東ローマ帝国って?
まずは『東ローマ帝国(ビザンツ帝国)』について。皆さんご存知「ローマ帝国」。コロッセオだとか顔が平たくないだとかカエサルだとかで有名なあの国です。ローマ帝国の後継的国で、時代によって変わりますが大体は現在のトルコやギリシャの辺りに存在したのが東ローマ帝国です。そう、ローマどころかイタリア半島にすらいません(ローマまで領土が届いた時期もありましたが)。全然ローマやあらへんやんけって感じなのですが大丈夫。精神的にローマを継いだ的なあれなので、大丈夫なんです、ローマったらローマです。 紀元前の日本が土器を作ってキャッキャしていた時代に、上下水道を完備した都市をつくるなど高度な文明で隆盛を誇ったローマ帝国ですが、395年には東西に分裂してしまいます。 “分裂”というのも、ある時期からローマ帝国は領土を分割して統治していました。この東西に分けたのもその流れに沿ってでしたが、東西が一つになる事なく約100年後に西ローマ帝国は滅亡します。 そんな中、ローマ帝国の継承者として存続し続ける東ローマ帝国。分裂した395年から滅亡する1453年まで実に約1000年もの間存続し続けました。立地的にローマではありませんし、公用語はギリシャ語で、国民達も民族的にギリシャ人やスラヴ人などでしたが、それでもローマの継承者であると自負していたようです。 が、実際にはギリシャ文化などの影響が大きく、ギリシャチックな国でした。時代が進むにつれその傾向は強まり、より独自の性質を持つようになっていったようです。そんな東ローマ帝国の首都が『コンスタンティノープル(現:イスタンブール)』です。現在のトルコにある街で、アジアとヨーロッパの間にあるため交易の要衝として栄えました。また、建設されてから約1000年もの間、難攻不落を誇った城塞都市でもありました。オスマン帝国の台頭
東ローマ帝国はその長い歴史の中で様々な国と戦いました。ササン朝ペルシャやセルジューク朝、十字軍など多くの勢力と戦い、その広大な領地を削られ、取り返し一進一退を繰り返しました。 しかし帝国末期には首都周辺とギリシャの一部地域のみの小さなものとなります。 それほどまで東ローマ帝国版図が縮小したのは、14世紀中頃から地中海やバルカン半島へ進出してきていた『オスマン帝国』が一つの要因でした。 歴史上幾度か包囲されるコンスタンティノープルでしたが、一度も攻略されることなくまさに難攻不落。その理由として5世紀に造られた「テオドシウスの城壁」があります。北・東・南を金角湾とマルマラ海に囲まれているため、陸側から唯一攻め込まれる西側を防衛する為に建造されました。
約1000年にわたり難攻不落を誇った「テオドシウス2世の城壁」
この壁は全長7kmにも及ぶもので、堀と二重の城壁の三重構造となっており城壁の高さは8~12mありました。これによりコンスタンティノープルが正面突破されることは、陥落するその日まで一度もありませんでした。 しかし、もはや全盛期ほど力を持っていない東ローマ帝国。1453年、ついに滅亡を迎えます。それはオスマン帝国の“スルタン”(イスラム系国家での王的な称号)である『メフメト2世』によるもので、後に彼は征服王と呼ばれるようになります。
東ローマ帝国最期の戦い、コンスタンティノープル包囲戦
1453年、オスマン帝国はコンスタンティノープルを包囲します。東ローマ側の守備兵が救援に来た傭兵を合わせても7千であるのに対し、オスマン側の軍は最精鋭部隊であるイェニチェリ2万を含む総勢10万もの大軍で、戦力差は歴然でした。コンスタンティノープル周辺図
