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世界では常に「共感」と「社会に根付く不平等を正す具体的な活動」が求められてきている。そして実際に多くの抗議行動や反対運動が行われてきた。
世界中で今日も繰り返し行われている抗議運動に、抗議するだけで何かを変えることができるのか?と疑問に思っている人も多くいるだろう。だが実際に行動を起こすことで歴史の流れが変わることもある。
ここでは、アメリカ史上に残る7つの代表的な抗議運動を見ていこう。
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1. ボストンティーパーティー (1773年12月16日)
ボストンティーパーティー(ボストン茶会事件) は、イギリス本国議会の植民地政策に憤慨した植民地の急進派が起こした抗議事件である。
イギリスによる紅茶税、東インド会社の紅茶特権に反対する「自由の子ら」がアメリカインディアンに扮して、ボストン港に停まっていた紅茶船を襲い、積み荷の紅茶を海へ投げ捨てた。港には、この抗議活動に賛同する人々が集まり、一連の行動が行われている中、喝采を送った。
イギリス政府は報復として、翌年、ボストン港の閉鎖、マサチューセッツの自治の剥奪、兵士宿営のための民家の徴発などの「抑圧的諸法」を強硬に実施し、ボストンを軍政下に置いた。しかし、植民地側は同年9月、本国議会の植民地に対する立法権を否認し、イギリスとの経済的断交を決議した。その後、事態は緊迫化し、ついに独立戦争が勃発したのである。
2. 奴隷制度に反対するクエーカー教徒の請願書
(1688年4月16日)
奴隷制に対する批判は、この制度が成立した当初から存在していた。1688年、白人男性の4人のクエーカー教徒が制度に対して反対の意思表明をした。
彼らは請願書を作成し、無理やり異国の地へ連れて来たり、彼らの意思に反し、略奪または売ったりすることに反対すると声明文を提出した。残念ながら時期尚早ということで、この抗議文が世間の注目を浴びることはなかったが、15年後、チェスターのクエーカー教徒の団体が再び奴隷制度に反対する声を上げた。
奴隷制度が廃止されるまでは、制度ができてから実に92年もの歳月を要した。その間、地域集会で提出される署名の数やプレゼンテーションの数は増えていった。そして、1780年、ついにペンシルベニア漸次(ぜんじ)奴隷制廃止法ができた。この法律は、アメリカ合衆国になった植民地の中で、最初の解放法律となった。最初に声を上げた4人の存在がなければ、その後、より多くのクエーカー教徒たちが声を上げることはなかったかもしれない。
3. セネカ・フォールズ会議(1848年7月19日)
女性は長年にわたり女性の権利を勝ち取るため闘い続けてきた。アメリカ女性運動の出発点とされるのが、1848年、アメリカ合衆国ニューヨーク州の田舎町セネカ・フォールズで開かれた最初の女性の権利獲得のための会議、セネカ・フォールズ会議である。
1848年7月、200人の女性がメソジスト派の礼拝堂に集まり、女性の権利について話し合った。奴隷制廃止運動のなかで、女性としての差別を体験したモットとスタントンが会議の発案者となった。会議は、スタントンが独立宣言をもじって起草した〈すべての男女は平等につくられ〉と唱える〈所感の宣言〉と、男女平等を達成するための11の決議案を採択した。
世間はこの宣言書をバカバカしく思っていたが、彼女たちの行動は止めることができなかった。2週間後、より大きな会議が開かれ、その翌年から女性の権利を話し合う会議は年間行事となった。1920年、これらの努力により憲法修正19条として女性参政権が認められた。
4. GMフリント工場ストライキ(1936年12月30日)
1930年代、大企業は労働者に支えられ大成長を遂げていた。しかしその繁栄を支えている労働者の扱いはひどいものだった。労働組合を作ろうにも、権力は資本家たちが握っており、話し合いさせできない状態だった。そこで労働問題の解決を目指した座り込みストライキがヨーロッパやアメリカで広がっていった。
