手で……。
社長「……可愛い」
少女「あ、あはは……」
蛇に睨まれた蛙……という表現は大袈裟かもだけど。
この目で見られると、わたしはその言葉通り動けなくなってしまう。
少女「えっ? あっ、いえっ、その」
社長「いいのよ。 よく言われるの、お前は目が怖いって」
目が怖い……怖くはないような。
社長「私ね、初対面の相手を値踏みしてしまう癖があるのよ。 職業柄というかなんというか……たぶん、その時の目が怖いって言われてるんだと思う」
言い終えて、お客さんがコーヒーを口に含んだ。
目を閉じて、じんわりと味わう。
……思えば、確かに初めてこのお客さんと会ったときは、怖い人だなって思った。
それは目を見てそう感じたのかもしれない。
社長「でも、安心して。 私はもうあなたのことをそんな目で見てないから」
少女「……はい」
いい人なんだけどなあ……。
いい人なんだけど……。
社長「……ふふ」
な、なんだろ……。
視線がねっとりしてるというか……まさかね……。
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