【モバマス】高垣楓「eye」
忘れられない光景がある。
幼少のころに見たゾンビの映画。学校帰りの茜空。初めてキスを交わしたときの彼女の顔。
それらは思い出となって僕の中で光り輝いている。
その中でひときわ輝くものがある。
藍色と碧色。二つの瞳。
それは夜眠ろうと目を瞑ったときや何気なく車を運転しているとき、ふと現れる。そして僕は考える。
あのときの彼女の瞳には僕は何色に映っていたのだろう。
希望に満ちた碧、哀しみを塗りたぐったような藍。
それとはまた別で、始まりのような白かもしれないし、終わりを告げる黒だったのかもしれない。今となってはわからない。
ただ確かに言えるのは、あのときの彼女の瞳には僕がしっかりと映っていて、僕の瞳にも彼女はしっかりと映っていた。
あれは確か春の終わりのころだった。
「プロデューサー、この後飲みに行きませんか?」
デスク仕事がひと段落つき大きく伸びをすると、それを見計らっていたかのように彼女が声をかけてきた。
僕が振り返ると彼女は右手でお猪口のポーズを作り、くいっと飲む仕草をした。つい笑ってしまう。
今日は金曜日だ。それも給料日直後の。お酒好きの彼女が僕を飲みに誘うのは当たり前といえば当たり前のことだった。
「大丈夫ですよ。もう少ししたら終わりますので、楓さんは場所の予約をお願いします」
「わかりました。高垣楓、席取りの重責担います」
彼女は今時、おじさんでも言わないようなダジャレを口にしてから、居酒屋へと予約の電話をかけ始めた。
何軒かある行きつけの店のうちの一軒が個室も空いているらしく、そこに決めた。
表通りから少し離れた場所にある隠れ家風のその店は、値段は張るけれど魚が美味しく、何より人が少ない。
アイドルとプロデューサーがお酒を酌み交わすにはもってこいの場所だった。
店のドアを開けると、顔なじみになっていた従業員の女の子が僕と楓さんに気づき、笑顔で個室まで案内してくれた。
部屋に入り、女の子からおしぼりを受け取ると、僕はビールを彼女は冷酒を注文した。
女の子はありがとうございますと伝票に名前を書きこみ、個室から出ていった。
僕はジャケットを椅子にかけ、シャツの第一ボタンを外し、ネクタイを少し緩めた。
向かい合わせに座る彼女は本日のおすすめと書かれた紙を手に取り、日本酒とビールに合う酒の肴を探し始めた。
「私って目の色が違うじゃないですか」
突然、彼女が言った。
今日のおすすめは鯛ですって、めでたいですね、とでも言うような何気ない言い方だった。僕は「はい?」と聞き返した。
「あれ?プロデューサー気づいていなかったんですか?私、瞳の色が左右で違うんですよ」
彼女はメニューをテーブルに置き、僕のほうへと身体を乗り出した。
ほら、違うでしょう?と言いたげに、藍色の瞳と碧色の瞳が僕を覗き込んできた。
二つの瞳は彼女の担当プロデューサーとして、
見慣れたものになっていたが、意識して見るのはずいぶん久しぶりのことのように思えた。
藍色と碧色。澄んだ宝石のようなその瞳は彼女と出会った日のことを思い出させた。
当時(といってもせいぜい一年くらい前の話だが)彼女はアイドルではなかった。
彼女はファッションモデルをやっていた。らしい。人気があったかどうかもわからない。
というのも僕と彼女が出会ったのは、プロデューサーとモデル、いわゆる仕事関係で出会ったわけではないからである。
それどころか、僕が最初に彼女に出会ってから彼女がモデルをしていると判明するまでには二か月くらいのラグが生じた。
場所は都会のスクランブルの中心とか夜の海といったロマンチックな場所ではなくて、平凡な居酒屋だった。
少し強面で髪の短い大将がいて、アルバイトであろう学生の女の子がいらっしゃいませと元気よく声をかけ、様々な年代の人々の笑い声が入り乱れる。
そんなどこにでもある一軒の居酒屋だった。
「冷ややっこ、イカの塩辛、大根の漬物」
カウンターに通されてすぐ、僕が頼むのとほぼ同時に、二つ席を離れた場所に座っていた女性も
「冷ややっこ、イカの塩辛、梅干し」
と頼んだ。好みの似た人だと眺めると、女性もまた僕を見ていた。
声をかけていいか決めかねていた僕に彼女が話しかけてきた。落ち着きの中にどこか茶目っ気もある声だった。
「ありがとうございます。あなたもとてもいいセンスをしていらっしゃる」
綺麗な人だった。ふんわりとしたボブカット風の髪型に、ややあどけない顔立ち。
スタイルには自信があるらしく、
薄紫色のノースリーブをあざとらしさを感じさせることもなく、とても品よく着こなしていた。
どのパーツもとても魅力的で、言ってしまえば、彼女はすごく美人だったのだが、
僕は彼女が持つパーツの中でとりわけ、瞳に惹かれた。彼女は左右で瞳の色が違っていた。
藍色と碧色。
二つの瞳は哀しみと希望、過去と未来、様々なものを映しているように思えた。
彼女の瞳のどこにそんなに惹かれる部分があるのか、合理的に説明することは出来ないが、
この二つの瞳が彼女の持つ魅力の一番の要因だと僕はすぐに感じ取った。
僕の隣に席を移動して彼女が聞いた。
「はい、そうです。あなたもですか?」
「えぇ。そうです」
彼女が頷くと、カウンター越しに料理が届けられ、僕たちはそれを肴に他愛ない話をした。
「ここのお店は魚も美味しいんですよ」
「そうなんですか。何かおすすめありますか?」
「焼き魚ならほっけで、刺身ならアジですね。味がいいです」
僕はさっそくアジの刺身を注文し、それが届くと、彼女に一切れ勧めた。
「いいんですか?」
「もちろん。アジもあなたみたいな美人に食べてもらえた方が本望ですよ」
「なかなか味なことをいいますね」
彼女はありがとうございますと礼を言ってから、アジを食べた。
「このぷりぷりの食感がアジの醍醐味ですね」
頬に左手を添えながら、嬉しそうに彼女が言った。
それからも僕たちはお酒を合わせる機会があった。
僕が店にいくと彼女はいつもそこにいた。
毎日、この店でお酒を飲んでいるのか、それとも僕がこの店に来ることを予感して、僕を待っているのか、
もしくは僕と彼女のお酒を飲みたいと思う周期が同じなのか、
どれが正しいのかわからないが、僕が店に入ると彼女は決まってカウンターの端っこに座っていて、
梅干しと他、数品の料理を肴に冷酒を飲んでいた。
そして僕の姿を見つけると、おつかれさまですと微笑み、手招きをして僕を横に呼んだ。
「自己紹介でもしましょう」
何回目かの飲みのときに彼女が言った。
うだるように暑い夏の日だった。いつも冷酒の彼女が珍しくビールを飲んでいた。
「えぇ。私たち、何度も顔を合わせているのにお互いの事全く知らないじゃないですか。
呼び名もあなたですし。それにそろそろ新しいおつまみが欲しいかなって」
なるほどと僕は言って、自己紹介を始めた。
名前を名乗り、出身地を告げ、大学を出て、アイドル事務所のプロデューサーになり、今もその仕事を続けていると話した。
僕が言うと、彼女は合コンとかで出会う一般的な同年代の女性と同じように、少し目を見開いて驚いてみせた。
「アイドル事務所のプロデューサーなんですか?」
「えぇ、一応。担当のアイドルはいませんけどね」
僕はポケットから名刺入れを取り出し、名刺を彼女に手渡した。
「うちの事務所には他にもプロデューサーはいるんですけど、
担当するアイドルがいないプロデューサーは僕だけですね。おかげで毎日事務仕事の手伝いをさせられてますよ」
「事務仕事メインなのにどうしてプロデューサーをやっているんですか?」
「ここだけの話、アイドル事務所のプロデューサーは給料がそこそこいいんです。
自分が採用された場所で一番よい給料を出してくれるのがこの会社だったってだけです」
僕が言うと、彼女は眉間にしわを寄せ、首をひねった。
僕の言っていることはわかったけど、考えは理解できないと言いたげな表情だった。
「……どうして担当のアイドルはいないんですか?」
「うちの事務所は割と特殊で、プロデューサー自身がプロデュースするアイドルを自分で選ぶんですよ。それこそ街中とかでスカウトしたりするんです」
「つまり気になる子に出会えなかったと」
「そういうことですね」
受け取った名刺を彼女は持ち上げたりして、いろんな角度から覗き込んだ。
僕の名前と事務所の名前しか書かれていない名刺に何をそんなに見るところがあるのか僕にはわからなかった。
ひょっとしたら二つの瞳には本当に僕とは違うものが見えているのかもしれないし、
どんなくだらないことでも面白く感じる酔っ払い特有の症状が出ているだけなのかもしれない。
彼女がその行為を繰り返す様子を、僕はビールを飲みながら黙って見ていた。
彼女の表情はコロコロ変わった。
名刺を遠ざけたり近づけたりして見る様子は、宝物を探す無邪気な子供のようにも、自分の未来を占おうとする占い師のようにも見えた。
しばらくして何か見えたのか、彼女は名刺をテーブルの上に置き、言った。
「じゃあ私がアイドルになりましょうか?」
思いがけない言葉に僕はそう訊き返した。僕をからかうだけのつもりで言っているのか、
それとも本気なのか、彼女の微笑みから真意は見えてこなかった。
誤作動を起こしたロボットのように止まってしまった僕に対して、「はい」と彼女は頷いた。
「それとも私ではPさんの目にはかなわないでしょうか?」
彼女は簡単な自己紹介を始めた。高垣楓。25歳。出身は和歌山で、好きな食べ物は梅干し。職業はモデルをやっている。
「25歳」と僕は呟いた。
僕よりも少し年上だった。
年齢を言われるまで彼女は20代前半にも20代後半にも見えていたが、
25歳と言われると、それはそれでしっくりと落ち着いた。
「えぇ、25歳です」と彼女は頷いた。「やっぱり25歳だと年齢的に厳しいですか?」
「そんなことはないです。うちの事務所には20代や30代の方もたくさんいるので。ただですね」
「はい?」
「僕としては高垣さんがアイドルになってくれるのはとても魅力的な案なんですけど、高垣さんはそれでいいんですか?
