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AI時代に生き残るのは「暇つぶしの達人」かもしれない : 情熱のミーム 清水亮 - Engadget 日本版

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AI時代に生き残るのは「暇つぶしの達人」かもしれない : 情熱のミーム 清水亮

AIの仕事をしていると、とにかくどんどん暇になってくる…

清水亮 (Shi3z) , @shi3z
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AIの仕事をしていると、どんどん暇になってくる......これは、今は専門家が口にすることだが、いずれ普通の人にも広がるだろう。そのときに残る仕事は「暇つぶしの達人」である。

山に来た。
一人だ。

なぜ、山に来たのか。
理由は他でもない。
他にやることがないからだ。

そんなに暇なら連載を書け、という矢崎(Engadget 日本版 編集長)の声が聞こえて来そうだが、なんてったって三連休である(本校執筆時)。まあ休みだってことすら忘れていたというか、なんなら知らなかったという勢いであったにせよ、休みなのに休まないというのはこれいかに......。意地でも働いてやるものかと意固地になっているのである。

なーにが悲しゅうて休日に原稿なんか書かなきゃならんのか。何を書いてもいいと言われているはずの本連載は、僕がWebにもっている連載では唯一、ボツられる危険性のある危険な連載でもある。発注がないのに気に入らないとボツとかどういうことだよ! それがエンガジェのミームだとでも言うのか?

閑話休題。山に来たのである。

山に来た理由は、前述の通り他にやることがないからだが、それではあまりに軽薄・短絡的にすぎるという誤解を招くかもしれないので、もう少し丁寧に説明しておくと、最近、休日に一人で過ごしているとやることがなくて途方にくれるのである。

彼女のいない大学生の休日。それである。

二度寝した挙句、「もう一度寝るか......いや、そうするとまた寝過ぎの頭痛が...」と混乱するのである。この「寝過ぎの頭痛」というのを知らない女子が多くて混乱する。女子はとっくに休日の予定などなにかで埋めてしまうのである。これが女子力というものだろう。

しかし、暇な男子大学生は誰もが知っている。「寝過ぎの頭痛」......やることがなさすぎて、さりとて授業には行きたくなく「しかたない、もう一回寝よう」と思って寝ると夕方になっていて、頭痛はするし、自分で決めたことなのに、なんだか1日損したような微妙な気分になるアレである。

まあ、そんな時代も今は昔。さすがの俺も休日を三度寝して過ごすなどという野暮はしない。さりとて特にやることもない。さて、どうするか。まずはプラモデルを作る。完成する。

......暇だ。ゲームをする。クリアする......うん、暇だ。

酒でも飲むか......いや、昼間から酒を飲むのはさすがにアル中になってしまいそうだからやめよう。

とりあえず筋トレ。自宅にはシットアップベンチとバーベルがある。これでひと通り時間を潰せるが、どう頑張っても1時間が限界である。

では、有酸素運動をするか。自宅にはトレッドミルとエアロバイクがある。テレビをみながらこれをやるわけだが、休日にトレッドミルは近所迷惑であるからエアロバイクを漕ぐ。まあこれはこれでいいんだけど、そのうち家の中にいるのが嫌になって来て、どうせなら外で有酸素運動するかと思い立つ。

まずはだらだら、Kindleで本を読みながら新宿まで歩く。まあだいたい2時間くらいだろうか。ウォーキングも立派な有酸素運動なので、なんとなく有意義な時間を過ごせたという気がしないでもない。

ヨドバシにいって、ミニスーファミと任天堂SWITCHが売り切れていることを確認し(はなから買えるなどという期待すらしてない)、「ちよくる」を借りて自宅まで帰る。これで四時間くらいは有酸素運動をしていることになる。

