あなたの物語を。トエル 『氷菓』
一日の疲労の、最後の一滴までもその呼気に混ぜ吐き出してしまうように念入りに。
一日一日がまさしく光陰矢の如く過ぎ去っていく。昨晩も風呂場で同じことを私は考えていた。
水面に大きな輪を描くように、両の人差し指を立て、湯の中から水面ぎりぎりのところで指先を一周させてみた。
左で半円、右で半円、描いたそばから、その線は僅かな波紋を残響のように漂わせ消えていく。
私の頭の中には、その円がイメージとして確かに残っているのに。
これは光の屈折のせいであると、昔に父が教えてくれた。
小さな頃の私は何にもまして好奇心が旺盛だったらしく、そのことでよく両親を困らせることもあったそうだ。
例えば、空はなぜ青いのか? 海はなぜ塩辛いのか? 星はなぜ空に浮かんでいるのか?
私は主にそれを読むというよりは、眺めるために開いていた。
気に入ったページがあればドッグイヤーをこしらえ、仕事から帰宅した父にそのページの内容について
いの一番に尋ねていたそうだ。額に皺を寄せ、肩を落として説明を始めていた、とのちに母が懐かしげに語ってくれた
父の姿は容易く想像ができる。
手を広げ、目の前にかざし、表裏から指を一本一本仔細に検分していく。
そんなことはないと否定するぐらいの微々たる変化ではあるかもしれない。
左の中指の爪先にひびが入っている。右手の薬指に小さな痣ができていた。
老い、とも換言できそうな些細な変化だった。
私たち日本人はこういった静寂を際立たす音色というのを元来好む傾向にあるらしい。
水滴の音、それを包み込む静寂の気配が、十本の指に夢中になっていた私を現実へ引き戻す。
添い寝して、子供の様子を見てくれている夫にも悪い。あの人だって随分疲れが溜まっているはずなのだから……それに、
寝室の隣部屋に置いてある道具をあの人に見られることには、痴態が露見するような恥ずかしさがある。
誰かに知られたいものではない。ただ、夫は優しい人だから、そのようなことを思ったりはしないだろう。
私のことを未練がましい人間だと一番思っているのは、たぶん私自身だ。
「起きて、あなた」
すまない、知らない間に寝てしまっていた、と断りを口にする夫に私は首を振る。
「いいの、あなたも疲れているでしょうからゆっくり休んでください」
「うん……お前こそ、ここ最近は来客も多かったし疲れているように見える。早く休みなさい」
まるで明け方からの雨に備えて、その一片一片の雨雲同士がお互いの策を披露している集会のようだった。
明日は雨か。夫がそう漏らし、おやすみと私たち二人に呟いて障子戸を閉じる。私は障子戸へ向かっておやすみと独りごちたあと横になり、
静かな寝息を立てている子供の横顔をひとしきり眺めて、また起き上がった。
身体を瀰漫していく疲労感に抗うためには、気持ちを奮い立たせる必要がある。私がやりたいことでしょ!
心の内でそう何度も命令し、立ち上がって、隣室へと歩を進めるが、障子戸の引手に手を掛けるとそこでも逡巡が訪れる。
それを飛翔させる翼になるものはきっと若さだ。私に力は残されているのだろうか。翼は折れていないだろうか。
雑念を振り払うように、勢いで障子戸を開く。真白なキャンバスが木製のイーゼルの上に鎮座している。
その手つかずのキャンバスは見るたびに私の胸を締めつける。いったいいつになれば、私は描きたい物語を見つけ出すことができるのだろう。
どれだけ沈潜しても、どこかに隠れているはずのそれを探り出せずにいる。
匂いがこもるといけないので、中庭に面した窓を開け、脚にカバーを履かせた椅子に腰掛けた。
脳裏に浮かんでくるのは、どれもこれもオリジナルとはいえない代物ばかり。
苛立ちから、思わず膝小僧にげんこつをぶつけていた。
雲間から現れた三日月、夏の虫の音、緩く吹く風。時間は、私から技術だけを奪い去っているわけではなかった。
あらゆる事物のささめきがいまやじっと耳を澄ましていなければ、容易には聞き取れない。
五感が鋭さを失いかけている。私にとっては技術などよりも、こちらの方が余程ことである。
そう理解しているつもりでも、心がその考えを跳ね除ける。
ありえるわけもない、希望の一握りをこの手にすることができるならば……けれど、そのためには
大きな代償を払わなければならないことも、私は理解していた。
責任やしがらみを投げ捨て、全力で走りだしたかった。その間だけでも、きっと色々なことを忘れることができるだろうから。
その小さな身体をそっと抱きしめた。子どもらしい、あの柔らかな匂いが私の鼻先をくすぐる。
お気に入りのうさぎのぬいぐるみが所在なげに仰臥し、
可愛らしいボンボンのついたヘアゴムが一本座敷に落ちていることが目に留まる。
あとにそれらを拾い上げた。失くしてしまったら大変だ。
彼女の宝物入れである網代編みの籐の箱を開け、その二つをしまい込む。
この子が笑い、泣き、走り回り、飛び跳ねる姿、絵本を読んでもらっているときのあの瞳の輝きや安堵の寝顔、
その全てが愛おしくてたまらない。
心の揺れ動きは幾度となく訪れるけれど、この道を選んだことを後悔とは思わない。
気まぐれな強迫観念も、いずれは彼方へと過ぎ去り、振り返れば私という物語の重要な要素となるのかもしれない。
ひょっとすれば、その瞬間が訪れることはないのかもしれない。
どちらがいいだろう? 他人に知られれば、指弾されるかもしれないが、私は私と同じように、この子も悩んでくれる
といいのになと思ってしまう。秤にかけ、自らが懊悩の末に選び取った物事にはささやかであれ幸福が宿る、と昔小説
で読んだおぼえがある。この子にもささやかな幸せを選び取ってもらいたい。
奇妙な多幸感に包まれ、私ははっとした。諦めかけていたが……今なら。
耳に届く唯一の音らしい音だった。
やがては、この雨滴の音もさわさわと降り続く雨の音同様に、間もなく
この景色に染み込み気に留まることもなくなるだろう。
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いい話だった
実際これまで自分に課せられた使命だと信じ込んできてたものを否定されて、作中
ふたりの距離の概算時を軽く越えるレベルで壊れかけてたえるがこんな早く立ち直れるか疑問ではあるが