今では男性が女装をしたり女性が男装をしたりするのは趣味や娯楽として当たり前のように行われているが、1900年初頭のドイツでは、ショービジネス以外で女装、男装をする「異性装」は特に違法ではなかったにもかかわらず、周囲から迷惑行為だという抗議があがり、6週間の投獄か、150マルクの罰金を科せられた。
当時、"異性装"をしていた人は、週末にときどき異性の服を着る人を含め、いわゆる今日のトランスジェンダーと呼ばれる人たちすべてのことをさす。こうした異性装の人たちは、警察は広範な規制権力を行使しようと躍起になっていた当時、常にターゲットにされていた。
そこで立ち上がったのは、同性愛者の擁護者で性科学者、医師であるマグヌス・ヒルシュフェルトである。彼は、トランスジェンダーの人々が公に異性の服を着る権利を保証する、いわゆる"トランスヴェステイト(異性装)・パス"という公的な証明書文書を発行するのに奔走した。
その結果、トランスヴェステイト証明書は、1909年からヒトラーが首相になる1933年まで発行されることとなったのだ。
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トランスヴェステイト身分証明書
以下はベルリンに住んでいたカタリーナ・Tが発行してもらったトランスヴェステイト身分証明書だ。彼女は低い声に男のようにたくましい体格をしていて、家でも外でも男の服を着ることを好んだ。
労働者カタリーナ・Tは1910年ベルリンに生まれ。住所はブリッツ地区ムテシウスホーフ8、男の服を着る女性として知られている"
image credit:Magnus Hirschfeld Institute
性科学者のヒルシュフェルトは、カタリーナにその生活や性歴について訊き取り、警察への報告書を書いて、パスの適用を支えた。
その中で、彼はカタリーナが男の服を着たがるのは、それが本来の自分と一致しているからだとして、もし、男性の服を着るのを我慢させたら、その人の幸せや生存さえ危うくすると主張している。
ただし当時、パスを受け取ることができても、トランスジェンダーであるという正式な法的理由は知られてなかったし、男性の名前に改名するというさらなる要求は認められなかった。
1909年当時のドイツ、ベルリン image credit:Wikimedia Commons
ワイマール共和国時代、性的マイノリティーの権利が認められはじめる
1912年ヒルシュフェルトが警察へ圧力をかけた結果、1913年、このパスはワイマール共和国(第1次世界大戦後のドイツ革命を経て成立した共和国)時代になって公式に許可されたものとなった。
ヒルシュフェルトは、ベルリンで性的マイノリティの人々を助けた医師のひとりだった。彼の活動の成果もあり、一般の人々がだんだんこの問題に気づくようになった。
マグヌス・ヒルシュフェルト image credit:wikipedia
当時の新聞も性的マイノリティを支援
1906年、ドイツの新聞がロバート・ビーチィの「Gay Brlin: Birthplace of a Modern Identity」を引用して、女性として生まれたが※(※"生物学上の女性"という言葉が"女性として生まれた"という言葉に置き換えられた)、男の服を着ることを許されていれば、特に怪しまれなかったと思われた人の話を紹介した。
新聞は警官たちを次のように非難した。「女性の顔をした男性もいれば、男性の顔をした女性もいる。なんなら、警官たちはドクター・ヒルシュフェルトに教えを乞う必要があるだろう。性的マイノリティをいじめるような誤解が単に無知によるものであってはならない」これは、ワイマール共和国時代の典型的な一面で、ビーチィは、少なくともこの時代は、世間にはまだ自由な寛容が明らかにあったことが見受けられる、としている。
性的マイノリティを支え続けたマグヌス・ヒルシュフェルト
マグヌス・ヒルシュフェルトは、平和主義者で反帝国主義のユダヤ人だった。彼自身ゲイだったようで、タオ・リ・シウとカール・ギーゼというふたりの若い恋人がいたが、ホモセクシャルについては距離をおいて研究していた。
カタリーナを診察するまでは、10年以上にわたって、交錯した性的アイデンティティについて論文を書いていた。