モデルをされているって言っていましたし、それにアイドルは確実に成功する職業じゃないので」
僕は給料の話を始める。プロデューサーは基本給があるが、アイドルにはない。
完全出来高制で、ひと月に信じられない額を稼ぐアイドルもいるが、逆も然り。
生活出来なくなってアルバイトをしながら生計を立てる子や辞める子も多い。
彼女は子供のように混じりけのない瞳で僕を見つめていた。僕の話をまるで聞いていなかった。
僕は今までに事務仕事を手伝う傍ら、よく新人のアイドルの子に給料の説明をする機会があった。
彼女たちは大きく分けて二つのパターンに分類された。
言ってしまえば、お金儲けをしたくてアイドルを目指す子と純粋にアイドルになりたい子。
前者ほど僕の話をよく聞いて、後者は僕の話を聞き流す傾向が強かった。
彼女はパターンだけで分類するなら後者のパターンに当てはまるのだが、おそらく違うなと僕は直感で感じていた。
彼女はアイドルのことにもお金のことにもあまり興味がないようだった。
事務所には僕以外にもプロデューサーがたくさんいて、みんな僕より優れている。
「高垣さんならみんな担当したいと思いますよ」と僕は言った。
彼女は年相応の大人らしく、礼儀正しく、優雅に首を振った。
「あなたじゃないとだめなんです」
彼女は梅干しを一粒口に運び、そして何かを確かめるように僕を見た。
僕の深くを覗き込み、また僕を深くまで引きこんでしまいそうな瞳だった。瞳の中の僕はどこか緊張していた。
しばらくすると彼女は両目を閉じ、それからまた時間をかけて、ゆっくりと瞳を開いた。
「Pさん。私をアイドルにしてくれますか」
「プロデューサー?聞いてますか?」
彼女の声で我に返った。
「あぁ、すみません。楓さんと出会った時のことを思い出してました」
「私と出会った日のことですか?」
「えぇ。今になって思い返すと、楓さんはあの当時からダジャレをよく口にしていたんだなぁって」
彼女はダジャレを好み、そして何より歌がとびぬけて上手だった。
それはアイドル活動をやる上でとても強力な武器になった。
普段はくだらないダジャレとお酒の事しか飛び出さない口から信じられないくらい上手な歌が歌われる。
世間が彼女の虜になるのはあっという間のことだった。
僕はというと特に何もしていない。彼女のスカウト前後で変わったのは、
仕事内容が事務処理から彼女のスケジュール管理に変わったことと飲みにいく回数が大きく増えたくらいだった。
僕が何もしなくても彼女はアイドル街道を万進していき、
デビュー当初、ダジャレおばさんと呼ばれていた何とも情けないあだ名は、
今や『世紀末歌姫』と、多くのアイドル達の憧れの的となっている。
「すいません。あまりにもクオリティが低かったので気づきませんでした」
「泣いちゃいますよ?」
ぐすんと両手を目の下に添え、彼女はいかにもな泣くふりをした。
「冗談ですよ。それで?目の色がどうかしたんですか?」
「そうでした。実はですね。この二つの瞳には異なる二つのものが映るんです」
本日二度目の思いがけない言葉に僕は「はい?」と再び聞き返した。
「すみません。突然、変なことを言って。でも本当なんです。
さっきプロデューサーは私と出会ったときの話を思い出したって言いましたよね」
えぇと僕は頷いた。
私の右目にはモデル時代の友達やマネージャーの顔が映っていました。そして左目にはプロデューサーが映りました」
楓さんは左手の人差し指で自分の藍色の瞳を指さした。
「この瞳です。ここに映ったんです。前からこういうことはたまにありました。
だからあの時も私は驚きませんでした。
いつもと同じように目を瞑り、再び目を開けたときに、より輝いている方を選べばいいだけでした」
「つまりあのときは僕の方が輝いていたと」
「そういうことです」
彼女が頷くと、扉がこんこんと叩かれ、女の子がビールと冷酒を運んできた。
ご注文は?と尋ねる女の子に、僕はいくつか適当に頼もうとしたが、彼女が遮った。
今は悩んでいるから決まり次第呼びますね、と彼女のいつもとは異なる様子の返答に、
女の子は軽く首を捻ってから、笑顔を作り、部屋を出ていった。
「話を続けますね」
乾杯の音頭もとらずに彼女は話を再開した。
光る方を選べばいいだけですから。私は今まで光る方を選んで後悔したことがありません。
きっと神様が教えてくれているんだと思います。こっちを選べばいいんだよって。
ですが、ごく稀に厄介なことが起こるんです」
「厄介なこと?」と僕は聞いた。
「両目に二つのものが映ります。そして私は目を瞑ります。ここまでは同じです。
ですが、目を開けたとき、二つのものが同じくらいの強さで光っているときがあるんです」
彼女は手酌でお猪口に冷酒を注ぎ、そのまま一気に飲み干した。
「神様が、どちらを選んでも大差はないよ、もしくは、これはあなた自身が決めなさい、
と言っているのかもしれません。けれど私はこういうときに答えを選ぶことが出来ません。
どちらか一つが少しでも強く光っていないか、微細にじっくり考えますし、
それでもわからないときは、もう一度目を閉じ、そして答えを出すことを諦めます。
適当にどちらか一つを選んでしまうこともありましたが、その選択はどんな些細な物でも、私の中に強く残りました。
本当にこっちでよかったのだろうかと。それはとても疲れることでした。
ですから大抵の場合、私は二つともを諦めてきました。
幸い、今までにそんなに大きな選択は来ませんでしたから、諦めても何か問題が生じることはありませんでした。
そう思うと、神様はやはり、どちらを選んでも大差はないよ、と言ってくれているのかもしれませんね」
ありがとうございますと言って、お猪口を傾ける彼女に僕は尋ねた。
「それで?」
「はい?」
「どうしてこの話を今したんですか?何か光りましたか?」
「あぁ、そうでした。これを見てください」
彼女はお品書きと書かれた紙を僕に向け、その中から、イカの塩辛とたこわさを指さした。
「私には今この二つが同じくらいの輝きを放っているんです」
やれやれと僕はため息をはいた。
「すごく重大なことだと身構えた僕がバカみたいですよ」
「私にとっては重大なことなんです」
彼女は口を膨らませた。
「そうなんです」
彼女は膨らませていた口をしゅんとさせた。お預けをくらった犬のようだった。
僕はメニューに書かれた二つを見比べてから、「じゃあたこわさにしましょう」と言った。
彼女はしょんぼりしていた顔を上げ、驚いたように僕を見た。
「それはどうしてですか」
「僕が今日はたこわさを食べたい気分なんです。いけませんか」
「そんなことはないですけど」
僕は店員を呼び、たこわさと他、数種類のおつまみ、
そして冷酒のおかわりとお猪口をもう一つつけてもらえるよう頼んだ。
注文を終えてからも彼女はおすすめの紙を見つめていた。
たこわさと塩辛がまだ光り続けているのかもしれないし、それとは別の何かが光り始めたのかもしれなかった。
彼女は目を擦ったり、瞬きを何度も繰り返し、紙を見つめていた。
僕はその様子をビールをちびちび飲みながら見つめ、
そんなに見つめられたら紙が照れて赤くなってしまうのではないか、とくだらないことを考えていた。
僕たちは乾杯をして、まず初めにたこわさを食べた。わさびの鼻を抜けるつんとした感覚で、ふと思った。
「今更なんですけど」
「はい?」
「たこわさと塩辛、両方頼めばよかったんじゃないですか?」
「似た味なのにですか?」
「どちらか二つで悩んでいるなら、二つともとればいいって話です」
彼女は首を横にふった。
「私もそれは考えました。でもダメだったんです。二つともを取ろうとすると、神様が怒ってくるんです。
それは欲張りだって。過去に私は強欲にも二つのうち両方を選んだことが何回かありました。
すると少し経って、ほぼ確実と言っていいほど私は不幸に見合われました」
「不幸ですか?」
「はい」と彼女は頷いた。「ときには食べ過ぎでお腹が苦しくなり、ときには二日酔いで頭が痛くなりました」
「でしょう?」と彼女はくすくす笑った。物憂げな表情は跡形もなく消えていた。
僕がたこわさの入った皿を彼女の方へとやると、彼女はありがとうございますと言って、たこわさを食べた。
「今日はプロデューサーと一緒に来れてよかったです」
「どうしてですか?」
「だって私一人だとこれ食べられなかったですし」
そう言うと彼女はたこわさをもう一口食べた。
「その分、値段がたこー付くんですけどね」と言う彼女はすごく上機嫌だった。
その日から彼女はよく瞳の話をするようになった。彼女の瞳には様々なものが映った。
例えば、モバマス屋の大将の顔と居酒屋デレステの女の子の顔。
僕がキーボードを叩き、スケジュールの調整をしていると
レッスン終わりの彼女がてくてくと歩いてきて、「映りました」と僕の肩を叩いた。
「何が映ったんですか」
「私の右目にはモバマス屋の大将の顔が。後ろにだし巻きやキムチが映っています。
左目には居酒屋デレステの女の子の顔が。こちらはなんとポテトサラダと揚げ出しです」
どうしますかと笑顔で僕の顔を覗き込む彼女に僕はやれやれとため息を吐いた。
例えば、左右別れた道の右と左。
テレビ局での仕事を終え、事務所に戻ろうとすると彼女がこの付近を少し歩きたいというので二人で歩いた。
緑豊かな並木通りから一本離れた裏道を彼女は文字通り、踊るように歩いた。
春の優しい日差しが彼女に降り注ぎ、鳥たちが彼女に讃美歌を贈った。
表通りに負けない華やかさがそこにはあった。
道の行き止まり、左右別れた道に着くと、彼女は踊ることをやめ、僕の方へと振り返った。
「映りました」
「何が映ったんですか」
「私の右目には右の道が。遠くに何やら定食屋さんみたいなのも確認できます。
私の左目には左の道が。こちらは特に何も見えませんが、もっと遠くまで歩くと何かあるかもしれません」
どうしますかと彼女は笑顔で僕の顔を覗き込んだ。
仕事中や仕事終わりに「映りました」と彼女は言う。
僕は「何が映ったんですか」と藍色と碧色に映ったものをそれぞれ聞き、どちらか一つを選んだ。
「モバマス屋にしましょう。今日はあそこのだし巻きが食べたい気分なんです」
「左にしましょう。左の方が日影が多い」
たまに、彼女の瞳に映ったものが僕を困らせることがあった。
例えば、会議前日の飲みの誘い。
例えば、姉にするとしたら私かちひろさん、どっちがいいかという、
どれを選んでも爆発してしまうマインスイーパーのような質問。
僕が答えに詰まってしまうと、彼女は頬を膨らませ、いかにも怒っています風の表情を作った。
「優柔不断な男の人はモテませんよ」と彼女は言った。
