1:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/30(金) 21:46:17 ID:Ww6vTVgt
ソースはテレ東
びっくりしたよ!!!
tensaki


4: 名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/30(金) 22:08:31 ID:i/e1YOWe
最近いろんな版で主張してるな…光秀=天海

数年前の時空警察でも同じことやってたね
日光東照宮に桔梗紋があるのはオカシイとか
桔梗



6:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/30(金) 22:17:21 ID:M4dBxHLD
「美濃志」などによると
小栗栖で切腹したのは影武者で、光秀本人は美濃中洞に落ち延びたという。
そして荒木又五郎と変名した。



9:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/30(金) 23:14:45 ID:xsWmzMPK
だったら最後何歳なんだよ。無理がありすぎ。
昔は日付にルーズで、生まれた年は割といい加減だけど、
没年はある程度正確だろうし、そうなると若く見ても110歳越えちゃうぞ。



11:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 00:07:52 ID:UdNdLUVh
>>9
天海説の詳細で言うと
光秀=天海ではなく明智の男性が天海であったといわれてる。
明智秀満ではないかともされてるがな。

光秀本人については
比叡山で生き延びたというのは疑問があるそうな。
なんせ比叡山を焼き討ち指揮した本人だしな。
子供か身内であれば、さすがにかくまうにやぶさかではなかったんじゃないかとも。

で光秀本人については生きてたとしても明智光秀=千利休てのもある。
光秀の謀反について秀吉や家康に数々の疑惑があるのと絡めて説明される
あれなのだが光秀の決起に一定の理解を示した秀吉は公然と彼を擁護できないが
密かに匿って利休として登用していたという説。

これは信長が主に折檻していた武将の仇名が「はげねずみ」であり
この仇名が光秀のように言われているが実際は秀吉の仇名だったという話と絡めて説明されてる。



356:
人間七七四年:2008/02/04(月) 01:38:50 ID:GGcfYpon
>>9そこに春日局を加えたら?
意外にぴったりあてはまりそうでない?
春日は光秀の家臣の娘だし。乳母になり本当の主君の為に裏で動く。
大奥の正室には公女を招きながら子供は残させないのも光秀の朝廷への恨みって感じだし(笑)



15:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 04:07:58 ID:XjfIkb92
まぁそもそも足利義輝=光秀だからな
義輝=光秀=天海、というわけだ



18:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 08:23:27 ID:pIdLHpFP
知らんかった・・・
こんなに多く諸説あったとは・・・勉強になります。




19:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 10:01:49 ID:wZ9+66pH
それよりもむしろ、
伊達小次郎政道(伊達政宗に斬られて死亡/伊達政宗の弟)=秀雄(大悲願寺15世住職/伊達政宗の弟)
の方が、まだ信憑性がありそうな気がw



22:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 12:10:33 ID:ePOwvLBw
謙信=女だったとかフカしてる奴も結構いるよな
ほんとに女だったらいくらなんでもとっくに話し広まってるっつーの



27:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 19:42:24 ID:wt33WGwO
天海は明智の一族の一人だった可能性はねえの?
明智一族は織田と秀吉を憎んでいて、徹底的に滅ぼしたとか



28:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 22:06:24 ID:8Ca3nh0V
>>27
それなんて鬼武者?



32:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 23:47:33 ID:3X+g5VoB
Wikipediaの天海のとこ見ると
光秀より秀満では?ということになってるが



33:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 23:47:48 ID:Q2Om8I+S
ここで勉強してみ。間接証拠と傍証は盛りだくさんだ。
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/6291/



34:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 23:48:44 ID:tg0hcli8
天海って前半生が全く不明なんですよね。
これがこの伝説をより説得力のあるものにしているのかも。



42:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 14:04:48 ID:NX0g8kvD
幸村は秀頼を連れて鹿児島へ逃げたって昔時空警察でやってた

あと島左近もなんかあったような



44:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 17:50:58 ID:fSoAguT+
説の根拠