しかし、それはそれで2日もやれば飽きてしまう。そりゃそうだろ。なにも発展性がないんだから。

たんに有酸素運動をするだけなら、なにも同じ場所に出向く必要もない。さりとて新宿と秋葉原以外興味がないうえに、まあなんつうか、本当になにもないのである。

いよいよやもめ暮らしにきゅうきゅうとして、ついに選んだのが山登りだった。笑いたくば笑え。ここが男の終着駅よ。だって他にすることないんだもん。

昔から、おっさんの行動が不思議だった。僕の知っているおっさんたちは、みんな意味なく山に登ったり、駅伝を見たり、ランタンを磨いたり、花の写真を撮ったりしていた。

山に登ってなんになるというのだ。花の写真なんか何百枚撮ろうが花は花だろうが、ランタンを磨いたら、磨いたランタンをどうするのだ。というかそんなにランタンいらないだろ。

しかし、今ならわかる。彼らの気持ちが。暇なのである。圧倒的に。

暇なら仕事をする。

そう、自分もそうだった。かつてはそういう男だった。ワーカホリックが身上。3連休など、他人の先を行くためのボーナスステージだと思っていた。

しかし、いい歳になってくると、そもそもそんなやり方で差がつくこと自体がおかしいのだと思うようになった。なにかに突き動かされるように働いているうちに、ちょっと立ち止まって自分の人生を見直したくなってきた。いや、要するに自分個人の能力をいくら高めたって限界ってものがあると知るわけだ。むしろ体験の仕入先を増やしたほうが、目先の新技術を追求するよりも視野が広がるんじゃないかと思ってるわけで。あと、仕事のことばかり考えてるのもどうもね、休むべき時はちゃんと休まないと......。

という人間としての当たり前の自分を考えた時、まあ、山に登ってみるか、と思ったりしたわけだ。

そしてとりあえずサクッと登ってサクッと帰ってこれるという噂の高尾山にやってきた。我ながら驚きである。

男は、暇を極めると山登りくらいしかやることがなくなるのか。なんという人生のネタバレ。

この先、俺は暇を持て余すたびに山に来て、休日に意味もなく体力を使い、また使ったことに満足して眠るようになると言うのだろうか。我が事ながら少し不憫な気もする。

人工知能に労働が奪われるかもしれない、と色々な人が戦々恐々としているが、しかし人類が仮に労働から解放されたとして、やることは山に登る事なのか?それはあっているのか?疑問は尽きない。


実際、仕事が人工知能専門になってから、以前に比べて圧倒的に時間を持て余すようになった。なぜか? 今や我が社では人間よりも人工知能の労働時間の方が長いからだ。

むしろ人的資源に比べて人工知能のための計算資源は高価かつ希少であり、使おうと思えば何百万時間という時間を費やすことができる。このためのノードが1000あろうが100万あろうが関係なく、我々はいつでもクラウドの泉から必要なだけの計算資源を獲得することができる。

一時間100から500円で買えるわけだから、一万GPUを使おうと思えば、わずか100から500万円で事足りるわけだ。もちろん1万GPUによる計算というのは途方もないものだが、しかし不可能なほど非現実的なものでさえない。

実際には1万GPUに1時間ずつ学習させるのも、100GPUを100時間学習させるのも、10GPUを1000時間学習させるのも、ハイパーパラメータ探索という目的に照らせば等価なので、手元に10GPUほどの資源があれば、10000パターンの学習を試すのに約41日間待てば良いと言うことになる。

弊社が新たに開発した10GPU搭載可能なマシンの予定価格が500万円ほどだから、これは軽く人間の初級エンジニアの年収くらいはあるということになる。しかし装置なので、減価償却を3年と見れば一年あたり166万円の経費ということで、「彼」は一ヶ月休みなく働き、高度な学習を行って目的を果たす。その間、人間はやることがない。

もちろん、ものには限度というものがあるので、これを10台ばかりもっていると、合計100GPUを保有することができる。設備投資費は5000万円と軽く工場を作る規模になるわけだが、試すべき計算はうんざりするほどあり、それでも足りなければクラウドで一時間あたり100〜500円で調達することができる。

常に人間は手持ち無沙汰になってしまう。そう考えると、土日祝日休みなくコードを書いていたあの素晴らしき栄光の日々とは隔世の感がある。

個人的に深層学習の本命と目している深層強化学習においてはさらに学習時間を必要とし、さらなる計算資源を必要とする。今度はニューラルネットだけでなく環境も必要なので単純に二倍以上の計算能力が必要になる。人間がプレイするよりもはるかに速い速度で仮想の、しかし本質的な(つまり本来の意味でvirtualな)ゲームを機械がプレイし、ときたま人間と遊ぶことも必要とされる。なぜなら戦って勝つ相手が人間である以上、人間の戦い方を学ばなければ強くなれないからだ。