僕は本当に選ばないとだめか何度かきいて、最終的にはいつも、彼女が喜ぶであろう答え、を選んだ。
彼女の瞳の中で本当に二つのものが光って映っているのかは、僕にはわからない。
誰も他の人が見ているものと同じものを見ることは出来ない。想像するしかない。
僕は彼女の瞳の中で二つのものが同じ輝きで映ったのは、
僕が彼女をアイドルにスカウトしたときと瞳の話が出た居酒屋のときだけだと思っている。
最近の彼女は笑いながら瞳の話をする。
選択肢を出して、僕を困らせるのを楽しんでいるふしがある。
たこわさと塩辛で悩んでいたときの彼女はどこか困ったような哀しげな表情を浮かべていた。
じめじめとした梅雨の始まりの中で、一日だけ夏休みを先取りしたような暑い日だった。
「買い物に行きたいんですけれど」
歌番組の収録を終え、車のエンジンをかけると助手席に座った彼女が言った。
僕は手帳をぺらぺらめくり今日の日付のところを確認する。お互い、これといって重要な予定は入っていない。
「わかりました。送っていきますよ」
僕が言うと、彼女は首を小さく横に振った。
「ダメなんです。プロデューサーも来てくれないと」
「僕ですか?」
「はい」
彼女にしては珍しい、断定的な言い方だった。わかりましたと僕は言って、アクセルを踏み込んだ。
彼女が指定した場所は一流の百貨店だった。
宝石、化粧品、女性服。
彼女はそれらに目を向けることもなく、エスカレーターを駆け上がり、紳士服コーナーの階層で足を止めた。
「ここですか?」
彼女ははいと頷いた。
「知人に贈るネクタイを探しているのです」
彼女のひとことに僕は少し動揺した。
女性から男性にネクタイを贈る。その行為は親しい間柄の関係で行われるものだと僕は思っている。
知人に贈ると彼女は言った。お父さんに贈るならそういった言い方はしないだろう。
「それにどうして僕が必要なんですか?」
一番聞きたいことは聞けなかった。
僕がプロデューサーだからという理由だけで、
彼女と知人の関係を詳しく聞く権利が僕にあるのかわからなかった。彼女が言った。
「その人、プロデューサーと体格が似てるんです」
彼女が気になるネクタイを見つけるたび、僕は全身鏡の前に呼びだされた。
自分でつけれますと断る僕はおかまいなしに、彼女はネクタイをつけてくれた。
女性特有の柔らかい匂いが立ち込めて、そのたびに僕は彼女から視線を逸らした。
ネクタイを選んでいる間、彼女はお酒を飲んでいるときのように、にっこりと笑っていた。
一方で僕はさながらマネキンのように立っていた。
プロデューサーであるという理性と知人のことを少し羨ましく思う感情が僕の中で混ざりあって、
鏡に映る僕は何ともいえない複雑な表情で僕を見返していた。
フロアを一周すると彼女は「やっぱりあそこのお店のネクタイが一番似合っていました」と言って、僕の手を引いた。
彼女の手は夏の始まりを感じさせないほどひんやりとしていた。僕は言われるがままに引っ張られた。
退屈そうに店番をしていた店員は僕たちの再訪を快く迎え入れてくれた。
愛想よく店員をあしらうと、彼女は二つのネクタイを持ってきた。少し明るめの緑色と落ち着いた紺色だった。
鏡の前に僕を立たせ、緑と紺を繰り返し巻いた。
彼女の答えはなかなか出なかった。僕の首に何度もネクタイを巻くにつれ、
鏡に映る彼女の表情は楽しげなものから真剣なものへ、そして最終的には少し疲れたような表情へと変わっていった。
「僕ではなくて、知り合いに似合うものを選ぶんでしょう」
「そうでした。でも構わないんです。プロデューサーに似合うもので、その人は本当にプロデューサーさんに似ていますので」
「いっそのこと両方買えばいいじゃないですか」と複雑な気持ちを抱えたまま僕は言った。
「特別なものにしたいんです。
二つあげると特別感がなくなりそうですし、贈り物で二つも三つもって図々しい感じがしませんか」
「そういうものですか」
「そういうものなんです」
彼女はすらっとした身体を少し曲げて、上目遣いで鏡の中の僕に訊ねた。
「プロデューサーは」
「はい?」
「プロデューサーならどっちのネクタイを選びますか」
「僕ですか」
「はい。プロデューサーだったら、どっちのネクタイを贈られると嬉しいですか」
先ほどまでよりも慎重な巻き方だった。
彼女の細くて白い指は小さく震えていて手つきはぎこちなかった。
彼女はどこか緊張しているようで、その緊張が僕にも伝播した。
僕はマネキンであることをやめ、しばらく鏡の中の自分と向きあった。
魂を吹き込まれた人形はそれでもやはり、複雑そうに僕を見返していた。
紺のネクタイを巻き終えると「どうですか?」と彼女は僕に訪ねた。
「どうと言われても」と僕は言った。「まだ紺の方しかつけていないので何とも言えないですね」
「それもそうですね。でもしっかり見ておいてください。
プロデューサーが貰うものだと思って真剣に吟味してください」
「どうですか?」
僕は少し考えてから言った。
「紺にしましょう」
「紺ですか」
「えぇ」
「理由を聞いてもいいですか」
「緑色は少し明るすぎて目立ってしまいますし、着ける機会を限られそうです。
紺だと地味ですが、毎日つけることが出来ます。無難なものの方が僕は好きです」
鏡の中の彼女は静かにゆっくりと瞳を閉じて、それからまたゆっくりと目を開けた。
「わかりました。では紺にします。
プロデューサー、選んでくれてありがとうございました。会計してきますね」
彼女は紺色のネクタイを大切そうに抱え、レジへとかけて行った。
先ほどまで浮かべていた不安げな表情は淀みなく消えていた。
僕は軽く頭を掻きながら、財布やらキーホルダーといった小物を見て、彼女の会計が終わるまでの時間を潰した。
買い物を終え、車に戻っても彼女は笑顔のままだった。
ラッピングされたプレゼントを胸に大切に抱えながら、「ネクタイを贈りタイ」とかなんとか口ずさんでいた。
僕はそのたびに適当に相槌をうち、頭の中に浮かぶモヤを追い払うようにアクセルを少し踏み込んだ。
車が彼女の住むマンションにつくころになってようやく、
これでもかというくらいに青一色だった夏の空は本来の色を思い出したかのように赤く染まり始めた。
赤、青、白。空には三つの色があって、
それが空のいたるところで絵具のように混ざり合い、新しい色を生み出していた。
「映りました」
空から横へと視線を戻すと、彼女は助手席のドアを開けたまま僕の方へと振り返っていた。
小学生がえっへんとそっくり返るような、得意げな言い方だった。明らかに僕を困らせようとしている。
僕はやれやれと首を振ってから、何が映ったんですかと聞き返した。
彼女は右手の人差し指を彼女の右目に、左手の人差し指を僕へと向けた。
「どうしますか」とわざとらしく首を傾けて彼女は笑った。
彼女が笑っていたからこそ、僕はすぐに「僕にしましょう」と冗談で言い返すことができた。
彼女は僕の返事が予想よりも早かったことに驚き、目をぱちくりさせた。
「どうしてですか」
「その人には出会ったことがないからわからないですけど、僕はものを大切にする男だからです」
生暖かい夏の風が吹き込んだ。夕日が僕と彼女の間に差して、僕らを優しい色へと染めていた。
なんとも心地よいの暑さが僕たちの間に流れていた。
「ふふ」と声を漏らして、彼女は笑った。
それはいたずらを仕掛けるときのいじわるな笑みでも、
会心のダジャレをいったときの得意げな笑みでもなくて、自然とこぼれたような笑みだった。
そういって彼女は大切そうに抱きしめていた贈り物を僕に差し出した。
「えっ」と僕は戸惑いの声をあげてしまった。僕はこのとき、まさか本当に渡されるとは夢にも思っていなかった。
「だってこれは大切な人へのプレゼントなんでしょう?」
「そうです。これは大切な人へのプレゼントです」
くすくすと笑いながら彼女は続ける。
「私に仲の良い男性はいませんよ。プロデューサーだけです。
最初からプレゼントはプロデューサーに贈るつもりでした。
嘘をついたのはちょっとしたサプライズにしたかったんです。
私、とてもあなたに感謝しています。私がアイドルになってから約一年。毎日がとても楽しい日々です。
プロデューサー、私をアイドルにしてくれてありがとうございます。
私を一生懸命プロデュースしてくれてありがとうございます。お酒にも付き合ってくれてありがとうございます。
私のダジャレを……、あまり笑ってくれないのは納得できていません」
彼女は大げさに口を膨らまし、それからまた笑った。
「とにかくこれはそのお礼です。プロデューサーいつもありがとうございます。
そしてこれからもよろしくお願いしますね」
自分でつけれますと僕は言わなかった。彼女の手つきは慎重で丁寧で、手は震えていなかった。
ネクタイを結び終えると彼女は「よく似合っています」と言い残して、マンションへと駆けていった。
彼女の背中を見届けた後、僕は紺色のネクタイに触れてみた。
紺色のネクタイには彼女の思いと匂いが確かに残っていた。
手のひらや首元が汗ばんできた。
ネクタイ越しに聞こえる心臓の音がこれは夢ではなく現実だと告げていた。
やけに甘酸っぱい暑さとともに夏が始まろうとしていた。
その年の夏のことを僕は今でも鮮明に覚えている。
長い年月をかけ、ようやく土から出てきた蝉が一日で木から落ちてしまうような、
何年分もの夏を一度に取り寄せたかのような夏だった。
多くの人は連日続く猛暑日に文句を言いながら汗を拭い、
僕は多くの人と同じように汗を拭いながら、おそらく浮かれていたのだと思う。
太陽の日差し、生い茂る緑、蝉の鳴き声、そして二つの瞳を持つ彼女。
それらが相乗効果のように何重にも重なって夏を構成し、僕の身も心も焦がしていた。
このときの僕は彼女との仕事仲間とも恋人とも言えない絶妙な関係をずっと続けていけたら、
なんて考えながら毎日を過ごし、夏の暑ささえも愛おしく思っていた。
まるで炎に飛び込む虫のように。その炎が僕を飲み込んでしまうということも知らずに。
「大丈夫ですか」
そう言いながらちひろさんは僕にドリンクを手渡した。
心配そうに僕のことを伺うその様子から、
僕がいかにぼんやりとした顔でパソコンの画面に向き合っていたかがよくわかる。
「すいません、少し暑さにやられていました」
僕が言うと、ちひろさんはくすりと笑った。一言で言うとちひろさんは謎の多い女性だ。
ちひろさんの謎だけで、プロデューサー同士の間では千川ちひろ七不思議が作られるくらいである。
一つ、本人はアシスタントを自称しているが、経理や経営といった数字の分野にも明るい。
僕もよく書類のことで助けてもらっている。