・天台宗の総本山・比叡山松禅寺に光秀寄進の石灯篭があること。
「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」光秀が死んで30年以上経っ
たころ寄進したことになってる。
この比叡山南光坊で1607年頃天海は学徒に教えていた。

・京都府北桑田郡京北町周山に光秀の位牌と木像が安置されている
「慈眼寺」という寺がある。ちなみに天海の諱は
「慈眼大師」である。周山は光秀の居城亀山城があったところ。

・日光の明智平という地名が天海によってつけられたと言われている。

・あの有名な光秀の肖像画のある大阪岸和田市の本徳寺、
ここにも光秀の位牌があり裏に「当寺 開基慶長四己亥」
慶長四年に寺の寄進者になってる。光秀肖像画の裏には
「放下般舟三昧去」仏門に入って去っていったとある。
この寺はかつて光秀の子が住職をしていたらしい。

・比叡山に光秀がいたという文章がある。
叡山文庫 「横河堂舎並各坊世譜」の「長寿院」の項に『第二世法印権大僧都是春、
初名光秀、依光芸薙髪。及住当房監鶏足院。元和八年九月二十五日逝」

・『長寿院の第二世法印であった権大僧都の是春は、俗名を光秀といった。
そして長寿院第一世の光芸によって薙髪を受けた。その後は鶏足院に起居した。
元和八年九月二十五日に逝く。』
逝くというのは去るという意味もあり元和八年に寺を去ったともとれる。
元和八年は天海が東叡山寛永寺建立にむけて動き出した頃では?

・「東叡山開山慈眼大師縁起」によると
慶長十三年、天海が駿府を訪れ家康と面会をした時
『初対面のふたりは、あたかも旧知の間柄のように人を遠ざけて親しく語り合った。
大御所が、わけても初対面の人物と人払いしてまで談合することなどまったく
前例のないことなので、側近の者たちも「いったい、これはどうしたことであろう」
と目を見張った』結局この時は一刻ほども話し合ったという。



51:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 01:16:21 ID:rd9k+WSL
>>44
しかし光秀とあるから明智光秀というのは非常に短絡的な考えだよなぁ。



364:
人間七七四年:2008/03/28(金) 23:33:19 ID:ejy/l2fl
>>44の、
>初名光秀、依光芸薙髪。及住当房監鶏足院。元和八年九月二十五日逝

というのが根拠としてあるけど、
光秀というのは僧侶としての初めての名であって俗名ではないんじゃないか?
こうしゅうとでも読むんだろ
なにより依光芸薙髪、光芸という坊さんに弟子にしてもらって出家したんだから、
光の字を一字もらってもなんにも不思議じゃない

あと天海=秀満説もあるけど、
湖水を渡って坂本城に入ったり、財宝を寄せ手のものに
渡したりって逸話は秀満が坂本城にいた証拠じゃないか?
わざわざ入ってって光秀の家族を自決させたあとに自分だけ出てくるとは思えん
まあ、信忠の介錯したあと脱出した鎌田新介の例もあるからまったく不可能とは言い切れないが…
まだ野外で討ち取られたとされる光秀のほうが可能性あるんじゃないか?



45:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 19:50:34 ID:hwk+kZ70
天海の足跡。

1536ごろ 随風(天海)は芦名の女を母、舟木景光を父として会津に生まれる。
1547ごろ 高田の稲荷堂の別当舜海に学ぶ。
1550ごろ この頃下野宇都宮に移る。
1560ごろ 足利学校へ入学。
1570ごろ 比叡山か園城寺もしくはその両方で学ぶ。その後武田信玄のもとにもいたという。
1573ごろ 芦名盛氏に会津に呼び戻されるが、上野の長楽寺で学んだりもしている。
1588ごろ 武州仙波の喜多院の住持となり、また同無量寺の豪海に師事し学び、天海と名を改める。
1589ごろ 芦名氏が常陸に落ち延びた際、その処理に奔走する。

それ以降は知ってのとおり。



49:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/03(月) 15:37:58 ID:funYdvV+
天海の前半生については諸説あるが、あしな氏に仕えその後各地を転々し、
信玄に招かれた事があるみたい、そうなると120歳の長寿になる訳で、いったい何者なのか?



52:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 01:36:13 ID:/bIuFhcd
別の光秀さんか明智家の誰かが光秀名義でやったかってことなのかね



53:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 02:26:49 ID:nhIsI2lt
>>52
そこに落ち着くよ、明智伝説は。遺族が何かしたんじゃねぇの?

戦国末期の三大敗者↓
・明智光秀(一族は大半が許されている・隠然とした再興が可能)
・石田三成(子息も僧籍に入り許されている・血統は保つ)
・豊臣秀頼(許されたのは出家した娘だけ・血統も断絶)



56:
武庫川女子大学総長 ◆myPniVOfR6 :2006/07/04(火) 05:04:19 ID:pKDi2dgT
天海、実際には何歳まで生きた??



58:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/04(火) 13:05:31 ID:3Xi8BDOk
>>56
数え108歳が通説
ちょっと信じ難いけどね

天文五年(1536)~寛永二十年(1643)



73:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 09:05:36 ID:0xv/8No5
もしかして、天海が光秀ヲタで、光秀の名前を利用したとかじゃない?
対豊臣戦略には効果的!とか思って。



76:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 21:06:12 ID:5F4n4HBU
>>73
ほほう



74:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 10:41:47 ID:YWOCjdbb
光秀は坂本城下の天台宗の寺を保護してたし、仏敵信長を倒したから英雄扱いだったのかもな。
んで明智平とか桔梗紋使ったのかも。



77:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/12(水) 22:55:16 ID:TOfKt/Mw
天海説は春日局の登用が強みなんだよな。
もし徳川家康と春日局の子供が家光なら、嫡男になる忠長との対立は当然。
ついでに淀君の妹、お江与の方の影響力も低下するし、実際に低下して春日局が権力を奮っていた



79:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/12(水) 23:19:45 ID:VZB5MJ+n
初めまして!確かに日光東照宮には明智の家紋がたくさんあります!だからぐるなんでしょう?



80:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 00:18:54 ID:aX43EYgS
明智と徳川のつながりって何?

東照宮の桔梗は明智の桔梗とは違うかも知れないよ。



88:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 09:44:16 ID:A6ZWm/RN
義経はチンギスハーンだと思う。



90:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 14:48:54 ID:aX43EYgS
明智光秀=天海説について調べているうちに、恐るべき書物に出会った。
岩邊晃三という人の「天海・光秀の謎 -会計と文化-」というもの。

この本マジやばい。イタリア式簿記の伝播を中心に書いているのだが、
それが天海光秀説につながり、赤穂浪士の討ち入りにつながり、ユダヤに繋がりと
ダビンチコード顔負けの歴史ミステリーとなっている。
ひょっとしたら本人はポストモダン的アプローチを目指していたのかもしれない。

でも中身がスゲー電波。学研の超面白雑誌ムーに匹敵する論理構成。
最後には地球滅亡かと思ったが、残念ながらそこまでは行かなかった。
著者は埼玉大学の教授までした人らしいが、このような本を書く人物が
教授となっている国立大学に未来はあるのかを問いかける渾身の一作。
是非一読をお勧めする。



119:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 09:08:52 ID:JApBjOBT
>>90
読むのはかまわないが買うのはよしたほうがいい。絶対に後悔する。



95:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 08:55:44 ID:MUy0xd2h
光秀が家康を祀っている所に「明智平」としたのは何でだぜ?



96:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 10:39:08 ID:MOo/e7yw
天海が明智平と聞いて「懐かしい」とか言ったとか言わないとかの話もあるんで、
天海が名付けんじゃないかもね。
明智‥開けた見通しの良い「開け地」が元々の地名じゃないかな



101:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 00:11:43 ID:zLQyL2LT
少なくとも天海自身が後世に自分が光秀であるように思わせよう
明智の名を残そうとしたのは確実だろう。

問題は理由なんだけど、天海が光秀であったと思わせることの
メリットがが思いつかない。
大の明智ファンだったとしても、偽って名前残すことを果たして
光秀や明智一族が望むかを考えた場合そんな偽装工作するかな?
武勇伝をまとめる、墓を作って死者の霊を弔うのが普通だと思う。
やはり、実際に天海は光秀本人か明智に縁のあるものであったと
いうのが一番しっくりくる。



103:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 07:38:54 ID:ApS5Zzyr
>>101
天海と光秀をつなげる線って明智平と名づけたってものしかないんじゃないの?



102:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 00:18:36 ID:T6G971tE
あれ?光秀って死体あがってる?
河原で首晒されたっけ?



105:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 08:45:33 ID:XoPfQ09x
明智の年齢は本能寺で55歳って本当なの?



106:
真田幸隆:2006/07/15(土) 08:46:37 ID:BQdAVVav
顔の表皮がない二つ遺体と首のない一つの遺体があったけど、
顔は腐敗して判別出来ないようにしていた。
そして、光秀自害の情報は明智方から流された。



107:
真田幸隆:2006/07/15(土) 08:55:23 ID:BQdAVVav
55さいかもしれない。そこんとこ、わってない。微妙なんです



108:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 09:15:27 ID:XoPfQ09x
>>107
そっかー、でも10歳若かったとしても天海108歳・・・。やっぱり長生きだな。
子らの年齢考えると20歳若いってのはむりっぽいし…。



115:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 18:58:28 ID:v41BYHU6
天海が光秀もしくは明智関係者じゃないと仮定した場合の
“明智平”名づけの由来の仮説とかないの?

例えば仏教用語で明智って言葉があるとか、
大昔伝説に~とか、そうゆうもっともらしいやつ。



116:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 22:41:34 ID:oOv12PUe
辞書で調べればわかるが、明智は「優れた知恵」という意味。
だいたい天海が光秀だということを悟らせるために明智とつけたとするなら、
何で明智平たった一つしかつけなかったんだと。
他にも黒髪平とか茶ノ木平とか華厳の滝とか日光には名所地名がたくさんあるものを
光秀由来のものに改名すればよかったのに。



120:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 09:27:08 ID:TKa/K5BI
古地図には明智平という地名は無いらしい。
明智平とか書いてある当時の文書でも出て来ないと天海が名付けた説は無理っぽい



142:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 02:01:19 ID:/9FSZHd5
天海が光秀の長男って可能性はあるのでは?本人は違うと思うがね。



150:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/06(日) 09:46:23 ID:u7s7KcnQ
>>142
僕もその意見に一票。
年齢的に光秀では厳しすぎるかも。長男は確か伊達政宗あたりと同年代の生まれ。
ちなみに光秀の長男といわれる、十五郎光慶は父親も泣いて喜ぶ程の
才覚の持ち主であったとの伝承も残っているらしい。



143:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 05:42:27 ID:uU+jOlnX
信長殺害の秀吉・光秀共謀説あるよね。

秀吉・光秀・家康の3人の共謀だったのに、
如水が秀吉に入れ知恵して2人を出し抜いて天下を取ったけど、
家康を取り逃がした。

その後、秀満は天海となり、復讐に燃えるのであった。



144:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 19:53:31 ID:018tXazw
>>143
俺が聞いた話は

秀吉と懇意にしていた光秀が、現状の不満を秀吉にグチる。

黒田如水が秀吉に入れ知恵。秀吉がそれに乗る。
『俺が大殿を呼び出すから、寝込みを襲え。そしたら俺らはおまえと合流するから、一緒に織田家粛清して天下山分けうぇうぇ』

