<現存する「サウンドファンタジー」完成版> 2010年8月――
原宿VACANTにて「横井軍平展 -ゲームの神様と呼ばれた男-」が開催された。そこにはメディアアーティストとして表舞台から姿を消していた岩井敏雄(敬称略)の姿があった。トークショーの出演が目的だったことが、自身のブログに言及されている。
(※出典) そこで彼は、かつて横井軍平(敬称略)とともに開発していた幻のSFCソフト『サウンドファンタジー』のパッケージや説明書などを披露。開発ROMを持参して実際にプレイして見せた。
その様子がこちらである。
この開発ROMが最終版と見て間違いないだろう。
1999年に放送されたNHK『課外授業 ようこそ先輩』に出演したときも、彼はこの開発ROMを持ち込み、生徒たちに『サウンドファンタジー』を遊ばせているシーンが確認されている。
※ 『岩井俊雄の仕事と周辺』(六曜社/2000) サウンドファンタジーより また、2000年に発行された『岩井俊雄の仕事と周辺』にも、彼の所有している最終版開発ROMのものと思われる画像がいくつか掲載されていた。
<アート性が高い評されている作品たち> 結局のことろ、ふたりの天才をもってしても、ゲーム性とアート性が奏でるハーモニーは不協和音に終わったわけだが、それはあまりにも早すぎる挑戦だった故か、それともただのアイデア倒れだったのか……
ひとつだけ確実なことが言えるとしたら、『サウンドファンタジー』の不発以降、次世代を象徴するゲーム機の登場によって
ゲーム性とアート性の両立を果たしたような奇作・怪作・傑作が、次々と世に放たれるようになったということだ。
『サウンドファンタジー』の位置づけを見定める上で、そういった流れも押さえておくに越したことはないだろう。以下、マルチメディア時代にリリースされた「アート性が高い」と評されている作品たちを見て行くことにする。
| 『L.S.D』(アスミック・エース/1998)
開発はアウトサイドディレクターズカンパニー。「ドリームエミュレーター」というジャンルを標榜する怪作。帯に謳われるキャッチフレーズ「こんなのゲームじゃない」に違わず、スコアやクリアといった概念がなく、なんなら目的もゲームオーバーも存在しない作品。 主人公は3D視点で夢の中を彷徨う。最初はごく普通だった建物や町並も、プレイ日数を重ねるごとに変化していき、奇怪なキャラクタやオブジェがあふれるサイケデリックな世界と変貌していく。何かのきっかけでワープしたり、意味不明な実写ムービーが流れることもあるが、プレイヤーがそれを制御することはできない。プレイヤーはあくまでもただ夢を見ているだけの存在だからだ。 そのぶっ飛んだ内容には賛否両論あるが、現在、完品には数万円のプレミアが付いている。 |
|
| 『DEPTH』(SCE/1998)
開発はオーパス・スタジオ。「SweepStation」シリーズ第1作目。海洋探索ゲーム『アクアノートの休日』に似た雰囲気を持つが、こちらはテクノミュージックのようなBGMに乗せて、イルカのようなキャラクタを操り、海中のような場所を彷徨いながら、音を集めるゲームである。スコアやクリアとった概念はない。集めた音は、エディット機能で好きに組み合わせ録音、再生ができ、イルカを操ってアドリブ演奏のようなこともできるので、そういった意味では楽器のような側面が強い作品だ。当時としてはグラフィックやサウンドの完成度が高いと評価されている。ただしAmazonでは1円から売っている模様。 ちなみにシリーズ第2作目はクソゲー(自称)の『グルーヴ地獄V』。
|
|
| 『ビブリボン』(SCE/1999)
『パラッパラッパー』で知られる七音社が開発。黒地に白のへたうま風ワイヤーフレームで描かれたステージに現れる障害物を、うさぎのキャラクターを操作して回避していくゲーム。システム的には流れてくるオブジェクトに合わせて特定ボタンを押すタイプの音ゲーである。また、用意されたBGMの他、手持ちの音楽CDを再生しながらプレイすることも可。逆に本作を音楽CDとして再生することもできる。 特筆点として、このソフトがMoMA(ニューヨーク近代美術館)に現代アート作品としてコレクションされていることが挙げられる。つまり本作は、その道の権威が認めたアート作品なのである。
|
|
| 『Rez』(セガ/2001)