そんな中、アメリカ最大の製造業GM(ゼネラル・モーターズ)で、巨大なストライキが闘われた。当時の全米自動車産業労働者の半分以上の26万人余を雇っていたGMは、アメリカにおける産業の象徴だった。しかし、GMは労働組合を否認しており、労働者たちは過酷な状況で働かされていた。
36年暮れ、オハイオ州クリーブランドやアトランタの工場で座り込みストが開始され、他の工場にも波及していくと、12月30日、ついにGM体制の心臓部であるミシガン州フリントの工場で数千の労働者が座り込みストに突入した。工場の外では、労働者の家族や支援者が集まり、工場内にいる労働者を支援した。
労働者たちは警察や会社側のスト妨害に耐えぬき、2月11日未明、GMはついに降伏し組合を承認した。
このストの勝利によって、一挙に数十万人の労働者が組合加入の権利を手に入れたのだ。
5. モンゴメリー・バス・ボイコット事件(1955年12月5日)
1955年にアメリカ合衆国アラバマ州モンゴメリーで始まった人種差別への抗議運動である。この運動のきっかけとなったのは、1人の女性だった。
1955年12月1日、ローザ・パークスは市営バスに乗っていた。運転手が、座っていたローザに、後から乗車した白人のために席を空けるように指示したが、ローザは従わず、警察に通報され逮捕された。
これを知った若き牧師マーティン・ルーサー・キング・ジュニアはこの事件に激しく抗議してモンゴメリー・バス・ボイコット事件運動を計画し、運動の先頭に立った。多くの市民が賛同し、公共バスへの乗車のボイコットを始めた。黒人のタクシー運転手は黒人だけに格安料金を用意したり、黒人コミュニティは自家用車のネットワークを作るなどして、バスのボイコットを支えた。
この抗議運動は実に1年以上(正確には381日)続き、結果として市のバス事業は財政破綻の危機に瀕することとなった。1956年11月13日、連邦最高裁判所は、地方裁判所の判決を支持する形で、モンゴメリーの人種隔離政策に対して違憲判決を下した。そして、運動は1956年12月20日に公式に終了した。
このボイコットを呼びかけたキング牧師は、後にアフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者として知られることになる。
6. 仕事と自由を求めるワシントンへの行進(1963年8月28日)
1963年8月28日に米ワシントン市で起きた、黒人への差別撤廃を求めるデモ行進には、20万人以上が参加したとされ、首都で起きたデモの中では最大規模となった。
また、このデモは、テレビ中継された最初のデモ行進でもあり、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアがかの有名な"I Have a Dream"の演説を行ったデモとしても有名である。
一夜で歴史を変えることはできなかったが、このデモによりケネディー大統領はプレッシャーを感じ、議会も動き出した。1964年の公民権法および1965年の投票権法の成立には、大きな影響を与えたることとなった。
7. セルマ:選挙権獲得をめざす大行進 (1965年3月9日)
大規模なデモがアラバマ州セルマで発生した。セルマでは、黒人たちが差別と脅迫により有権者登録を妨害されたおり、1万5000人の有権者のうち、たったの300人ほどしか有権者登録ができなかったのだ。そのため、黒人の公民権を求める声が湧き上り、デモへとつながった。しかし、平和的に行われていたデモはやがて流血事件へとつながってしまった。
1965年3月7日、600名ほどの公民権運動家達がセルマを出発する。デモ隊は、州都モンゴメリーまで行進を続けることで、警官隊が合衆国憲法違反をしたことをアピールしようとした。
しかし、白人の知事はデモ行進が公共の秩序を乱す恐れがあるとしてこれを非難し、あらゆる手段を使ってデモの阻止を宣言。州兵やダラス郡保安官が無抵抗のデモ隊に対して棍棒や催涙ガス、鞭などを使ってセルマに追い返した。