ノイローゼになっていた光秀、秀吉に救いを感じて素直に信じ込む。

中国大返し

味方だと思ってた秀吉に突然襲われ、光秀あぼーん。

秀吉一人勝ち

てな感じだった。
当時厨房だった俺は「秀吉悪いやっちゃなー( ̄皿 ̄)」と思ってた。



145:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 22:21:05 ID:dRxgVfKm
>>144
で、誰に聞いたんよ?w
よほど信憑性がある情報筋なんだろうな?w



147:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 23:02:28 ID:018tXazw
>>145
すまん、聞いたじゃなくて、読んだ、だわw
ニホンゴムズカシーネー



151:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 09:44:34 ID:HwC4lmsB
かごめかごめの歌詞は天海が作ったもので、明智と徳川の関係を
示しているという説があるね。



159:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 19:15:31 ID:7EuOpkF2
何かの番組で筆跡鑑定したら天海と光秀は別人ってやってたような
ただ似通った点もあるので天海は光秀の血縁とかやってたよ



167:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 12:44:10 ID:HLw2mViO
光秀って天皇や将軍を中心にした秩序を大切にしていた節がある。

徳川体制の確立の際に天海が推し進めた方向と
価値観が似ているような気がする。

だから光秀=天海っていう証拠ではないけど。



187:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 16:00:06 ID:iKOABfLb
俺自身は光秀が生き残って、天海になって、家康を支えていたら、すごく
面白い話だと思う

でも天海=光秀説が出たのって江戸中期なんだよね。
当時は武将の日記にはそういう噂が有るって程度の話も確認出来ていない。
光秀はかなりの有名人だし、顔も公家だとか商人文化人にそれなりに知られていたと思う。
天海も最高位の高僧だ、当時にそんな噂があれば、日記だとかに多少なりと
も書いて有るべきだが、そこまでの一級資料は見つかっていない。

江戸時代のネタとして出てきて、それが現代にまで残っているのでは無いだろうか?



188:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/05(木) 17:41:05 ID:xRXWNwyE
天海とは別に家康が光秀を匿ってたりして

家康は光秀を謀反人とされて死んだ後も「武士の鑑」と言ったり妙に光秀贔屓だった
ことも噂の原因のひとつかもね



190:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 18:46:49 ID:pSV44z+2
信憑性には欠けますが こんな説も・・・・。
二代将軍 徳川「秀」忠
三代将軍 徳川 家「光」
名前の中に「光秀」を忍ばせていたと。(偶然???)
名付けは天海が絡んでいたらしい。春日の局まで含めて考えると
天海は明智家に関係していたのかも知れない。
大阪の陣では家康に献策したり、天海用の甲冑もあったらしい。
ホントにただのお坊さん?



191:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 18:50:59 ID:OcPLJNUe
「秀」は、松平家からの字じゃなかったっけ?



194:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/08(日) 09:07:51 ID:GrMN0eWZ
秀だの光だのは字の意味がいいので使ってるやつは沢山いる。現代でもな。
どこの家の家臣団にも通字でもないのにつけてるやつが一人や二人いるもんだ。

それに天海は軍師をしてたのはまー言うまでもない。
なんとために足利学校に入学したんだと。
軍師っつっても主に日時の吉凶とかを占うやつだけどな。
足利では軍学の講義もしてたようだから、現実的な部隊の運用も知っていたかもしれんな。
そんで軍師だから当然従軍するわけで、従軍するなら具足つけるのは当たり前。



195:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/08(日) 11:47:32 ID:+9iOJbRD
戦国時代の僧だからねえ、鎧くらい着てても疑問は無い。
天海と言う人物は何やったか不明な部分も多いけど。
関東の寺沢山建立したり。

当時のトップクラスの学者でもあるのだから。
法律作るのに知恵貸したり、後大きいのでは
京で天皇家になにか有ったときの保険の為に重要な天皇の親王を
一人関東に住まわせたりさせる道筋を作ったりしてるそうだ。

古来軍師や宰相ってブレーンは物語にでもならないと功績が見え
無いからね。君主の手柄になってしまうから。

自伝でも書いて残してくれればよいのになw



197:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 11:55:10 ID:qkOU6jEF
>>195
だわな。利休ですらその鎧が現代に残っている。
あいつ、いつどこで鎧つけなきゃいけなかったんだw



203:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/27(金) 02:20:55 ID:sw+jJ7NS
>>197
安国寺恵瓊も着てたんじゃね?