一つ、いつも黄緑色の服を着ている。
「私はアシスタントで主役はアイドルの皆さんです」という割には、
アイドル衣装に負けないくらい目立つ蛍光色の制服だし、イベントごとに水着や制服などコスプレも披露している。
一つ、今、僕が飲んでいるドリンクはちひろさんが作っているという噂がある。
噂を確かめようとした先輩プロデューサーが
次の日から一切口を開かなくなったことから、この件は闇に葬られることになった。
アイドルのみんながいるときはだらけきってはダメですよ。
きっとプロデューサーさんはそんなヘマしないと思いますけど。特に楓さんの前だと」
いきなり彼女の名前が出たことに僕は思わず咳き込んだ。
「どうして楓さんなんですか」
「どうしてって言われましても」
ちひろさんは笑みを保ったまま、僕のネクタイを指さした。
「それ楓さんからのプレゼントですよね」
「どうしてわかったんですか」
「どうしてって言われましても……。
楓さんと買いものに行ってきたと言った次の日から毎日そのネクタイをつけていますし、
楓さんも事務所に来て、プロデューサーさんに挨拶するとき、
ネクタイをちらっと見てから嬉しそうに挨拶してますし。それに」
「わかりました。もういいです。まいりました」
初めて出会ったときから僕はちひろさんになぜか頭が上がらない。
ちひろさんの笑みには従わざるをえないような不思議な力強さがあった。
「どうとは?」
「楓さんとお付き合いしてるんですか?」
「まさか」と僕は首を振った。「どこの世界にアイドルと恋をするプロデューサーがいるんです」
「でも」と言ってから、ちひろさんは周りを慎重に見渡し。僕に半歩近づいた。そしてひそひそと話し始めた。
「少し前にアイドルを引退したスズメちゃん、いたじゃないですか」
「えぇ」
目立つような子ではないが、それでも笑顔や纏っている雰囲気や振る舞いから、
この子は良い子だと伝わってくるような女の子だった。
「あの子、担当プロデューサーさんとお付き合いされていましたよ」
「それに今在籍している子だとカラスちゃんと先輩Pさん。
ばれないようにしているつもりですが、あの二人も付き合ってますね」
「はぁ」と僕は言った。「それで、ちひろさんは止めないんですか」
「止める?どうしてですか?」
「だってアイドルとプロデューサーの恋愛なんて事務所としてはまずいんじゃないですか」
ちひろさんは心底つまらないものを見る目で僕を見た。
「確かに事務所的にはまずいですけど、そんなことはみんなわかっています。
恋をしているアイドルとプロデューサーもです。ここまで大丈夫ですか?」
「えぇ」
「まずいとわかっていても止められない。それが恋というものです。
人間、頭でわかっていることは止められても、心で思っていることは止められないんです。
それを一人のしがないアシスタントが止めることが出来ますか。
アイドルとプロデューサーなので別れてくださいなんて言えますか」
「僕がアシスタントなら言えないですね」
「でしょう」とちひろさんは肩を落とした。他の人の目がなくなると気が抜けるのは僕だけではないらしい。
「飲みますか」と僕が飲みかけのドリンクを差し出すと、ちひろさんは表情を少し緩めた
「はい?」
「結局、プロデューサーさんと楓さんは付き合っているんですか」
「付き合ってませんよ」
「本当ですか」
「えぇ」
「じゃあ楓さんのことは好きなんですか」
「好きですよ」と僕は言った。
「とても魅力的だと思います。あんな人をプロデュースできるなんてプロデューサー冥利につきますよ」
ちひろさんは「そうじゃなくて」と首を振り、これ見よがしに、もう一度大きくため息をついた。
「私が聞きたいのは愛してるかどうかです」
僕の携帯が鳴ったのは、仕事を終え、帰るための荷造りをしているときだった。
知らない番号からだったので恐る恐る出てみると、女の子の声で「モバマス屋です」と名乗った。
「Pさんの番号で間違いないですか?」
「はい。そうです。どうかしましたか」
「それがですね。よくご一緒に来ていただいている高垣さんがですね。今日は一人で来ているんですけど」
「高垣がどうかしましたか」
「はい。すごいペースでお酒を飲まれて、そのままカウンターで寝てしまったんです」
「楓さんがですか」
僕の反応とは対照的に女の子は短く、冷静に、はいと答えた。
「連絡すべきか悩んだんですけど、一応しといた方がいいかなと思いまして。高垣さんはトップアイドルですし」
。
これからそちらに向かう。楓さんに声をかけてくる人がいないか注意してほしい、
と伝え、電話を切った。そして急いで荷物をまとめ、事務所を飛び出し、タクシーを拾った。
タクシーの中、僕は楓さん、と彼女の身を案じた。
彼女とお酒を飲むことはよくあったが、彼女が泥酔しているのを見たことはなかった。
彼女はいつも楽しそうにお酒を飲んでいた。
そんな彼女が居酒屋で泥酔して眠っている。
一体、彼女に何があったのだろう。
窓の外では世界のコアのような、マグマのように朱い太陽が街を薄いオレンジ色に染めていた。
もうすぐ陽は落ち、夜の帳が下りてくる。
それはとてもきれいな景色のはずなのに、これから起こる何かを表しているようで、僕の不安は色濃くなった。
店の前に着くと僕は運転手にここまでの料金を払い、
この後も利用するつもりだから近くで待っていてほしいと運転手に頼んだ。
運転手はわかったよと静かに頷いた。
店のドアを開け、中に入るとカウンター席の端っこに小さくなっている彼女の姿を見つけた。
僕は駆け寄り「楓さん」と声をかけた。
反応がなかったので、僕は彼女の肩を少し強く揺すりながら、もう一度「楓さん」と呼びかけた。
「プロデューサー」と呟いて、彼女は目を開けた。顔は赤く、吐息からは大量のお酒の匂いがした。
「はい。プロデューサーです。迎えに来ました。帰りましょう」
肩を貸そうとしゃがみ込み、彼女の目線に僕の目線を合わせた。
彼女は僕と目が合うとすぐに視線を逸らし、再び机に突っ伏した。
「家に帰りたくありません。一人になりたくないんです。
考えたくないんです。お酒を飲んで、酔っ払って、考える余地もなく眠りにつきたいんです」
「それはどうしてですか」と僕は優しく聞いた。彼女はそれに答えようとしなかった。
代わりに、零すように呟いた。
「どうして、どうして迎えにきたんですか」
「店の女の子から連絡があったんです。楓さんが寝ているって」
「そうじゃないです」
「はい?」
「どうして私が酔って寝てしまっただけでプロデューサーがくるんですか」
「どうしてって言われましても」
「私がアイドルであなたがプロデューサーだからですか」
「違いますよ」と僕は首を振った。「楓さんが心配だったからです」
「心配ですか」
「えぇ。帰りましょう、楓さん。これ以上僕を心配させないでください」
二つの瞳は潤んでいた。
それはまるでずっと眠っていたかった眠り姫が王子様のキスで無理やり起こされてしまったような、
自分の未来が見えなかった占い師のような、哀しい表情だった。
「わかりました」
弱々しく彼女は頷いて、僕の手をとった。
僕は彼女の手を引きながら、勘定をし、店のすぐ近くで待っていたタクシーに彼女を乗せた。
そして運転手に彼女のマンションの住所を告げた。
タクシーが走り始めると「少し眠りますね」と横で彼女が呟いた。
「わかりました。気分が悪くなったらすぐに言ってください」
彼女が瞳を閉じたのを確認してから、僕は窓の外に視線を向けた。
見上げると太陽はすっかり消えていて、真っ暗な闇が夜空一面を黒く染めていた。
月や星がきらきらと空のどこかで輝いているはずなのに、僕はそれを見つけることが出来なかった。
「プロデューサー」と彼女の声がした。
振り返ると彼女は先ほど見せたときと同じような哀しい表情で僕を見ていた。
「眠れません。肩かしてもらってもいいですか」
「えっ、でも」
彼女の言葉に僕はたじろいだ。
真っ暗な夜空の下、照明が灯るタクシーの中はいささか明るすぎる気がした。
人に見られたらまずいです、そう言おうとして、遮られた。
「お願いです」
彼女は僕の手を握り、すがるように僕を見た。手は冷たく、握る力は弱かった。
さながらガラス細工のようなその手を僕は払うことができなかった。
「わかりました」
僕たちはまるで、付き合いたての恋人たちが初めて手を握るときのように、半歩ずつお互い距離をつめた。
彼女は新しい枕の使い心地を確かめるように、慎重にぎこちなく僕の肩に頭を乗せた。
アルコールと彼女の匂いがした。なんて軽い身体なのだろうと僕は思った。
「おやすみなさい。楓さん」と僕は言って、彼女が少しでも眠れるようにと、強張っていた肩の力を抜いた。
目を開けていると、運転手、街灯の光、夜の暗さ、
それらが僕を咎めるように見ている気がして、僕は彼女の後を追うように瞳をとじた。
瞳をとじてすぐ、僕は彼女が眠っていないことに気づいた。
彼女は微かに震えていた。握る手の力は張りつめられていて、一定の弱さを保っていた。
僕は自分の右手に少しだけ力を込めた。微かな震えが止まった。
冷たい彼女の左手は僕の熱が伝わり、少しだけ暖かくなった。
じんわりと僕の手のひらが汗ばみ始めた。それでも手を離すわけにはいかなかった。
どれくらい経ったのかはわからない。
それはほんの数分の出来事のようにも思えたし、数十分単位のことのようにも思えた。
この手の熱さが僕のものか彼女のものかわからなくなった頃、彼女は再び震え始めた。
どんなに強く手を握っても、震えは止まらなかった。
僕は彼女と同じように眠ったふりを続けた。
眠ったふりをしながら、手を強く握り、彼女の震えを受け止め続けた。
ふいに僕の肩に何かが落ちた。
人肌と同じくらいの熱さのそれは僕には全然馴染まなくて、哀しいものだということしか僕にはわからなかった。
運転手の声で僕は目を開けた。隣の彼女はまだ眠ったふりを続けていた。
「楓さん、着きましたよ。起きてください」
僕が左手で優しく彼女の肩を叩いて、ようやく彼女は瞳を開けた。
そしてあたかも眠っていたかのように小さく伸びをした。
「おはようございます。楓さん」
「おはようございます」
「よく眠れましたか」
彼女は弱々しく笑ってみせた。
「えぇとても」
ここで降りるのは彼女だけで料金は僕が降りるときにまとめて払うと言うと、運転手は不思議そうに僕を見た。
視線の先で僕の右手は彼女の左手と繋がれたままだった。
どうすればすんなり離れたものかと、それとなく力を抜いてみると、いっそ強く握られた。
「話があります」と彼女は言った。
「それは今、話さないといけないことですか」