ひどい傷を負って血だらけで倒れる人々の様子がテレビで報道されると、暴力に対する反発が強まり、デモ隊を支援する人々が急増した。
3月9日、彼らは再び立ち上がった。今度は、州兵は道路を封鎖した。その夜、人種差別主義者たちが抗議に加わっていた若い白人男性に暴行を加え死亡させた。
3月21日、彼らは再びデモを始めた。今回は州兵の保護がつき、リンドン・ベインズ・ジョンソン米国第36代大統領の支援も受けていたため、無事にデモは成功した。そして同年8月には投票権法が通過し、平等な投票権が約束されることとなった。
変化は一日では起こらない。しかし、正しい目的で人々が団結し手を取り合えば、物事を変えるパワーがあるのだ。
2016年、アメリカ先住民による史上最大の抗議活動がノースダコタで行われた。
この抗議活動は、石油パイプライン「ダコタ・アクセス・パイプライン」が水質汚染、環境破壊、先祖伝来の土地に被害をもらたすという懸念から生じたもので、何千人という人々が集まり団結し、政府や公共機関に対して措置を講じるよう求め続けた。
12月4日、連邦当局がルート変更など建設の見直しを表明し、アメリカ先住民や支援者らは歴史的な勝利を祝った。
アメリカの歴史を鑑みると、抗議行動はDNAの一部に組み込まれているようだ。自分たちの力で未来を変えようという強い意志が感じ取れる。今回の大統領選でトランプ氏が選ばれたのも、何かを変えなければならないと感じた人が多かったのだろう。
日本で抗議行動というと、あまり良い印象を持っていない人も多いだろう。メディアでは、迷惑行為であったり、賛同できないものなどが数多くクローズアップされているため、抗議行動自体が悪いという風潮すらある。また、抗議行動の裏に黒い影が見え隠れしている場合もあり、真意がどこにあるかわからず二の足を踏んでしまう人もいるんじゃないかと思うんだ。
だが多くの、本当に困っている人が顕在化してきたら、その時こそ巨大な権力やパワーに屈せず声をあげていかなければならないだろう。
7 times in U.S. history when people protested and things changed./ translated melondeau / edited by parumo
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コメント
1. 匿名処理班
ロックフェラーの件は中々に悲劇でした
2. 匿名処理班
デモ行進て正直、なんかやってんな くらいの印象しかなかったけど、今度からもうちょい耳を傾けてみようかな
3. 匿名処理班
1のボストン紅茶パーティーはアメリカ独立戦争
ゲームであるコロナイゼーションで抗議するときに
この運動が出てくるので自然に覚えてしまった
4. 匿名処理班
あれ?ストーンウォールインは?
5. 匿名処理班
アメリカはワシントン大行進、チェコのプラハの春、フランスのレジスタンス、歴史に残るデモ活動による成功例があるからね。おこぼれに預かっただけの日本(一応デモクラシーはあったけども・・・)だとなかなか浸透しないね
6. 匿名処理班
要求といちゃもんからの請求
似て異なる
7. 匿名処理班
※2
情報リテラシーなんてのが曖昧だった昔ならともかく、それが政治的思想的な目的を達成するための手段として明確に組織だって利用される現代だとそれ以上のリテラシーを求められるぞ
8. 匿名処理班
DAPLに関しては、よそから抗議活動の支援者がたくさん来すぎてトイレの問題が発生したりマナー悪いのがいたり、野外フェスみたいなノリの奴がいたりで地元の先住民とかに結構迷惑かけたとか何とか耳にしたな
抗議活動に賛同して行動すること自体を批判する気はまったくないが、参加するなら(他所へ出向く時は特に)その土地に暮らす人々や民族のルールやしきたりとか、必要最低限守るべきことをきちんと把握しないといかんよなと思った
9. 匿名処理班
取り合えず人の国でデモやるのは辞めて欲しいかな