204:
中村一氏といいます。:2006/10/27(金) 16:42:38 ID:UazDNVSe
今「革新」やってるけど、天海も光秀も一緒に配下にいるからちがうんじゃねぇ



205:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/27(金) 16:47:53 ID:ZdLdWHxH
>>204
でも、天海って鉄砲適正Sだろ?それが何を意味するか・・・。



208:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 00:06:36 ID:ME2uAd4y
天海の鉄砲Sにはそんな意味があったのかw



209:
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 21:01:13 ID:QNB6nu7i
そうだね。
光秀は天海だし、謙信は女だし、
武田騎馬隊は兵士みんなが馬に乗って突撃するし、
ジンギスカンは義経だし、その子孫のモンゴルが攻めてきたのも義経の私怨からだよね!


ってんなわけあるかよ!



219:
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 17:20:15 ID:zFPj+t6W
自分は天海=秀満派なので・・・・うん。

二人は共に1536年生まれで天海は前半生は不明。
しかも、秀満は自害疑問説(実は生きてた?)もあり、
あまりに時期が合いすぎてます。
かつ、天海は遠山と三宅の家紋を両方用いているので、
天海=秀満説が最有力とされてます。



223:
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/08(月) 15:00:14 ID:7L48u2Uu
結構面白いね。正月休みに滋賀県の坂本に旅行に行ってきたよ。
西教寺に光秀の墓が、数km離れた滋賀院門跡に
慈眼堂と天海の墓があった。同じ町中だけに近いと言えば近いが、
離れていると言えば離れている。何を意味して
いるんですかね?個人的には同じ一族だったとかそういう繋がりがあるんだとは思うけど、
同一人物とはさすがに言えないと思うなぁ…



224:
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/12(金) 18:14:38 ID:xP+jWT2J
実は天海≒随風は奥羽の芦名一族で光秀の家臣。



226:
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/15(月) 11:48:01 ID:+cah89i7
ここらで推測&妄想・・・

天海≒随風の俗名は不明だけど(芦名何某?)、
光秀が諸国を流浪した時に奥羽で出会ったんじゃないかと思う。

・・・で、天海が光秀に惚れ込んで、その近侍となり最後まで共にした。
光秀が秀吉に騙されて、悲惨な最期を遂げる直前にその遺言を受けて、
距離的に遠くない比叡山に入山して出家し、精進したのが真相ではないかと。

やがて、家康に近づき羽柴家に対して復讐を実施したのではないかと。
生年は1546年誕生の可能性があるかも・・・



227:
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/20(土) 00:08:17 ID:M9yQqZwV
秀忠の秀は、秀吉に人質に取られてたからだろ? 
秀忠の兄貴も秀康ってなってるだろ?だからだな。

家光は分からんが光ってのは、もしかしたら春日局の父の斉藤利光から来てるのかも・・



291:
上州人:2007/04/06(金) 10:02:16 ID:xCNbLOEy
天海=明智を証明するには
一、明智の行方が明らかでない1582年から数年間の明智の行方(逃走ルート等)
二、桔梗の家紋は明智以外にも使用してた
三、明智が100歳近くで死ぬ
というあらゆる問題を解決しなくてはいけませんな。



300:
人間七七四年:2007/06/05(火) 10:40:30 ID:gdLU8MlI
>>291
でも天海が100越えて生きたというのは記録に残ってるわけだしな。
本当にそんだけ生きたかどうかは知らんが。



