image credit:聖母を描く聖ルカ - Wikipedia
上の絵は、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの『聖母を描く聖ルカ』という15世紀の絵画である。
この絵を良く見て欲しい。絵の中央、中庭を臨む狭間の間からふたりの人物が彼方を見ているのがわかるだろう。ひとりはかすかに驚いたジェスチャーをしている。
というのも、ある人物が彼らの注目を引いたからだ。その人物は福音伝道者のルカでも、聖母マリアでも、ましてや幼子のキリストでもない。立ち止まって高い壁に向かって排尿している、遠くにいる男なのだ。
こんな放尿事件はこれだけではない。実際、尿の川は美術史を脈々と流れている。何世紀もの間、画家や彫刻家たちは、男女問わず放尿シーンを表現してきたのである。
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芸術作品における利尿ファンタジー
ほとんどは幼い少年の放尿で、学者たちはpuer mingens(子供の排尿)というラテン語をあちこちに現われるこの行為に当てはめた。
現代では、フランスの評論家ジャン=クロード・レーベンシュテインが、『放尿する姿 1280〜2014(Pissing Figures 1280-2014)』という著作の中で、キャンバスや噴水、フレスコ画にたびたび描かれる排尿の系譜について書いている。
この本はレーベンシュテインが尿をとりまく神聖かつ世俗的(冒涜的)な伝承と欲望の"利尿ファンタジー"と呼ぶものの記録である。
フランシス・ブーシェ『排尿する女性 La Femme Qui Pisse ou L』1742〜1765頃
image credit:Courtesy David Zwirner Books
小便小僧、キューピットからはじまった尿描写
そもそもの始まりはおしっこする少年プット、いわばキューピットだ。彼は神々しい啓発的な絵画の端っこにひっそり現われ、見とがめられるのを怖れるかのようにおずおずと放尿していて、そのおしっこは処女の亜麻色の髪のようにか細く優し気な糸として描かれている。
15世紀になると、これがかなりずうずうしくなり、大邸宅や公共の場にある絵画や彫刻にさまざまな小便小僧が増殖し始める、とレーベンシュテインは書いている。
彼らは花瓶、たらい、容器、ほら貝、雪の吹き溜まり、ポピーの莢、果てはキューピッドの集団の中にまでおしっこをしている。
ほかのキューピッドの口の中やお尻の穴にまでおしっこを浴びせ、やられたほうもまたやり返している。彼らは人間の少年ではなく、翼をもち月桂樹をいただいた、陽気で清らかな心をもつ天使なのだ。
ロレンツォ・ロット『ヴィーナスとキューピッド』1525年
そんな彼らは古い教会に好まれ、純真な心とパンパンに膨らんだ膀胱で、教会の廊下や装飾を見守っている。
例えば、イタリア、パドヴァにあるオヴェタリ・チャペルには、アンドレア・マンテーニャが描いた一連のフレスコ画があるが、その中にも花輪にぶら下がっておしっこしているプットがいて、レーベンシュテインによると、"長い放物線を描いて放たれるおしっこは、困惑しつつも、洗礼の聖水を意味しているかのようだ"とのことだ。
幼子の無邪気なおしっこはいつのまにか聖水へ
幼子の無邪気なおしっこは、どこかの時点で聖水の流れと交わり、浄化の力の恩恵を受けるようになったようだ。
イタリアでは、"今日でもなお、幼児の勢いのいいおしっこをacqua santa=聖水と呼ぶ習慣がある"ことにレーベンシュテインは注目している。
純粋無垢なおしっこの贈り物は、ときに大人にとっても、天国を目指す助けになる。アッシジ、フランチェスコ聖堂にある13世紀のフレスコ画には、3人の天使や成人男性が十字架にかけられたキリストに向かって自分の息子スティックを振りかざしている場面を描いたものがある。まるで放尿することによって、キリストの苦しみを救済しようとしているかのようだ。
もちろん、天使たちは、天使であるがゆえに、放尿するときの爽快感は感じない。ささやかな聖水をわたしたち人間に降らせることによって、神々しい歓喜を得るが、排尿が肉体的な衝動によるものという認識はない。
