不死を求めて旅を続けた、秦の始皇帝
始皇帝は中国統一をなしとげ、
歴史上初めて「皇帝」を名乗った人物として有名ですね。
何もかも手に入れた始皇帝ですが、年老いてくると次第に自身の死を恐れるようになっていきます。そんな時に
徐福という方士がやって来ました。
方士とは、仙人や仙界の存在を説く「神仙思想」を持ち、さまざまな仙術を会得した(もしくは修行中の)人達のこと。
徐福は始皇帝に「
東方の三神山に不老不死の霊薬があります」と進言し、それを信じた始皇帝は3,000人の若い男女と多くの技術者や大量の穀物の種を徐福に与え、東方の海へと出航させます。そして徐福は
二度と始皇帝の元には戻りませんでした。
あれ?
これって結局、始皇帝から大量の人員や金品を持ち逃げしたということでは?
見方によっては盛大な詐偽行為にも見えますが、この後も始皇帝は霊薬探しの旅を続け、ついにはその旅のさなかに亡くなってしまいます。
『史記』によれば、始皇帝の棺の周りには、不死薬の材料とされる「水銀の川」が作られていたそうです。これは今までは伝説と考えられてきましたが、1981年に行われた調査によるとお墓の周囲から水銀の蒸発が確認され、真実である可能性が高まってきています。
大量の金品を浪費してまでも、始皇帝は死ぬ瞬間まで不死の妙薬を求め続けたのでした。
仙薬探しの夢から覚めた漢の武帝
漢の武帝は若い頃から仙人に興味を持ち、方士たちに不老不死薬を探させることに熱心な人物でした。そんな武帝に特に大事にされていたのが
李少君という方士です。
李少君は年齢経歴不詳。自称70歳とのことですが、
鬼神を使いこなして不老を保っているのだといいます。この李少君、
90歳を超えた老人に会えば「君のおじいさんを知っているよ」と語り、宮殿の古い銅器を見ればその来歴を言い当てます。
人々はこれに驚き、
彼は数百歳は超えているだろうと信じました。
李少君は自分は「錬丹術」の極意を得て不老不死の「丹薬」を作る秘術を持っていると語ります。
「竈を祭れば鬼神を使いこなせるようになり、それができるようになれば丹砂(硫化水銀)を黄金に変化させることができます。その黄金を食器にすれば寿命を延び、それができれば蓬莱山の仙人に会えます」
と語る李少君。武帝は彼の言葉に夢中になり、自分の手で竈の神を祭ったり方士たちに海上の蓬莱山を探させました。
しかし
李少君は病にかかり、薬のありかを語らないまま死んでしまいます。
彼の棺を調べると、中は蝉の抜け殻のように衣服だけが残されているだけで遺体はどこにも見あたりません。これを見て武帝は「
李少君は仙人になったから遺体が消えたんだ!」と悟ります。
非常にうさんくさい話ではありますが、この後の武帝はますます仙人に憧れを募らせ、熱心に仙薬を探し求めることとなりました。そして仙薬の研究や地方巡幸のための重税が続き、政治に混乱が生じてしまいます。この状況になってようやく武帝は幻想から目覚めました。
「私は方士達に騙され愚かなことを続けてきた。仙人などいるはずがない。仙薬を飲んでも病が多少軽くなるだけのことだ」
天下の皇帝が莫大なお金と労力をかけて探し求めて得たものは、残酷な現実だけでした。
しかし武帝の反省もむなしく、この後も
不老不死に憧れる皇帝が続出します。
始皇帝や武帝は「仙人を探して不死の薬をもらう」ことに熱心でしたが、これ以降は「
不老不死の薬を自分たちで作る」が中心の時代へと変わっていきます。
不老不死薬の恐るべき材料
錬丹術の理論書として有名なのが葛洪の「抱朴子」という書物です。
この書物には様々な仙人になれる方法が書かれていますが、
最高の仙薬は「九転還丹」だといいます。
この薬を作るのに最も重要視されたのは「丹砂」と呼ばれる硫化水銀からなる鉱物。
丹砂(硫化第二水銀)は400℃で焼くと液状の水銀になり、その水銀を再び300℃で加熱すると個体の酸化第二水銀になります。その酸化第二水銀を400℃で焼くと再び水銀になります。
葛洪はこの現象を「転」として、
繰り返し行えば薬の霊力が高まると考えました。
