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スーパーマリオ 2つの『2』をめぐる物語
 

スーパーマリオ 2つの『2』をめぐる物語


<日本版とNES版『2』はまったく別のゲーム>

 1986年6月3日――
 ファミコンブーム真っ只中。『スーパーマリオブラザーズ』の初の続編がディスクシステムの目玉ソフトとしてリリースされた。その名も『スーパーマリオブラザーズ2』である。

 それは続編とはいうものの、グラフィックやサウンドはほぼ『1』のまま。難易度を高くしただけのような代物であったが、発売されるやいなや250万枚を売り上げ、ディスクとしては最大級のヒット作品となった……

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 しかし数年後……
 北米でリリースされたNES版『2』はまったく別物だったのだ。

mariousa2.jpg


 マリオは敵を踏み殺す代わりに、野菜を投げつけるようになっていたのだ。いったい彼に、どんな心境の変化があったのだろうか。

 今回はそんなスーパーマリオの2つの『2』をめぐる物語である。




<とあるメーカーが持ち込んだ試作版>

 ときは1987年春――
 任天堂に入社したばかりの新人社員が、マリオの生みの親・宮本茂(以下敬称略)氏といっしょに、とある試作ゲームをプレイしていた。それは任天堂の初期作品の多くを開発していたSRDというメーカーが持ち込んだ縦スクロールするアクションゲームの試作版だった。

 ブロックを積み上げてゴールを目指す対戦ゲームで、相手を持ち上げ投げ落とすこともできたという。しかし彼は何度も首を傾げた。イマイチだったのだ。ブロックを持ち上げるというアクションは新鮮だったが、当時のハード性能ではこの動きを十分に活かすことができそうもない。

 それに、対戦プレイよりも一人プレイのほうが致命的につまらなかったのだ。

 「改良の余地はある」
 そう言って宮本は静かにコントローラを置いた。

 宮本はSRDの提案してきた縦スクロールを廃し、横スクロールを導入。いっそのことマリオの続編になることも見据えてアイデアを練り、ブロックを持ち上げる動作を、野菜を引っこ抜く動作にすることを思いついた。

 フジサンケイグループから手紙が届いたのは、ちょうどその頃だった。

 今度「夢工場'87」っていうイベントを開催するので、そのマスコットキャラクターでゲームをつくってくれませんか?



 かくして1987年7月――
 『夢工場ドキドキパニック』が誕生した。

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 同作品は任天堂とフジテレビの、いわゆるタイアップ作品であった。したがってフジテレビにとってそれは、ただの販促物。内容など二の次、三の次で、とにかく宣伝になれば良かったのだ。しかし、そこは任天堂さん……

 うっかり名作をつくってしまったのだった(笑)





<消えたイマジンファミリー>

 そこで任天堂はこの作品を海外へ売り出そうと考えた。

 『夢工場ドキドキパニック』は発売当時、ディスクシステム全盛期だったため、それなりのセールスを記録したが、それはイマジンファミリー(夢工場のマスコットキャラクター)のおかげではないことくらい、誰の目にも明らかだった。

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 ※こちらはオロチ所有の発売記念テレホンカード

 そこで任天堂はひとりの人物に白羽の矢を立てる。同作品のディレクターをつとめた田邊賢輔氏(以下敬称略)である。彼はかつてSRDが持ち込んだ試作ゲームを宮本と共にプレイした、あの新入社員だった。

 もともと作品へ盛り込まれたアイデアがマリオシリーズの続編を見据えていただけあり、それは『スーパーマリオブラザーズ2』として売り出すことに決まった。

 さっそく田邊率いるチームはリメイク作業を開始。マリオシリーズに適したアイテムやキャラクターを追加したり、アニメーションや効果音を向上させたりと修正を加えていった。中でも「キノコを食べて大きくなる」というマリオの代名詞的パワーアップ能力を実装したことが非常に大きなポイントとなった。


smb2nes01.jpg
 
 そして1988年10月――
 ついに完成したのがNES版『SUPER MARIO BROS. 2』である。

 そのポップでカラフルな世界観、軽快でキャッチーな音楽、親しみのあるアートワークは、任天堂の看板であるマリオシリーズに非常にマッチしていた。ごく一部のファンの中には「なぜ今回のマリオは敵を踏みつけて平らにしないのか」と疑問をもつ者もいたが、同作品は1000万本に迫る売り上げを見せ、商業的にも大成功をおさめた。




<アメリカのマリオは優しい?>

 かつて宮本は任天堂オンラインマガジンの取材に対し「マリオUSAが一押し」と語っており(参照)、その元になったNES板『2』(ないし『夢向上ドキドキパニック』)を非常に気に入っていたことが伺えるエピソードがある。

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 かくして、4年間のブランクはあったものの1992年にNES版『2』は日本へ逆輸入されることになった。それが『スーパーマリオUSA』である。

 当初、そんな経緯を知らないファミコン少年の中には「敵を踏み殺さないアメリカ生まれのマリオは優しい」だとか、「アメリカのゲームは生物を殺すことに対して規制が厳しい」だとか、デタラメな解釈を吹聴しているやつがいたものだ(笑)

 はまり道 (アスキーコミックス)
 ※おそらくこの漫画の影響も多少はあっただろう


 しかしここでひとつの疑問が残る……
 そもそもなぜ米任天堂(NOA)は日本版『2』をそのままROM化してリリースしなかったのかということだ。

 その理由についは当時のNOAスポークスマンだったハワード・フィリップス氏が「アメリカ人には難しすぎる」と判断したからだと言われている。

 たしかに同ソフトはコース設計や、毒キノコ、突風などの追加要素が、スーパーマリオに慣れた日本人の上級者向けとなっていた。したがって、しばしば日本版『2』はマリオシリーズにおける「Black sheep」などとファンの間で揶揄されていた。※1

 ※1 米スラングで「奇妙なやつ」「厄介者」という意味

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 しかし長い間、アメリカで「Lost Levels」となっていた日本版『2』もとうとう1993年8月1日にリリースされたSNES用ソフト『Super Mario All-Stars』に収録され、晴れて全米デビューを果たしたのだった。

 現在では、マリオシリーズにおける日本版『2』はルイージにキャラクタ付けを行った最初の作品として見直され、ひいてはマリオシリーズ全体における「キャラクタ性の芽生え」の象徴的作品として再評価されている。




<まとめ>

 最後に、一連の経緯を図にまとめる。

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 ※日本版『2』からSNES版『Super Mario All-Stars』までの一連図


 日本版の『2』にせよ、NES版の『2』にせよ、マリオシリーズの中では異彩を放っている存在だ。そのような作品に対して「Black sheep」だの「黒歴史」だのレッテルを貼り、思考停止するのは簡単だが、私はむしろその秘められた物語を紐解くことによって、やや大袈裟な言い方をすれば新たな存在価値を創出できると信じている。

 そんなところもレトロゲームの楽しみ方のひとつではないだろうか……




 参照記事:The Secret History of Super Mario Bros. 2 (wired.com)
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たった一人のファミコン少年タイトルGIF
日本版マリオ2は、あくまでもマイナーチェンジなので、アメリカでは新作としての受け入れが弱い説もあったような…
日本版はW256へのオマージュもあって、これはこれで意味がある気がするけど

そういや夢工場化のIPSパッチってないのよねー。マリオ化2パッチはあるけど
4476. [ 2017/05/12 20:07 ] [ 編集 ]
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