「はい」と彼女は静かに頷いた。「大事な話です」
「大事な話ですか」
彼女の言葉を僕は繰り返した。
今日の彼女の様子から、これから語られるのは間違いなく大事な話で、
そして間違いなく哀しい話だということはすぐに理解できた。
アイドルとプロデューサーだから家に入ることはできません。また事務所で話しましょう、
と僕は言えなかった。お互いそんなことはわかっている。
彼女は今にも泣きだしそうな表情で僕の右手を握っている。
この手を今ここで離してしまえば、それこそ彼女と僕の関係はガラスが割れるように粉々に壊れてしまう気がした。
「わかりました」
こんな美人とお泊りなのになんでこいつは楽しくなさそうなんだと言いたげな顔だった。
領収書はと聞かれたので、いらないと答えた。運転手はますます首をひねった。
首をひねりながらハンドルを回し、タクシーは夜の中へと消えていった。
風は吹いていなくて、夏特有の蒸し暑さが僕の身体にべっとりとまとわりついた。
嫌な暑さだった。彼女は僕の汗に気づいたかのように僕の方へと身を寄せた。
「行きましょう」
彼女が言って、僕は頷いた。手は繋がれたままだった。繋いだまま、彼女の部屋を目指した。
彼女の部屋に着くまで僕たちは言葉を交わさなかった。
彼女の身体は冷たいままで、僕の身体はどんどん熱を帯びていった。
彼女はおそらく、これから紡ぐ言葉の整理をしていて、僕はただただ緊張していた。
部屋に着くと彼女は片手で器用に鞄から鍵を出し、扉を開けた。
部屋に入り、靴を脱ごうとして、そこでようやく手は離れた。
彼女の部屋は25歳の一人暮らしの女性が住むにしては少しだけ広いワンルームで、
トップアイドルが住むにしてはかなり質素な部屋だった。
「どうぞご自由にくつろいでください」
彼女はそう言うとそのままベッドへと倒れ込んだ。ぽすんと軽い音をたてベッドは揺れた。
そのまま立っているのも変で、かといって彼女のベッドに腰掛けるわけにもいかず、
僕は白いカーペットの上に腰を下ろした。
「それで」と僕は言った。「話って何ですか」
ベッドの上で動かなくなっていた彼女はごろんとこちらに振り返った。
僕を見下ろしたまま彼女が言った。
「その前にシャワー浴びてきます。少し気分を落ち着かせたいんです。
家の物は勝手に使って大丈夫です。冷蔵庫に冷えた飲み物があると思うので、それもお好きにどうぞ」
シャワーの音が流れ始めるのを聞いて、僕は腰をあげた。
薄めのジャケットをカーペットの上に置き、ネクタイを緩めながらキッチンに向かった。
ビールと簡単なおつまみしか入っていない冷蔵庫からビールを一缶取って、
それを飲みながら彼女が出てくるのを待った。
彼女の部屋は物が少なかった。お酒やグラスはそこそこ種類があったが、
目に見える雑貨は数えられるくらいしかなかった。
本棚に数冊の本とCDが入っているだけで、あとは生活に必要な最小限のものだけを取り揃えているようだった。
シャワーの音は一向に止まなかった。
それはついこないだまで続いていた梅雨の季節を思い出させた。
終わりの来ないじめじめとした雨の音は僕の不安な気持ちをいっそう煽った。
ビールを飲み干すと手持無沙汰になってしまったので、僕は本棚へと手を伸ばした。
差し色のコツ。簡単で美味しいおつまみレシピ50選。瑞樹のアンチエイジング。
本棚には様々なジャンルの本が並べられていたが、これといって僕の興味をひくものはなかった。
仕方なく、おつまみレシピをとってみたけれど、
この場で読む本にはふさわしくないように思えて、数ページでとじた。
本を探しているときに倒してしまったのかもしれない
となんとなく考えて、軽い気持ちで写真立てを飾り直した。
ライブ直後の一枚だろう。シンプルな白いデザインの枠の中で、
彼女は他のアイドル達とともに笑顔でピースを送っていた。
「何をしているんですか」
不意に背中に声をかけられた。気づけば、シャワーの音は止んでいた。
振り返ると地味な部屋着姿の彼女が立っていた。
「その写真」と彼女が言った。僕は写真立てに触れていた手をさっと離して、すいませんと謝った。
「時間つぶしにと本を探していたときに倒してしまったみたいで」
彼女は違うんですと首を振った。
「それは私が伏せていたんです」
「どうして伏せたんです?こんなに素敵な写真なのに」
「見たくないからです」と彼女は答えた。
「どうして見たくないんですか」
彼女が言った。
「映りました」
彼女もまた、まるで明日世界が終わることを一人だけ知ってしまったかのように、小さく震えていた。
伏せられた写真立て。居酒屋での僕への反応。
彼女の瞳に映ったものが僕にも少し見えた気がした。
映りましたと僕を困らせて笑っていた彼女の笑顔が脳裏に浮かんだ。
目の前の彼女は笑っていないのに、これから彼女が告げる選択が今までで一番僕を困らせる。
そんな確信のようなものがあった。言葉が出てこなかった。
僕は自分の胸を強くおした。緩めたはずの紺のネクタイが僕の胸の奥を締め付けていた。
何度も何度も胸をおして、ようやく僕はその言葉を吐きだした。
「何が映ったんですか」
彼女は右手で本棚の上の写真立てを、そして左手で僕を指さした。
「アイドルとプロデューサーです」
沈黙が続いた。世界中のありとあらゆるものが意図して作ったかのような静寂だった。
クーラーの音も外の虫も鳴りを潜めていた。
作品のような静寂の中、僕は言葉の重みを測るように彼女の言葉を繰り返した。
アイドルとプロデューサー。
それ以外の言葉は出てこなかった。
僕たちの間に生じた何かを埋め合わせる言葉を僕は持っていなかった。
アイドルとプロデューサー。僕はもう一度その言葉を繰り返した。
その言葉は彼女が言ったときと同じようにかすれて震えていた。まさに今の僕たちのようだった。
「選べません」
彼女が言った。
二つは今までに見たこともないくらい強い光で輝いていました。
私は何度も目を閉じ、どちらか一つがより輝いていること、
もしくは二つの光が両方失われていることを願いました。でもダメでした。
何度、瞳を開いても二つは同じ輝きで私に映っています。
今までの選択と同じように諦めてしまえばいいことはわかっています。
けれど私には諦めることができない。諦めたくないんです」
「好きなんです」と彼女は呟いた。「大好きなんです。アイドルもプロデューサーも」
彼女は、泣き方がわからない大人のような、
涙を必死にこらえている子供のような、表情で僕を見つめた。
藍色の瞳に映る僕はうろたえていた。困惑とした表情で見返す僕が、余計僕を困らせた。
「プロデューサーが」と彼女が言った。「プロデューサーが選んでくれませんか」
彼女は僕に背を向け、おぼつかない足取りで部屋の端まで歩き、
壁のスイッチを押して、部屋の照明を落とした。
そして言葉をなくしている僕の前で彼女は自分の部屋着に手をかけた。
飾り気のない実用的な部屋着の下から不釣り合いな淡い緑色の上品な下着が姿を見せた。
下着姿の彼女が僕の手を握った。彼女の手はやはり冷たくて、震えていた。
僕は目の前の彼女、そしてこれからの彼女のことを考えた。
真っ白な彼女の身体は真っ暗な部屋の中でひときわ映えた。
彼女の髪の匂い、体温が夏の熱気のようにねっとりと僕を襲ってくる。
僕は視線を彼女から逸らした。視線の先には彼女が先ほどまで着ていた部屋着があった。
僕はその部屋着の上に緑の下着が積み上げられることを、そして裸になった彼女を抱くことを想像した。
二人だけの静かな世界で彼女を抱くということは何とも魅力的なもののように思えた。
彼女を抱きたいという衝動が僕の中で芽生えていた。
それでもここで彼女を抱くわけにはいかなった。
僕が彼女を抱くことが、彼女にとって一番良い選択、なのか僕にはわからなかった。
抗議するように二つの瞳が僕を見た。
藍色の瞳に映る僕は揺れていて、今にも泣きだしそうな表情へと変わっていた。
「おやすみなさい楓さん」
僕は彼女の手を離し、スーツを手に、出口へと向かった。
靴を履き玄関から部屋の様子を除くと、
藍と碧が答えを求めるように暗闇の中を彷徨っていた。僕は逃げるように静かにさっと扉を閉じた。
彼女のマンションを出ると、見計らったかのように雨が降り始めた。
風がさらさらと木々を揺らし、虫たちは低く小さく静かに鳴いていた。
ぽつぽつと振り始めた雨は次第に強くなっていき、シャワーのような雨へと変わった。
雨は僕のスーツやシャツを暗い色へと染めていった。そのまま心まで暗く染まってしまいそうな雨だった。
彼女の涙のような雨を僕は一身に受け続けた。
雨は一向に止まなかった。
微睡みの中、僕はずっと激しい雨音にさらされ、目覚ましが鳴り始める前に目を覚ましてしまった。
僕は雨の音を聞きながら、顔を洗い、朝食を食べ、服を着替えて家を出た。
雨の街は全体的に薄暗かった。人々は久しぶりの大雨に顔をしかめ、虫たちはどこかに隠れていた。
サラリーマンや学生が雨粒を踏みつぶして目的地へと急ぐ中、僕は足を引きずるようにして事務所に向かった。
彼女は事務所に来なかった。
事務所に着くと、体調が悪いので今日一日休ませてほしいという連絡が
事務所にきたことを僕はちひろさんから告げられた。
「喧嘩でもしましたか?」とちひろさんが聞いた。「いつもなら事務所ではなくてPさんに連絡するのに」
「そんなところです」と僕は答えた。
「何がですか」
「お二人が喧嘩したということがですよ。
失礼かもしれませんが、Pさんってあまり自分を出さないじゃないですか。波をたてないというか。
自分のことよりも楓さんのことを優先するイメージがあったんです。
だから喧嘩するイメージもわかないというか。いったいどんなことで喧嘩したんですか?」
「それは秘密です」
ちひろさんはつまらなそうにため息を吐いた。
「わかりました。深くは聞きません。その代わり、事務仕事手伝ってください。
楓さんが休みだから特にやることないですよね。
内容は以前やっていたものとほとんど変わっていないので大丈夫だと思います。
何かわからないことがあれば私に聞いてください」
「わかりました」と僕は言った。
「明日には今日の倍の事務仕事を用意しておきます。それが嫌でしたら早く仲直りしてくださいね」
僕は自分のデスクに向かい、事務作業を行った。
ちひろさんから渡された仕事はどれも基礎的なものばかりだった。僕は計算式の中に数字を埋め込んでいった。
事務仕事を始めて少し経つと、僕は彼女のことを考えていることに気づいた。
彼女のマンションを後にしてから、夜の雨に打たれたとき、熱いシャワーをあびたとき、
眠るとき、起きて歯を磨くとき、出勤時、そして今。