1600年代、天使から人間の放尿へ
本当の意味での善良な人間たちの放尿を楽しみたかったら、1600年代まで一気に飛ばさなくてはならないという。
この時代は、風俗画が登場するようになり、図像学を越えて日々の体験に寄り添ってを人々を描くことが多くなったため、たくさんの放尿シーンが絵画にお目見えするようになった。
レンブラントが1631年に描いた『放尿する男』と『放尿する女』では、ついに格式張らない一般の人々の放尿シーンを見ることができる。小作農の女があたりを見回して、誰にも見られていないことを確認しているところなど、リアルだ。
レンブラント、左『放尿する男』1631年、右『放尿する女』1631年
この時代のほかの絵画にも、普通の人々、着飾ってる人もそうでない人も、売春宿や庭、鞍の上から、空中に向かって、あるいは自分の影に向かって放尿する様子が描かれている。まさに芸術における放尿の黄金時代だった。
特に女性たちのおしっこシーンは記録的な数にのぼった。そもそも、彼女たちはもう少し早い時代からおしっこをしていたのだ。
1558年のマティアス・ゲールングの『メランコリア』の左下隅、嘔吐している男がいるそばで、恥じ入るようにひざまずいて放尿している女性がいるのをささやかにのぞき見ることができる。
マティアス・ゲールング 「メランコリア」
image credit:Matthias_Gerung
ひと昔前なら、彼女は寓意的、神話的、動物的といった面の象徴として描かれていたが、この場合は、自由に心地よくおしっこをしているただの人として描かれているのだ。
1890年代後期、放尿芸術終焉を迎える
こうした女性の登場は、しかし放尿という行為の美徳喪失の前兆だった。レーベンシュテインは、ゴーギャンの『テ・ポイポイ』(1892年)でタヒチの女性がしゃがんでいる絵が、アートとしての純粋無垢な放尿の最後の作品だとしている。
公衆トイレが発明されて、排尿や排便が密室の中での行為になったまさにその瞬間に、この女性は"黄金時代"の近代の素朴な光景のを提供してくれているという。
ポール・ゴーギャン『テ・ポイポイ』1892年
その後、公の場で排泄することが非難を浴びるようになると、逆にそれに性的な刺激を喚起させるようになった。
他人の排尿行為を見るのはタブーとなり、男性たちはその好奇心を満足させるために、無数のおとなのおもちゃ的小道具、絵画、図表、写真が密かなお楽しみやエロチックな刺激と結びつくようになった。
そらは爽快なシャワーを浴びることになる、陶器のおまるの底に描かれた大きな目といった形でも受け継がれた。
誰かにいつも見られているというタブーの味がわたしたちの尿を通してしみ出し、まもなく源泉を汚染した。閉じられたドアの向こうで、現実的な安らぎを得られる行為のたしなみが、少しづつ恥をしたたらせたのだ。
20世紀、尿に様々な要素が加わる
20世紀に入ると、おしっこをする人の姿を描く芸術家たちは、排尿という形で挑発行為を連発する方向に向かい、それぞれより対決姿勢を高めていく、とレーベンシュテインは言う。
ピカソ、クレー、デビュッフェ、デムースらは皆、排尿行為をエロティックに描き、写真家は尿を飲むウロファギアに関連する写真をたくさん撮った。
おしっこは、ポルノやサディズムやマゾヒズムの基本という観念が定着するようになってしまい、かつて背の高い草や新生児の匂いがした革を思わせるものになった。
濾過物質つまり尿がメッセージになるのは時間の問題だった。ポロックは美術商やクライアントが気に入らないと、作品に自分のおしっこをひっかけて届けたという噂があるし、ウォーホルと助手
はキャンバスに金属系の絵の具を塗って、おしっこをひっかけて化学反応を起こさせたという。
80年代のアンドレス・セラーノの『Piss Christ』という作品は、プラスチックのキリスト十字架像を自分の尿にどっぷり浸したもので、キリストのまわりを尿がとり囲んでいる。13世紀と同様、キリストと尿は切っても切れない関係で、この作品ではアーティストの分身である尿が天使の役目を代わりに引き受けているというわけだ。
アンドレス・セラーノ『Piss Christ』1987年
現代の尿と芸術作品の関係
それからどうなったのか? 尿はどこへいったのか?
