こんな日が続けばいいのに【その2】
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◇04-01[Nightmare]
ノックの音で、目をさました。
遠慮がちでそっけないノックの音。何度も何度も、繰り返し聞いた。
俺の体はその音を覚えている。その音を聞いたら、起きなきゃいけない。
ちゃんと分かってる。
「お兄ちゃん、朝だよ。起きてる?」
起きてる。俺は頭の中で答える。そして、目を開く。身体を起こす。
扉が軋みながら開く。妹は少し驚いた顔になる。
「起きてたの?」
「……いや、今起きた」
眠気はほとんどない。自然に目がさめた。
体を起こしてすぐ、俺は部屋の状態をぼんやりと眺めた。
床に散らばった衣服、乱雑に積み上げられた本やDVD……。
溜め息が出るような無秩序な景色。いつもの通り。
「どうしたの?」
「……変な夢を見た」
「どんな夢?」
「夏祭りに行く夢」
「……夏祭り、まだだよ?」
「うん。分かってる」
ちゃんと分かっている。夢は夢だ。
夏休みはまだ始まっていない。俺はちゃんと状況を理解してる。
夢の内容は、もう思い出せない。それなのに、なぜだろう?
夢が夢だったことが、すごく悲しい。
◇
「疲れてるんだよ」
と、トーストにいちごジャムを塗りながら妹は言った。
「そうかな」
「うん。お兄ちゃん、最近様子が変だったもん」
「……そうだっけ?」
「うん。なんか、ぐだってしてた」
「……それ、どんな感じ?」
「だから、ぐだって感じ」
さっぱり分からなかった。妹はジャムを塗り終えたトーストにかじりつく。
どうでもいいけど、いちごジャムっていうのは見ていて気持ちのいい色合いをしている。
「なにかあったのかなってちょっと心配していた」
「それは、悪かったな」
「なにかあったの?」
「……」
あったのか? よく、思い出せない。夢の印象が深すぎるせいだろうか。
まだ、寝惚けているような気がする。ここ最近、どんなことをしていたか、よく思い出せない。
「なにもなかった、と思う」
俺は自分の分のトーストにジャムを塗った。
テレビの中で、気象予報士が今週の気温について何かを言っていた。
言葉は聞こえているのに、具体的なイメージができない。
現実の印象が、思考に引っ張られて曖昧になっていく。
しばらく黙り込んだ後、妹は、「そっか」と、どこか寂しそうに呟いた。
なにか、悪いことをしているような気分になる。
結局、その後は会話らしい会話もないまま、二人で家を出た。
◇
教室につくと、タイタンが俺の机で眠っていた。
彼が学校で眠っている姿なんて、初めて見た。
なんとなく感心してしまう。
なぜ俺の机で、という疑問はあるけれど。
「タイタン?」
声を掛けると、彼は軽く身じろぎして瞼を閉じたまま顔をしかめた。
ずいぶんと眠そうに見える。
「寝不足?」
彼は身体を机から離し、あくびを噛み殺すと、大きく伸びをした。
それから深く溜め息をつき、手のひらで頬を揉み解しはじめる。
「そういうわけじゃないはずなんだけどな」
それでもたしかに眠そうだった。
「疲れてるの?」
「かもしれない。休みが近付いて、緊張感がなくなってるのかもな」
「ふうん」
だとすると、俺には万年緊張感が足りていないのかもしれない。
タイタンは、何か気がかりなことがあるみたいに眉を寄せた。
元々顔立ちが整ってるせいもあって、こうしていると思慮深い学者みたいに見える。
「どうして俺の机で寝てたんだ?」
「ああ、うん。……学校で眠るって、どんな気分だろうなって思ったんだよ」
「珍しいね」
「何が?」
「前に言ってたじゃん。眠ってると、損してるような気がするって」
「……そんなこと言ったっけ」
「言ってた」
彼は深く溜め息をつくと、椅子の背もたれに体重を預けて窓の外を睨んだ。
やけに絵になる。
「夢を見たよ」
「どんな?」
「幸せなやつ」
「ふうん」
意外な話だ。
「見なきゃよかった」
「……どうして?」
「嫌になってくる。ヒメは、平気なのか?」
「平気じゃないよ」、と俺は言った。
「目がさめたあと、いつもさめざめと泣くんだ」
タイタンは少し笑った。
「夢を見たり、本を読んだりすると、決まってこんな気分になるんだよ、俺は。だから避けてるんだな、きっと」
彼と俺は真逆な性格をしているんだな、とこのとき俺は納得した。
「でも、夢を見ないでいることはできない」
タイタンは再び溜め息をつく。窓の外は気持ちのいい快晴だった。