まるで頭の奥に貼られたシールのように、僕の頭には哀しそうな彼女の顔がこびりついている。
昨日、あのとき、彼女の部屋で僕は何て言えばよかったのだろう。
どっちを選べばよかったのだろう。
アイドルとプロデューサーだから、と言えば、彼女はトップアイドルになって、
彼女を抱いてしまえば、彼女は僕の恋人になったのだろうか。
どっちを選ぶのが彼女にとってよかったのだろう。
気づけば、僕の身体はキーボードを叩くことをやめ、何とかして頭のシールを剥がそうとしていた。
けれど、どれだけ頭を掻きむしってもシールはびくとも剥がれなかった。
振り返ると先輩Pが立っていた。僕はちひろさんの話を思い出し、カラスちゃんの顔が頭に浮かんだ。
「なんかすごく疲れた顔してるぞ。お前大丈夫か?」
「大丈夫です。昨日あまり寝れなかっただけです」
「そうか。……俺、休憩したいからさ、お前も付き合ってくれない?一人で時間潰すの苦手なんだよね」
缶コーヒーくらい奢ってやるからさと先輩が言い、僕たちは休憩室に入った。
休むのが目的の部屋にしては固すぎる椅子に座り、缶コーヒーを飲んだ。
「高垣さんのことか?」とコーヒーを飲みほして先輩が言った。
僕が彼女と喧嘩をしたという情報が一日の間にみんなの知れ渡るところとなっているようだった。
「えぇ、そうです」と僕は頷いた。
「珍しい」と先輩が言った。
「お前が入社して3年ほど経つが、人と揉めたってのを聞いたのは初めてな気がするな」
「そうか。それで原因はわかっているのか?」
「それがわからなくて」
「なんだそりゃ」と先輩が言った。「原因がわからないなら解決のしようがないじゃないか」
「違うんです」と僕は首を振った。
「大まかな原因はわかっているんですが、
全体のところどころにモヤがかかっているというか、それが起きた根本的な原因というか、
そういったものがわからないんです。そして一番良い解決方法もわからないんです」
先輩はますます首を捻った。
「なんというか難しい話だな。もう少し簡単に言ってくれ」
「そうですね」
僕は考えて、それから言った。
「先輩はカラスちゃんと付き合っていますよね」
「あぁ」
「どうして付き合ってるんですか?」
「どうしてって」と先輩は言った。「好きだからだろ」
「好き」と僕は先輩の言葉を繰り返した。「好きだから付き合うんですかね」
「はぁ?今どきそんなこと中学生でも言わないぞ」と先輩は声を荒げた。
「好きだから付き合う。好きだから告白して、そのまま付き合う。それは当たり前のことだろ。
確かにカラスと俺はアイドルとプロデューサーっていう特別な立場ではあるけれども、
それ以前に人間だ。男と女なんだ。
お互いが好きあっていたら付き合うし、キスもする。もちろんそれ以上のこともだ」
そこまでまくし立てると先輩は息を整えて、それから、何かわかったらしく顔をにやつかせた。
「どっちからだ?お前からか、それとも高垣さんからか?」
僕はその質問には答えなかった。先輩は僕の様子を見て、小さく息をつき、肩を撫で下ろした。
「冷静に考えたらお前からってのはありえないか。
……いいか、前から思っていたが、お前は物事を深く考えすぎるきらいがある。
他の新人プロデューサー達は最初の2,3か月で担当するアイドルの子をスカウトしてきたのに、
お前だけが一年以上もかかったじゃないか。
問題は簡単なのに、お前が複雑にさせて自分で混乱しているんだ。もっとシンプルに考えろ」
「健闘を祈るよ」と言い残して、先輩は休憩室から出ていった。
僕は机に戻り、事務仕事を再開した。ぼんやりとキーボードを叩きながら、
僕は彼女のこと、そして先輩とカラスちゃんのことを考えた。
先輩はカラスちゃんのことを好きだと言った。
好きだから付き合うんだ。それは当たり前のことだろうと。
けどそれは本当に当たり前のことなのだろうか。
先輩とカラスちゃんはプロデューサーとアイドルで、それなのに付き合うということは
カラスちゃんがトップアイドルになる可能性を、カラスちゃんの夢を潰していることになるのではないか、
好きだからこそ付き合わない。そんな考え方もあるんじゃないか、
そもそも本当に先輩はカラスちゃんのことを好きなのか。本当にカラスちゃんのことを考えているのか、
僕も先輩と同じように彼女を抱いてしまえばよかったのだろうか。
周りを見渡すと窓の外は相変わらずの雨模様で、僕とちひろさんのデスクにだけ明かりが灯っていた。
僕はあまり進まなかった事務処理の成果をちひろさんに提出してから帰路についた。
ちひろさんは心配そうに僕の後ろ姿を見送りながら言った。
「すぐに仲直りできますよ」
バスに乗り、30分ほど揺られてから家に着くと、
僕は冷蔵庫から適当な食べ物を取り出してビールを飲んだ。
アルコールを身体に入れても答えは出なく、
それどころか酔いがまわり始めると同時に、いろいろなことが僕の頭の中で渦のように回り始めた。
僕はビールを飲むペースを上げ、何もかも吐きだしたい気持ちに駆られながら倒れるように眠りについた。
外に出ると夏の陽射しが咎めるように僕を差し、
街路樹に止まっている蝉がアルコールの残りと彼女のことでいっぱいになっている僕の頭を激しく揺らした。
雨上がりの街にはところどころ小さな水滴が落ちていた。
涙の跡のような水滴は太陽の光を細かく反射し、街のいたるところを輝かせ、
人々は光の中で、光合成をしている植物のように今日も頑張るかと大きく背伸びをしていた。
僕には眩しすぎる朝だった。
事務所に着き、頭を抑えながらデスク仕事をこなしていると
「おはようございます」と彼女の声がした。
僕は軽く胸を叩き、ネクタイの位置を確かめてから
「おはようございます。楓さん」と振り返り、言葉を失くした。
一目でわかった。彼女の瞳の色が変わっていることに。
「はい。おはようございます。プロデューサー」と左右、碧色の目をした彼女が言った。
本物かどうか確かめるように彼女の瞳を見つめながら僕は言った。
彼女は僕の言いたいことを理解したらしく、「あぁ」と笑ってみせた。
「気分転換したんです。モデルをやっていたときはオッドアイだと
どうしても私自身が目立って服が負けてしまうという理由でこのコンタクトをしていたんです」
似合いませんか、と彼女は聞いて、すぐにその質問を撤回した。
「外した方がいいですか?」と彼女は僕に聞き直した。
「いえ」と僕は首を振った。「楓さんがつけていたいならどうぞ」
それ以外の言葉を僕は言うことが出来なかった。
彼女にかける言葉はもともと思いついていなかったし、
思いついていたとしても言えなかっただろうと僕は思う。
碧色のコンタクトはおそらく彼女が一日泣き通して選んだ選択なのだ。
それを僕が安易に外してくださいと言っていいわけがなかった。選べなかった僕にそれを言う資格はない。
彼女は僕の紺のネクタイを見て、一瞬、哀しげな表情を浮かべた。
「わかりました。では当分付けていますね」
彼女を車の助手席に乗せ、仕事場を目指した。
今日は昼過ぎから歌番組の収録が入っていた。
スケジュールなどの事務連絡を伝え終えるとお互い黙り込んでしまった。
クーラーの風が冷やかすように僕たちの間で騒ぎ始めた。
恐れとも気まずさとも言えない曖昧なものが車の中に漂っていた。
彼女はずっと移り変わる街の景色を眺めていた。
僕は初めて瞳の話を聞いた居酒屋での彼女の言葉を思い出した。
隣の彼女の行動は、僕を瞳に映したくない、選んだことを思い出したくない、
という意志の表れのようなものに見えた。
僕は極力、前だけを向いて、運転に集中しようと努めた。
車の列は一定の距離を保ちながら規則正しく進み続け、
アスファルトから立ち込める陽炎が僕らの行く末を揺らしていた。
TV局に着き、撮影現場に向かうとスタッフたちはいつもと同じように僕と彼女を迎え入れてくれた。
僕はよろしくお願いしますと頭を下げ、彼女も同じように頭を下げた。やがて撮影が始まった。
司会者とのトークを軽快なダジャレで弾ませると彼女はステージへと移動した。
スタッフからマイクを受け取り、楽器の音が響き始める。
そして、先ほどまでダジャレを飛ばしていた口から、
小さく弱々しい声ではなく、力強い真っすぐな声を発し、恋がテーマの壮大なバラードを歌った。
辺りは楽器の音と彼女の声だけで満たされた。
会場内の全ての明かりが彼女に降り注ぎ、まるで虫がゆらゆらと炎に吸い寄せられるように、
観客も司会者もスタッフもたちまち彼女に心を奪われていった。
世紀末歌姫が紡ぐ歌に魅了されていった。
曲が終わると会場にいた僕以外の全員が彼女へと拍手を送った。
中には席を立ち、「ブラボー」と叫びながら拍手を送る熱狂的なファンもいた。
彼ら、彼女らは何も気にせず、手を叩き続けていた。
まるで彼女の瞳の色は元々碧色だったかのように。
彼女の瞳の色なんて大したことはない。
我々は彼女のダジャレと力強い歌声を楽しんでいるんだと言っているようだった。
僕だけが彼女の瞳が藍色だったことを知っている。
そんな錯覚を覚えた。
僕だけが手を叩かず、その奇妙な光景を見つめていた。拍手の雨は一向に止まなかった。
「今日の収録、何かダメなところありましたか?」
「いいえ全く。文句のつけようもない完璧な収録でしたよ」
「そうですか」
「何か気になるところでも?」
「拍手」と彼女が呟いた。
「みんなが私に拍手を贈ってくださる中で、プロデューサーだけがすごく難しい顔をしていたのが映ったので」
「考え事をしていたんですよ」
「考え事ですか」
「えぇ。考え事です」
会話はそこで終わった。エンジンの回る音とタイヤのすり減る音が聞こえてきた。
彼女は引き続き街の景色を眺め、僕は目の前の車が連なる様子を眺めた。
信号で車が止まると、僕は彼女にばれないように彼女の方をわき見した。
そして碧色の瞳とぶつかった。
ガラス越しの碧色の瞳はあまりにも真っすぐに僕を見返していた。
そんなことがあるはずはないのに、
まるで彼女自身も自分の瞳が藍色だったことを忘れてしまっているみたいだった。
「いえ、何でもありません」と僕は首を振って、視線を前に戻した。
頭の中では鏡に映った碧色の瞳が、一枚の絵しか描かれていない紙芝居のように、繰り返し上映された。
そしてそのことが僕をひどく混乱させた。
彼女の思いがこの世界から綺麗さっぱりとなくなった。
そんな錯覚を覚えた。
僕だけが世界の狭間に取り残されたような気分になった。
事務所に戻り、僕はデスクに向かったが、仕事の出来は昨日と同じであまり納得のいくものではなかった。
誰かが勝手に僕の頭を切り開き、シールをぺたぺたと貼っていく。