現代の芸術作品で尿が表舞台に出ることはめったにない。
小便小僧が早い時期からあんなにたくさん出てきたのは偶然ではないのかもしれない。乱雑でいかがわしい場面に、卑猥な音楽家や乱痴気騒ぎをしている人たちと一緒に、この"小さなメンバーたち"はこっそり紛れ込んでいた。
人生はエンドレスのパーティであるかのように、ここではおしっこの楽しみが炸裂している。噴出、放出、ほとばしるシズル感、したたるしずくという形でおしっこは存在感を存分に発揮し、人々はおしっこを肌に受けるのを心地よいと感じていたはずだ。わたしたちの先祖は現代のわたしたちが知らないことを知っていたのだ。
本来なら神聖だとされているものを笑い、彼らはおしっこを、いくらかのずれを通して、純粋性とラブレー風の不謹慎との両方のシンボルとみなしていた可能性がある。
「矛盾は尿そのものにある。生物の生活から生み出される非常に親しみのあるもの、審美的なものである一方、自分のものでないと、においを嗅いだらむしろ嫌悪感を抱かせるもの」とレーベンシュテインは言う。
尿による時代の新陳代謝
尿に対する心理的な忌避を追い払うことで、楽園、人類が堕落する前の尿ユートピアを取り戻せるかもしれない。そこではおしっこが再び崇高な謎の名残を復活させる。
だが悲しいことに、現在は尿の扱いは悪い方向へと走っている。
例えば、今日のもっとも悪名高い排尿シーンは、こちらに背を向け、足を広げて手をそえて排尿しているカルビンの姿だ。これはマンガ『カルビンとホッブス』の主人公で、1995年ごろ、おしっこしているカルビンのこのステッカーが大学のフットボールの試合やナスカーレースのときにお目見えして販売された。
カルビンがおしっこをひっかけている対象は、フォードやGMのシボレーのロゴや、Lawyers(弁護士)といった文字などいろいろあり、それらを買ってバンパーに貼り、相手への軽蔑をあからさまにする。
このステッカーは海賊版で、カルバンがおしっこするイメージはオリジナルのマンガの中にはどこにも出てこない。
これはファンが作り出したものなのだ。カルビンの小鬼のような笑みを見て、その笑いとおしっこをくっつける衝動を抑えきれないファンだったのだろう。
おしっこするカルビンのステッカー
ここに尿という古い魔術のはねかえりがある。最終的に彼らは小便小僧プットのような優しい精霊の放出物ではなく、相手を嘲るために尿を描写したのだ。尿は祝福の印ではなく、人を煽り、傷つけるためのものとなった。
かつてのおおらかな意味の尿を取り戻せる時代はくるのだろうか?
via:A Secret History of the Pissing Figure in Art/ translated by konohazuku / edited by parumo
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コメント
1.
2.
3. 匿名処理班
十字架をどっぷり… 「げぇ」だよやっぱり
4. 匿名処理班
尿ってなんだっけ
5.
6. 匿名処理班
Oh 尿!
7.
8. 匿名処理班
oh 尿
9. 匿名処理班
日本アニメ界「ひらめいた!」
10. 匿名処理班
尿を美化しても不衛生に拍車かけるだけじゃんか
11. 匿名処理班
一枚目が何処に居るのか解らない……
12.
13. 匿名処理班
尿がゲシュタルト崩壊した
14. 匿名処理班
これほど 尿と しっこ の言葉を見た記事は初めて
健康な尿は 出たては無菌だから 決して汚いものじゃない
15.
16.
17. 匿名処理班
あっちの映画やドラマでも男女問わずたまに放尿シーンが出てきて気まずい気分になるんだけど伝統芸だったのか…
18. 匿名処理班
うちの犬の排泄時の表情を見るに、排便時よりも放尿時の方が開放感あるっぽい。多分ヒトも同じような顔してるんだろうな。
19. 匿名処理班
尿の川は美術史を脈々と流れている…
深い。
いや、深くない。
最終的にはフェチズムの世界か。
20.
21. 匿名処理班
モザイクは要らないような気がする
22. 匿名処理班
たしかに聖水っすね
23. 匿名処理班
そのシズル感の使い方はたぶん・・・違う!
24. 匿名処理班
崖の上の放尿
25. 匿名処理班
※21
絵画にましてや卑猥な目的のものでもないのにおかしいよな
26. 匿名処理班
ザイーガかよ笑
27. 匿名処理班
よく西洋人は便所座り(蹲踞)ができないって言われるけど、
昔の農婦とか庶民は普通にしてたんだな。
ロココ風の貴婦人は、立って出してるけど。