未来の人工知能工場というのはおそらくゲームセンターのようになるだろう。人間はお金をもらって遊びに来る。ゲームはつまらないかもしれないが、お金がもらえるのでゲームをプレイする。AIは自分の考案した戦略を人間相手に試し、人間の反応を見て学習し、それを繰り返す。

デジタルサイネージや自動販売機といったものがAIによって強化される。自動販売機は客を見て最適な提案をするように学習し、客は自動販売機のAIが人知れず行っている「推薦ゲーム」に無意識のうちに参加させられる。自動販売機は今まで以上になんでも売るようになるだろう。客の真のニーズを汲み取oreれるのは客との接点を直接持つ機械だけなのだ。

人工知能を教育するのは、ほとんどゲーム的な体験である。このゲームは、いずれオンライン化されるだろう。

自分がゲーム開発をやってきたことがこんなところで生きて来るとは人生とはなんと不思議な縁だろうか。俺は実用的な代数幾何学、すなわち行列計算と、GPUのパフォーマンスを最大限に引き出す方法と、最も効率的なリソース管理の方法を、ゲーム機向けOSを開発し、ゲームそのものの開発によって学んで来た。

ゲーム開発の方法論を専門学校や大学で講義し、テキストをまとめ、ついには専門学校で教える教員向けの教育までもを行って来た。これは今日、「AIを調教する側の人員の教育」という面でおおいに役立つことにつながっている。

きわめつけは、経営である。経営とは、多数の知能を結集し、組織し、思い通りに動かすことだ。単なるチームマネジメントや研究とは違う、現実の仕事を動かすのが経営である。経営者として、曲がりなりにも15年の研鑽を積めたことは、今の自分にとってとても大きな財産になっている。

景気対策に何をすればいいか? 簡単だ。休みを増やせばいい。

AI化によって本当に必要な仕事は減っていく、はずである。その証拠に、明らかに俺は昔より圧倒的に働いていない。今でも土日に会社にくることがあるが、基本的に暇つぶしである。それがたまたま仕事につながってしまうだけだ。

いや、よく考えると、白状すれば、俺は昔からずっと、休日に会社に来ては暇つぶしをしていた。

Apacheより速いhttpdを書いたり(汎用性を捨てれば速いのは当たり前だ)、3DMMORPGの雛形を作ったりしていた。要するに暇つぶしとはコードを書くことだった。コードを書くことに熱中すると週末はあっという間に過ぎ、あとにはよくわからない成果物と満足感が残った。意外とこういうことが新製品や新企画につながったりしていた。

しかし最近は、暇つぶしは暇つぶしでも、質が変わって来た。先日は「宇宙際タイヒミューラー理論」を説明するためのビデオを撮ったり(まあこれは仕事だが、クオリティに目を瞑るならやらなくてもいい仕事であるという意味では暇つぶしである)、AIに新しいゲームを遊ばせてどんなふうに学んでいくか眺めたりするようになった。

これも結局、休日の暇つぶしが新しい発見などにつながるわけだが、昔と違って暇つぶしの研究をしていると、暇が潰れるどころか計算資源が足りなくなるようになった。

一時期は足の踏み場もないほどオフィスに計算機を並べ、あれこれいろんな仮説を実行すると、その結果が出るまでに少なくとも半日から一晩は待たなくてはならなくなった。

ちょうどシアトルに住んでいた時に、日本の開発者にメールで指事して、その結果を寝て待つ、みたいなことがローカルで起きているのだ。

つまり昔と違って、自分が張り切ったとしても、計算機がなければどうにもならない。さらにいえば、筆者が現在開発中のシステムが完成すると、様々な仮説すらも、AIが独自に仮説検証を行なって、最適な仮説を発見してくれるようになってしまう。するとますます時間が


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