大抵のシールには彼女の顔が描かれている。彼女の表情や瞳の色はシールごとに異なっている。
どれが本物の彼女か、どれが彼女のあるべき姿なのかわからない。
考えれば考えるほどシール一枚一枚の彼女が全て本物にも見えたし、偽物にも見えた。
それからのことは覚えていない。気づけば僕は見慣れた自分の部屋の中心に立っていた。
ふらふらとした足取りで僕はネクタイを緩めながら洋服ダンスの前まで歩いた。
紺色のネクタイを丁寧に畳み、僕はそれをタンスの一番奥の目につかない場所にしまった。
次の日、彼女は僕のネクタイの色が変わっていることに気づくと、
一瞬、哀しげな表情を浮かべ、それからすぐに笑ってみせた。
彼女に異変が生じたのはその日からだった。きっかけは些細なことだった。
歌番組の収録中、彼女はダジャレを言おうとして噛んでしまったのだ。
「仕事はいつもわーくわーくしながら望んでいましゅ」
と渾身のダジャレを最後まで言えなかった彼女はそのことを悔やみ、
司会者は「楓ちゃん。また随分可愛らしいダジャレでしゅね」と彼女のミスを笑いに変えた。
その後彼女はステージへと移動して、いつも通り力強い歌を歌った。
そして歌が終わると僕を含む会場内の全ての人が彼女に拍手を贈った。ブラボー。ブラボー。
収録を終えると、僕はたまにはこういうこともありますよと慰めの言葉をかけて、彼女を車に乗せた。
これからの予定を話し終えると彼女は昨日と同じように窓の外に視線をやり、
僕もまた同じように目の前の車が連なる景色を眺めた。
そのときはお互い(どころか世界中の誰もが)彼女の異変に気づいていなかった。
けれどそれは、コップに開けられたほんの小さな穴から水が漏れていくように、
少しずつ目に見えてわかるようになっていった。
数日後に彼女は歌の歌詞を間違えて、
それからまた数日後にはダジャレが思いつかなくなってしまった。
彼ら、彼女らの多くは彼女の体調を案じた。
働きすぎではないか、少し休んだ方が良いのではないかと。
彼女はそれに笑顔で応え、僕は彼女のスケジュールを調整した。
しかしいくら予定を調整しても、彼女の異変が収まることはなかった。
ダジャレはスランプから抜け出せず、歌は力強さを徐々に失っていった。
月の周りに暗雲が立ち込めるように、彼女の輝きは曖昧なものになっていった。
彼女を含む世界中の全ての人々は彼女の不調の原因を全く理解できていなかった。
理解しようとすらしていなかったのかもしれない。
レッスンに充てるはずの時間もお酒を飲んでいるのではないかと批判する者も現れた。
最近の彼女は今までお酒を飲むのに充てていた時間をレッスンに割いていた。
瞳の色のせいだと僕は思った。
藍色と碧色の瞳はお互い歯車のようになっていて、
二つが上手く機能してこそ、彼女の持つ魅力が回り始めるのだ。
彼女が再び輝き始めるには、碧色のコンタクトを外すしかない。
けれど僕は彼女にコンタクトを外してくれと言うことが出来なかった。
藍色の瞳を開放すれば調子が元通りになると僕は確信していたが、
その理論はいささか論理的な説得力を欠いていた。
それに藍色の瞳にはまた僕が映ってしまう。
僕は最近の彼女の姿と、
彼女の部屋で見た泣きそうな顔をしている彼女の姿を想像してみた。
どちらが彼女にとって、より辛いことなのか。
考えてみたけれど全くわからなかった。僕の頭にまた一枚大きなシールが貼られた。
そのシールは今までのシールとは少し違っていた。
シールは彼女のシルエットだけを映していて、色は塗られていなかった。
しいて言うならモノクロで、僕が願えば何色にでも塗りかえられそうな白にも
何色にも染まらない黒にも変えてしまえそうだった。
それからしばらく時は流れた。
蝉は落ちていき、草木は少しずつ赤を飾り始めた。
僕は変わらず何もしなかった。
毎朝決められた時刻に目を覚まし、スーツに着替え、事務所に向かう。
彼女のことを考えながらキーボードを叩き、
彼女のことを考えながら彼女を車に乗せ、
彼女のことを考えながら事務連絡をして、彼女のことを考えながら当たり障りのない会話をした。
唯一変わったことがあるとすれば、お酒を飲みにいく機会が全くといっていいほどなくなったことだけだった。
彼女へと贈られる拍手の音はどんどん小さくなっていた。
ぱらぱらと降る拍手の中、僕だけが大きな音で手を鳴らし続けていることが増えた。
僕が大きく手を叩けば叩くほど、彼女のレッスンの量は増え、拍手の音は減った。
その日は嫌な天気だった。真夜中に嵐が来ると、天気予報が言っていた。
僕は折りたたみ傘を鞄に入れてから家を出た。
街にはどんよりとした重い雲が立ち込めていて、たくさんの蝉が一斉に大きな声で鳴いていた。
まるで自分達が今日地面へ落ちることを知っているような、悲鳴にも似た鳴き声だった。
事務所に着くとちひろさんに事務仕事を手伝ってほしいと頼まれた。
最近、彼女の仕事が少なくなったせいか、頼まれる機会が増えていた。
今日もこれといった仕事はなくて、彼女は朝のこの時間からレッスン室に籠っている。
僕は二つ返事で引き受けた。
仕事は基礎的なものの中に少し応用的なものが含まれるようになった。
そのせいか彼女のことでいっぱいになっている頭に無理やり数字を放り込む必要があった。
おかげさまで一日のうち何分かは目の前の仕事に没頭できるようになっていた。
声をかけられたとき。僕は予算のことについて考えていた。
けれど、その一言で僕の頭は数字をはじき出し、再び彼女のことで満たされた。
重くなった頭をぎこちなく回し振り返るとちひろさんが立っていた。
ガラスの靴がデザインされた置時計は正午過ぎを指していた。
他のプロデューサーとアイドルは仕事やお昼ごはんで席を外しているようだった。
そしておそらく彼女はこの時間もレッスン室に籠っている。
「さぁいつまでですかね」
と安物のグレーのネクタイを緩めながら僕は言った。
ちひろさんはため息を吐いて、それから心配そうに僕を見つめた。
私としてはお似合いの二人だと思っていたんですけど、どうして断ってしまったんですか」
「断ったとか、そういうのではないんです。第一、告白をされたということも間違っています」
「じゃあ告白して振られたんですか」
「告白もしていません。それどころか何もしていませんよ」
「何もしていない?」とちひろさんは眉をひそめた。
「何もしていないなら、どうして紺色のネクタイをしていないんですか。
プロデューサーさん、わかっていますか?
あなたがそのネクタイをしてきた日から楓さんに元気がないことを。
楓さんがいつもプロデューサーさんに気づかれないように、哀しげにそのグレーのネクタイを見ていることを」
だんだん強くなっていくちひろさんの声に僕は気圧され、
それから次第に、泡が熱湯の表面に浮かび上がってくるように僕の中から怒りの感情が込み上げてきた。
ちひろさんに言われなくても、彼女が助けを求めるような目で僕を見ていることはわかっている。
僕がわからないのはその先で、だいたい、
あなたたちは彼女に異変が起こっていることは知っていても、異変が起こった原因を知らないじゃないか。
僕が言うと、ちひろさんは僕の声の大きさに一瞬怯み、その後言った。
「……失礼しました。少し取り乱してしまいました。
すみません。……その、私で良ければ話を聞きますよ?」
僕は瞳のことは隠して、僕が彼女の家に行ったあの日から今までに、
僕と彼女の間に起こった出来事について話をした。
自分一人で抱え込むにはこの問題は大きく膨らみすぎていた。
酔っ払った彼女を家に運ぶと、僕に対して好意を持っていることを告げられた。
けれど彼女はアイドルであり、僕はプロデューサーだ。
彼女はアイドルも続けていきたいと思っている。
僕はどうすればいいのかわからない。彼女にとってどっちが正解なのかわからない。
僕の話をちひろさんは眉間にしわを寄せながら最後まで聞き、
話が終わると難しい表情のまま、息を一つ吐いた。
「簡単?」と僕の声が部屋に響いた。
「どこが簡単なんですか、プロデューサーとして
トップアイドルである彼女のことで悩むのは当然のことでしょう」
「簡単です」とちひろさんの声が部屋に響いた。
「いいですかプロデューサーさん、あなたは一つ大きな勘違いをしています。
この問題はアイドルとプロデューサーとかではなくて、あなた自身が考えるべき問題なんです」
「僕自身がですか?」と僕は言った。
「そうです。立場なんて関係ないんです。
プロデューサーとアイドル以前にお二人は人間なんです。今を生きているんです。
アイドルとプロデューサーなんてこの世界にはごまんといます。
けれど、あなたと楓さんは世界に一人ずつしかいません。
プロデューサーさんはアイドルとプロデューサーという立場に甘えて、
楓さんから、そして自分からも逃げているんです。
いいですかプロデューサーさん、よく聞いてください。どうすればいいかではないんです。どうしたいかです。
プロデューサーとしてではなく、あなた自身はいったい楓さんをどうしたいんですか?」
「そうです。あなた自身です。
あなたはあなた自身の選択が他の人を傷つけることを、
ひいては自分自身のことを傷つけることを恐れているんです。
あなたはそれを楓さんが楓さんがと言って、自分の臆病さを他人への優しさへとすり替えているんです。
まずはプロデューサーさん自身が自分のことを考えてみましょう。
それから楓さんを含め、あなた以外の人のことを考えていけばいいのです。
いいですか、プロデューサーさん、もう一度だけ言います。
この世界にあなたは一人しかいません。そんな世界の中で、あなた自身はいったいどうしたいんですか?」
僕自身は一体、彼女をどうしたいんだ。
「今日の仕事はもういいです。残りは私がやっておきます。
プロデューサーさんは休みをとって、自分について考えてみてください」
ちひろさんのこげ茶色の瞳が碧色にも藍色にも見えた。
荷物を整理し、事務室から出ると僕はレッスン室へと歩き始めた。
僕の頭と足がレッスン室を勝手に目的地と定めていた。
それが運命的なものなのか、自分の意志によるものなのか僕には区別がつかなかった。
レッスン室に着くと、僕は部屋の扉を静かに少しだけ押した。
薄暗い部屋の中に物悲しいBGMが流れていた。以前彼女が歌詞を間違えた曲だった。
部屋の中心に彼女が立っていた。
僕には気づかず、碧色の瞳を鏡に映し、彼女は歌を歌っていた。
歌詞も音程も一寸の狂いもなくぴったりと合っているのに、そこに光はなかった。
薄暗いレッスン室は舞踏会場にはならず、薄暗いレッスン室のままだった。
「何か用ですか」