一転の丹。これを三年服用すれば仙人になれる
二転の丹。これを二年服用すれば仙人になれる
三転の丹。これを一年服用すれば仙人になれる
四転の丹。これを半年服用すれば仙人になれる
五転の丹。これを百日服用すれば仙人になれる
六転の丹。これを四十日服用すれば仙人になれる
七転の丹。これを三十日服用すれば仙人になれる
八転の丹。これを十日服用すれば仙人になれる
九転の丹。これを三日服用すれば仙人になれる
「九転」させれば三日間飲むと仙人になれる薬の完成です。さてこの最高の仙薬という「九転の丹」、当然ながら中身は
水銀です。
当然ながら中身は水銀です。
ご存知の通り、水銀には毒性があります。
服用するのはもちろんのこと、水銀を加熱して薬を作る人も蒸発した水銀に晒される非常に危険な行為だったはず。
現代の私たちならこの危険を理解できるのですが、当時の人々にとっては
液体と固体を行き来する水銀にこそ不老不死の秘訣が隠されていると考えていたようです。
葛洪は「丹を水銀に混合し火にかけた場合は黄金になる。もし黄金ができないなら薬は完成していない」とも「丹薬は長く焼けば焼くほど霊力を増す。黄金は火にかけて何度鋳造しても減らず、地中に埋めても永遠に錆びない。この二つを服用するからこそ人を不老不死にできるのだ」とも主張しています。
西洋でも錬金術は「
賢者の石」という不老不死の霊薬と黄金の精製を目指していましたが、同じように中国でも黄金と不老不死との関わりが着目されていたんですね。
ただ、中国の場合は水銀やヒ素といった毒物を霊薬として重宝したために中毒者を数多く出す状態に陥ってしまいました。
この仙薬を作る錬丹術は「外丹術」とも呼ばれるようになり唐の時代にもっとも盛んになります。それは、犠牲者が増えた時代でもありました。
丹薬で命を落とす皇帝たちと外丹術の衰退
清代の『
二十二史箚記』では、唐の歴代皇帝
22人のうち7人が丹薬を服用し、6人がそのせいで亡くなったと書かれています。
<丹薬で亡くなったとされる皇帝たち>
・太宗天竺の方士、那羅邇婆娑が作った「長生薬」を飲んだ後死亡。
・憲宗柳泌という方士の作った「金丹」を服用したところ、口が渇き、精神に異常をきたして死亡。
・武宗先代を死なせた柳泌を処分するものの、自分も丹薬を服用し精神に異常をきたしてわずか33歳で死亡。
・宣宗李玄伯の調合した「長年薬」を服用したところ、背中に腫れ物がでるなどして死亡。
またこれ以外にも丹薬のせいで目を悪くした高宗もいますし、健康を害した人達もいたことでしょう。しかしこれだけ犠牲者が出ていても薬に手を出してしまうなんて、不老不死への魅力はそれだけ絶大だったということでしょうか。
この危険極まりない「外丹術」は
次第に衰退していきます。
薬を飲む人すべてが体調を崩したり亡くなっていくわけですから、「このやり方はまずい」ということに気が付く人がようやく増えたわけです。
代わりに、体の中に備わっている「精・気・神」を鍛えて不老長寿を目指そうという「
内丹術」が盛んになっていきました。鍛錬によって体内の丹を練るという発想に基づいた内丹術はこの後さらに発展し、現代の「気功」のルーツになります。
現代では健康的なものとして有名な気功ですが、その歴史には不老不死薬との接点があったなんてちょっと意外です。
やっぱり「飲むだけで夢が叶う」なんて秘薬に頼るよりも、地道にこつこつと鍛錬していくほうがよほど近道なのかもしれませんね。
まとめ
さて、不老不死を求めて危険な薬に手を出してきた皇帝たちをご紹介してきました。
もちろん当時も「
それやばいんじゃないですか?」と心配する人達もいたといいます。ですが周りからどれだけ危険性を訴えられても目の前の誘惑には勝てなかったようです。「
飲めば○○になれる!」なんてうたい文句についついひかれてしまうのは、
今も昔も変わらないということでしょうか。
不老不死のために莫大な財産を費やした始皇帝や武帝、先代たちが亡くなってもなおも薬に手を出した唐の皇帝たち。彼らを教訓に、地道に健康的な生活をしていきたいものですね。