319:
人間七七四年:2007/10/13(土) 03:49:35 ID:9CqpMKM8
同一人物だったら面白いのは確かだw

そもそも光秀は、少なくとも彼と彼の一族の血統は、戦国時代における
かなりの勝利者ではあるのだ。
彼には娘しかいなかったというが、言うまでもなく娘の一人が生んだ孫が
肥後細川家の藩主となったのを彼は生きてれば知ったはず。

重臣筆頭、斉藤利光の系統から春日局が出て、幕臣の中で譜代扱いの
稲葉家が江戸末期まで続いている。
光秀の系譜は、主に女系で、江戸時代を通じて結構繁栄している。

信長系より、もちろん秀吉系より、光秀系の人々のほうが幕閣や
大大名として成功したといえるのでは無いだろうか。

だから天海は光秀だったのだあ・・・・・・w



322:
人間七七四年:2007/10/13(土) 10:34:56 ID:3JdrnDW8
>>319
そだね。
戦国武将勝ち抜き戦と見た場合、光秀の実力は江戸期は高く評価されてたろう。
もちろんお市系の信長もだけど、秀吉は抹殺されちゃったが、
強い武将の血統への憧れははっきり感じられる。

ただそれと天海は関係ないのだけどね。



328:
人間七七四年:2007/11/19(月) 14:45:53 ID:2SfzRTcS
江戸初期明智世評は最悪であった、にも拘らず
多くの明智血縁者が抜擢され、後年に幕府作成にるよる
明智軍記では捏造までして明智フォローに勤めている。

しかし天海は光秀本人ではないだろう。恐らくは血縁者か。
そもそも光秀を抜いたとしても、天海の享年108歳は無理がある。
108という数字が仏教に纏わる数字である事からも
没年こそ信憑性が高いが、年齢自体は偽証の可能性が高い。

実際はもっと若い人物であったと考えられる。
若しくは複数の家康ブレーンによる共同の名前か。



329:
人間七七四年:2007/11/22(木) 18:24:49 ID:rVJ0EcWn
光秀の年齢についての表記はあの明智軍記だけだし
実際はもっと若くてもおかしくない
年齢の一致については充分にありうるよ



330:
人間七七四年:2007/11/22(木) 18:28:02 ID:1hHn4RCF
>>329
確かあの五十五歳~の辞世の句って、元ネタがあるんだよね。
明智軍記が成立した年代に亡くなった武士の辞世の句とそっくりでw



333:
まげろ尊師 ◆iOK7dNgnS. :2007/11/22(木) 23:59:41 ID:/aOB9mMb
しかしまあ、あれだ。
服部半蔵=松尾芭蕉説もあるくらいだから、不思議ではない。



334:
人間七七四年:2007/11/23(金) 16:54:05 ID:8ROycHmo
芭蕉が地方情報収集の為の忍者ってのは聞いたことあるし
信憑性は有ると思うが半蔵ってのは初めて聞いたぞ。
脳内か?



335:
人間七七四年:2007/11/23(金) 21:23:11 ID:3xnCevtr
松尾芭蕉は伊賀出身だから、服部の縁者ってのは、別に有り得ない話じゃない
特に半蔵は個人名というより襲名式で、役柄名的意味が大きいし
明智や天海とは問題が別だな



337:
人間七七四年:2007/11/23(金) 23:24:17 ID:3xnCevtr
出身の上にあの時代に割と自由に各地を遍歴できたことを加味しての話だろ



348:
人間七七四年:2008/01/26(土) 20:50:30 ID:+Vn2wjSg
第一、何で家康が天下の逆臣を保護しなきゃならんのか?
首級にして「光秀討ったのは俺だー!」とやるのがむしろ自然だろ。
秀吉の明智討ち、その結果にずっと苦しめられることになるのだし。



