こんな日が続けばいいのに【その1】
◇01-01[Sad Fad Love]
人に言ったら鼻で笑われそうなほど嘘くさい話なんだけど、俺には幼馴染がいる。
それこそ子供の頃からの付き合いで、結婚の約束をしたりなんかもした。
まあ、だからなんなのよって言われたらそうなんだけど。
人にはそうそうない経験らしいので、話の種くらいにはなるかな、と思っていた。
で、実際にその話をして、鼻で笑われたことがある。
「俺、幼馴染の女の子と結婚の約束したことあるんだよね」
「はあ?」(冷笑)
こんな具合。
彼女と話したのはそのときが初めてだった。
いくらなんでも初対面でその態度はどうなんだよ、と思いつつも。
そもそも初対面の女の子に、幼馴染と結婚の約束云々なんて話をする方がどうかしてたわけで。
だからその嘲りに対しても、
「……まあ、うん。そういう反応だろうなって、判ってはいたけどさ」
情けない声音でそう言い返すくらいしかできなかった。
そんな出会い方だったけど、彼女とはそれから、割と長い付き合いになった。
といっても、放課後の暇な時間、屋上で雑談する程度の交流しかなかったんだけど。
初対面がそんな調子だったせいで、男女二人が一緒にいるというのに、それらしい空気も生まれやしない。
そう思っていたし、そのことにさして不満も感じていなかったので、出会いのたった二ヵ月後に、
「あのさ、あんたのこと、好きかもしんない」
と真顔で言われたときは、さすがに冗談か、からかっているか、どちらかしか思い浮かばなかった。
意識は「好き」という一語に吸い取られる。
その一方で、「かもしんない」ってどういうことだよ、などと混乱。
かと思えば、「これ告白? 告白か。いやからかってんのかも」と奇妙な冷静さもあったりした。
一言で言えば、パニクった。
とっさに口から漏れたのは、「は、はあっ? えっ?」みたいな、言葉とも言えない声。
俺は心底戸惑った顔をしていたと思う。
もし、彼女との今までの交流の中で、俺が犯した最大の失敗は何かと誰かに訊ねられたなら。
たぶん、そのときの反応が一番の失敗だったと答える。
彼女は俺のその反応に、怯えたような、傷ついたような顔をしたから。
もちろんそのとき俺はパニクっていたわけで、自分の犯した失敗に、すぐには気付けなかった。
彼女の表情の変化に、さらに混乱を深めただけだった。
「ごめん。今のなし。やっぱ忘れて」
ようやく俺が冷静さを取り戻したのは、その言葉を聞いてからで。
そのときには、たぶん手遅れだった。
彼女はわりかし不器用な方で、たぶん細かい作業とかは苦手なんだろうと思う。
それは人間関係とか、そういうものに関しても同じことで。
怒ってないのに怒ってると思われて、嫌じゃないのに嫌がってると思われて。
寂しいのに一人が好きなんだって勝手に納得されて。
そういう俺の中の彼女像が正しいものなのかどうかはともかく。
そんなふうに見えた。
彼女が器用だったら、たぶんこのとき「今のなし」なんて言い方はしなかった。
「冗談だよ」って笑ってくれたら、なんだ、今のは冗談か、ってこっちも騙されてたんだけど。
「今のなし」じゃ、言ったことをなかったことにはしたいけど、言った内容は本当なんだと受け取れてしまって。
つまり、俺のことが好きなんじゃね? なんて推測が湧きあがってしまって。
でも、喜んだり困惑したり、何かのリアクションをするほどの時間はなかった。
彼女は俺が何かを言いかけるよりも先に立ち上がり、
「わたし、帰るね」
と言い切ると、振り向きもせずに屋上を後にした。
声が少し震えているように聞こえたのは、気のせいだったのかもしれない。
その翌日の放課後、ほんの少しの躊躇を振り払い、俺は屋上に向かった。
そこに彼女の姿はなかった。
吹奏楽部の練習の音。陸上部のホイッスル。ボールを叩くバットの鳴き声。
低くて近い青空。切れ目を入れたみたいな細い飛行機雲。からりとした夏の日差し。
残っていたのは、せいぜいそのくらいのものだった。
◇
俺の一日は、ぺたぺたという静かな足音から始まる。
それは扉越しに、廊下の奥の方から近付いてきて、いつも俺の部屋の前で止まる。
次に聞こえるのはノックの音だ。遠慮がちで、どこかそっけない音。
ノックの音にもその人の性格が出るものなのかもしれない。
続いて、ドアがぎいと軋む。
俺の意識は、そのあたりで半分以上浮上している。
そしていつも思う。また一日が始まったのだ。起きなければならないのだ。
足音も、ノックの音も、それに続く声も、そのことを知らせようとしている。
「お兄ちゃん、起きてる?」
開かれたドアから聞こえる、控えめな、気遣うような声。
俺は腹にぐっと力を込める。そして頭の中で念じる。朝だ、起きろ。
念じることで、まだ睡魔に支配されている残りの意識を引っ張りあげる。
それに成功したら、あとは体を起こすだけだ。
瞼を開けて上半身を起こすと、妹と目が合った。挨拶する。
「おはよう」
「おはよう。すごい寝癖だよ」
妹はそう言って、自分の頭を指で示した。
仕草を真似して自分の頭を触ると、たしかにすごい寝癖のようだった。
