鷺沢文香「逆光の園」【モバマス】
習慣・・・というのは自覚もないまま、いつの間にか身についているものです
私がここで本を読むようになったのは、いつからだったでしょうか?
事務所ビルの一室
元は会議室だったようですが今は使われることなく、半ば物置と化している場所
日当たりが良くて暖かく、夕方には大きな窓からビルの谷間に落ちる夕日が拝めます
景色が良い窓際の特等席には、どこからか持ち込んだマットレスに寝転び漫画を読んでいる杏さん
放置された会議用のテーブルで晶葉さんが私同様、本を読んでいます
今日は装丁からして機械工学の専門書でしょうか
晶葉さんの対面でありすちゃんがノートに鉛筆を走らせています
学校の宿題のようです
基本的にここでは皆さん、あまりしゃべりません
壁時計の秒針、本のページをめくる音、時折杏さんの寝息
発せられる音はその程度です
沈黙が続いても気まずさを感じない、居心地の良い場所
ここは静寂を愛する方たちの聖域でした
ある冬の日のこと
お仕事を終えた私がいつもの一室に行くと、ありすちゃんと晶葉さんが話をしていました
ありすちゃんが算数の宿題に関しての疑問を相談しているようです
それに答える晶葉さんの説明は、とてもわかりやすいものでした
単純に公式を当てはめるという方法論ではなく
なぜそうなるのか?なぜそうするべきなのか?
という基礎的な部分を丁寧に理解させる教え方でした
すでに修学しているはずの私が、なるほど、と思わず膝を打つような見事な弁舌です
「さすが晶葉さんですね、とてもわかりやすかったです」
子供扱いされることを嫌い、少し険のある態度をとることも少なくないありすちゃんですが、敬意を払う方に対しては例外のようです
年相応の子供らしさで尊敬の眼差しを送る彼女は、とても可愛らしいと思います
それを素直に伝えてしまうと機嫌を損ねてしまうでしょうか?
「フッ、私にかかれば造作もないことさ」
ありすちゃんの称賛に答えて、晶葉さんが自信に満ちた声でそう言いました
所謂ドヤ顔・・・と言うのでしょうか
腰と顎に手をあてながら披露された得意気なその表情は、何事にも自信が持てない私の目にはとても眩しく映ります
勇気を出して、どうすればそのように自信が持てるのか聞いてみることにしました
「ドヤ顔のコツと言われてもな・・・私は自然に、私らしく振る舞っているだけなんだが」
少し会話に齟齬があるようです
その、私が知りたいのはドヤ顔に関してではなくて・・・
「ドヤ顔は口角を片方だけちょっと上げて、視線は上から少し見下ろす感じで」
杏さんがドヤ顔のコツを具体的に述べはじめました
いけません、これは完全に私がドヤ顔をする流れではないでしょうか?
しかし自信を持つにはまず形から入ることも必要かもしれないと思い直し、挑戦することにしました
・・・ど、どや・・・
・・・あの、如何でしょうか?
「えと、その・・・私からは何とも・・・」
と、ありすちゃんは言い淀みます
「時子様とレイナサマを足して2で割った感じかな?」
「光が見たら『悪の組織の幹部みたいだな!』と言いそうではあるな」
「お二人とも、もう少しオブラートに包んであげてください・・・」
どうやら私が意図したところとはかけ離れてしまったようです
失敗してしまいました・・・
・・・やはり自信を持つのは、私にとっては難しいようです
「文香さんにはそういう表情よりも穏やかな笑顔の方が似合いますよ!」
「そうそう、文香はTHE・文学少女って感じだもんね」
「うむ、その雰囲気は文香にしか出せない個性だ」
「そうです、そこは本当に誰も真似出来ません!」
・・・ありがとうございます
冬の寒さの中、皆さんのフォローの言葉がとても暖かく感じました
やがて寒さが去り、桜が芽吹く頃
お昼時のいつもの部屋はとても過ごしやすい気温になります
春眠暁を覚えずと申しまして、私もその例に漏れず本を読みながらついうつらうつらと船を漕いでしまいます
いつの間にやら夢の中へ
春の日差しは油断なりませんね
ふと目を覚ますと、既に日が暮れていました
春と言えどもまだ夜は肌寒さを感じる頃合いです
それを気遣ってでしょうか、私の肩にはいつの間にやらブランケットが掛けられていました
窓の方に目を向けると、いつもの特等席でブランケットの持ち主である杏さんが眠っています
ものぐさを公言して憚らず、子供のような言動の多い彼女ですが
その実、こういった気遣いのできる素敵なお姉さんであることを私はこの部屋で知りました
ありがとうございます、とその寝顔にお礼を言ってブランケットをお返ししていると、杏さんに腕を掴まれてしまいました
いつも傍らに置いているウサギさんと勘違いされたのでしょうか
そのままぐいっと引き寄せられ、腕を抱き枕にされてしまいます
・・・参りました、動けません
それにどうにも中途半端な姿勢なので少し辛いです
杏さんを起こしてしまうのも忍びないので、いっそのこと私も横になることにしましょう
そういえば、こんなに近くで杏さんの顔を見るのは初めてですね
改めてまじまじと見るととても十代後半とは思えない子供のようなあどけなさです
ついついその小さな頭に手を伸ばし、柔らかい髪を撫でてしまいます
こんな風に誰かに触れるのは本当に久しぶりな気がします
人肌の温もりというのは、こんなにも安らぎを得られるものなのかと思いながら
・・・私は不覚にも二度寝の誘惑に屈してしまいました
再び目を覚ますころには月が高く昇っていて、危うく二人揃って終電を逃すところでした
杏さんの癒し力、恐るべし・・・です
窓を叩く大粒の雨が本格的な梅雨入りを告げます
本が湿気てしまうので、梅雨は少し苦手です
いつもの部屋の面々は元々インドア派ですが、雨で外に出るのが億劫ということもあってか、普段以上に読書に没頭しています
私も雨の音が聞こえなくなるほど書の世界に埋没し、想定していた時間よりも早く読み終えてしまいました
集中が途切れると、今まで気にも留めなかった蒸し暑さと喉の渇きが襲いかかって来ます
何か飲み物を買いにいこうと立ち上がったところで、たった今読み終えた小説の一場面を思い出します
登場人物に紅茶が好きな方がいて、美味しい淹れ方について講釈する場面があったのです
晶葉さん曰く『知識は実践してこそ価値がある』、だそうです
私もその主張を見習うことにしましょう
・・・というわけで紅茶を淹れようと思うのですが、皆さんも飲まれますか?