開発はユナイテッド・ゲーム・アーティスツ。元セガの水口哲也氏のプロデュース作品でありドリームキャスト版とPS2版が同時にリリースされた。 近未来的ワイヤーフレームで描かれた独特の世界の中で、トランス系のBGMにあわせて、自機を操作し敵を破壊していくシューティングゲーム。敵の破壊音やワープ移動などが、すべてBGMと連動しており、まるで聴覚と視覚が一体化するような共感覚を味わうことができる。その芸術性が高く評価されている本作であるが、ボム的アイテムや、ステージボスの存在など、シューティングゲーム要素の割合は高く、水口自身も「芸術作品をつくっているつもりはない」と公言している。 |
|
これらの作品の多くは「ゲーム性とアート性の融合」を目指していたというよりも、マルチメディア時代がもたらした様々な可能性を、
ゲーム的なアプローチによって実現させたことによって、結果的にゲーム性とアート性が融合しているように見える作品と表現したほうが近いと思われる。
その点があくまでメディアアート的アプローチにこだわった岩井作品との違いである。
※ もちろん『サウンドファンタジー』とこれらの作品とでは、そもそもコンセプトが違うということは承知の上で比較している。<ゲーム性とアート性は両立するのか?> 最後に、メディアアーティスト岩井俊雄が満を持して世に送り出した『エレクトロプランクトン』の内容から推測する『サウンドファンタジー』発売中止の原因と、ゲーム性とアート性の両立について指摘しておきたい。
| 『エレクトロプランクトン』(任天堂/2005)
スコア・クリア・目的といったものはいっさい存在しないニンテンドーDS専用ソフト。10種類の電子プランクトンがタッチペンの動きやマイクの音声に反応して、それぞれのステージに合わせた様々なリアクションをするという、岩井俊雄が満を持して発表した、音と映像のメディアアート作品である。より音を楽しめるために、パッケージにはオリジナルヘッドフォンが同梱されていた。 とくに拍子や音色が絶妙に視角化された「ルミナリア」は秀逸である。 |
|
動画を見てもわかる通り『サウンドファンタジー』の面影はないが、むしろ、没入性の高いハンドヘルド型、そして直感的な操作が容易なタッチペン入力というDSの強みが、岩井の目指すメディアアート作品の方向性と非常にマッチしており、彼の実現したかったことを、SFC時代よりも数段高い次元へ昇華させた作品のようにも見える。
そう考えると、『サウンドファンタジー』が発売中止となった原因は、早すぎたのではなく、単純にSFCとの
相性が悪かっただけのように思えるのだ。
ただし芸術性が高い作品が、必ずしも商業的に成功するわけではない。『エレクトロプランクトン』もまた、その完成度のわりにヒットしたとは言いがたい作品だった。
それはビデオゲーム以前から存在した映画・漫画・アニメといったメディア作品が通って来た道でなのかもしれない。『Rez』の寸評の中でも少し述べたが、ことさらゲームに対する「芸術的」という評価は、前衛的すぎる作品、あるいは、商業的に失敗した作品に対する
エクスキューズ的な意味合いで使用されることが多かったため、ほとんどのゲームクリエイターはこの言葉を歓迎していないのだ。故に、彼らはゲーム的アプローチに固執しているとも言えるであろう。
あるいは盲信しているのかもしれない。なぜなら我々も信じているのだ。その異常なまでの全能性と、とてつもない発展力でもって、
ゲームは簡単にアートを飲み込むことができるということを。しかしそれはアートも同じことだ。アートもまた、簡単にゲームを飲み込むことができるくらい異常なまでに「何でもあり」で、とてつもない勢いであらゆるものを内包して来た。
つまり、両者は最初から融合などしないのだ。両立などありえない。そこには、どちらかがどちらかを飲み込むことでしかお互いの存在を認め合えないという
排他律しかないからだ。そう考えると『サウンドファンタジー』もゲームの土俵に立っていた時点でゲームでしかなかった。かつ、それで十分だったのだ。任天堂が求めたものは「そういうこと」だったのではあるまいか……
いずれにせよ『サウンドファンタジー』はゲーム史の徒花などではない。それはゲームとアートの排他律という難敵に挑んだ、一人のメディアアーティストの戦いの記録である。我々はこの貴重な「枯れた技術」がいつまでも保存