わしゃわしゃと自分の頭をかいていると、意味もなくあくびが出た。
まあ、あくびには意味なんてないのが当たり前だけど。
「二度寝しないでね」
ぼんやりした調子で言い残すと、妹はドアを閉めてあっさり去って行った。いつもみたいに。
毎朝六時四十五分。二歳下の妹が俺を起こしに来る。
歳の割には落ち着いていて、穏やかな俺の妹。勉強もスポーツもできる秀才。
押しが弱く人見知りはするが、友達は少なくない様子。
容貌は、ちょっと幼く見えるけれど、身内の欲目を除いても整ってる。
宿題だって忘れずにやる。教科書だってちゃんと家に持ち帰る。
どこに出しても恥ずかしくない妹。根が真面目で勤勉、少し臆病だが心優しい。
兄はひとりで起きれないほどのダメ人間なのにもかかわらず、よくああも良い子に育ってくれたものだ。
我がことながら、いい年して自分ひとりで起きられないのはどうかと思う。
しかも、自分より年下の妹に起こしてもらっているんだからろくでもない。
まあ、そのあたりは追々改善するとしよう。と言い続けて、もはや結構経つのだが。
さて、と俺は思う。朝だ。朝だよ。朝が来たんだ。学校へ行く準備をしなければ。
大丈夫、ちゃんと起きている。余計なことは考えていないし、体にだるさもない。
今日も元気だ、と俺は思った。大丈夫。
それでもしばらく動く気になれなかったので、目を閉じて三回深呼吸をした。
おまじないみたいなものだ。
それからようやくベッドを抜け出す。
カーテンを開けるとき、太陽の光がかすかな痛みを伴って目を刺した。
今日も暑くなりそうだ。そう思った。
◇
俺がなぜ毎朝、妹に起床の手助けを受けているのか。
理由は単純にして明快だ。朝が苦手なのだ。
別に学校に行きたくないわけではない。
でも起きるのは嫌だ。つまり眠るのが好きなのだ。
睡眠はもっとも手軽で原始的で絶対的な快楽だと俺は思う。
眠るのは気持ちのいいことだ。眠って夢を見るのはとても気分のいいことだ。
よく晴れた土曜や、寒い冬の朝。そんな日に二度寝するときなど、もうたまらない。
睡眠は人類に与えられた至上の幸福であると俺は断言できる。
この人類における至上の悦びを害するものとは何か?
言うまでもなく目覚まし時計の存在である。
俺と目覚まし時計の因縁は、俺がまだ幼稚園児だった頃にはじまったと言われている。
というか母が昔、そう言ってた。
「ホントに寝るのが好きで、何回起こしたって隙をついて寝ちゃってたなあ」
なんて具合に。
我が家のアルバムを漁れば、その事実を裏付けるような写真がいくつも出てくる。
まずはスタンダードに、俺が寝ている写真。四歳、とカッコ書きがある。
次のページには、七歳の誕生日のときの写真。
プレゼントが目覚まし時計だったことに落胆して大泣きしている幼い頃の俺がいる。
その脇では、これまた幼い頃の妹(五歳)が、どうにかして俺を落ち着かせようとおろおろしていた。
俺たち兄妹の関係は、この頃から既に決定的なものだったらしい。
この誕生日の事件を境に、俺は子供の期待に応えられる大人になろうと誓った。
そして同じく七歳。目覚まし時計が壊れている写真。俺が寝惚けて投げたらしい。
「そりゃもう、すごい音がしたもんだったわよ」
と母は当時のことを振り返る。
その朝、俺はかしましく泣き喚く目覚まし時計を掴み、枕元から思い切り放り投げた。
時計は母が普段使っていた鏡台の上に墜落した。
幸いにも鏡は割れなかったが、鏡台のうえに散らばっていた母の化粧品のいくつかはダメになったらしい。
そのような事態が四、五回続いた。母の危機感は次第に強まる。
ひょっとしたらうちの子は何かの病気なんじゃないのか。そんな懸念が浮かんだのも無理からぬことだろう。
なんせ、ほっとけば半日は寝てたんだから。
かといって、与えるたびに目覚まし時計を壊されたんじゃ金も手間もいくらかけたって足りない。
母は考えた。どこかに抜本的な解決手段が転がっていないものかしら。
具体的に言うと、この子が毎朝すっきりと目覚めて、二度寝もしなくなるような。
もちろん、生半可な手段では不可能だと言えた。
なにせ、毎晩十二時間寝たって、まだ眠りたがるような子供だったのだから。
けれど、母はその解決手段が案外近い場所に隠れていたことを知る。
それは少し肌寒い秋の朝のことだった。俺、当時八歳。
その朝、母が俺を起こそうとしたとき、電話のベルがけたたましく鳴った。
もちろん俺はその程度の音じゃ目をさまさない。
母は仕方なく電話台に向ったが、その際、まだ六歳だった妹にさして期待もせずこう告げたのだ。
お兄ちゃんのことを起こしてきて。
それまで母は、俺を起こすことを困難な仕事と考えるあまり、自分以外の誰かに任せたことがなかったのだ。
電話の内容は今となっては思い出せない、と母は言っていた。
親戚からの連絡だったことは確かだったらしいが、相手はあまり重要ではない。
電話を終えて、母は子供部屋へと向かった。
二段ベッドの下の段が、その頃の俺の領域。けれどそこはもぬけのからだった。
「あのときは本当に驚いたんだから!」
その日俺は、妹に促さ