「ぜひお願いします。あ、やっぱり私も手伝います!」
「杏も~、砂糖とミルクマシマシで」
「私も頼もうか・・・では私はお茶請けを調達してくるとしよう」
しかしよく考えてみますと、私が学んだのは温かい紅茶の淹れ方でした
蒸し暑いこの日には適しません
アイスティーにする場合はまた茶葉の分量などが変わって来るはずです
どうしたものかと悩んでいると、ありすちゃんがタブレットでアイスティーの淹れ方を調べてくれました
さすがです、手伝ってもらえて本当に助かりました
さあ、優雅とは言えませんが、小さなお茶会の始まりです
「うーん・・・文香が淹れたってだけで何だか優しい味がするね」
「それだけ砂糖とミルクを入れておいて味も風味もあったものではないだろうに」
「どうせそうやっておだてておけばまた淹れてもらえるかも、という魂胆でしょう?」
「ぐぬぬ、最近ありすが鋭い」
「杏さんが単純なだけです」
「そう言うありすだってコッソリ砂糖足してたでしょ?」
「な、何でそれを!?」
「はははっ、ありす、今のは恐らくカマかけだよ。杏はつい先程まで窓際で寝転んでいたから見てはいないはずだ」
「やーいひっかかったー」
「あ、あ、杏さ~ん!!」
いつもの軽口の応酬が始まります
以前はこういうとき、仲裁に入るべきでしょうか?と、おろおろしていたのですが
最近は慣れたもので、仔犬と仔猫のじゃれあいを見ているような気分です
「ま、まあでも、優しい味がするという点については同意します」
「そうだな、私もそこは同意しよう」
「というわけで文香、またよろしくねー」
はい、またこんな微笑ましい光景が見られるなら、それもやぶさかではありませんね
その日は珍しく誰も読書に戻らず、談笑に明け暮れました
雨は去りましたが蒸し暑さは右肩上がり
いよいよ夏本番の到来です
ここ最近、晶葉さんは忙しく事務所内をあちこち動き回っています
本格的に稼働し始めたクーラーの点検、修理を行っているそうです
休憩のためにいつもの部屋を訪れた晶葉さんに、ありすちゃんが言います
「そういうのはメーカーや専門の業者さんの仕事ではないんですか?」
「ふむ、確かにそうかもしれないな。重要な部品が破損していたりしたら、さすがに私でも手が出せないしな」
「だが、ちょっとした修理や点検程度なら私で十分だし、その方が経費削減になるのさ」
「タダ働きなのによくやるよ」
「事務所にはラボの設備などで色々融通してもらっているから、 これくらいは返しておかなくては」
この事務所で快適に過ごせるのは、晶葉さんのおかげだったんですね
「私だけではないさ、助手やちひろ、他にも清掃業者や備品の取引先」
「様々な人がいるからこそ事務所は回っている」
「ライブや色んなお仕事でも同じことが言えますね」
そうですね、忘れがちなことですが周囲の方々に感謝しなければいけませんね
「私も文香のおかげで随分助かっているよ」
・・・そうなんですか?
「ああ、歌詞の解釈や感情の込め方に関する相談に乗ってもらっているだろう?改めて礼を言っておこう」
こちらこそ、引っ込み思案な私と仲良くしていただいて、随分助かっています
『ありがとう』
・・・ふふっ、なんだか照れくさいですね
「ハハッ、そうだな・・・さて、たまには助手とちひろにお茶とお菓子でも差し入れるとしようか」
「私もお供します。ほら、杏さんも」
「ま、そういうことなら仕方ないね。杏も付き合うよ」
たまにはこうして言葉にして伝えるのも、きっと重要なんですね
コメント一覧
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- 2017年01月20日 23:40
- 本だ信者コメント禁止ね
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