医師免許をとってからは、性的マイノリティに特化した研究を始め、ジェンダーやセクシャリティについての様々な本を出版している。
1919年には、非営利団体の「性学研究所」を設立し、結婚相談から、性感染症治療、初期のホルモン治療まで請け負った。
匿名の裕福な後援者のバックアップもあり、研究所は金持ちも貧乏人も分け隔てなく診察し、"性生活や性教育のあらゆる面に対する科学的研究の進歩"を目指した。
当時、病理学的には疑問視されていた、人の性的アイデンティティを医療の対象とすることで、ヒルシュフェルトは「性的アイデンティティは、目の色と同様先天的なものだ」と主張することができた※(※"目の色と生物学上の性"という文章の"と生物学上の性"という言葉が削除された)。
おそらく当時もっとも過激な主張だったと思われるが、彼はジェンダー的な性と性的指向をはっきりと区別し、トランスヴェステイト・パスと共に活動を推し進めた。彼は、その人がもっとも居心地のいい格好で外に出かけられないのは、まったく不公平だと考えたのだ。
ヒルシュフェルトは、男性あるいは中間性として生まれたが、両性具有、服装倒錯、ホモセクシャルの傾向を示した別の患者のこともとりあげている。彼は母親が死んだため、喪服を着て(左)いるが、服装倒錯であることがわかる。
image credit:Sexualpathologie
ヒルシュフェルトは、ベルリンだけで1万人以上のゲイの男女、服装倒錯者たちと知り合った。ヒシュフェルトはいわゆる"サブカルチャー"に精通していて、自分の患者からも、一般大衆からも尊敬の目で見られていたという。
「人々は彼のところへやってきたし、ときには自分の子どもを来させることもあった。自分がそういうカテゴリーに入ると考えた人たちは、専門家と話したがったのだ」
21歳のトランスジェンダー、ブトゲライトの場合
1912年、21歳のベルタ・ブトゲライトが、トランヴェステイト・パスの申し込みも兼ねてヒルシュフェルトところへやってきた。
のちにベルトルドとなったベルタ・ブトゲライトの旅券は、トランスヴェステイトであることにはふれていない。だが、B.Bは男性の服を着ることは禁止されていないと裏に書いてある
image credit:Landesarchiv Berlin
ブトゲライトは女性として生まれ※(※"生物学上の女性"という言葉が"女性として生まれた"という言葉に置き換えられた)、ベルリンで育ち、男女共学の学校へ行った。
"子供時代の彼女はエネルギッシュではきはきしていて、男の子のような行動が多かった"女の子の遊びにはあまり関心を示さなかったという。
証明書を受けとったあと、ブトゲライトは公に男性となることができた。1918年には、トランヴェステイト・パスポートも取得し、ケルンへの旅行を許され、そこで新生活を始めようとしたようだ。
7年後、ブトゲライトは、ベルタではなく正式にベルトルドに改名する申請をした。報告書には、彼は女性として感じることもふるまうこともなかったと強調されている。改名要求は認められ、のちに8年間同棲した女性と結婚しようとしたが、これはだめだった。
彼はふたりの長いつきあいは、幸せな結婚ができる貞節と調和を示していると記しているが、市長がブトゲライトの出生証明書を見て、要求を却下した。
ブトゲライトは、自分の出生証明書も変更しようとしたが、これが成功したかどうかはわからない。わかっているのは、彼は残りの人生ケルンに留まり、1984年ごろに亡くなったということだけだ。
今日、ブトゲライトのケースは、トランスヴェステイトではなく「トランスジェンダー」として知られている。
トランスヴェステイトからトータル・トランスヴェスティズムへ
1920年代、ヒルシュフェルトはこの考えに少しづつ近づき、トランスヴェステイトを表わすのに"トータル・トランスヴェスティズム"という表現を使い続けた。
1926年の『性の学』の中では、"トータル・トランスヴェスティズム"というタイトルのついたブトゲライトらしき写真を公表している。
現在、わたしたちがトランスジェンダー・アイデンティティと言っているものとほぼ同じ意味だろう。医学的な性転換を求める人々が、ヒルシュフェルトによって、ホルモン治療や初めての性別適合手術に手が届くようになった。
歴史家にも、こうした性的マイノリティの人々が警察や一般市民からの嫌がらせをどれだけ免れることができたかはわからない。