さらにオスマン側は、当時最新鋭の大砲で砲撃を浴びせます。 オス:「あのへんにぶち込もうか。あーそうそう、そのへん。OKOKだいぶ逸れたけど…まあ次当てようや。」
東ロ:『あっぶな、当たるかと思った。でっかい大砲の割に変なとこ当たっただけか、びっくりさすなや…とりあえず直しとくか』
しかしびくともしない。
500kgもの石を飛ばせる巨砲でしたが命中精度は全然ダメだったようです…。そのためコンスタンティノープルのどこか…という狙いしかできず、なおかつ発射間隔が広いためすぐに修繕されてしまっていたようです。 そんな決定力に欠けたまま二ヵ月の硬直状態が続きます。 この状況を打破すべくメフメト2世はある奇策に出ます。それは艦隊の山越え。 首都北側の金角湾は東ローマ帝国により巨大な鎖で物理的に文字通り「封鎖」されていました。鎖で封鎖ってダジャレチックなことをやってのけるんですからダイナミックな戦いです。 丸太を敷き詰め潤滑油を塗り作った道で、70隻もの船を山越えさせました。 “船頭多くして船山に上る”を現実のものとしたのはこの人ぐらいではないでしょうか。夜が明けると湾内には艦隊が並んでいるのですからさぞ驚いたことでしょう。え?マジで?では済まない状況です。これにより海上からの補給物資が絶たれた東ローマ帝国。 オス:「どや!山越えしてまで艦隊持ち込んだったで!」
東ロ:『頑張って鎖繋いだのに…山越えてくるてなんやねんあいつらの執念。帰れや。まあでもまだ壁あるから、ご先祖様に感謝やで。』 しかしそれでも攻略には至りません。が、じりじりと追い詰められ東ローマ帝国側もいよいよかと覚悟を決め始めます。時の皇帝『コンスタンティノス11世』は兵たちの前で演説をし、臣下の一人一人に自らの不徳を詫びました。 その次の日、ついに最期の戦いが始まります。決定打となるもの
コンスタンティノープルの陥落
オスマン帝国は総攻撃をしかけてきました。第一波、第二派と次々に攻め入るオスマン軍、オスマンの誇る精鋭であるイェニチェリの攻撃をもしのぎます。 指揮官が負傷し混乱に陥りながらも耐えていた防衛軍でしたが、あることが決定打に。それは「門通用口の施錠忘れ」。これを発見したオスマン軍は城内へと侵入します。 オスマン軍A:「あれ?ここ開いてない?開いてるやんな?ほら、開いてる。」
オスマン軍B:「嘘つくなや、そんなわけ…ほんまや!!!入れるやん!」
オスマン軍ABCDE:「「「「うおおおおおおおおおおおおお!!!!突撃!!」」」」」
東ロA:『うわああ!!どっからかオスマン入ってる!』
東ロB:『おおおおお落ち着け、あばばあば』 こうして東ローマ帝国は大混乱を極め、守備軍は総崩れとなっていきます。 前線で指揮を執り続けていた皇帝でしたが、この閉め忘れにより城壁にオスマン帝国の旗がはためくのを見て「誰か余の首を刎ねるキリスト教徒はいないのか!」と叫びながら親衛隊と共にオスマン軍に突撃し、行方知らずとなりました。 こうして永きにわたり続いた東ローマ帝国は城内に入られ滅亡し、ローマの歴史はここで完全に途絶える事となりました。そして首都は以後、現在のイスタンブールという呼称になっていきます。 1000年もの間、難攻不落を貫いた都市の決定打となったのは、大軍でも巨砲でも山越えの奇策でもなく、なんとも無情にも鍵の閉め忘れでした。 堅牢な城壁があっても、地の利があっても小さなミスで滅んでしまうのですから諸行無常です。 メフメト2世は古くから続く帝国に敬意をもってか、聖堂などを破壊せずにモスクに改修するだけに留めています。真意はともかくそのお陰で今も東ローマ帝国時代の建物を見ることができます。せめて一度はトルコに行ってみたい…。 皆さんも戸締りにはお気を付けを。