太陽は暑苦しい熱気をまき散らして、俺たちの体力を奪っていく。
じわじわと。毒みたいに。
「それでも俺たちは現実に生きていかないとな」
珍しく抽象的なことを言って、それでもタイタンは憂鬱そうな顔をしていた。
彼はどんな夢を見るんだろう。妙にそのことが気になった。
タイタンが俺の席に座りっぱなしだったせいで、俺は机の脇にずっと立っていた。
当然、通路をふさぐような形。
「えっと」、と声が掛けられた。すぐ後ろから。
「ごめん、通ってもいい?」
「あ、うん」
女子の声。俺が邪魔にならないように避けると、彼女は「ありがとう」と言って脇をすり抜けて行った。
通り過ぎてから、彼女は少しだけ俺の方を振り向いた。
どこか不思議そうな顔。
「なに?」
訊ねると、彼女は不思議そうに「え?」と首を傾げた。
「いや、見てたから」
「……あ、うん。ごめん」
自分でもなぜそうしていたのか分からない、というような不思議そうな顔。
あんまり話したことはない子。いつも飴をくわえている、よく笑う子。
彼女はすぐに俺たちから離れていったけれど、なぜか、ちらちらとこちらを見ていた。
「ヒメ、あの子に何かしたのか?」
「まさか」
「本当に?」
「俺がどんなことをするっていうんだよ」
「おまえの場合、自分のやっている行動に自覚がないことがあるからな」
「なんだか、その言い方だと心配になるな。自分が無自覚にいやなことばかりしてるみたいで」
「おまえはいつも現実から意識を切り離しすぎてるんだよ」
まあ、そうかもしれない。
「おまえから見れば、たいしたことじゃないように思えることも、人からしたらすごく重要なことだったりするんだ。
些細なことで傷ついたり、浮かれたりするんだ。もうちょっと、自覚的に振る舞えよ」
彼は、どこか苛立っているように見えた。
俺じゃなくて、他の誰かの話をしているみたいに聞こえる。
本当に、いやな夢だったのかもしれない。
少し黙り込んでいると、タイタンは急に後ろめたくなったみたいに首を横に振った。
「……すまん。今のは八つ当たりだった」
べつに気にしたわけでもなかったけど、頷く。そこでチャイムが鳴った。
日々は忙しない。
◇
なんとなくぼんやりとしたまま授業を終え、放課後を迎えた。
クラスメイトたちは部活に行くのか、他に用事でもあるのか、すぐに散らばってしまった。
俺は窓際の自分の席に腰かけたまま、ぼんやりと空を眺めた。まだ明るい空。
「部活には出ないのか?」
タイタンはそう訊ねてきた。俺は小さく頷く。返事をするのも億劫なほど気怠い気分だった。
何が原因なのかはわからない。
とにかく部活には出たくなかった。何か嫌なことを思い出しそうだった。
それがなんなのかは分からない。でも、部活に出れば、きっといつも通りの景色が広がっているんだろう。
その事実は俺を少なからず傷つける。そんな予感があった。
タイタンは短く溜め息をつくと「それじゃあ」と言って教室を出ようとした。
たぶん部活に出るんだろう。彼には出ない理由がない。
彼がいなくなると、教室に残っていた数人のクラスメイトたちも荷物をまとめはじめた。
俺がもう一度窓の外に視線を戻そうとしたとき、
「おい、ヒメ」
と、教室の入り口から今出て行ったばかりのタイタンが声を掛けてきた。
「なに?」
「待ってるみたいだ」
「誰が?」
タイタンはまた溜め息をついた。それから廊下の方を小さく指し示すと、すたすたと去っていく。
怪訝に思いながらも、俺は鞄を持って立ち上がった。
「あ……」
廊下に出ると同時に、そんな声が聞こえた。
思わず声の主を見遣ると、彼女の方もこちらを見ている。俺は眉をひそめる。
俺はその子を知っている。
「……ヒナ?」
「……」
名前を呼ぶと、彼女はさっと目を逸らして、あちこちに視線を巡らせた。
俺は彼女のことを知っている。
四月に屋上で出会った。六月に屋上で告白された。それから付き合うようになった。
ちゃんと分かってる。そういう記憶があるのだ。
「なんで廊下で待ってたの?」
「べつに、待ってたわけじゃ……」
「……」
「……なんとなく、入りづらくて」
「いいかげん慣れなよ」
慣れるべきだ。
こんなやりとりだって、もう一ヵ月以上続けているんだから。
それなのに彼女は、いつも一歩引いたような、気恥ずかしそうな態度で俺に接する。
関係が変わる前の方が、よっぽど距離が近かった。
それだって、別段不愉快なわけじゃない。むしろ心地よくすらあるのだけど。