最終的には、トランスヴェステイト・パスが彼らに与えられたが、実際にどれくらいの人たちがこれを受け取ることができたのかはわからない。
だが、このパスが初めて発行されてから20年間の間に、文化的風潮が変わり、トランスヴェステイトやトランスジェンダーの人々が好きな服を着ることがよりたやすくなった。
ベルリンの人気ゲイバー「マリエンカジノ」のトランスヴェステイトやトランスジェンダーの従業員たち(1920年代)
image credit:COURTESY MAGNUS HIRSCHFELD INSTITUTE
ヒルシュフェルトと多くの同僚や友人、知り合いたちが主導したこの活動は、世間に大きな衝撃を与えた。
性学研究所は、宗教モラルというよりむしろ科学の原理を擁護していて、社会の性に関する反応を記録したはずだ。1929年までには、性のたくさんの形が公認され、ゲイ、レズビアン、トランスヴェステイトに関する出版物も増えた。
ドイツでは男性同士の性交を禁ずる法を無効にするところまできていた。有名なエルドラドなど、ベルリンにはトランスヴェステイトのバーがあり、ストレートや同性愛者関係なく大勢を惹きつけた。
ベルリンの人気トランスヴェステイトのバー、エルドラド(1932年) image credit:.wikipedia
ナチズムの台頭により性的マイノリティー黄金時代は幕を閉じる
だが、1930年代初頭、ナチズムの台頭により、この黄金時代は終わった。1933年5月、学生や武装した兵士が研究所に押し入って、書物を没収し、1週間もたたないうちに町の中心部でそれらの本を燃やした。
人間のセクシャリティに関するかけがえのない多くの写真や学術研究が破壊された。ヒルシュフェルトは当時、南フランスを講義をしていたが、自分の生涯の研究が灰になったのをニュースで知って、ドイツへは二度と戻らなかった。
その年の終わり、エルドラドやその他のゲイバーやクラブは閉鎖され、同性愛雑誌や新聞は強制的に廃刊になり、警察は同性愛者の男たちのリストをゲシュタポに提出させられた。
1933年から1945年の間、このリストのうち10万人のドイツ人が逮捕された。だが、レズビアンは罪に問われなかった。女性の地域は低かったため、一般的に社会的、政治的脅威とはみなされなかったのだ。
ナチスが、あからさまにはゲイとはみなされていない、ブトゲライトのようなトランスヴェステイトの人たちになにか特殊な対応をしたのか、詳しくはわかっていない。
非ドイツ的書物として、ベルリンで没収した本を公開の場でたき火の中に投げ込むナチス突撃隊の準メンバー(1933年)
image credit:wikipedia
ナチスに黙認された記録に残る事例
1941年、1898年にジェニー・Sとして生まれた、アレックス・Sという人物に関する一件が、ドイツ内務省のデスクに提出されていた。
アレックス・Sは1920年以降、男性として生きてきたが、出生証明書も変更したいという申請書だった。内務省がこれを却下したにもかかわらず、意外なことに1920年の名前の変更を無効にしたり、女性に戻らなくてはならないというお達しは出なかった。
これは理不尽な虐待そのもので、彼がまた女性としての生活を始めるのは不可能だと当局も感じたのかもしれない。
このときまでに、例のパスはすでに廃れて効力はなかったにもかかわらず、トランスヴェステイトの存在の影響力も同様に廃れたとは決して言えなかったことを示している。
via:wikipedia / "Katharina T" transvestite hirschfeld / lesbengeschichte / atlasobscura/ .ushmmなど/ translated by konohazuku / edited by parumo
時代が変われば価値観が変わる。だがナチス前のドイツでこんなにも先進的な考え方が受け入れていたというのは驚きだ。現代の近代的な文化を持った国の価値観にかなり近いものがある。
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コメント
1. 匿名処理班
21世紀の今日でも、先進国も含め多数の国と地域に差別する法律が施行されていることから、先進的な考えだったのだなと思う
2.