曲が終わり、床に置いてあったペットボトルの水をひとくち飲むと彼女が口を開いた。
僕はドアを押し、暗闇の世界に一歩足を踏み込んだ。
「お昼ごはん」と僕は言った。
「ちょうどレッスン室の近くまで来たものですから、
その様子だとまだ食べていないですよね?一緒にいかがですか」
楓さんの食べたいものでいいですよと僕が言うと、碧色の瞳が鈍く光った。
「大丈夫です」と彼女は言った。
「まだお腹も空いていませんし、私はステップを見直さないといけないので」
まるでステップを見直すことが一日のプログラムの中に組み込まれているような言い方だった。
「また誘ってくださいね」と彼女は哀しく笑った。僕もまた彼女と同じように笑ってみせた。
「わかりました。また今度」
暗闇の中、まるでロボットが正常に動いていることを証明するように、彼女の碧色の瞳が光っていた。
僕はレッスン室を後にした。
部屋を出ると、遠くの方から先輩とカラスちゃんがこちらに歩いてくるのが見えた。
ランチを食べてきたであろう二人は、自然と歩調が合わさっているようで、同じ速度で僕へと近づいてくる。
二人はまるで寄り添う花のようにお互い笑顔を咲かせていた。
「今からランチですか?」とカラスちゃんが僕に気づいて声をかけた。
そうだと僕は頷いた。「カラスちゃんは外で先輩と食べてきたの?」
「えぇ、そうなんです。カフェシンデレラに行ってきました。
新しく出来た評判の店だったんですけど。それはもう美味しくて」
パンケーキが絶品なんですよとカラスちゃんはうっとりとした様子で言って、そうだと手を叩いた。
「楓さんと一緒に行って来たらいいじゃないですか。
楓さん、最近ずっと元気なさそうな様子でレッスンしてますし。
あそこのパンケーキ食べたらすぐに元気になっちゃいますよ」
僕が返答に困ると「こら!カラス」と先輩がカラスちゃんの身体を小突いた。
「あそこのパンケーキは甘すぎて、高垣さんには合わないかもしれないだろ。
それにもし高垣さんが気に入ってテレビとかで紹介したら、
ミミズのようだった列が蛇のように渦巻き始めて、熱い太陽の下で長時間待たされることになるかもしれないぞ」
「それは困りますー」とカラスちゃんが嘆いて、二人は仕事に戻っていった。
僕は僕の前を通り過ぎていった寄り添う二つの花のことを考えた。
『お互いが好きあっていたら』
先輩の言葉が頭に響いた。好きっていったい何なんだ。
二つの花は自分勝手に咲いているはずなのに、
自分のために咲いているようにも、相手のために咲いているようにも見えた。
僕と彼女も二人のように笑えたら。
事務所から出るまでの間、多くのアイドルやプロデューサーが僕に声をかけてきた。
彼らは自分で選んだであろう鞄やドリンクを片手に持ち、笑顔でおつかれさまですと僕に声をかけた。
「高垣さん調子悪いけど頑張れよ、相談があるならいつでも頼ってきていいからな」
「ありがとうございます。困ったときはいつでも頼らせてもらいます」
「楓ちゃん最近いつもレッスンばっかりで、たまには飲みに参加するように
P君からも言っておいてくれない?なんならP君も同伴でいいからさ」
「わかりました。高垣にそう伝えておきます」
彼らは彼らなりの励ましのエールを僕に送ると、自分の足で自分の行きたいところへと去っていった。
僕は事務所を出てバスに乗り、部屋へと戻ると熱いシャワーを浴びてから、
暗い部屋の中でたくさんのことを考えた。
まず初めに僕は彼女のことを考えた。頭の中の彼女は笑ってはいなかった。
彼女はアイドルで僕はプロデューサー。
僕は彼女のことをトップアイドルにしたいと思っているし、彼女もトップアイドルになりたいと思っている。
彼女は女で僕は男。
彼女は僕のことを好きだと言った。僕も彼女のことを抱きたいと思っている。
次に、ちひろさんや先輩といった人達が頭に浮かんだ。彼らは笑っていた。
自分のために笑っているのか、僕のために笑ってくれているのか僕にはわからなかった。
その笑みは世界の狭間で彷徨う僕に対するエールにも、そちら側の世界への手招きにも見えた。
僕が答えを出した頃には外は陽が落ちていて、部屋は闇に染まっていた。
僕は暗闇の中、ジャケットの中から携帯を取り出し、彼女へと電話をかけた。
「はい」
3回目のコールで彼女は出た。事務的な淡々とした声だった。
他の音はまるでしなかった。どこか遠い世界に電話をかけているような感覚だった。
「話があります」と僕は言った。
「それは今、話さないといけないことですか」
「はい」と僕は言った。「大事な話です」
「大事な話」と彼女は僕の言葉を繰り返した。
「わかりました。では今から部屋に来てください」
僕はグレーのネクタイを外し、洋服タンスの前まで歩いた。
慎重な手つきで紺色のネクタイを取り出して、僕はそれを丁寧に自分の身体に巻き付けた。
ネクタイを巻く僕の手は少し震えていた。
ネクタイを巻き付けると、強い風が窓をガタガタと鳴らした。
真夜中にかけて嵐がくる。
僕は今朝の天気予報を思い出した。
部屋の隅に置かれた鞄を一瞥して、傘を取り出そうか悩んだけれど、結局僕は鞄を開かなかった。
僕は傘を持たずに夜の中へと飛び出した。
昼間騒がしく鳴いていた蝉はすっかり姿を消していた。
彼らは全て地面に落ちたのかもしれないし、
もしかしたら渡り鳥のように彼らが幸せに過ごせる場所へと一斉に移動したのかもしれなった。
代わりに鈴虫やコオロギが秋の始まりを告げていた。
風が強く吹いて、赤みがかった草木を揺らし、雨雲を少しずつ僕の方へと近づけた。
信号機のライトは危険を告げるように、赤を点滅させていた。
これ以上先は危ない。戻ってこれないかもしれないと言っているようだった。
僕はネクタイがきつく締まっていることを確かめて、彼女の部屋を目指した。
彼女のマンションについたころには一日が終わりを迎えようとしていた。
あと数分も経てば、新しい一日がやってくる。
風はますます強さを増し、雨のにおいが漂い始めた。
いつ降り出してもおかしくない状態だった。
集合玄関で事務的な彼女の声に名前を告げると鍵が開いた。
彼女が待つ部屋へと一歩近づくたびに、蝉が激しく鳴き、信号機は赤を点滅させ、多くの人々が笑みを深めた。
僕はそのたびにネクタイを握りしめた。
彼女の部屋の前に付き、インターフォンを押した。少し待ってみたけれど、返事はなかった。
恐る恐る扉を引いてみると、鍵はかかっていなかった。扉は静かに開いた。
部屋に灯りは灯っていなかった。暗い部屋の中心で彼女は僕のことを待っていた。
彼女はこんな夜中にもかかわらず黒の肩だしワンピースに暗い緑色のショートパンツを合わせていた。
彼女の部屋は以前と同じく殺風景で、本棚の上の写真立てが僕に向かってピースを送っていた。
「水を一杯もらえますか」と僕は言った。
彼女は頷いて冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しグラスに注いだ。
僕はそれを少し飲んだけれど、喉の渇きは一向に収まらなかった。
「それで、話って何ですか」
事務的に淡々と、碧色の瞳をした彼女は聞いた。僕はもう一度水を飲んで、そして言った。
「瞳のことです」
ぴくりと彼女の動きが一瞬止まった。表情は変わらなかったが、彼女の中で何かが崩れたのを感じた。
「楓さん。碧色のコンタクトを外してくれませんか」
テーブルに置かれた衝撃で水は小さく揺れていたが、やがて止まった。代わりに彼女が小さく震え始めた。
「それはプロデューサーが選んでくれるということですか」
「はい」と僕は頷いた。「僕が選びます」
「わかりました」と彼女は静かに言った。
「では目を瞑ってください。コンタクトを外します。私がいいと言うまで目を開けないでください」
僕は言われたとおりに目を瞑った。音は何も聞こえなかった。
彼女の息をする音も僕の心臓が鳴る音も何も聞こえなかった。
僕はその沈黙の中で瞳を閉じ、彼女のこと、そして僕自身のことを考えていた。
それからやがて彼女は口を開いた。
「目を開けてください」
真っ暗な部屋の中で二つの瞳はそれぞれ輝きを放ちながら、僕を見ていた。
殺風景だった部屋は彼女の光に当てられ、神秘的な空間へと姿を変えていた。
雑に置かれた本やグラス、壁紙の白、本棚の写真立て。
全てのものが彼女を引き立たせる舞台装置になっていた。
藍色と碧色。
久しぶりに見る二つの瞳は僕には見たことのない光景だった。
「映りました」と彼女が言った。
「私の右目にはアイドルが、私の左目にはプロデューサーが」
「どうしますか」と二つの瞳が僕に聞いた。
僕は紺色のネクタイを強く押した。
碧色の僕は言った。
「僕の右目にはトップアイドルになったあなたの姿が。
あなたはガラスの靴のトロフィーを持って、多くのアイドルやファンからの拍手に笑顔で応えています」
藍色の僕は言った。
「僕の左目には僕の彼女になったあなたの姿が。
あなたは仕事終わりに、お酒を飲みながらくだらないダジャレを言って僕を困らせ、
休日には二人で買い物に行きサプライズのプレゼントを贈ったりして、僕を笑顔にしてくれます」
僕は言った。
「僕にはどちらか一つを選ぶなんてことは出来ません。だから僕は強欲にも両方を選ぼうと思います。
楓さん、僕はあなたを僕の彼女にしますし、あなたを必ずトップアイドルにします」
「構わない」と僕は言った。
「後のことをよりも今のことが大切なんです。
僕は今あなたを抱きしめたいと思っているし、あなたをトップアイドルにしたいと思っている。
だから僕は二つともを選ぶんです。
それにもし不幸が起こったとしても僕たちなら乗り越えていける、僕はそう思っています」
彼女は何も言わなかった。彼女は泣いていた。
二つの瞳は涙で宝石のように輝きを増して、その中で僕は揺れていた。
二つの瞳に映る僕は怯えているようだった。
これでいいじゃないかと僕は思った。
僕の選択が正しいかはわからない。けれど僕自身のことはわかっている。
僕は彼女をトップアイドルにしたくて、
笑っている彼女の姿が好きで、辛そうにしている彼女を見るのが嫌なのだ。
たとえ明日、世界が滅びようとも、今、目の前で彼女が笑っていればそれで構わない。
揺れている僕の中に揺るぎない思いがあった。僕は紺色のネクタイを強く押した。
僕は世界に宣言するように、その思いに名前をつけた。
「愛してる」
僕は彼女を抱きしめた。
激しくて優しくて冷たくて温かい雨が僕に降り注いだ。遠くの方で雷が鳴った。何かが崩れる音がした。
終わり
元スレ
高垣楓「eye」
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