349:
人間七七四年:2008/01/26(土) 21:39:20 ID:IcNC/BK9
本能寺の黒幕は朝廷で、秀吉はそれを利用して天下や関白を手にした
そんな理由でもないと、秀吉は関白にはなれない
それに光秀は秀吉にハメられて主殺し、天下の大逆人となった
そんな訳で、それを徳川が内密に保護していてもおかしくはないって説だよ
実際に大坂の陣での豊臣への追い打ちの理由もそこにあるかも



350:
人間七七四年:2008/01/26(土) 23:27:33 ID:+Vn2wjSg
>>349
>徳川が内密に保護していてもおかしくはないって説だよ
陰謀論か、まあそれが本当だとして。
家康が事情を知っているのなら、光秀を保護する必要は更に無いのでは?
逆臣光秀を匿うことは道義的に危険過ぎる。



351:
人間七七四年:2008/01/27(日) 00:24:03 ID:SLwKSAyz
光秀は知識が豊富で、戦闘、内政、外交でも優秀な人材だからじゃない?
豊臣秀吉は黒田官兵衛を平和な時代では危険だと思って遠ざけた
ところが家康は危険な人材ですらも活用した
家康は秀吉に比べて若いから、秀吉没後まで陰で光秀に仕事させようとしてたのかも



353:
人間七七四年:2008/01/31(木) 09:45:27 ID:JI70U8Mt
ただまあ、100前後のような老人でありながら脂光りする禿頭で陰謀を嬉々として
企みまくってた精力的で、権力欲も旺盛な、パワフル破戒坊主天海は・・・

もの静かで理知的な惟任日向と、人物像が違いすぎるって点はあるんだよな。



354:
人間七七四年:2008/02/02(土) 23:19:56 ID:MarQYOI9
>>353
>もの静かで理知的な惟任日向と、人物像が違いすぎるって点はあるんだよな。

この手の人物像って、信長との対比によって作られた虚像では?
一度、ルイス・フロイスの光秀評を読んでみるべきかと。



392:
人間七七四年:2008/09/10(水) 08:52:01 ID:oycDrvRz
天海の没年は、はっきりしている。

1643年

本人が年齢を言わなくても、没年は周囲の人が記録することだから、
この年は確実。



393:
人間七七四年:2008/09/10(水) 09:02:15 ID:lcMdyqZk
秀満じゃね?年齢的に



396:
人間七七四年:2008/09/10(水) 10:06:58 ID:g7D0XdnR
二人居たんだべ
最初光秀、途中から明智関連の誰かこんな感じに



397:
人間七七四年:2008/09/10(水) 17:53:39 ID:oycDrvRz
本能寺の変が1582年だから、天海の没年1643年まで、61年もある!。
本能寺の変に、明智一族で参加した人は、除外してもいいかもしれないなあ。
20歳で参加して81歳で死んだなら、ぎりぎり可能性はあるが。
明智一族の中で、本能寺の変に参加しなかった人(寺に入ってる等)が該当するかも。



469:
人間七七四年:2009/08/12(水) 00:42:45 ID:6d7hXCAs
天海って関ヶ原に出たんだっけ?東軍として。



474:
人間七七四年:2009/08/12(水) 20:42:16 ID:giLzOVt5
>>469
関ヶ原合戦絵巻に南光坊として描かれていて、実際に参戦したそうです。



479:
人間七七四年:2009/08/16(日) 11:55:53 ID:H4Zi5f/y
秀満と天海は共に1536年生まれである。秀満は光秀と深く関わりがある人間。
坂本城で自害した事になっているが、あくまで伝説である。
光秀の墓はあるが、秀満の墓は実在しない。光秀と天海の花押(筆跡)がよく似ている。
秀満の元名は三宅弥平次。
上野にある天海の毛髪搭の門には三宅輪宝の家紋が彫られてある。



294: 人間七七四年:2007/04/06(金) 20:57:33 ID:vPtvZGd3
この男、後の天海大僧正である。



転載元:http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151671577/